Aug 7, 2013

Ch30-08

Changeless Reality

不変のリアリティ

 

見掛けは{あなたを}騙すもので、見掛けは変えることが可能です{見掛けはどのようにでも変化し得るものです}。

リアリティは不変で、それは全く騙しません。

 

だから、見かけを超えて見ることが出来ていなかったなら、あなたは騙されているのです。

何故なら、あなたが見ている全てのものは変化して行くのですが、しかし{変化が起こる}前はそれが{見えた通りのことが}リアルだとあなたは考えていて、{変化が起こった後の}今またそれが{見かけが}リアルだとあなたは考えているのだから。

 

このようにしてリアリティが形に還元されており、変化可能なものとして見られているのです。

{しかし}リアリティは不変なのです。

不変であることがリアリティをリアルにしており、全ての見掛けからリアリティを分離しているのです。

リアリティがそれ自身である為には、リアリティが全ての形を超越している必要があるのです。 リアリティは変わることが出来ないのです。

奇跡は「全ての見掛けが見掛け(表層)で在る故に変化可能であること、そしてリアリティに内包されている不変性を{見掛けが}持っていないこと」をデモンストレートする方法なのです。

奇跡は、見掛けが変化可能であることを示すことにより、見掛け{様相}からの救済を証言するのです。

 

あなたの兄弟は彼自身(兄弟自身)の中に「見掛け(様相)と欺瞞の両方を超えた不変性」を持っているのです。

それ(兄弟の不変性)は、「彼に対して変化し続ける見方(あなたはそれを彼のリアリティだと知覚しているのです)」によって解り難く{不透明に}されているのです。

彼に関するハッピー・ドリームは「彼のパーフェクトな健康/あらゆる欠乏からの自由/全ての災害や人災からの安全」という見掛けの形をとるのです。

 

奇跡は、彼がどのような形の損失や苦しみに縛られていないことの証明なのです。何故なら、それ{損失や苦しみ}は簡単に変わることが出来るのだから。

これが{奇跡が}「それ{損失や苦しみ}がリアルに成ったことは決してない、そしてそれが彼のリアリティから発生することは出来ない」とデモンストレートするのです。

何故なら、彼のリアリティは不変で、彼のリアリティが「天国の中や地の上に変化を起こす効果」を持つことは出来ないのだから。

しかし{彼のリアリティが不変であることに反して}見掛けは変化するので、だから見掛けがリアルでないことが示されるのです。


 

誘惑とは「幻想をリアルにしようという願い」でしかないのです。

これは「全てのリアリティをリアリティでなくしようする願い」には見えません。

しかしこれは『何らかの形のアイドル達がパワフルな魅力(アピール)を持っていて、この魅力故に「リアリティを持っていて欲しくないとあなたが望んでいる者達」に比べてアイドル達を拒否し辛くしている』という主張なのです。

 

だから誘惑とは次のことでしかないのです。

奇跡がある種の夢に触れないようにして、ある種の夢の非リアリティを解り難くさせて、ある種の夢に対してリアリティを与えようとする「祈り」{これが誘惑なのです}。

 

天国はこの祈りには答えず、「あなたが好きではない見掛け(あなたが好んでいない見掛け)」を癒す為に奇跡が与えられることも無いのです。

{このように祈っている}あなたは限界を確立したのです。

あなたが求めていることがあなたに与えられているのです。

しかし{このようにしてあなたが祈っている限り}「限界を知っていない神」からは与えられて{受け取られて}いないのです。
あなたは「あなた自身」を限定しているのです。

 

リアリティは不変です。

奇跡は『「リアリティとあなたの認識の間にあなたが挿入したもの」はリアルではなく、{あなたが挿入した}それは全くリアリティに干渉していない』と示すだけなのです。

 

「変化の希望を超えた{変化の希望には対処出来ない}何らかの様相(見掛け)があるに違いない」という信念の代償は、「奇跡があなたから途切れることなくやって来ることが出来なくなってしまうこと」なのです。

