Nov 28, 2012

Ch25-02

The Savior From The Dark

暗闇からの救済者


「体の目が知覚しているもの」があなたを怖れで満たしていることは明白ではありませんか?

もしかしたらそこに(体の目が知覚しているものの中に)満足/成就の希望があるとあなたは考えているかも知れません。

「あなたが知覚している世界(あなたが知覚した通りの世界)」の中である程度の平和や満足を得ようとあなたは空想しているかもしれません。

しかし{そのようなことを試みても}結果は変わりないことが明確なのです。

あなたの希望や空想に関わらず{そのような試みの}結果は常に失望なのです。

そしてこれに例外はなく、例外が将来起こる可能性も無いのです。

過去の唯一の価値は、『「あなたが保とうと思わなかった報酬」をそれ(あなたの過去)があなたに与えたこと』がそこ(過去)から学べることだけです。何故なら、これを学ばない限り、あなたはそれ(過去)を手放してそれを永遠に立ち去らせようとしないから。


 『「あなたが見ている世界」から何らかの満足を得ようとすること』をあなたがまだ大切にしようとしていることは不思議ではありませんか? 
{まだあなたが『「あなたが見ている世界」から何らかの満足を得ようとしていること』はおかしくないですか?}

しかしあらゆる場所と時間で、あらゆる意味で、あなたの報酬は怖れと罪悪だけだったのです。

『「この方向での変化(今までのやり方が良い変化を示すこと)」を求めて「より良い結果を生む変化』を遅らせることは無駄だ』とあなたが気付くまでどれだけ時間が掛かるのでしょうか?

一つ確実なことは、あなたが物事を見ている(あなたが今まで物事を見てきた)やり方は、あなたの未来の希望へのサポートは与えておらず、希望の兆しも全く見せていないということです。
希望が存在していない所にあなたの希望を与えたなら、あなたは希望を失ってしまうに違いないのです。

しかし「希望が絶対見つかるはずのない場所」の中で希望を探そうとしている限り、あなたはこの絶望を選んでいるのです。
 

しかしこれから離れた希望{あなたの知覚している世界から来ていない希望}を、「この世界の中には無い基盤(理由)」の上に正当化されている(揺らめき、かすかに見える)希望を、あなたがある程度見つけていることも真実ではないでしょうか?
それでもあなたはそれら(希望)が未だここ(あなたが見ている世界)に在って、それ故に「あなた自身に与えた希望の無い報われない仕事」が放棄出来ない状態を望んでいるのです。

それが(今まで失敗しかもたらして来なかった試みが)ある日突然成功する、そして今まで起こらなかったことが突然起こるという考えの上に『「今まで失敗し続けてきたこと」を求め続ける理由があるという固定された信念』を持ち続けることが理に適っているでしょうか?

この過去は失敗しました。

「あなたのマインド内に在るもの」を暗くしようとしていたものが、あなたのマインド内から消え去ったことを喜びなさい。

内容の為に形を受け入れるのは止めなさい。何故なら、形は内容の方法でしかないのだから。
そして額縁(枠組み)は「絵が見えるようにそれを掲げる為の方法」でしかないのです。

絵を隠してしまう額縁には目的(意味)がありません。

もしそれだけがあなたに見えていた場合{額縁が絵を完全に隠してしまって額縁しか見えなかったのなら}、 それはもう額縁ではありません。
絵が無かったなら額縁には意味が無いのです。

額縁の目的(意義)は、絵を目立たせることで、それ自体を目立たせることではありません。

空っぽの額縁を壁に飾ってその前に立って、あたかもそこに名画が在るかのようにそれに対して深い敬意を示す人が居るでしょうか?

しかしあなたが兄弟を体として見ているなら、あなたはこれだけを(額縁だけを見ることを)しているのです。

 
神がこの額縁の中に置いた名画/名作だけが、見るべき全て(そこに実在する全て)なのです。

暫くの間、それ(神の意志)を全く不明瞭にすることなく、体はそれを保つでしょう。

しかし神が創造したものは額縁(枠組み)を必要とはしていないのです。

何故なら、神が創造したものを神がサポートしており、神自身の中にそれを縁取っている(神という額縁の中に創造を保持している)のだから。 神は自分の名作が見れるようあなたにそれを捧げて(差し出して)いるのです。
あなたはその替わりに額縁を見ようとするのですか?

