Raj Excerpts – 2004-02-01 抜粋
ラジ: コースは真理の一表現であって、最終目標ではありません。
わたし達の目標は真理なのです。
わたし達は一年半に亘ってコースを読んできましたが、その間にあなたの生活は変わったでしょうか? 人生の出来事に反応しているあなたのやり方が変ったでしょうか? あなたは今でも、自分の人生の為すがままに成ってしまっているのでしょうか?
それともあなたは、これを別のやり方で眺めることが出来ると理解し、目的と誠意を持って好奇心を発揮して違う見方が出来ると理解し、そして実際に新しい見方で見ることが出来ているでしょうか?
つまり癒しが起こっているでしょうか?
奇跡は「瞬間的な知覚のシフト/知覚の急激なシフト」です。
「奇跡は癒しではなく、マインドの中で瞬間的な知覚のシフトが起こることが奇跡なのだ」と言っている人もいるようです。
もしあなたがそのように考えて信じていたなら、あなたはそのような体験をするでしょう。それは大した経験には成らないことでしょう。 もし痛みが消えず痛みに悩まされることが止まらないなら、瞬間的な知覚のシフトがなんのためになるのでしょうか?
「オオ、しかし自分は至福を味わっており、痛みを感じていることも苦にならなくなる」そう考えているなら、あなたは間違っています。
瞬間的な知覚のシフトとは何でしょうか? 瞬間的な知覚のシフトとは、あなたが何かを体験することなのです。 奇跡である「瞬間的な知覚のシフト」が起こったなら、その知覚/認識の変容の中で神の真理があなたに届き理解されるのです。
それは何に関する神の真理なのでしょう? あなたの体験に関する神の真理なのです。(あなたがそれを神とは全く関係ないものと考えて世界と呼んできた)天国に対する神の真理なのです。
だから瞬間的な知覚のシフトは、体験のシフト(変容)を伴うのです。
そうなれば、創造に対するあなたの知覚を見続ける代わりに、あなたは創造そのものを見るのです。
それが癒やしとして認識されるのです。 癌が消え歪んだ関節が修正されるのです。
創造に対するあなたの知覚が体現されるのではなく、創造の美しさ精妙さパーフェクションがあなたによって体現されるのです。だからあなたは新しい体現(新しい体、新しい樹木)を体験するのです。
創造そのものの全特質を現していない「もの/こと」が新しくなり、よりパーフェクトに体現/表現されるように成るのです。
小さな知覚のシフトはあなたのマインドを揺さ振らない程微かなものです。
シフトによっては「もしこれが一年前に起こっていたなら、私はとても憤慨したことだろう。でも今はこれは問題にはならない。私は自分の平和を失っていない。これに上手く知的に対処することが出来た。そこでトラウマやドラマ(悲劇)を作らずに済んだ。」と後で思い起こすまで、それがシフトであったことさへ気付かないかもしれません。
私が言おうとしているのは次のことです。
わたしの言葉を読んでいることが、あなたの人生に変容をもたらす体験として現れていないなら、身体的問題が消え去ることとして現れていないなら、身体的問題が速やかに修正されることとして現れていないなら、あなたは自分の頭の中だけでこれを考えており、あなたは知性(理屈)だけを使っており、あなたは自分の正しいマインドにはまだ繋がっていないのです。
わたし達はア・コース・イン・ミラクルズ(奇跡のコース)という本を読んでいます。
しかしわたし達は奇跡を(自分一人で)起こすことを話しているのではありません。わたし達は身体の再生を起こすことに関して話しているのではありません。
わたし達は、あなたがあなたのとても限定された定義群を手放すことに関して話しているのです。
天国に対して「それは天国ではない」という限定を与えているあなたの定義群(あなたはそれを自分個人で定義したかもしれず、あるいは相互合意を通してこの定義に参加しているのかもしれません)を手放す必要があるのです。
これらの定義群を放棄して「あらゆるそれぞれのものそのもの」があなたに届き(響き)理解されるように。
そしてあなたは自分の中にある聖壇に向かい合うことによって、自分が現在持っている定義群を放棄するのです。
その瞬間あなたの最上の論理や概念を捨てて、「父よ、私はここの真理が何か知りたいです。真理が何か私に教えて下さい。自分の定義をあなたの視点で置き換えられるように。何故なら、私はこれ以上痛みを感じていたくありません。そして私の兄弟姉妹にも苦しんで欲しくありません。庭の木が枯れて死ぬことも私は求めません。父よ、私は木を変えてくださいとお願いしているのではありません。(この木が生えているそこに今あなた/神が存在している)創造のパーフェクトな体現から異なったものを見ようと私の中で固執しているものを手放せるよう、あなたの助けを私は求めているのです。」と言うのです。
何故こう求めるべきなのでしょうか?
何故なら、父により照らし出されたあなたの中で知覚のシフトが起こった時、あなたはパーフェクトな木を見るのだから。
それはあなたが魔法を使って物質を操作したり、奇跡を起こす力を物事に押し付けたからではなく、「これが木だとあなたが考えていたこと」を手放し「その木の状態はこうなのだとあなたが考えていたこと」を手放し「この木の問題を作った原因/状況としてあなたが考えていたこと」を手放したから、あなたは知覚のシフトを体験したのです。
「自分の見ている世界/宇宙が、神の動きの可視性と可触性(見える様子、触れる様子)ではなく、ビッグバンという純粋に物理的なから始まっている」というアイディアを放棄出来るようになる意欲によって、このシフトが可能になるのです。
わたし達は目覚めて故郷に帰ることに関して話しています。わたし達がこのように集まってコースを読み、そのアイディアに関して話しているその目的は何なのでしょうか?
