赦しの正当性 (赦す理由)
怒りが正当であることは決してありません。
攻撃には基礎(確実な土台)がないのです。
怖れからの退却/解放はここから{攻撃には確実な基礎が存在していないという認識から}始まり、これが完成させられるのです。
ここから「怖れの夢がリアルな世界で置き換えられること」が始るのです。
何故なら、この上に赦しが置かれており、これ{怖れの夢がリアルな世界で置き換わること}は自然なことでしかないのだから。
何故なら、それではリアルに存在していることを無視して罪を赦すことに成ってしまうから。
そのようなことは恩赦ではないのです。
何故なら、それは「正当ではない反応をすることにより、あなたの恩赦が実際に行われた攻撃に対する答えに成る」と仮定しているのだから。
その場合、それに{恩赦に}相応しくない場所へ恩赦が与えられることにより、恩赦が不適切であることに成ってしまうのです。
{しかし}恩赦は常に正当で、恩赦には確実な土台があるのです。
あなたは赦せないことを赦すのではなく、懲罰を必要としているリアルな攻撃を無視するのでもないのです。
「(リアルなものに対して不適切である)不自然な反応」をすることから救済がもたらされるのではないのです。
救済は単に『「起こっていないこと」を知覚しなくなることにより「リアルでないもの」に対してあなたが適切に反応すること』を求めているだけなのです。
もし恩赦が不正であったとしたなら、攻撃に対してあなたが赦しを返している時、あなたから犠牲が求められていることに成ります。
しかし「エラーの上に築かれているストレス(助けを求めている声)へのナチュラルな対応/反応として赦しを見ること」があなたから求められているだけなのです。
赦しだけが唯一正気の反応なのです。
赦しは、あなたの権利があなたから失われてしまわないようにするのです。
この理解だけが「恐怖の夢に置き換わるようリアルな世界を立ち上げる変化」をもたらすのです。
攻撃が正当化されていない限り、怖れは立ち昇らないのです。
そしてもし攻撃にリアルな土台があったとしたなら、恩赦には全くリアルな土台がないことになるのです。
赦しの土台/基盤がとてもリアルで完全に正当であることをあなたが知覚した時、リアルな世界が確立されるのです。
あなたが赦しを「相応しくないギフト{相応しくない人へのギフト}」と認識している限り、『あなたが「赦そう」としている罪悪』をそれ{世界に対するあなたの認識}が維持せずにはいられないのです。
「正当なものと見なされていない赦し{不正な赦し}」は攻撃なのです。
そしてこれだけが世界が与えることの出来る全てなのです。
それ{世界}は『罪人』を時には免罪するのですが、それでも罪人達が罪を犯したことを認識し続けるのです。
だから罪人達は「それ{世界}が与える赦し」に値しないのです。
これは罪を生き続けさせる為に世界が使っている間違った赦しなのです。
そして神が正義であることは認識されているので、彼{神}の恩赦がリアルであることは不可能に見えてしまうのです。
このようにして神への怖れが「恩赦を不当なものと見ることの明確な結果」に成っているのです。
「自分自身を罪深く有罪であると見ている人達」は誰も「神への怖れ」から逃れられないのです。
しかし赦すことが彼に出来たなら、彼はこのジレンマから救われるのです。
マインドがそれ自身を見ている時、マインドはその創造者{マインドを創造した者}を考えざる得ないのです。
あなたの兄弟が恩赦に値することがあなたに見えたなら、あなたは赦しが(兄弟の権利であると同じだけ)あなたの権利であることを学んだのです。
そして『「あなたの兄弟には相応しくない怖ろしい裁き」を神があなたに与えようとしている』とあなたは考えなくなるのです。
何故なら、「あなたが彼(あなたの兄弟)より多いもの(あるいはより少ないもの)に値することは出来ないこと{あなたはあなたの兄弟姉妹と同じものに値すること}」が真理なのだから。
与えられた者が癒されるに従い、赦しが認識されるのです。
これが幻想を見越す力を奇跡に与えるのです。
このようにしてあなたは自分も赦されていると学ぶのです。
見越せない見掛けは何も無いのです。
もし見越せない見掛け(様相)が存在したとしたなら、「赦しを超えた何らかの罪」が先ず第一に存在したことになってしまうから。{だから見越せない見掛けは何も存在していないのです。}
{見越せない見掛け(様相)が存在していた場合}「(不変で永遠で修正や解放の及ばない)間違い以上のエラー、特別な形のエラー」が存在していることになってしまいます。
しかし「創造を無効にして、創造を世界で置き換えることにより、神の意志を破壊する力」を持っている間違いは一つもありません。
これ(上記の間違い)が可能であった場合にのみ「奇跡に反して立ち続け、奇跡によって癒やされない様相」が在り得るのです。
「癒しが治すことの出来ない形の病や喜びの欠如が存在しているという信念」よりも確実な偶像崇拝の証拠はありません。
{「癒しが治すことの出来ない形の病や喜びの欠如が存在しているという信念」が偶像崇拝の確たる証拠なのです。}
これは「あなたが何らかのアイドル(偶像)を保とうとしており、まだ全てのアイドル達を手放したくないと思っている証拠」なのです。
だからあなたは「何らかの形の様相がリアルで、それがただの様相ではない{見掛けが実体を正確に表現している}」と考えているのです。
ある種の様相(見掛け)を見越すことが他の様相を見越す(見抜く)ことよりも難しいという固定信念によって欺かれるのは止めなさい。
これは常に「赦しが限定されている必要があるとあなたは考えている」という意味なのです。
そしてこれはあなたが「部分的な恩赦のゴールを設定しており、あなたが罪悪から限定的に解放されることを設定していること」を意味しているのです。
これが「あなた自身に対する(そしてあなたから分離しているように見えている全ての人達に対する)間違った赦し」以外の何で在り得るのでしょうか?
