Aug 31, 2011

Ch18-7~8


Dreams and the Body
夢と体

あなたの外には何も在りません。
これがあなたが最終的に学ばなければならないことです。 
何故なら、この認識の上に、天国があなたの為に修復されるのだから。
何故なら、神はこれ(全てを自分の中に内包しているあなた達=天国)だけを創造し、神はこれから離れず、神がこれを神自身から分離したことも無いのだから。
天国とは(自分の父から離れなかった、父と離れて住んではいない)神の子の住処なのです。 
天国とは場所ではなく、条件でもないのです。天国とは単にパーフェクトなワンネスの意識(一体性に対する気付き)であり、それ以外には何もないと知っていることなのです。 このワンネスの外には何も無く、その中にも{天国以外のものは/ワンネス以外のものは}何もないのです。

神自身に関する知識以外に、神が(あなた達に)与えられるものがあるでしょうか?  それ以外に(神があなた達に)与えるべきものが在り得るでしょうか?
それ(神への認識)以外のもの(あなた自身の外に在るもの)を与えたり得たりすることが出来るという信念が、天国に対するあなたの認識を損なっており、あなたのアイデンティティの知識を喪失させているのです。 
{神への認識以外のものを与えたり得たりすることが出来るという信念が罪悪です。 訳注}
そしてあなた達はこれ以上に奇妙なこともしているのですが、自分達自身ではまだそれを認識していません。
あなた達は自分達の罪悪(感)を自分達のマインドから自分達の体に移したのです。
しかし体は有罪には成り得ません。 何故なら体そのものだけでは何も出来ないから。自分は自分の体を嫌っていると考えているあなた達は、自分達自身を欺いているのです。
(本当は自分達の体を嫌って居るのではなく)あなた達は自分達のマインドを嫌っているのです。 何故なら、罪悪があなた達それぞれのマインドの中に入って行っており、それらのマインドは分離している積りでいるのですが、そのようなことは不可能なのだから。

各マインドは繋がっていますが、それぞれの体は繋がっていません。
(分離している/分離して見える)体の特質をマインドに割り当てることによってはじめて、分離が可能に見え始めたのです。
そうすることで(繋がっていないという体の特質をマインドに割り当てることで)「マインド」(本来ひとつである神の子のマインド)がバラバラでプライベートで孤独であるように見えているのです。
罪悪(感)がマインドを分離しており、それが体に投射されているのです。
マインドの分離を保持する為に、そしてマインドの合一(一体性)を知らせずにおく為に、体が攻撃されており、故に体が苦しみ死んで行くように見えるのです。
{本来}マインドには攻撃は出来ないのですが、{攻撃の}幻想を作ることは出来ます。そしてこの幻想を行なうよう体に指示することが分離したマインド(分離しているつもりのマインド)には出来るのです。
しかし(分離したマインドに)満足をもたらしているように見えているのは「体がしていること」では決してありません。 体が本当にその幻想(攻撃)を行動に移しているとマインドが信じない限り、マインドは体への罪悪(感)の投射を増やすことにより体を攻撃し続けます。

これに関してマインドは確実に幻覚を見ています。
マインドが攻撃することは不可能です。 しかし(エゴの)マインドは自分に攻撃が可能だと信じ込んでおり、それを証明する為に、自身に出来ることを使って体を痛めようとします。
マインドには攻撃は出来ませんが、それ自身を欺くことは出来るのです。
だから、マインドが体を攻撃していると信じている時、マインドはこれだけ(自分は体を攻撃していると自身を欺くことだけ)をするのです。
マインドには自分の罪悪を投射することは出来ますが、投射しても罪悪を失うことにはなりません。
そしてマインドは体の役割を誤認識(誤解)することは出来ますが、聖霊が設定した体の役割を変えることは出来ないのです。
体は愛によって作られたものではありません。
しかし愛は体を裁かず、愛をもって体を使うことが出来るのです。
神の子が作ったものを尊重し、彼(神の子)を幻想から救うことが出来るのです。
あなたは分離の道具を救済の方法として解釈し直して、それを愛の目的で使いたいとは思いませんか?
あなたは「復讐の幻想」から「幻想からの解放」へのシフトを歓迎しサポートしたいと思いませんか?
体に対するあなたの知覚は明確に病んでいます。 これを体に投射し続けることは止めなさい。
何故なら「破壊出来ないもの」を破壊しようとしたあなたの願いがリアルな効果は示すことは全く無いのだから。
そして神が創造したのは、神の意図であって、「このように在れ」と神が意図したものだけなのだから。