コースの目的はコースの真理を自分達にもたらすことなのです。
だからこの部屋の中に真理をもたらすことに関してわたし達は話しているのです。真理をあなたの家の中にもたらすのです。
あなたが居るそこの真理を照らし出し「身体的物理的変容としか言い表しようのない事」が起こるのを見るべきなのです。 これは写真にだって撮ることの出来る変容なのです。
もしあなたが変容の変化をまだ見ていないなら、あなたはまだ真理をもたらしてはいないのです。
まだあなたがこれに気付いていないなら、私はこれを知らせ、あなたが好奇心を持ち正しい場所に注意を与えられるようにするのです。
つまりわたし達が今まで話してきたことは全て「いまここ」に関すること、「いまここ」に当て嵌めるべきことなのです。これは絵に描いた餅であってはいけないのです。
わたし達が話して来たことが現在のあなたに当て嵌まらないこと、現在のあなたに適用出来ないことだと考えていたなら、あなたは要点を取り違えているのです。
あなた達全員が全てを取り違えていると言うつもりはありませんが、私は上記の点を指摘しないわけには行きません。
そしてもしあなたが「確かに、私は大した違いは見ていません。」と言ったとしても、「私は何を間違えたのだろう?私は何か間違ったことをしたのだろうか?」と自分自身に訊ねることは止めなさい。
まだ沢山の違いを見ていないという事実が「あなたが見るべき(期待するべき)より多くのものがこの瞬間の中にまだ沢山あると示唆している」と気付くだけで良いのです。
この瞬間が光明/変容/瞬間的知覚のシフト/期待を孕んでいると気付くだけで良いのです。
女性が妊娠している時英語では、期待している(expecting)と言います
孕んでいる瞬間(聖なる瞬間)の中にあなたが居る時(完全に目覚めるまであなたはこの瞬間に居続けるのです)あなたは期待しているべきなのです。
もちろん、あなたが目覚めた後も全ての瞬間は孕んでいるのですが、それはもはや「幻想を放棄してそれを真理で取り替えること」の可能性を孕んではいないのです。
全ての瞬間は神のマインドの動きを孕んでおり、それが止まって自身を繰り返すことはありません。だからそれは常に新鮮で生き生きと生命に満ち意味深く素晴らしく新しいのです。
{あなたの体験している全ての瞬間は、神の動きがあなたの体験の中に現れ出る可能性を宿しているのです。}
しかし神と(あなた達のリアルなマインドである精霊と)同じ方向に自分達の目を向けようとしている現時点では、真理の啓示(真理が示される体験)を得ることをあなた達は期待するべきなのです。
「父よ、私は自分の見方で見てみたいです。父よ、私自身で行いたいです。私は暫く自分の体験を自分で作成する著作者に成ってみたいです。」とあなた達が言った途端、(テレビで例えれば信号が中断されてしまい)真理が体験されなくなってしまったのです。このようにあなた達が言った時、信号が繋がりが失われてしまったのです。
あなたの瞬間的知覚のシフトが「自分の目の前で起こる癒やし(よりパーフェクトなことが現されること)」として体験されることを期待しなさい。写真に撮ることだって出来る、より多くのパーフェクション(パーフェクトな様相)がそこにはあるのだから。皆に見えているよりも多くのパーフェクション(完璧性)がそこにはあるのです。
今まであなたがビッコをひいていたなら、今あなたはビッコをひかなくなるのです。あなたの指が関節炎で変形してしまい上手く動いていなかったとしても、今それがスムーズに上手く動き正常な形に戻るのです。
現時点であなた達が誤認識している全てのことに対して新しい知覚/認識が得られるのでなければ、それ以外にどの様な新しい知覚が得られるというのでしょうか?
Carmel 1990 抜粋
質問者: 時々体がだるく痛いのです。 仕事でかなり歩いた後に、腰/踝/膝などが痛くなるのです。これは何故ですか?
それからとても光と音に敏感で、寝ている時急に起きるとショックを感じます。自分の中が揺れる感じなのです。時にはこれがキツイのです。
これらのことに関して違う見方(視点)が必要だと思うのですが、アドバイスを下さい。
ラジ:過敏性については、あなたは確かに一般平均よりは敏感なのです。これは何かが間違っているのではなくあなたの個人的特質です。
これには瞑想することがとても役に立ちます。瞑想をすればあなたはそれ程過敏ではなくなります。
瞑想することによって、刺激に対するあなたの反応が軽減され、より上手く働けるでしょう。
より鈍感に成る必要はありません。 単に(ビクッとする)反応が減れば良いのです。
これに関して論理的に考えたり理解する必要はありません。日々瞑想を取り入れればオーケーです。
(チョッと待ってください。)
ポール:今ラジに替わってポールが話しています。 足首/膝/腰に関しては水泳のような運動が必要です。
この様な運動は体の左右のバランスを取り戻させる効用があり、と同時にあなたをリラックスさせます。
足で立って行なう運動ではあなたはあまりリラックス出来ず、より緊張してしまうのです。
だからあなたはもっと運動する必要があるのですが、水泳など身体の両方がバランスよく使われ緊張感をあまり与えない運動が好ましいのです。
そしてラジは、これは関節炎(リューマチ)や骨の劣化ではありません、と言っています
これに関しては気持ちを強くしてリラックスしてください。これで回答を終ります。
質問者: ありがとう。
ラジ: どういたしまして。
Lake Morey, Vermont--1992 (抜粋)
質問者:身体の癒しという至福がブロックされてしまっていることに関してより広い視点が欲しいのです。
ラジ: 何故これに関して私に話して欲しいのですか?