そして(神の名作である)絵は全く見ようとしないのですか?

 
聖霊は、「分離しているものとしてあなたが見ている神の一部」の周りに神が設定した額縁なのです。
そしてこの額縁(枠組み)は創造者と繋がっており、創造者と一つであり、と同時に創造者の名作と一つなのです。

 これが{分離しているように見えている神の一部が全てと繋がっていることをあなたに示すことが}額縁(聖霊)の目的で、あなたが絵の代わりに額縁を見ることを選択している時でも、あなたが額縁を絵に変えた訳ではないのです。
「神がそれ(絵=神の創造)に与えた額縁」は神の目的だけに仕えており、「神から離れたあなたの創造」に仕えてはいないのです。

絵を見づらく(わかりづらく)しており、そして絵の替わりに額縁を大切にしたいと思わせているのは、あなた(達)の分離した目的なのです。

しかし神は自身の名作を永遠に残る額縁の中に置いたのです。 そしてあなたの額縁は塵の中に崩れ去ったのです。
しかし{あなたの額縁が崩れ去ったからといって}絵が何らかの形で破壊されたと考えるのは止めなさい。

神が創造したものは全ての破壊/腐敗から安全に守られており、神が創造したものは不変であり、永遠の中にパーフェクトに存在しているのです。



神の額縁(聖霊)をあなたの額縁(体)の替わりに受け入れなさい。 そうすればあなたは名作を見るのです。
その愛らしさを見て、それを考えたマインドを理解しなさい。

それ(聖霊)を考えたマインドは、肉と骨の中にそれを考えたのではなく、それ自身と同じだけ愛らしい額縁(枠組み)の中にそれを考えたのです。

その神聖が「暗闇の枠組みによって隠されてしまっている無罪無垢」を燈しており、「(絵の創造者に向けて放たれている光を反射している)絵の顔」の上に光のヴェールを投げ掛けているのです。

あなたがこの絵を死の額縁の中に見たからといって、この顔が暗くされたことが一度でもあったと考えるのは止めなさい。
あなたがそれ(聖霊の無罪無垢な顔)を見れるように、そして神がそれに与えた神聖をあなたが見れるように、神がそれを安全に保ちました。

暗闇の中で「暗闇からの救済者」を見つけなさい、そして父のマインドが兄弟をあなたに見せているように兄弟を理解しなさい。

 
{父のマインドがあなたの兄弟を見ているように}あなたが彼{救済者=あなたの兄弟}を見たなら、彼(聖霊)が進み出て、そうなればあなたはもう暗闇を捜し求めようとはしないのです。

{その時}暗闇は彼には触れておらず、「自分で見るために彼(あなたの兄弟の神聖=聖霊)を引き出したあなた」にも暗闇は触れていないのです。

彼の無罪は、あなたの無罪を描いているのです。

彼の優しさがあなたの力に成り、あなた達両者は喜んで自分達の内側を見て、(あなたが彼の上に見たもの故にそこに在るに違いない)神聖をそこに見るのです。

彼(兄弟の中の聖霊)は額縁で、彼の中にあなたの神聖が置かれており、神が彼に与えたものがあなたに与えられるに違いないのです。

彼が自分の中の名作をどれだけ無視していたとしても、そして暗闇の額縁だけを見ていたとしても、「彼(あなたの兄弟)がまだ見ていないものを{あなたが}彼(兄弟)の中に見ること」だけがあなたの役目なのです。

このようにして見ることの中で「死を見る代わりにキリストを見ているヴィジョン」が共有されている(分かち合われている)のです。

 
あなたが天の主の名作を見てそれを尊んだなら、彼(天の主)が喜ばないことがあるでしょうか?