あなたが彼(神)の意志を破壊的にすることは不可能です。
あなたは幻想を作り、彼(神)の意識に逆らうことが出来ます。しかしそれだけです。
罪悪(感)の身代わりとして体を使うこと(罪悪の攻撃を体に向けて、あなたがその体にさせたいと考えていることをその体のせいにすること)はキチガイ沙汰です。
幻想を行動に移すことは不可能です。 何故ならあなたはまだ幻想を求めており、体が行なうことはそれ(幻想)とは無関係だから。
体は幻想を夢見ません。 そして幻想は体を弱点にしますが、体は有用な道具で在り得るのです。
幻想があなたの体をあなたのか弱い無防備な苦労の多い憎しみ(それをあなたは体の中に発明しています)に値する「敵」にしたのです。

これは(幻想に基づいて体に対処することは)どのような状態をあなたにもたらしたでしょうか?
あなたは自分の嫌っているこのもの(あなたが体に投射している罪悪)と自分自身を同一視しているのです。
あなたは「何も意味を持っていないもの」に対してこれ(罪悪の投射)をしたのです。 あなたがそれ(体)を神の子の住家と宣言し、その上でそれ(体)を神に反するものにしたのです。
これがあなたが作った神のホスト(あなたが作ったあなたの体)なのです。
そして憎しみを宿している(そしてあなたが復讐/暴力/死の種を撒いた)住家には神も神の一番神聖なる息子も入ることが出来ません。

あなたの罪悪に従うようあなたが作ったこのもの{体に対するあなたの定義}が、あなたと他のマインド達の間に立ちはだかっています。
(人々それぞれの)マインド達は繋がっていますが、あなたは彼等を自分として自己認識してはいません(人々のマインドと自分のマインドを同じものとしては認識していません)。
あなたは自分達が(隔たれ、繋がっておらず、通信不能な)異なった独房に繋がれていると見ています。 あなたは自分で作ったこの独房を憎んでおり、それを破壊したいと思っています。
しかしあなたは「それ(体)にあなたの罪悪を与えず、それを損なわず、それから逃れよう」とはしていません。しかしそうすること(それ/体にあなたの罪悪を与えず、それを損なわないこと)によってのみ、あなたは逃れられるのです。
復讐の家はあなたのものではありません。あなたの憎しみを住まわせる為にあなたがとっておいた場所は刑務所ではなく、あなた自身に対する幻想だったのです。
体は(マインドの永遠の性質である)宇宙的コミュニケーションに対する限定です。
しかしコミュニーケーションは内的なものです。 マインドはそれ自体(マインド自身)に対して自分を差し伸べる(自身を拡張する)ものです。 
マインドは「(お互いに差し伸べ合う)異なった部分」から出来ているものではありません。
マインドはそれ自身の外には出ません。 それ自身の中でマインドは無限で、その外には何もないのです。それは全てを内包しています。
それはあなたを完全に内包しています。 あなたはその中に在り、それはあなたの中に在るのです。
そこにはそれ以外何も無いのです。 それ(マインド)以外には何処にも何も無いのです。

体はあなたの外にあり、でもあなたを包んでいるように見えます。 体があなたを他者から隔てて(そして他者からあなたを隔てて)いるように見えます。
しかしそれ(体)はそこには存在していません。
神とその子供の間にはバリアー(隔たり)はありません。
そして幻想の中で無い限り、神の子が自分自身から分離していることもありません。
人は体が自分のものだと信じていますが、本当は体は人のものではないのです。
神が間違っていない限り、(神と人とを隔てている)体は存在し得ないのです。
(あなた達が作った体が実在した場合)神は(隔たりを見ていない神自身とは)違う風に(人々を)創造したことになります。 そしてこれを可能にする為には、{神が}自身を自分の子供から分離したことになってしまいます。
(あなた達が定義した体が実在した場合)神は「違った」もの達を創造し、違った「レベル」のリアリティ(その中の幾つかは愛ではなかったことになります)を設立したことに成ります。
しかし愛は永遠にそれ自身であり続け、永遠に不変で、永遠にそれ以外のものでは在り得ないのです。だから愛はその通りなのです。