質問者: 何故なら、わたし達の多くが至福のブロックに悩んでおり、それは頭痛/耳鳴り/歯痛/リューマチ/筋肉痛やより酷い病など広域に渡っているからです。
それらにどのような意味があるのか知りたいのです。 それとも、「時にはタバコは(なにかの象徴ではなく)唯のタバコでしかないのだ」フロイド博士が言ったように、これらの病が何かの象徴であるとは限らないということなのですか?
ラジ:いまあなたが説明した「ブロックされている至福」は全て「体」の表現に関するものですね。
しかし、仕事に遅れているのに交通渋滞に捕まったり、赤信号に捕まり続けたり、目的地から3ブロック離れないとパーキングが見つからないことに関してはどうでしょう?
つまり至福がブロックされている証拠は、あなたの身体だけではなく、あなたの体験全体に現れているのです。
下記がシンプルな答えです。
「至福がブロックされているのは、成就を体験する許可を自分に与えることをあなたがとても意識的に拒否している結果なのです。」
あなた達はそれぞれに自分の理由/信念をもっており、それらは確かにとても正しく見えます。
「これらの特定の信念が何か」一番早く暴き出す方法を知っていますか?
「いわれの無い良きこと(理由のない幸福)」を体験する許可を自分自身に与え始めるのです。
つまりあなたが「自分では説明(正当化)出来ない良き体験(嬉しい体験)をすること」を許可するのです。
どの様なブロックが掛かっているか調べようとして、理由無き良きことを体験する許可を自分自身に与えようとするのではなく、正当化/説明出来ない良きことの体験がもてるようにこれを行ないなさい。
そしてこれを行なった時、あなたの条件付けられている考えが全て現れ始めることに注意を払いなさい。
これらの信念が表れたなら、それを否定しなさい。これらの信念に関して考えたり、それが正しくない理由を考え付こうとするのではなく、それをただ単に否定し無効にしなさい。
こう言いなさい。 「ホー。私はこの信念/概念を使って理由無き良きことを自分が体験しないようにして来たのか? じゃ、さよなら、バイバイ。」
あなたは信念/概念と戦うべきではないのです。
それらの信念/概念が正しくないと言葉/論理で証明する必要はないのです。
「理由無き良きことを許可しない理由として、この(馬鹿げた)信念を自分が使っていた」と理解出来ればそれで十分なのです。
「あなたに天国を与えるのが父の喜びなのです。」 これはどういう意味なのでしょうか?
この文章の意味は、あなたの父母が「父母の自己表現(これがあなたと呼ばれているものなのです)」に対して父母自身の全てを惜しみなく与えている、ということです。
これが事実なので、あなた達一人一人は父母の全体(健全)を(あなたの目の前に表現されていることとして)体験しないでは済ませられない地点に到達するのです。
これは避けようのないことなのです。
あなたの惑星の中で目覚めが多く体験され始め、限定の信念の中であなたと繋がる人達が減って行けば、それらの限定(思考)を保持し続けることはより困難になります。
そして自分の良きことをブロックし続ける為にあなたはより忙しく働かなければならなくなり、何か問題が起こった、何かが間違っていると考え始めることでしょう。
「work ethic」(仕事の倫理/勤労を尊いと考える倫理観/仕事をしている社会人の常識)と呼ばれているものがありますね。 あなた達は「unjustifiable fulfillment ethic」(正当化出来得ない成就の倫理)を使い始めて下さい。
仕事の倫理は「努力してこれだけのことをしたならば、それに見合う見返りが得られることになる」といいます。そして「もし非常に優れた商品を作ったなら、努力した以上の見返りが得られるだろう。」と言うのです。
「自分が稼がなかったなら、自分がそれに値する所作を行なわなかったなら、自分は良きことは得られない」そう信じるようにあなた達は条件付けられているのです。
これは、あなたが何もしないでいて無限の豊かさを得られる、と言っているのでしょうか?
ただ座って待っていれば、豊かさがあなたのもとにやって来るのでしょうか?