「彼と同じように彼の子を(神と同じように神の子を)愛しているあなた」に彼(神)が感謝を捧げないことがあるでしょうか?

神が愛しているものに対する神の賞賛をあなた達がわかち合ったなら、神が神の愛をあなた達に知らせないことがあるでしょうか?

神はパーフェクトな父として神自身の創造を慈しんでいるのです。

そして神の一部が(それがどの部分であろうとも)神の喜びを分け合う為に、(創造に対する)神を賞賛する為に、繋がたなら神の喜びが完成されたのです。


この兄弟が神からあなたへ贈られているパーフェクトなギフトなのです。
『「神のパーフェクトな子」がそれそのものとして存在していることにあなたが感謝していること』に対して神は感謝しており嬉しく思っています。

そして神の感謝と喜びが「(神と共に神の喜びを完成させている)あなた達」の上に輝いているのです。

こうしてあなた達の喜びが完成するのです。

「自分達の父の幸せを完成させようと(そしてそれと共に自分達の幸せを完成させようと)意図している者達」には暗闇の一束でさえ見えないのです。

 
神自身の感謝は「神の目的を共有している者達全員」に自由に与えられているのです。

孤独であることは神の意志ではありません。

それはあなた達の意志でもありません。

あなたの兄弟を赦したなら、あなたが自分を兄弟からそして兄弟の父(神)から分離することは出来ません。


「あなた」は赦しを必要とはしていません。何故なら完全に純粋な者は決して罪を犯さなかったのだから。
であれば、彼/神があなたに与えたものを与えなさい。 「あなた」が神の子を一つと見て(神があなたに感謝していると同じように)あなたがその子の父に感謝出来るように{聖霊があなたに与えたものを{兄弟に}与えなさい}。

そして彼(父)の賞賛があなたに与えられていないと考えることは止めなさい。

何故なら、あなたが与えたものは「彼」のもので、あなたがそれ(あなたが神から受け取ったギフト)を{兄弟に}与えることにより、「神のあなたへのギフトがどのようなものか理解すること」をあなたは学ぶのだから。


だから「彼(聖霊)が父と子に等しく捧げたもの」を聖霊に与えなさい。

あなた達の上に力を持っているのは「神の意志」と「(神の意志を差し伸べようとしている)あなた達の意志」だけなのです。

あなたはこの為に創造されており、この為にあなたの兄弟があなたと共に(あなたとひとつに)創造されているのです。

あなた達は同じで、神自身も「ひとつ」であって、神の意志は分離していません。

だからあなた達も一つの目的を持っているに違いないのです。何故なら神は同じものをあなた達両者に与えたのだから。
「兄弟に対して完成を捧げることによりあなた達が完成されることを求めている意図/意志」とあなた達が繋がったなら、神の意志がまとめられるのです。

彼(兄弟)が見ている罪深さを彼(兄弟)の中に見るのは止めて、彼(兄弟)に名誉を与え、あなた自身と彼(兄弟)を尊重出来るようにしなさい。

あなた達各人には(暗闇から光へ移行する)救済の力が与えられています。

暗闇から光へ逃れることがあなたが分け与えるもの{救済}であり、これによってあなたは「決して分離したことのないもの、全てに等しく与えられている神の愛の全てから離れたことが無いもの」を「ひとつ」に見るようになるのです。

Nov 21, 2012

Ch25-01

The Appointed Task
与えられている仕事

あなたの中のキリストは体に住んではいません。 しかしキリストはあなたの中に居るのです。
従ってあなたは体の中には居ないことになります。

あなたの中のものが{あなたの}外側に在ることは不可能です。

あなたの人生の真ん中に在るものから「あなた」が離れられないことは明白です。

あなたに命を与えているものが死の中に住んでいる筈はありません。

『そしてあなたが死の中に住んでいることも在り得ないのです。』

キリストは神聖の枠の中におり、その唯一の目的は「キリストを知っていない者達」に対してキリストを顕し、彼等{キリストを知っていない者達}に呼び掛けてキリストの下に来るようにして「自分達の体があると彼等が考えて来た所」にキリストが見られるようにすることなのです。
すると彼等の体は溶け去って、キリストの神聖が彼等の中に縁取れるように成るのです。