奇跡はあらゆる形の病を治すことが真実であって、もしそうでないなら{もし奇跡にあらゆる形の病を治すことが出来なかったなら}奇跡には癒すことが出来ないことに成るのです。
{奇跡の}その目的は「どの形がリアルでどの様相が真実なのか判断すること」では在り得ないのです。
もしひとつの様相(見掛け)でも癒しから隔てられていたならば、真理の中に一つの幻想があるに違いないのです。
しかしあなたは一つの罪悪をそのままにして全ての罪悪から逃れることは出来ないのです。
あなたは神の子全体を完全に赦す必要があるのです。
そうでなければ、あなたは「全体/健全ではないあなた自身のイメージ」を保ち続けてしまい、「内側を見てそこに居る全てのアイドルから解放されること」を怖れ続けてしまうのです。
救済は「あなたが赦すことの出来ない特定の形の罪悪など存在していない」という信心に依存しているのです。
だから「神の子の真実が様相で置き換えられていること」など在り得ないのです。
あなたの兄弟をそれそのままに見る意欲をもって見つめなさい。
「彼が癒やされることを意図するあなたの意欲」の外に彼の一部分を保とうとするのは止めなさい。
「癒すこと」とは「全体/健全にすること」なのです。
そして「全体/健全であるもの」には外側に排除されている欠落部分が無いのです。
赦しはこの{「全体/健全であるもの」には外側に排除されている欠落部分が無いということの}認識に依存しており、奇跡に癒やすことの出来ない病の形が存在していないことを喜ぶのです。
神の子はパーフェクトなのです。
そしてもし彼がパーフェクトでなかったなら、彼は神の子では在り得ません。
もし「彼はあらゆる形の罪から(そして罪の結果から)逃れることに値しない」とあなたが考えたなら、あなたは彼{神の子}を知ることがないのです。
あなたがあなた自身の真実を知ろうとしているなら、彼のことをこのように{パーフェクトだと}考えるしかないのです。
"I thank you, Father, for your perfect Son, and in his glory will I
see my own."
「父よ、あなたのパーフェクトな子の為に、私はあなたに感謝します。 そして彼{神の子}の栄光の中に私は私自身{の栄光}を見るのです。」
「父よ、あなたのパーフェクトな子の為に、私はあなたに感謝します。 そして彼{神の子}の栄光の中に私は私自身{の栄光}を見るのです。」
ここに(神の意志を凌駕出来る悪の形が存在していないことを述べている)喜びの言葉があるのです。 そして「幻想をリアルに作ろうとしていたあなたの望みに従って罪悪が成功することはなかった」ことを嬉しく認識しているのです。
そしてこれは真理をシンプルに宣言していることではないでしょうか?
あなたの中にこの望みを持って、あなたの兄弟を見なさい。
そうすればあなたは「彼(あなたの兄弟)が彼の中の真実を変えるエラーを行なうことは出来なかった」と理解することが出来るでしょう。
「効果/結果を全くもたらさなかった間違い」を見越すことは難しくありません。
『「神の子の偶像(アイドル)を作る力を持っている」とあなたが見ている者』をあなたは赦しません。
何故なら、あなたにとって彼は「作られた偶像のイメージ/死の象徴」に成っているのだから。
これがあなたの救済者なのでしょうか?
父の子に関して父は間違っているのでしょうか?
それとも「あなたを癒す為に(あなたの救済と解放の為に)あなたに与えられている彼」に関してあなたが間違っていたのでしょうか?