あなたは自分自身の周りにバリアー(防御壁/隔たり)を置くことは出来ません。 何故なら、神は自身とあなたの間にそのようなものは何も置かなかったから。
あなた達はその手を差し伸ばし、天国に届くことが出来るのです。
お互いに手を繋いでいるあなた達は、体を超えて(意識を)伸ばし始めており(これはあなた達自身の外に手を伸ばしているのではありません)、あなた達が分け合っているアイデンティティ(自己認識)へ一緒に手を伸ばしているのです(自分達の意識をそこへ届かせようとしているのです)。
これが(あなた達が共有しているアイデンティティ/自己認識)があなたの外に在り得るでしょうか? 神があなたの外に居ないのに?
神は体でしょうか? 神は自身と違う風にあなたを創造したのでしょうか? 神は自分では存在し得ない場所にあなたを創造したのでしょうか?
あなた達の周りを囲んで居るのは神だけです。
神に囲まれているあなた達にどの様な限定が在り得るでしょうか?

誰でも自分自身を超えて(体を超えて)持っていかれた(トランスポートされた)感覚を体験したことがある筈です。
これは(特別な関係の中で時々体験される自由の夢を遥かに超えた)解放のフィーリングです。
これは数々の限定から実際に逃れる感覚なのです。
このトランスポテーション(移動)が本当に何を含んでいるか考慮してみたなら、これは『体に対して瞬間的に無意識(無自覚)に成り、あなた自身と「何か他のもの」が繋がり、それを包み込む為にあなたのマインドがより大きく成ることなのだ』と解るでしょう。 あなたが「何か他のもの」と融合(UNITE)した時、それが(何か他のものが)あなたの一部に成るのです。その時両方(あなたとそして他のものが)が十全/健全/全体に成るのです。 何故なら、もはやその時にはどちらも分離しているとは知覚認識されなくなるのだから。

そこで本当に起こっていたのは、あなたが限定された意識という幻想を手放して、合一すること(union)に対する怖れを手放したということなのです。
あなたの幻想と怖れが愛によって瞬間的に置き換えられて、その愛が「あなたを自由にしたもの」に差し出され、それ(あなたを自由にしたもの)とあなたをひとつにしたのです。
この体験が続いている限り、あなたは自分のアイデンティティ(自己認識)を明確に知っており、そのアイデンティティを限定しようとはしていないのです。
(この体験をしている時)あなたは、リアリティに対する質問はしておらず、リアリティをただ受け入れて、怖れから平和に逃れたのです。 あなたは体の代わりにこの体験を受け入れて、自分のマインドを体によって限定させるのを止める事によって、「体を超えているもの」とあなた自身を「ひとつ」にしたのです。

あなたと「あなたが繋がっているもの(人/物)」の間にどれ位物理的距離が在るように見えていたとしてもこれ(トランスポテーション)は起こり得るのです。 空間内の位置がどうであっても、サイズに違いがあっても、特質に違いがあっても、これは起こり得るのです。
このことと時間には関係がありません。 これは(ひとつに繋がることは)過去のこと(もの)とも起こりえるし、現在のこと(もの)でも在り得るし、未来に起こると思われていること(もの)と繋がることも可能なのです。
この「何かあなたと繋がるもの」はあらゆる場所のあらゆる者/物で在り得るのです。
それは音/光/思考/記憶/あるいは(特定のこととは関連していない)より曖昧なアイディアなど、何でもあり得るのです。
しかしいずれの場合でもあなたは躊躇無くそのもの(そのこと/その人)と繋がったのです。何故なら、あなたはそれ(その人)を愛しており、それ(その人)と一緒に居たいと思ったのだから。
だからあなたはそれ(その人)と繋がるために息せき急ぎ、あなたの限定を溶かして、あなたの体を統治している全ての「法」を保留して、それらを優しく傍らに退けたのです。

このエスケープ(夢からの逃避)の中には全く暴力がないのです。
体は攻撃されず、ただ適切に知覚されるのです。
もはや体はあなたを限定しなくなるのです。 何故ならその時あなたは体をそのようなもの(自分を限定していないもの)としたのだから。
本当はあなたが体から抜き取られる訳ではないのです。あなたは初めから体に包まれてなどいなかったのだから。
あなたはあなたが行くべき所に行くのです。自己の感覚を(失うのではなく)得ながら。
このようにして物理的/身体的限定から解放される瞬間に、聖なる瞬間内で起こっている多くのことをあなたは体験するのです。
それは時間と空間という砦が取り除かれることであり、瞬時に平和と喜びが体験されることであり、そして何よりも体の意識が無くなることであり「このようなことが一体可能なのか?」という疑問が消えてなくなることなのです。
これが可能なのはあなたがこれを望んだからなのです。{あなたが望まなければ、これは可能には成りません。}