キリストを自分の中に運んでいる者達は、キリストを『体以外の』全ての場所に認識するのです。

自分達が体の中に居ると人々が信じている限り、「自分達はここに居ると彼等が信じている場所」にキリストは居られないのです。

だから{自分達が体の中に居ると信じている}彼等は、キリストを知らずに運び続け、キリストを顕す(顕在化する)ことはしないのです。

だから彼等は彼(キリスト)が居る所で彼(キリスト)を認識しないのです。

人の子(The son of man)は引き上げられたキリスト(復活したキリスト)ではありません。

しかし神の子は彼(人の子)が居るその場所に居り、彼と共に歩んでいて、彼の神聖の中からは(体の中に設定されている彼の特別性と同じ位明白に)それ(神の子)を見ることが出来るのです。


体は癒やしを必要としてはいません。

しかし自分が体だと考えているマインドは確かに病んでいるのです!

そしてここにキリストが薬(解決)を置いているのです。

キリストの目的がキリストの光の中に体を抱いており、キリストから輝き出ている神聖で体を満たすのです。

体が言うことや体がすることは彼(キリスト)を顕しません。

優しく愛をもってそれは{キリストの神聖は}キリストを知らない者達へキリストを運び届け、彼等のマインドを癒やします。

これがあなたの兄弟の「あなた」への使命なのです。

そして兄弟に対するあなたの使命もこれと同じであるに違いないのです。


「キリストがあなたに与えている仕事」をすることが難しい訳はありません。 何故なら、それをするのは彼(キリスト)なのだから。

そしてそれをすることにより、「体がそれ(癒やし)をする方法に見えているだけであること」をあなたは学ぶのです。

何故なら、マインドはキリストのもので、だからマインドはあなたのものであるに違いないのだから。

彼の神聖が「キリストと一つに成っているマインド」を通して体を指示するのです。

そして「あなた」があなたの聖なる兄弟の上に顕され、兄弟があなたの上に顕されるのです。

ここで聖なるキリストが彼自身と出会うのです。

彼(キリスト)の神聖の各要素/側面(aspects)の間には何も違いが知覚されず、それらの要素/側面は出会い繋がり、そして彼を彼の父まで引き上げ十全にピュアにして、神の永遠の愛に値するようにするのです。

あなたが神聖を見て、そこに彼(キリスト)を発見しない限り、あなたが自分の中にキリストを現すことが出来るでしょうか?

知覚は『「あなたが見ているもの」の中に「あなた」が顕されている(顕在化されている)』とあなたに告げます。

体を見たなら、あなたは自分がそこに居ると信じるでしょう。

そしてあなたが見ている全ての体が、あなた自身を、あなたの罪深さを、あなたの悪を、そして何よりもあなたの死を、あなたに思い出させるのです。

「あなたにこれを告げている者」をあなたは憎まないでしょうか? そしてあなたの死の替わりに「これをあなたに告げている彼」の死を{あなたは}求めないでしょうか?


メッセージとメッセンジャーはひとつなのです。
{「使者が伝えようとしていること」と「使者」はひとつなのです。}

そしてあなたは、あなたの兄弟をあなた自身として見なくてはならないのです。

「彼の体の中の枠組み」内にあなたは「自分の罪深さ」を見ているのです。そこであなたは断罪されて立っているのです。

しかし彼の中のキリスト(それは彼の神聖の中に設置されています)が彼自身をあなたとして宣言するのです。



知覚とは「あなた自身がどのように在りたいか、あなたがどのような世界に住みたいか、つまりあなたのマインドが満足するだろうとあなたが考えている状態を」求める選択なのです。