何故なら、『それ{奇跡}が「全ての夢を癒す力」から隔てられること』をあなたは求めたのだから。

 

あなたが癒やしを熱望している時、あなたに得られない奇跡は存在していません。

しかしあなたが奇跡を求めない限り、あなたに与えられる奇跡はありません。

あなたが癒やそうとするもの{癒やされるべきもの}をあなたが自分で選んでしまっている場合、「全ての奇跡を与える彼」に対して「神の子の上に彼{神の子}のギフトを与える自由」が与えられていないのです。

彼{神の子}が誘惑されている時、彼{神の子}はリアリティを否定しているのです。

そして彼{神の子}は自ら「リアリティの替わりに自分が選んだもの」の奴隷に成っているのです。


リアリティは不変なので、「変化したもの(変化するもの)全て」を癒やす為に奇跡は既にそこに在り、怖れの無いハッピーな形の中でそれ{変化しているもの}を見るようにあなたにそれを捧げるのです。

あなたの兄弟をこのように見る為に、それ{奇跡}があなたに与えられるのです。

しかし何らかの意味であなたが、それ{不変なもの}を「それ以外のもの(不変ではないもの)」にしようとしている限り、あなたに奇跡は与えられないのです。

何故なら、その場合あなたは「彼を癒やして健全/十全にしたい」と思っていない事に成るのだから。

 

彼の中のキリストはパーフェクトなのです。

あなたはこれを見ようとしていますか?

「あなたがこれを見ようとすること以外に彼に関する夢」が無いようにしなさい。

あなたが彼(キリスト)を自分のもとに来させたので、あなたは彼(兄弟)の中にキリストを見るのです。

彼(キリスト)があなたのもとに現れた時、あなたが彼(キリスト)と同じであることが明確に解るのです。 何故なら、彼{キリスト}はあなたと彼の中の「不変で永遠なもの」なのだから。


「あなたの兄弟のリアリティに取って替わる様相(見掛け)」は何も欲しくないとあなたが決断した時、あなたはこれ{不変なキリスト}を見るのです。

「リアリティよりも夢を好む誘惑」によって、ここに不確実性(不確かなもの)を招き入れてしまうのは止めなさい。

「彼(兄弟)に対する夢」によって誘惑された時に罪悪を見て恐がらないようにしなさい。

彼に対するあなたの視界の中で『「彼(兄弟)の中の不変なもの」に取って替わる力』をそれ(夢)に与えるのは止めなさい。

 

あなたがその替わりに{夢の替わりに}奇跡をリクエスト(要求)したなら、全ての間違った様相(見掛け)は消えて行きます。

彼(兄弟)が「彼そのもの、彼本来の姿」に戻ることをあなたが許可したなら、彼が逃れられない痛みは存在していません。

「彼(兄弟)の中にキリストを見ること」を怖れる必要などがあるでしょうか?

あなたは「自分が見ているもの」の中に自分自身を見ているだけなのだから。

彼が癒やされるに従い、あなたが罪悪から解放され、あなたにとって彼の様相(見掛け)が「あなた自身のもの」に成るのです。

Aug 5, 2013

Ch30-07

The New Interpretation

新しい解釈

 

神が世界の意味をあなたの解釈に任せるでしょうか?

もし神がそうしたなら、世界には意味がないのです。

何故なら、「意味が常に変化し続けながら真理であること」は在り得ないのだから。

聖霊は世界を「(不変に確立されている)一つの目的を持っているもの」として見るのです。

 
{聖霊の}その目標に影響を与えられる状況は存在しておらず、{全ての状況は}それ{聖霊の目的}と調和しているに違いないのだから。

その目標が夫々の状況に応じて変化可能である場合にのみ、(あなたがその都度考える様々な)解釈に応じて目的が変わり得るのだから。

 

あなたは、一日の各瞬間に対して自分で書いたスクリプト(筋書き)に対して一つ一つの要素を加え付けており、起こっている全てのことは今「何か他のこと{神のリアリティ以外のこと}」を意味しているのです。

だから、あなたが一つの要素を取り除いたなら、それに応じて全ての意味がシフトするのです。


あなたのスクリプトが「一日がどのように在るべきか決めているあなたのプラン」以外の何を反映するというのでしょうか?