あなたがこれを望んだ時に起こる自己の急激な拡張は、聖なる瞬間が持っているあがらい難いアピール(懇願)なのです。このアピールがその安全な抱擁の中から「あなた自身に成りなさい」とあなたに呼び掛けるのです。あなたの為に限定的法則が取り除かれ、オープンなマインドと自由の中にあなたが歓迎されるのです。
あなたが平和の中であなた自身に成れるこの避難場所に来なさい。 破壊を通してではなく、離れることによってではなく、静かに「溶け込む」ことによって。
愛に対して自分で課した限定(限界)をあなたが喜んで放棄出来るように成ったので、そして愛が存在している場所であなたがそれと繋がったので、そこで平和があなたと繋がります。
そして「平和であれ」というその優しい呼び声に(あなたが)答えた時に愛があなたを連れ出す所で平和があなたと繋がるのです。


I Need Do Nothing
わたしは何もする必要がない。私が何かしようとしてはいけない。
Urtextと呼ばれているものの中にもバリエーションがあるらしく、下記のセクションがChapter22SALVATION AND THE HOLY RELATIONSHIP の中に記載されている場合もあるようです。しかし多くのUrtextJCIM ではこのセクションはChapter18のこの箇所に記載されています。) 


あなたはまだ力の源としての体に信心を与え過ぎています。
体の安楽や防御や楽しみと全く関係のないことを、あなたが計画立てることがありますか?
これが(体を中心に物事を考えることが)あなたの解釈{知覚認識}の中で体を方法ではなく(あなたが求めている)結果にしており、これは「あなたがまだ罪に魅力を感じていること」を常に意味しているのです。
自分のゴールとして罪を受け入れている全ての人は、アトーンメント(贖罪/和解)を自分の為に受け入れていないのです。
だからあなたがまだ果たしていない責任が一つあるのです。
痛みと破壊を{和解より}好んでいる人達は、 アトーンメントを歓迎しては居ないのです。
あなたは沢山進歩しており、より多く進歩しようとしています。
しかしまだあなたがしていない事が一つあります。
あなたはまだ一瞬も体を完全に忘れたことはないのです。
体が一時的にあなたの視界から消えたことはあるでしょう。 しかしそれはまだ完全に消えては居ないのです。
これ(体を消すこと/体を忘れること)を一瞬(僅かの間)以上に亘って発生させ続けることがあなたから求められている訳ではありません。 しかしその一瞬の内にアトーンメント(和解/贖罪)の奇跡が起こるのです。
その後もあなたは体をまた見ることでしょう。 しかし以前と全く同じように体を見るようには成りません。
そして体の意識無しであなたが過ごす各瞬間が、あなたの意識が体に戻った後で、体に対する今までとは異なった視点をあなたにもたらすのです。

体は一瞬も存在してはいないのです。 それは常に思い出されているか、期待されているのですが、決して今の瞬間に体験されてはいないのです。
その(体の)過去か未来だけが体をリアルに見せているのです。
時間がそれを(体の過去や未来がリアルに見えていることを)完全にコントロールしているのです。何故なら罪は決して存在していないのだから。
それぞれの瞬間の中では、罪悪の魅力は痛みとしてだけ体験され、それ(罪悪)は避けられるのです。 今の中でそれ(罪悪)は魅力を持っては居ないのです。
その魅力の全ては想像上のもので、だからそれは(罪悪の魅力は)過去として振り返られるか、未来に想定される必要があるのです。
一瞬だけで良いのであなたが過去も未来も見ようとしなく成らない限り、聖なる瞬間を無条件で受け入れることは不可能です。
何かを未来に想定しない限り、あなたがその為の準備をすることは不可能です。
しかしあなたが解放を望んだ「瞬間」に解放が与えられるのです。
多くの人々がその人生を通して準備を行い、確かに瞬間的な成功(それぞれに成功)を修めています。
このコースは彼等が時間の中で学んだこと以上を教えようとしているのではありません。
そうではなく時間をセーブすることがこのコースの目的なのです。