この質問には慎重に答えなくてはいけません。だから二つの答えを私は言いましょう。
第一の答えは、(自分がまだ役割を果たしていないからと言って、あなたの良きことを遠くに置いてしまう癖としての)「仕事の倫理」から離れていく初めの段階では「その通りと言うべきなのです」。
あなたは自分が存在しているからというだけで、それ以外には正当化不可能な成就を期待するべきなのです。
「自分が稼がなかった(対価を払わなかった)ものは得られない」という固く信じられている信念(固定観念)から解き放たれる為に、あなたはあえてこれをする必要があります。
もしあなたが本当にこれをしたなら何が起こるでしょうか? あなたの良きこと(良きもの)があなたのもとに来るのです。
しかし、これはあなたと関係していない「良いもの」ではないのです。
例えば一ドル札です。 あなたが居て、このあなたから分離した一ドル札が、あなたのもとに来るのではないのです。(必ずしも、あなたが紙幣を得られないと言っているわけではありません。)
次のことが起こり始めるのです。
(今ままで現れていなかった)あなたの人生/生命の意味(自分にとって意味のあること)をあなたが体現しそれを生き始めるのです。あなた自身の意味深さ(興味/価値)を表現する行動をあなたはし始めるのです。
それに関連して、しかしあなたが個人的には責任を負っていない方法で(あなたの実績とは無関係に)成就(満たされる体験)が起こり始めるのです。
つまり「私がこれをしたから、あれが体験出来た、それが得られた。」とあなたには言えないのです。
だからあなたが「人生を怠惰に過ごしながら、世界の富を堪能する人」に成るわけではありません。
ここで大切な第一ステップは理不尽な(正当化出来ない)成就を体験する(満たされる体験をする)許可を自分自身に与えることなのです。 何故なら、あなたに天国を与えることが父の喜びなのだから。
父は(生命原理は)無限の知性で、それ自身の自己表現(これがあなたです)から「それ(生命)そのものの完全な体現」を遠ざけることは出来ないのです。
だからもしあなたが存在しているなら、あなたは存在(父/生命原理)全体を体現しているに違いないのです。
もし葉っぱが存在しているなら、それもまた父(生命原理)を完全に体現しているものに違いないのです。
もし原子(あるいはエネルギーのパターン)が存在しているなら、それは父を十全に体現しているものに違いないのです。
至福に対するブロックは「私はそれに値しない。私には仕事がない。私には仕事があるけれど、それは良い給料ではなく、この仕事以外のものは見当たらない。経済が悪すぎる。私は年を取りすぎている。」など、あなたが自身に対して与えるに至った定義の結果として起こっているのです。
これは欠乏(貧乏)だけに当て嵌まることではありません。
今回わたし達は(神の子として、神が自身そのものを全く遠ざけていない神の表現として)正しくあなた達の生得権(持って生まれた権利)を主張することに関して話して行きます。
あなたはどのようにして正しく自身を定義(認識)するのでしょうか?
それは、聖なる存在としてのあなたを言い表している長い言葉の羅列によって表現されるものではありません。
そのような長い言葉は「あなたが勇気をもって安全を感じて静かに成り、自分の内部に入って、自分の静けさの中で自分のエッセンス(本質)を体験すること」を奨励する意味で有意義なのです。
言葉が有意義なのは、あなたが(あなたの中の静けさに存在している)自分のこのエッセンスに到達した時、それは価値のないゴクツブシ(取るに足らない者)としては現れない、自分のエッセンスを体験した時その結果として自分の無価値性を自分自身に対して証明してしまうようなことには成らない、と確信出来る場所に言葉があなたを連れて行ってくれるからなのです。
言葉の理屈によって、あなたが考えていることにも関わらず(あなたが考えている/体験していることとは無関係に)あなたが自分の中の静けさに勇気を持って入っていて、そこに在るものを体験出来るようになる地点まであなたを導くことが出来るので、言葉も有意義なのです。
あなたの中の静けさと繋がることにより、あなたは「あなたであるもの」を直接体験し始めるのです。
そうしてあなた自身のアイデンティティを発見する冒険が始まります。 あなたのアイデンティティは『「神が何か」に対する今までに行なわれた全ての正しい表現』と全く等しいのです。
あなたに覚えてもらいたいフレーズがあります。 これは私が言い出した言葉ではありません。
「人は神ではない。しかし神が人の全てである。」
"Man is not God, but God is all there is to man."