こうしてあなたは悲劇/成功、前進/後退、獲得/損失を判断するのです。

これらの判断(裁き)は全て「スクリプト(筋書き)が割り当てた配役」に従って作られているのです。

「これらのラベル{配役}が(体験の異なる側面から下された)各判断によって簡単に変えられてしまうこと」が「{これらの配役は}これら自身では全く意味がないという事実」をデモンストレートしているのです。

そして過去を振り返った時あなたは、以前起こっていた事に対して(今までとは)異なる意味を見るのです。

一体あなたは「そこには意味が無かったということを示す」以外の何をしたというのでしょうか?

そしてゴールが変わる度に全ての意味がシフトしており、あなたは変化し続けるゴール(目的)の光の中で{様々に変化する}意味を割り当てていたのです。

 

出来事に対して安定した意味を与えられるのは不変の目的だけなのです。

そしてそれは(不変の目的は)、それら(出来事)全てに対して『ひとつ」の意味を与える必要があるのです。

もしそれら(それぞれの人物や物や出来事)に異なる意味が与えられていたなら、それらは異なる意図を反映しており、それらが持っている意味は全てこれ{リアリティとは異なる意図を反映すること}に違いないのです。

 

これが意味で在り得るでしょうか? 意味の意図が混乱で在り得るでしょうか?

知覚が常に変動している時には、意味の安定が何処にも無いのです。

 

怖れは、決して正当化されていない裁き(判断)で、「あなたが怖ろしいスクリプトを書いていて、それに従ってあなたは怖れている」とあなたに示す以外の意味は持っていないのです。

それは{あなたが怖れているのは}「あなたが怖れているもの」がそれ自体で怖ろしい意味を持っているからではないのです。


共通した目的(共有されている目的)だけが、「知覚を安定させ、世界とそこにおける全体験に一つの解釈を与えることの出来る」唯一の方法なのです。

この共有されている目的の中で「あなたが見ている全ての人と物」が一つの意味を共有しているのです。

あなたは判断する(裁く)必要はないのです。

何故なら、一つの意味が全てに対して与えられているとあなたは学び、あなたはそれ{共有されている一つの意味}を全ての場所に見て喜んだのだから。

それ{共有されている一つの意味}が変わることは不可能なのです。何故なら、状況によって変えられることなく、あなたはそれを全ての場所で知覚するのだから。

だからあなたはそれ{共有されている一つの意味}を全ての出来事に対して捧げ与え。

それら{全ての出来事}があなたに安定を捧げるのです。

 

裁きからの解放は次のことだけに掛かっているのです。

「あなたが持っている全てのものは一つの目的だけを持っていて、あなたはそれ{一つの目的}を世界の全てと共有して(分けあって)いるのです。 そして世界の中の何者もそれと敵対することは出来ないのです。 何故なら、(一つの目的があなたに帰属しているように)それは全てに帰属しているのだから。{何故なら、あなたが一つの目的を所有しているように、世界の全てが一つの目的を所有しているのだから。}

 

一つの目的の中に「(得る者と失う者の間に異なる目的を想定せざる得ない)犠牲の全アイディアの終り」があるのです。

{得る者と失う者が居るという}このアイディアを離れたなら、犠牲の思考は成り立たなくなるのです。

「この{得る者と失う者の間の}異なるゴールのアイディア」が、知覚をシフトさせ{知覚を歪め}意味を変化させているのです。

一つに統合されたゴール(目的)の下では、これ{得る者と失う者の異なる目的}が不可能に成るのです。 何故なら、{聖霊に対する}あなたの合意が解釈を安定させ永続させるのだから。

 

使われているシンボルが{人々の立場によって}異なることを象徴している限り、どうしてコミュニケーションが本当に確立出来るというのでしょうか?

