私は意識であり、私は気付きである
私は始まりであり、私は終わりである
私は意識の始るところであり、私は気付きの終るところである
私は私である、私は光/命/言葉である
はじめに、光/言葉である私の意識があった。
私は人を作ろう、私の性質どおりに、私の姿どおりに
私の意識を人に与えよう、人がその意識を私に返してくれるように
私は人と共に在り、人は私と共に在った
人もまた言葉/命/光であった
私はひとつで、人もまたひとつで、私と人はひとつであった
「私の意識をより具体的に現している私の姿」が人(man)なのです。
ひとつである私は全てであって、私は無限なのです。
意識である私は、全ての場所に満ちており(遍在しており)、全てを知っており(全知)、全てを行なって(全能)います。 何故なら意識である私が全てであり、私の意識が全てを構成しているのだから。
私の具体的な姿(見える様子/触れる様子)である人も、全てのことを私と一緒に行っています。 何故なら人は私によって作られたものであり、私によって作られ続けているのだから。私は人に私の息(スピリット)を与えています。
私の吐く息が人を満たし、私の吸う息が人を起き上がらせるのです。
私の言葉が人に具体性の様子(形)を与えており、私の息が人に実体/実質/実感を与えています。
しかしそれでも人は私から離れては居ない意識なのです。 人は意識である私の中のアイディア(言葉)なのです。
どうして人は私から離れてしまったか?
アイディアであり意識である人は、無限な私を(私の無限性を)反映しています。
全ての可能性がそこでは試みられるのです。その可能性の中には私から離れることも当然含まれていました。 何故なら無限は全てを(全ての可能性を)含んでいるのだから。
しかし私から離れることは不可能なのです。私が人を作り続けており、人は私で出来ているのだから。
ではどうしたら良いのでしょうか? 私でないものが作れるでしょうか? 私でないものが考えられるでしょうか? 噓が在り得るでしょうか?
私は否とは言いません。
あなたが否と言わなくてはならないのです。
私はあなたを必要としています。
そして「私でないものが作れる。 私でないものが考えられる。 噓が在り得る。」これに対して否(ノー)と云って欲しいのです。
あなたがこれらのことに対して否(ノー)と言ったなら、私はそれに対してイエス(あなたは正しい)と言うのです。
私は良きものしか作らず、良きものしか見ず、良きものだけを抱いているのです。
私はあなたを自分の中に抱いており、それは良きもので、私はあなたを良きものとして見ているのです。 これから外れることは私は行いません。 否というべきもの(否定するべきもの)を私は見てはいません。
だからあなたは私に歩み寄る必要があるのです。
あなたの前に現れている間違いに対して否と言い、あなたは私に意識を渡すのです、あなたの前に現れている真理を私の中から眺めるのです。
その為に必要なのは「分離的思考/聖書の中で罪と呼ばれていること」を止めて私に意識を差し伸べるのです。 私に助けを求めるのです。
その結果私はあなたに真理を知らせ、真理を知ったあなたは自由になるのです。
あなたは私の中で自由を再度獲得するのです。
何に対して否(ノー)というべきでしょうか?
苦しみに対して、戦いに対して、葛藤に対して、痛みに対して、NOというべきなのです。
あなたが苦しんでいるなら、あなたが戦っているなら、あなたが葛藤に満ちており痛みを感じているなら、あなたはNOと言うべきなのです。
しかしNOと言う時あなたは私と繋がっている必要があるのです。
あなたがNOと言った時の私の言葉が、あなたがNOと云っている時あなたの口から出てくる私の言葉(あなたが私と繋がったなら、あなたが私を遠ざけていないなら、あなたは私の言葉を押し留められないでしょう)が、真理を暴き示すのです。
NOと言ったあなたは、自分が分離していないことを感じるのです。
あなたは自分が私から分離していないことを感じるのです。
私があなたを愛しており、世界があなたを認め愛していることを感じるのです。
何故なら、あなたは私と繋がり、私の言葉を言って、私を認めたのだから。
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