この言葉はとても重要な違いを言い表しています。
もしあなたが「私が神だ。人が神だ。」と言ったなら「人」に対するあなたの現在の概念に従って神が定義され始めることになります。
そしてあなた達は統合されておらず、あなた達は分離分断した側面の集まりに見えているから、あなたは神(生命原理)を分離分断されているもの(愛であると共に怒りであるもの)として認識し始めてしまいます。
人は神(命の源/原則)ではありません。 しかし神は人の全てなのです。
もしあなたが神について知りたいなら、現在の自分の感覚(考え)からその探求を始めてはいけません。
あなたは(自己感覚をあなたに与えている)自分の定義群を全て閉じなければいけません。
静かに成って内側に向き合うことにより、あなたはこれをするのです。
これをした時、自分の内部にすでに何かが在ることをあなたは発見するのです。
あなたが静かに成って内側に向き合っている時、その確証として平和が一番初めに現れます。
その次に現れる確証が喜びです。
その次に現れる確証が愛です。そこに避けよう無くただ存在している愛なのです。
それはスイッチオンしたりオフしたり出来るようなものではなく、愛があなたなのです。
するとあなたは(あなたの思考や理由付けの結果として現れた定義ではなく)体験から自分のアイデンティティを認めるようになり、(神の)「動き」を感じ始めるようになります。
この動きの第一の性質は誠実/安全/不可侵性(揺るぎようの無い尊厳)です。
これは三つの異なったもののように聞えますが、体験としてこれらは切り離せないものなのです(これら三つは常に同時に体験されるもので、その中の一つが失われた時他の二つも失われているのです)。
そして動機(やる気)のモトとなる動きが感じられます。 何故なら、あなたがあなたにとって意味深く成ったのだから。そして人生に意味が感じられ始めるのだから。
この平和の中で、自分の良きことを体験しない理由をあなたは持ち出しません。
この平和の中で、あなたの至福をブロックしてしまうものをあなたは持ち出しません。
次のことを明確にしておきましょう。
至福は完全にナチュラルなものです。至福はとても素晴らしいものだけれど、それがあなたを圧倒してしまうことはありません。
あなたは自分で受け入れた定義群故に、そしてそれらの定義群をあなた自身に対して使用しているが故に、自分の良きことをブロックしているのです。
あなたの「存在」の動きであり性質であるものが、神のギフトなのです。
神が「神であるもの」を惜しみなく全て与えていること(これが神のギフトです)が、あなたの「存在」の性質であり動きなのです。 そしてあなたの「存在」は、それそのものとして在り続けようとするのです。
「理由無き良きこと、いわれ無き良きこと、成就」が起こる許可を少しでもあなたが与えた途端、成就の弛まぬ流れの体験(これを体験していることがあなたの生得権であって、これに値する為に何かを達成したり何者かに成ったりする必要はありません)を可能にするドアをあなたは開けたのです。
これでは単純過ぎるとあなたは言うでしょうか?
いいえ、真理はこれ程にシンプルなのです。
しかしあなたの豊かさの為に、あなたの理屈に合わない豊富さの為に、あなたは特定のことを失います。
「あなたの良きこと」に対する功績を誇る喜びをあなたは放棄しなければならないのです。
「自分がこれを行なったのだ、自分がこの良きことを起こした、自分がこれに値することをしたのだ」と主張する喜びをあなたは手放さなくてはならないのです。
これは本当に落胆をもたらします。自分の実績として誇れることを達成することで得られる高揚感を手放すのは怖く感じられます。 あなたはプライド(傲岸)を手放さなくてはいけないのです。
無条件の愛の平等な表現の受け取り手に成ることは屈辱的なのです。
自分で勝ち得たもの以外を受け取るのは屈辱的なのです。 何故なら、その体験はあなたを無力に感じさせてしまうから。
その体験は責任者/実力者/認証者としての感覚をあなたから奪ってしまいます。これは乞食に等しい在り方だとあなたは考えるのです。
だからある程度の自尊心を保つ為に、あなたは仕事の倫理に勤しみ、あなたの良きことを稼ぐことに耽溺するのです。
あなた達はまるで王の息子か娘のようで、その生得権(持って生まれた当然の権利)は「富と生まれ」なのです。
でもあなたは「しかし、私はこれを自分で稼がなかった。チクショウ! 私は外に出て自分で生活を支えよう。そうすれば自分自身の価値が感じられるだろう。」と言ったのです。
そうしてこの全く豊かで高貴な者が、いわば神聖なる者が、王国を出て平民として振舞い、決して取り消せない自分の(富と位の)生得権を無視して、悪戦苦闘するのです。
神聖なるもの(神の子/無限なマインドの直接表現/キリスト)としてのあなた自身を受け入れ始めれば、
そして自身の良きことに対する責任者であり続けよう、良きことに対する功績を誇り尊敬に値する者に成ろうとする耽溺を手放せば、理由無く素晴らしいことが起こり出すのをあなたは見始めます。
フリーウェーの渋滞の中で無理なく車線変更をしたり、パーキングスペースを期待してそれを発見することで、自分の無限性と理由の無い豊かさを体験している人達も居ますね。
しかし、そうしていた時あなたは「自分がそれを発生させた」とは言えないのです。
もしあなたが自分でそれを行なったなら、そのやり方を他者に教えればその人も同じことが出来るように成る筈です。 それを教える場合あなたは何と言うのでしょうか?