 

 

聖霊のゴールは(あなたとあなたの兄弟の両方にとって意味を持っている)「一つ」の解釈を与えるのです。

こうしてあなたは彼(兄弟)とコミュニケートし(意志を疎通させ)、彼(兄弟)があなたとコミュニケート出来るように成るのです。

あなた達両者(あなたとあなたの兄弟)が理解出来るシンボルの中で、意味の犠牲が解除されるのです。

 

全ての犠牲の中には「様々な出来事の間の関係を見るあなたの能力」を失うことが含まれて居ます。

一つ一つを切り離して見たなら、それぞれの出来事には意味が無いのです。

何故なら、「それらの出来事を見て理解する光」がそこには無いのだから。

{だから、そこで見られている}それらの出来事には目的が無いのです。

「(意味を持つことが出来ない)損失の思考」の中では、それらの出来事が何の為に在るのか見ることは出来ず、出来事の意味をあなたと合意している人は誰も居ないのです。

 

{上記の}これは歪められたスクリプト(筋書き)の一部で、意味と共にこれを解釈することは不可能なのです。

これは永遠に不可解で、そこにはコミュニケーションが無いのです。

あなたの暗い夢達は、夢の中で書かれた無意味な分離されているスクリプト(筋書き)に過ぎないのです。

分離した夢達の中に意味を探して見ようとするのは止めなさい。

免除の夢(赦しの夢)だけが共有可能なのです。

それら{赦しの夢}はあなた達両者にとって同じ意味を持っているのです。


 

孤独の中で{自分一人で}解釈しようとするのは止めなさい。

何故なら、あなたが見ているものには意味が無いのだから。

その意味はシフトし続けて、あなたは「世界は不確実な場所で、自分は危険なところを歩いている」と信じてしまいます。

 

しかし安定を欠いているのは、あなたの「解釈」なのです。

そしてそれ{世界に対するあなたの解釈}は「あなたであるもの(あなたのリアリティ、本当のあなた)」とは食い違っているのです。

これはとても危険に見える状態で、怖れを引き起こさず得ないのです。

 

私の兄弟よ、このような在り方を続けるのは止めなさい。

私達には「一人(ひとつ)の解釈者」が居るのです。

そして彼(聖霊/私達の解釈者)のシンボル解釈を通して私達は繋がっており、私達全員にとってそれら{世界の中に表れているシンボル}が同じ意味を持っているのです。

私達の共有の言語によって、私達は全兄弟達に話し掛けることが可能で、「私達全員に赦しが与えられていること」を彼等{兄弟達}と一緒に理解することが可能なのです。

こうして私達はコミュニケーションを再開することが出来るのです。

 

 

Jul 24, 2013

Ch30-06

The Justification For Forgiveness

赦しの正当性 (赦す理由)



怒りが正当であることは決してありません。

攻撃には基礎(確実な土台)がないのです。

怖れからの退却/解放はここから{攻撃には確実な基礎が存在していないという認識から}始まり、これが完成させられるのです。

ここから「怖れの夢がリアルな世界で置き換えられること」が始るのです。

何故なら、この上に赦しが置かれており、これ{怖れの夢がリアルな世界で置き換わること}は自然なことでしかないのだから。

 
『「攻撃が必然であり正当である所」に恩赦を与えるよう』あなたに求められているのではないのです。

何故なら、それではリアルに存在していることを無視して罪を赦すことに成ってしまうから。

そのようなことは恩赦ではないのです。

何故なら、それは「正当ではない反応をすることにより、あなたの恩赦が実際に行われた攻撃に対する答えに成る」と仮定しているのだから。

その場合、それに{恩赦に}相応しくない場所へ恩赦が与えられることにより、恩赦が不適切であることに成ってしまうのです。


{しかし}恩赦は常に正当で、恩赦には確実な土台があるのです。

あなたは赦せないことを赦すのではなく、懲罰を必要としているリアルな攻撃を無視するのでもないのです。

「(リアルなものに対して不適切である)不自然な反応」をすることから救済がもたらされるのではないのです。

救済は単に『「起こっていないこと」を知覚しなくなることにより「リアルでないもの」に対してあなたが適切に反応すること』を求めているだけなのです。

 