あなたは、あなたが受け入れたゴールのとても長い道程を辿ろうとしています。
罪と戦うことによってアトーンメント(和解/贖罪)に達することは非常に困難です。
憎まれ嫌われていることを神聖にする試みには多大な努力が必要です。
体から「離れて超然とすること」を目標として生涯に亘る熟考と長年の瞑想を続けることも必然ではないのです。
これら全ての試みは(その目的故に)最終的に成功します。 
しかしこれらの方法は単調でとても時間が掛かるのです。 何故なら、これら全ての方法は現在の無価値と不能の状態からの解放を「未来に望んでいるもの」なのだから。

あなたの道(やり方)は(上記の方法とは)異なるものに成ります。 それは目的が変わるのではなく、方法が変わるのです。
『聖なる関係とは時間を短縮する方法なのです。』
(あなた達が)一緒に過ごした一瞬が、あなた達両者の為に宇宙を修復するのです。 あなた達はすでに準備出来ている(準備されている)のです。
今あなたがするべきなのは「あなたは何もしてはいけない。YOU NEED DO NOTHING.」と思い出すことなのです。
今ただこれだけに集中することの方が「自分は何をするべきか考慮する」よりも、とても有益なのです。

罪を犯してしまう誘惑に抵抗しようとしている者達にやっと平和が訪れる時、熟考(瞑想)しているマインドに光がやっと届いた時、あるいは誰かがやっとゴールに届いた時、それらは常に「私は何もしなくてよい。I NEED DO NOTHING.」という幸福な認識と共にやって来るのです。
全ての人々がいつの日かその人自身のやり方でその人独自の時間を掛けて発見する最終的な解放がここにあるのです。
しかしわたし達はこの独自の時間を必要とはしていません。 
時間はあなた達の為に短縮された(救われた)のです。 何故ならあなた達は一緒なのだから。
これが、あなた達の時間を短縮する為にこのコースが使用している特別な方法なのです。

他の人達が上手く使っている方法を自分も使いたいと固執し、「あなた」の為に作られているものを無視するなら、あなたはコースを活用していないのです。
この一つの準備だけ(他の人々が上手く使っている方法を自分でも使おうとしないこと)をすることにより「私」(イエス/聖霊/あなたのガイド)の為に時間をセーブしてください。 そしてそれ以外は何もしないで下さい。
"I need do nothing" 私は何もしなくて良い。わたしは何もしてはいけない。」は忠誠の宣言なのです。 それは本当に統一された忠誠心なのです。
これをたった一瞬信じなさい。するとあなたは100年の瞑想に与えられるよりも、あるいは100年間誘惑と戦い続けるよりも多くを達成するのです。 

何かを「しよう/行なおう」とするには体を使います。
そしてもし「あなたは何もしなくて良い」と理解したなら、あなたは体の価値をあなたのマインドから遠ざけたのです。
ここに開かれたドアがあり、あなたはこのドアを抜けて何世紀もの努力を省略して時間から逃れることが出来るのです。
これこそ罪がその全魅力を「たった今」失う方法なのです。
何故なら、ここで時間が否定されており、過去と未来が去って行ったのだから。
何もしなくて良い者には時間は必要ではありません。
何もしないことは休息することです。そしてあなたの中に「体の行動が注意を要求しなくなる場所」を作るのです。 この場所の中に聖霊がやって来てそこに住まうのです。

あなたがこれを忘れてしまって、体の行動があなたの意識的マインドの中に戻って来てそこを再度占領してしまっても、彼(聖霊)はそこに留まります。
それでも(体の行動があなたのマインドに戻ってきてしまっても)そこには常に(あなたが戻っていける)安息の場所が存在するのです。
そしてあなたは、嵐の荒れ狂う行動ではなく、その中の静かな中心をより意識するように成るでしょう。
(その中であなたが何もしていない)静かな中心があなたと共に残ります。
そして(忙しい様々な行動の中に送り出されている)あなたに安息を与えます。
何故なら、あなたはこの中心点からどのようにして体を罪無く使うべきか指示されるのだから。
この中心点からは体が存在していません。 {この中心的から見た視線の中には罪悪が存在していません。}
だからこの中心は、あなたがこの中心を意識している限り、その通りにし続けます(あなたの意識の中で体の存在を無にし続けるのです)。