あなたは「私はそれに(それが起こる可能性に)対して開かれていた」と言うのです。
「私はそれを視覚化し、それが起こるままにした。私がそれをしたのではなく、私がそれをしようとしていなった時にそれが起こった。」
このような体験をあなた達は求めて(人によってはそれを得て)いる訳です。
このような小さな奇跡が起こって真理が働いているのを見ることは容認出来るのです。
何故なら、その場合あなたはまだ人生の大部分に対して個人的責任を負っており、自分の達成/成功を誇る高揚感(プライド)を保っているのだから。
しかし、あなたがより多くを抱擁して(受け入れて)あなたの理不尽な良きことがより多く起こったなら、ある時点であなたは全てに対する責任を放棄する選択を迫られる地点まで行くのです。
その時あなたは自分がどれだけ物事に対して責任を取ること(物事を起こすこと)を愛しているか発見するのです。それがもたらしている高揚感/興奮/満足がどれだけあなたにとって大切だったか、そしてそれがどれだけ不足をもたらして来たか理解するのです。
(このようにして自分の生得権を否定している限り)あなたは自己破壊に中毒しているのです。あなたは「あなたであるもの」を否定することに耽溺しているのです。 だから、あなたは神を否定することに中毒しているのです。 それは、あなたが自身の功績を達成する興奮に中毒しておりそれが(神のギフトを受け取ることよりも)重要に成っているからです。
わたしが強い表現を使っているのは、これをあなたに押し付けたいからではなく、これが本当だと示したいからです。 わたしはこのことを出来るだけ正確に言い表しているのです。
理由無き良きことの体験をあなたが拒否している間、あなたは自分のエゴ感覚を強く保っており、あなた自身が自分の為に作った「良きこと」はとても脆弱なのです。 あなたはそれを失うかもしれないのです。
こうして二つのことが起こっています。あなたの業績に対するプライドと、それを失うことに対する終わりの無い怖れです。
世に出た王子や王女はこのような体験のしているのです。
しかし彼等が自分達の故郷に留まったなら、自分達の生得権を途切れることなく体験し、自分達自身を健全/十全に体験し続けるのです。
達成と達成の原因を自分に与えることの高揚感は常に二分化(対極化/良いことと悪いこと)を起こします。
故にあなたは自分の統合性(誠実)を感じることが出来ないのです。あなたは自己防御を止められないのです。
あなたはコントロールを放棄出来ないのです。何故ならコントロールこそあなたが何かを達成する手段なのだから。
目覚めることが「現在あなた達として知覚されている者達」に委ねられていないことに対して、神に感謝しましょう。
私が話した統合性(誠実)と神聖が永遠にあなたと共に在り、あなたの目覚めを動機付けていることを、神に感謝しましょう。
「あなたが誰か/あなたが何処に居るのか/全てが何なのか」に関するあなたの記憶の名残が完全にブロック出来ないことを、神に感謝しましょう。
達成とプライドに耽溺し続けることの中であなたの統合性の体験をあなたが完全にブロック出来ないことを、神に感謝しましょう。
「天国をあなたに与えることが父の良き喜びであること」に対するあなた内部の確信をあなたが全部ブロックしてしまえないことを、神に感謝しましょう。
あなたが自分の奮闘によって一つの良きことさへも獲得する必要がないことを、神に感謝しましょう。
幻想が、夢の中の存在が、弱まっているのは、より多くの人達が目覚め始めており、至福をブロックしている信念をもうサポートしていなからなのです。
より多くの人達が、理由の無い良きこと(成就)を許可出来るという理由の無い(理屈抜きの)確信を持ち始めており、「(成就を達成しようとして至福をブロックしてしまうのではなく)あなたの成就に譲ること/コントロールの不在」を試せるように成って来ているのです。
{父のサポートを拒んで自分だけで成就を達成しようとして至福をブロックしてしまうことは、}
王子/王女が彼等自身の位(身分)から身を引いて「父よ、私自身で行いたいのです。」と言っている状態なのです。
そして自分達自身(だけ)で行なおうとすることにより、「自分達の生得権の体験」/「本当の彼等の体験」/「彼等は(何かを達成/獲得するまでもなく)すでに十全であるという事実」を彼等は犠牲にしてしまっているのです。
意識的選択の結果としてあなたが無知を体験していると知ることが重要なのです。 それは、あなた達が自分達に罪を着せる為ではなく、故郷へ帰る為に必要なものがあなた達の中にすでに在ると知るためです。
あなたが自分のマインドを変えれば次のことが解ります。
「世界の中のあなたの行為を通して、すでにあなたが持っているものを機械的に複写し続ける必要はない。」
全ての中毒患者と同じように、あなたは少しづつ止めて行き、長い間耽溺を放棄出来る地点までたどり着けるのです。しかし麻薬中毒者を完全に止めて二度と耽溺を行なわないと決意する地点まで来た時、そこで強い決意が必要です。 いつでも元の中毒状態に戻れると考えていた場合、中毒をある程度放棄することは容易いでしょう。
限定された自己評価を手放して、あなたのものでしかない良きことを体験する許可を自分自身に与え、自分の手柄として誇れるような達成をもたらすコントロールは全て手放すことが、目覚めることの本当の真髄なのです。 何故なら、この地点であなたは父のマインドから異なったマインドは持たない決意をするのだから。
これはアイデンティティの完全な喪失になると(誤って)考えられているのです。
しかし、あなたの永遠のアイデンティティは(丁度プリンスやプリンセスの身分のように)それそのもので在り続けて来たのです。 あなたのアイデンティティは高貴なもの(あなたから取り外すことの出来ないもの)なのです。
プリンスやプリンセスは(彼等の達成や能力ではなく)彼等の生まれ故に、彼等が彼等であるが故に、富に恵まれておりとても裕福なのです。
お城の城下町でどれだけ一生懸命木こりに成ったりお針子に成ったりしても、どれだけ自分達の本来の生まれとは違うアイデンティティに固執しても、彼等は本来の自分達以外の者には決して成らなかったのです。
彼等のアイデンティティや性質や性格は全く変わっていないのです。
「しかし生存の為の闘争は(エゴにとっては)とても満足をもたらしているのです。」