もし恩赦が不正であったとしたなら、攻撃に対してあなたが赦しを返している時、あなたから犠牲が求められていることに成ります。

しかし「エラーの上に築かれているストレス(助けを求めている声)へのナチュラルな対応/反応として赦しを見ること」があなたから求められているだけなのです。

赦しだけが唯一正気の反応なのです。

赦しは、あなたの権利があなたから失われてしまわないようにするのです。


この理解だけが「恐怖の夢に置き換わるようリアルな世界を立ち上げる変化」をもたらすのです。

攻撃が正当化されていない限り、怖れは立ち昇らないのです。

そしてもし攻撃にリアルな土台があったとしたなら、恩赦には全くリアルな土台がないことになるのです。

赦しの土台/基盤がとてもリアルで完全に正当であることをあなたが知覚した時、リアルな世界が確立されるのです。

あなたが赦しを「相応しくないギフト{相応しくない人へのギフト}」と認識している限り、『あなたが「赦そう」としている罪悪』をそれ{世界に対するあなたの認識}が維持せずにはいられないのです。

「正当なものと見なされていない赦し{不正な赦し}」は攻撃なのです。

そしてこれだけが世界が与えることの出来る全てなのです。

それ{世界}は『罪人』を時には免罪するのですが、それでも罪人達が罪を犯したことを認識し続けるのです。

だから罪人達は「それ{世界}が与える赦し」に値しないのです。


これは罪を生き続けさせる為に世界が使っている間違った赦しなのです。

そして神が正義であることは認識されているので、彼{神}の恩赦がリアルであることは不可能に見えてしまうのです。

このようにして神への怖れが「恩赦を不当なものと見ることの明確な結果」に成っているのです。

「自分自身を罪深く有罪であると見ている人達」は誰も「神への怖れ」から逃れられないのです。

しかし赦すことが彼に出来たなら、彼はこのジレンマから救われるのです。

マインドがそれ自身を見ている時、マインドはその創造者{マインドを創造した者}を考えざる得ないのです。

 

あなたの兄弟が恩赦に値することがあなたに見えたなら、あなたは赦しが(兄弟の権利であると同じだけ)あなたの権利であることを学んだのです。

そして『「あなたの兄弟には相応しくない怖ろしい裁き」を神があなたに与えようとしている』とあなたは考えなくなるのです。

何故なら、「あなたが彼(あなたの兄弟)より多いもの(あるいはより少ないもの)に値することは出来ないこと{あなたはあなたの兄弟姉妹と同じものに値すること}」が真理なのだから。

 

与えられた者が癒されるに従い、赦しが認識されるのです。

これが幻想を見越す力を奇跡に与えるのです。

このようにしてあなたは自分も赦されていると学ぶのです。

見越せない見掛けは何も無いのです。

もし見越せない見掛け(様相)が存在したとしたなら、「赦しを超えた何らかの罪」が先ず第一に存在したことになってしまうから。{だから見越せない見掛けは何も存在していないのです。}

 

