不変のリアリティ
見掛けは{あなたを}騙すもので、見掛けは変えることが可能です{見掛けはどのようにでも変化し得るものです}。
リアリティは不変で、それは全く騙しません。
だから、見かけを超えて見ることが出来ていなかったなら、あなたは騙されているのです。
何故なら、あなたが見ている全てのものは変化して行くのですが、しかし{変化が起こる}前はそれが{見えた通りのことが}リアルだとあなたは考えていて、{変化が起こった後の}今またそれが{見かけが}リアルだとあなたは考えているのだから。
このようにしてリアリティが形に還元されており、変化可能なものとして見られているのです。
{しかし}リアリティは不変なのです。
不変であることがリアリティをリアルにしており、全ての見掛けからリアリティを分離しているのです。
リアリティがそれ自身である為には、リアリティが全ての形を超越している必要があるのです。 リアリティは変わることが出来ないのです。
奇跡は「全ての見掛けが見掛け(表層)で在る故に変化可能であること、そしてリアリティに内包されている不変性を{見掛けが}持っていないこと」をデモンストレートする方法なのです。
奇跡は、見掛けが変化可能であることを示すことにより、見掛け{様相}からの救済を証言するのです。
あなたの兄弟は彼自身(兄弟自身)の中に「見掛け(様相)と欺瞞の両方を超えた不変性」を持っているのです。
それ(兄弟の不変性)は、「彼に対して変化し続ける見方(あなたはそれを彼のリアリティだと知覚しているのです)」によって解り難く{不透明に}されているのです。
彼に関するハッピー・ドリームは「彼のパーフェクトな健康/あらゆる欠乏からの自由/全ての災害や人災からの安全」という見掛けの形をとるのです。
奇跡は、彼がどのような形の損失や苦しみに縛られていないことの証明なのです。何故なら、それ{損失や苦しみ}は簡単に変わることが出来るのだから。
これが{奇跡が}「それ{損失や苦しみ}がリアルに成ったことは決してない、そしてそれが彼のリアリティから発生することは出来ない」とデモンストレートするのです。
何故なら、彼のリアリティは不変で、彼のリアリティが「天国の中や地の上に変化を起こす効果」を持つことは出来ないのだから。
しかし{彼のリアリティが不変であることに反して}見掛けは変化するので、だから見掛けがリアルでないことが示されるのです。
誘惑とは「幻想をリアルにしようという願い」でしかないのです。
これは「全てのリアリティをリアリティでなくしようする願い」には見えません。
しかしこれは『何らかの形のアイドル達がパワフルな魅力(アピール)を持っていて、この魅力故に「リアリティを持っていて欲しくないとあなたが望んでいる者達」に比べてアイドル達を拒否し辛くしている』という主張なのです。
だから誘惑とは次のことでしかないのです。
奇跡がある種の夢に触れないようにして、ある種の夢の非リアリティを解り難くさせて、ある種の夢に対してリアリティを与えようとする「祈り」{これが誘惑なのです}。
天国はこの祈りには答えず、「あなたが好きではない見掛け(あなたが好んでいない見掛け)」を癒す為に奇跡が与えられることも無いのです。
{このように祈っている}あなたは限界を確立したのです。
あなたが求めていることがあなたに与えられているのです。
しかし{このようにしてあなたが祈っている限り}「限界を知っていない神」からは与えられて{受け取られて}いないのです。
あなたは「あなた自身」を限定しているのです。
あなたは「あなた自身」を限定しているのです。
リアリティは不変です。
奇跡は『「リアリティとあなたの認識の間にあなたが挿入したもの」はリアルではなく、{あなたが挿入した}それは全くリアリティに干渉していない』と示すだけなのです。
「変化の希望を超えた{変化の希望には対処出来ない}何らかの様相(見掛け)があるに違いない」という信念の代償は、「奇跡があなたから途切れることなくやって来ることが出来なくなってしまうこと」なのです。
何故なら、『それ{奇跡}が「全ての夢を癒す力」から隔てられること』をあなたは求めたのだから。
あなたが癒やしを熱望している時、あなたに得られない奇跡は存在していません。
しかしあなたが奇跡を求めない限り、あなたに与えられる奇跡はありません。
あなたが癒やそうとするもの{癒やされるべきもの}をあなたが自分で選んでしまっている場合、「全ての奇跡を与える彼」に対して「神の子の上に彼{神の子}のギフトを与える自由」が与えられていないのです。
彼{神の子}が誘惑されている時、彼{神の子}はリアリティを否定しているのです。
そして彼{神の子}は自ら「リアリティの替わりに自分が選んだもの」の奴隷に成っているのです。
リアリティは不変なので、「変化したもの(変化するもの)全て」を癒やす為に奇跡は既にそこに在り、怖れの無いハッピーな形の中でそれ{変化しているもの}を見るようにあなたにそれを捧げるのです。
あなたの兄弟をこのように見る為に、それ{奇跡}があなたに与えられるのです。
しかし何らかの意味であなたが、それ{不変なもの}を「それ以外のもの(不変ではないもの)」にしようとしている限り、あなたに奇跡は与えられないのです。
何故なら、その場合あなたは「彼を癒やして健全/十全にしたい」と思っていない事に成るのだから。
彼の中のキリストはパーフェクトなのです。
あなたはこれを見ようとしていますか?
「あなたがこれを見ようとすること以外に彼に関する夢」が無いようにしなさい。
あなたが彼(キリスト)を自分のもとに来させたので、あなたは彼(兄弟)の中にキリストを見るのです。
彼(キリスト)があなたのもとに現れた時、あなたが彼(キリスト)と同じであることが明確に解るのです。 何故なら、彼{キリスト}はあなたと彼の中の「不変で永遠なもの」なのだから。
「あなたの兄弟のリアリティに取って替わる様相(見掛け)」は何も欲しくないとあなたが決断した時、あなたはこれ{不変なキリスト}を見るのです。
「リアリティよりも夢を好む誘惑」によって、ここに不確実性(不確かなもの)を招き入れてしまうのは止めなさい。
「彼(兄弟)に対する夢」によって誘惑された時に罪悪を見て恐がらないようにしなさい。
彼に対するあなたの視界の中で『「彼(兄弟)の中の不変なもの」に取って替わる力』をそれ(夢)に与えるのは止めなさい。
あなたがその替わりに{夢の替わりに}奇跡をリクエスト(要求)したなら、全ての間違った様相(見掛け)は消えて行きます。
彼(兄弟)が「彼そのもの、彼本来の姿」に戻ることをあなたが許可したなら、彼が逃れられない痛みは存在していません。
「彼(兄弟)の中にキリストを見ること」を怖れる必要などがあるでしょうか?
あなたは「自分が見ているもの」の中に自分自身を見ているだけなのだから。
彼が癒やされるに従い、あなたが罪悪から解放され、あなたにとって彼の様相(見掛け)が「あなた自身のもの」に成るのです。