神が全てであることに賭けてみるよう、私はあなた達にお勧めします。
そして正当化出来ない良きこと(自分の功績に出来ない良きこと)を体験する許可を自分達に与えなさい。
そうすれば、あなたの「存在」の高貴な祝福が絶え間なく流れて来て「あなたが誰か」示し、エゴの無い生活を決意する為に必要なサポートを与えてくれるでしょう。
ポールは過去十年間コントロールを失い続けて来ました。 そして時には「これは馬鹿げている。こんなことをし続けるなんて私は気が狂ってしまったに違いない。全てが崩壊してしまうに違いない。」と言っていました。 しかし何も崩壊はしていません。
彼は現在起こっていること(今まで起こったこと)に対して、これを自分の業績とすることは全く出来ないのです。と同時にこれから分離することは出来ないと彼は解っています。
だから怖れの多くが去って行きましたが、アイデンティティは失われなかったのです。
私が言ったことを考慮してみてください。 これにYESと言えるように。
Raj Excerpt -- Kingston, Washington--December 10, 1995
あなた達は「あなたが誰か」に関する間違った体験を、間違った高揚感を、手放そうとしているのです。
だから急ぐ必要はありません。
私がポールと話し始めてから少し経った時、両方の肩のリューマチの痛みを癒やして欲しいと彼は私に頼みました。
私はオケーと言い、彼は横になって、いわばヒーリングセッションを行ないました。
ヒーリングが完了したと私が彼に告げて、痛みが去っていないことに気付いたポールは何か間違いが起こったのだろうと考えました。
わたし達(イエス/精霊/ガイド)が父の意志の明確な現われであったなら、神の子である彼には相応しくない状況を修復出来るに違いないとポールは考えていたのです。
聖なる明晰の前で、幻想は直ぐ消えてなくなるに違いないと考えたのです。
しかし、そうはなりませんでした。
そして後日、急にポールは気付き期待したのです。
自分のガイド(ラジ)と話すことさえもポールにとっては驚くべき新しい体験で、目覚めている者達(ガイド/天使/その他)によりヒーリングを受けることも同じぐらい新しい体験でした。
ポールは何処からこの期待を得たのでしょうか?
これには(ヒーリングセッションを行なってから)90日間掛かりました。
90日以降には彼の肩の不快感は無くなりました。
90日経った時点でポールは自分がどのような抵抗をしていたのか(どんな不平を言っていたか、どのような理屈を使っていたのか)気付いたのです。
ポールのその理屈(論理/不平)が90日で消えて行ったのが驚異でした。
「何故これはもっと早く良くならないのだろう? 私はどのようにしてこれをブロックしているのだろう?」と言って(何とかしようとトライし)時間を潰す必要はないのです。
そのようなことは無駄な努力です。
そのようなことは(譲ることではなく)忙しい自己主張/自己定義です。
それを放棄して自分の癒やしの中に譲って行くのです。
眩しい所から暗い所に移動した時、あなたの目が調整されるように、あなたは自動的な調整に譲るのです。
だからあなたは根気良くあるべき(静かに待つべき)なのです。 最終的な結果に早くたどり着く為ではなく、無垢なビジョンを体験しパーフェクトなあなたの明確な知覚を許可するマインド状態に入れるように。
そして、このマインド状態を保ち続けられるように。
自分の神聖体験を許可することに譲る学びは、もしかしたら(体に関する概念の)中毒から癒やされるために90日間あなたがすることではないかもしれません。
もしかしたら、それをすることがあなたの自然な姿なので、あなたは永遠にそうし続けるのかもしれません。
その課程で、あなたの真実を表明していなかったもの(病)が(その他の誤謬と共に)消え去るのかもしれません。
Raj Excerpt -- RAJ NEWSLETTER Volume 2 Number 4--April 1985
質問者:私の母のリューマチに関してはどうすれば良いですか?
ラジ: 問題は炎症です。これは怖れの一表現なのです。
多くの人々は自分の体が劣化して、(自分に反して)最後には朽ちてしまうことを恐れています。
人々はこれ(体の劣化)が自分のイメージに過ぎず、自分自身がこのイメージの源であり、このイメージはその人自身(の考え)を反映しており、だからその人(のマインド)から独立して働くことは出来ないことに気付いていません。
このイメージが自分に反して働いてしまうだろうという信念と、それに続く怖れが衝突(問題)を起こしており、この衝突がリューマチ(炎症)のイメージとして沸き上がっているのです。
人は自分の体や関節などを自分の味方として意識的に受け入れ抱擁するべきなのです。
そして「自分の怖れ」を「自身をパーフェクトに反映しようとしている体に対する感謝(愛)」で取り替えるのです。
このように思いを取り替えることで、自分の信念と怖れの歪んだ影響が止まり、癒やしを体験し始めます。
自分の体が器官であり、自分の意識の器であり、いつの日か体が自分を押し出してしまうという信念を意識的に手放す必要があるのです。
体とは、人の現れがそれ自身をイメージとして紡ぎ出しており、その見える様子/触れる様子なのです。
だから体は(鏡の中のイメージのような)人自身の延長であり、体が人から独立的に動く事は出来ないのです。
怖れが体に与えている影響は、飛行機が傍を通った時テレビの画面が揺れることと同じで、幾ら画面が揺れてもテレビそのものが壊れた訳ではありません。 このことが解れば、体そのものに原因があるとは考えなくなり、(体が自分を苦しめることが出来るという)信念とそこから来る怖れ(これが歪みをもたらしているのです)を取り除くことが出来ます。
自分が体の中に住んでいる(体の中に存在している)と感じている限り、人は恐れを感じ不安なのです。
しかし体が自分のイメージ(似姿)でしかないと気付いたなら、人は体に対処するのではなく、自身に対処するように成ります。
そうなれば人は(自分の思考の中の歪んだ怖れを容認しなくなり)平和と調和を意識的に要求し、体もそれを反映するように成ります。
Raj Excerpt -- RAJ NEWSLETTER Volume 7 Number 5--November 1991
老いた体で500年?