{見越せない見掛け(様相)が存在していた場合}「(不変で永遠で修正や解放の及ばない)間違い以上のエラー、特別な形のエラー」が存在していることになってしまいます。

しかし「創造を無効にして、創造を世界で置き換えることにより、神の意志を破壊する力」を持っている間違いは一つもありません。

これ(上記の間違い)が可能であった場合にのみ「奇跡に反して立ち続け、奇跡によって癒やされない様相」が在り得るのです。


「癒しが治すことの出来ない形の病や喜びの欠如が存在しているという信念」よりも確実な偶像崇拝の証拠はありません。

{「癒しが治すことの出来ない形の病や喜びの欠如が存在しているという信念」が偶像崇拝の確たる証拠なのです。}

これは「あなたが何らかのアイドル(偶像)を保とうとしており、まだ全てのアイドル達を手放したくないと思っている証拠」なのです。

だからあなたは「何らかの形の様相がリアルで、それがただの様相ではない{見掛けが実体を正確に表現している}」と考えているのです。


ある種の様相(見掛け)を見越すことが他の様相を見越す(見抜く)ことよりも難しいという固定信念によって欺かれるのは止めなさい。

これは常に「赦しが限定されている必要があるとあなたは考えている」という意味なのです。

そしてこれはあなたが「部分的な恩赦のゴールを設定しており、あなたが罪悪から限定的に解放されることを設定していること」を意味しているのです。

これが「あなた自身に対する(そしてあなたから分離しているように見えている全ての人達に対する)間違った赦し」以外の何で在り得るのでしょうか?


奇跡はあらゆる形の病を治すことが真実であって、もしそうでないなら{もし奇跡にあらゆる形の病を治すことが出来なかったなら}奇跡には癒すことが出来ないことに成るのです。

{奇跡の}その目的は「どの形がリアルでどの様相が真実なのか判断すること」では在り得ないのです。

もしひとつの様相(見掛け)でも癒しから隔てられていたならば、真理の中に一つの幻想があるに違いないのです。

しかしあなたは一つの罪悪をそのままにして全ての罪悪から逃れることは出来ないのです。

あなたは神の子全体を完全に赦す必要があるのです。

そうでなければ、あなたは「全体/健全ではないあなた自身のイメージ」を保ち続けてしまい、「内側を見てそこに居る全てのアイドルから解放されること」を怖れ続けてしまうのです。

救済は「あなたが赦すことの出来ない特定の形の罪悪など存在していない」という信心に依存しているのです。

だから「神の子の真実が様相で置き換えられていること」など在り得ないのです。

 

あなたの兄弟をそれそのままに見る意欲をもって見つめなさい。

「彼が癒やされることを意図するあなたの意欲」の外に彼の一部分を保とうとするのは止めなさい。

「癒すこと」とは「全体/健全にすること」なのです。

そして「全体/健全であるもの」には外側に排除されている欠落部分が無いのです。

赦しはこの{「全体/健全であるもの」には外側に排除されている欠落部分が無いということの}認識に依存しており、奇跡に癒やすことの出来ない病の形が存在していないことを喜ぶのです。


神の子はパーフェクトなのです。

そしてもし彼がパーフェクトでなかったなら、彼は神の子では在り得ません。

もし「彼はあらゆる形の罪から(そして罪の結果から)逃れることに値しない」とあなたが考えたなら、あなたは彼{神の子}を知ることがないのです。

あなたがあなた自身の真実を知ろうとしているなら、彼のことをこのように{パーフェクトだと}考えるしかないのです。


 

"I thank you, Father, for your perfect Son, and in his glory will I see my own."
「父よ、あなたのパーフェクトな子の為に、私はあなたに感謝します。 そして彼{神の子}の栄光の中に私は私自身{の栄光}を見るのです。」


 

ここに(神の意志を凌駕出来る悪の形が存在していないことを述べている)喜びの言葉があるのです。 そして「幻想をリアルに作ろうとしていたあなたの望みに従って罪悪が成功することはなかった」ことを嬉しく認識しているのです。

 

そしてこれは真理をシンプルに宣言していることではないでしょうか?

あなたの中にこの望みを持って、あなたの兄弟を見なさい。

そうすればあなたは「彼(あなたの兄弟)が彼の中の真実を変えるエラーを行なうことは出来なかった」と理解することが出来るでしょう。

 

「効果/結果を全くもたらさなかった間違い」を見越すことは難しくありません。

『「神の子の偶像(アイドル)を作る力を持っている」とあなたが見ている者』をあなたは赦しません。

何故なら、あなたにとって彼は「作られた偶像のイメージ/死の象徴」に成っているのだから。

これがあなたの救済者なのでしょうか?

 

父の子に関して父は間違っているのでしょうか?

それとも「あなたを癒す為に(あなたの救済と解放の為に)あなたに与えられている彼」に関してあなたが間違っていたのでしょうか?