知覚は『「あなたの決断によって」どこにあなたの安全があるか』選択するのです。

知覚は、あなたが求めた「あなた」{このように成りたいとあなたが考えたあなた}としてあなた自身を示すのです。

知覚は常にあなたの目的に忠実で、知覚があなたの目的から離れることは決してありません。

そして知覚は「あなたのマインド内の目的が尊重していないもの」は何も証言しないのです。

知覚は「見よう(発見しよう)とするあなたの目的」の一部なのです。
何故なら、方法と結果は決して分離していないのだから。

こうして『「離れた(分離した)生命を持っているように見えているもの」は全く命を持っていないこと』をあなたは学ぶのです。

 
あなたは神の方法(神を現す方法)なのです。

あなたは神から分離しておらず、神から分離した命も持っていないのです。

神の生命は「神の子であるあなた」の中に顕されているのです。

彼自身(神自身)の各側面(aspect)は神聖の中に縁取られていて、パーフェクトにピュアで、天空の愛の中にあり、とても完璧で、「それが見ているもの全て」をそれ自身の上に解放することだけを望んでいるのです。

その放射はそれが見るそれぞれの体を輝き通り抜け、それら全ての暗闇を(暗闇を超えて光へと見抜くことにより)光の中に掃き込むのです。
その優しさを通してヴェールが持ち上げられ、すると『「キリストの顔を見ている人」から隠しているもの』はもう何もないのです。
そしてあなた達両者がそこに立ち、今彼(神)の前に居て、「あなた達を分け隔てているように見えるヴェール」を彼(キリスト)に持ち上げさせるのです

あなた達は自分達が分離していると信じているので、天国もそれ自身を分離したものとしてあなた達の前に示しているのです。 

これ(分離した天国)は真実ではないのですが、真理を繋げる為にあなたに与えられているリンク(連鎖)は、「あなたが理解していること」を通してあなたに届くのです。

あなた達兄弟全員が真理の中で一つに繋がっているように、父と子と聖霊も一つなのです。

キリストとキリストの父は決して分離したことがなく、キリストはあなたの理解の中(あなたが父の意志を共有している部分)に住んでいるのです。

聖霊は「他の分部 = 分離しよう、異なろう、特別であろうとする小さな狂気の願い」を「キリスト」と繋げ、「本当にひとつであるもの」に対してワンネス(一体性)をクリアに示すのです。

この世界の中で、これは理解されていませんが、これを教えることは出来るのです。



エラーが起こっている場所である「特別性の目的」が修正出来るように、聖霊はあなたのマインドの中でキリストの目的に仕えているのです。
聖霊の目的はまだ父と子の双方と一つなので、聖霊は神の意志を知っており、「あなたが本当に意図していること」を{聖霊は}知っているのです。

しかしこれは「一つのものとして知覚されているマインド/それ自身が一つで在ることを認識しているマインド」によって理解され、そのように体験されるのです。{一つのマインドは、全てを「自分と一つであるもの」として体験するのです}
どのようにしたらこのワンネスが体験出来るか、あなたが何をしたらこれが体験出来るか、どこに行ってこれをしたらよいか、あなたに教えることが聖霊の役割なのです。

これら{の学習}全ては、時間や場所をあたかもそれらが分離しているかのように扱います。何故なら、あなたの一部が分離しているとあなたが考えている限り、一つに繋がったワンネスという概念はあなたにとって無意味だからです。

 
とても分離しているマインドは「それ自身の中に全てのものを統合しているワンネスを教える教師」には決して成れないのです。

だから{一つである}このマインド内に在るものが、全てを一緒に繋いでいるものが、分離したマインドに対する教師であるに違い無いのです。

しかしこの教師は、この{分離した}マインドが(自身が置かれているとそれが考えている)状況内で理解出来る言葉を話す必要があるのです。

そしてこの教師は、あなたに対する全ての間違ったアイディアを取り外し、それらの間違ったアイディアを超えて真理(真理は間違ったアイディアを超えているのです)へとあなたを導き、幻想を真理に変換する為に全ての学習を使う必要があるのです。



これら全ては次の文章に要約することが出来ます:

「同じであるもの」が「異なるもの」に成ることは不可能で、「一つで在るもの」が分離した部分を持つことは出来ない。