質問者:過去にあなたは「例えばあなた達の寿命が500年であったと仮定してみましょう。もしそうならあなた達はまだ若輩者ですね?」と言いました。
「うーん。年老いた体で500年も生きるのかーぁ!」と私は思いました。 故障の多い、目が見えない、リューマチ持ちの、疲れやすい、脆弱な、血管の浮いた体を抱えて500年も生きるなんて。
ラジ:
その通り、そのような状態は誰も望まないでしょう。
老化を受け入れる正等な理由は、今も昔も全く存在していないのです。それを理解してもらう為に、この話をしたのです。
あなたはヨボヨボになって運動や活動を止めてしまう必要がないと言いたかったのです。
ボディービルでムキムキになる必要はありませんが、あなたが25歳の時にしていたような行動が今でも出来てしかるべきです。
老化の証拠(表現)は馬鹿げているので、それを受けれなくなるよう、知覚のシフト(変容)が起こるべきなのです。
下記が要点です。
老化の証拠(体現)に異を唱えなければいけないのは、あなたが克服しなければならない力がそこに働いていて、それが悪性だったり破壊的だったりするからではありません。
老化は馬鹿げておりナンセンスなので、それに異を唱えるべきなのです。
あなた(質問者)は過去に何回か、自分が今死んでも悔いは無い、その準備/覚悟は出来ていると言いましたね。
これもまた馬鹿げたアイディアです。 そのような考えは、年齢に対する一般的考えを反映しているだけなのです。
老化に対する考えが間違っているというよりも、年齢に対する考えが間違っているのです。
20歳で自分は十分ティンエイジャーとして楽しく満たされた人生を過ごしたので、もう死んでも悔いはないと言ったって、これはあなたが使っているのと同じ論理ですね。
20歳で「明日死んだとしても、私は十分に生きたので悔いはない。」と誰かが言ったなら、それは適切な考えではありません。 そしてこれは何歳に成っても適切な考えではないのです。
死を受け入れ始めることが正当化出来る年代など無いのです。
あなたが居るいまそこで人生を抱きしめ十全に生き続けることが大切なことです。
何故なら、あなたが居る今そこで人生を抱擁した時、現在の自分の思考の枠組みの限界が広がり、すでに死亡しているように考えられている人達を抱擁出来る(認識出来る)ように成るのだから。
すると、すでに亡くなっている人達と再会することは、もう自分が死ぬことを認める理由ではなくなります。
あなたの年齢に関する考えは、人生から退去し、人生に参加しなくなる理由を与えているのです。
すると、あなたが身体と年齢に関して信じていることが(現象として)確かに起こり始めるのです。
20歳の時には、あなたはこのような現象(老化/劣化)に対して激しく立ち向かったことでしょう。
現在あなたがこの現象(老化)に対して激しく反対し立ち向かっていないのは、年齢のせいではなく、あなたが能力を失ったからではなく、「自分はすでに十分生きた。死ぬ準備が出来ている」という馬鹿げた考えを抱いて、あなたがだらしなく成ってしまったからです。
質問者: それは知りませんでした。
ラジ:しかしこれが事実であり、あなたはこれを(自分はすでに十分生きた、死ぬ準備が出来ている、と)考え始めているのです。
私は別に新しいキャリア(仕事)を探しなさいと言っている訳ではなく、日々を力強く生きて現在の中に意欲的に存在するべきなのです。
そして「すでに人生を十分に生きたのだから自分はアレコレ(健康/美/生命力)を手放すことが出来る」という巧妙な暗示を自分でも気付かぬ内に鵜呑みにするのは止めなさい。
ここであなたに必要なのは手放す事ではなく、より広い意味での抱擁(受け入れること)です。
より広く受け入れるとは、不活発や人生へのやる気の無さに譲ってしまうのではなく、生気を持ってオープンに生きると云う事です。
前にも言った通り、死ぬことは目覚めることとは別です。
死んで天国に行く(その事に意味がある)というアイディアで戯れるのは止めるべき時が来ています。
この瞬間のあなたである神の現れをよりクリアに受け入れ体現出来るように成るべきなのです。
そして癒やし(健康に成ること)の期待(兆し)を受け入れ始めるのです。
あるいは病ではなく、たるんだ腕などがより良くなることを期待するべきなのです。
対象性/バランス/パーフェクション/美などは(あなたが若かった時と同じように)今でもとてもリアルなのです。 そしてそれら(バランス/美/健康)をあなたの持って生まれた当然の権利として意識的に受け入れる必要があるのです。
この瞬間にあなたの持って生まれた当然の権利を体験していないことは、不適切な幻想を体験することでしかありません。 たとえ、それがあなたに痛みを与えていなくて、あなたを殺していなかったとしても。
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Excerpts compiled by Janis
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