無罪(無垢)の状態
無罪な状態とは、ただ次のことだけなのです。
「攻撃しようとする願い」全部が消え「神の子を神の子以外のものとして知覚する理由」が無くなるのです。
罪悪の必要が消えるのです。何故なら、罪悪には目的が無く、罪のゴールが無ければ罪悪は無意味なのだから。
攻撃と罪は、「ひとつ」の幻想としてお互いに縛り付けられており、お互いの原因であると共に目標であり、一方がもう一方を正当化しているのです。
攻撃と罪は、それら自体では無意味なのですが、その片方がもう片方から意味を引き出しているように見えているのです。
攻撃の意味は罪の中に見出されており、罪の意味も攻撃の中に見出されているのです。
攻撃と罪のどちらか片方を真実で無いと信じた場合、もう片方を信じることは誰にも出来ないのです。 何故なら、攻撃は罪が真実であるに違いないことを証言しており、罪は攻撃が真実であるに違いないことを宣言しているのだから。
攻撃が、キリストを(そしてキリストと共に神を)あなたの敵に作っているのです。
このような敵が実存したなら、あなたが怖れない筈があるでしょうか?
{そのような状態で}あなたが「あなた自身」を怖れないでいられる訳があるでしょうか?
何故なら、{罪が攻撃を正当化しており攻撃が罪を正当化していると信じている}あなたはあなた自身を痛め付けており、あなた自身をあなたの敵にしたのだから。
だから今現在あなたは「あなたがあなたではなく、あなたはあなたにとってエイリアンな何か他のものであり、そのようなあなたは愛するべきものではなく怖れるべき何かだ」と信じるハメに至ったのです。
「自分で完全に無罪無垢だと見ているもの」を攻撃出来る人が居るでしょうか?
「自分が攻撃したいと思っているもの」に対してそれが罪悪であるに違いない(だからそれは攻撃の願いに相応しい)と考え、そう考えることによって自分を無垢に保とうとしない人が居るでしょうか?
神の子を無罪無垢と見ていながら、神の子に対して死を願える人がいるでしょうか?
あなた達がお互いを見る度に、キリストがあなた達両者の前に立っています。
あなた達の目が閉じられているからといって、キリストが{あなた達の前から}立ち去っている訳ではありません。
しかし見ることの出来ない目であなたの救済者を見ていた場合、あなたが救済者を探しているそこに何が見えるというのでしょうか?
あなた達がこのようにして{見えない目/体の目を使って}見ていた場合、あなた達が見ている者はキリストではありません。
その時あなた達に見えているのは「キリストと取り違えられている敵」なのです。
そして彼の中にあなたが見ることの出来る罪は無いので{あなたは彼を}憎むのです。
そしてあなたが彼の(無罪の)訴え掛けを聞くことも無いのです。
その訴え掛けがどのような形でなされていたとしても、「彼と合一して(彼とひとつに成って)無垢と平和の中で彼と繋がりなさい」というその内容は不変なのです。
エゴの無意味な金切り声の下に聞えている「神が彼に与えた呼び声/訴え掛け」はそのようなもの{「彼と合一して(彼とひとつに成って)無垢と平和の中で彼と繋がりなさい」というもの}なのです。
「あなた」が彼(兄弟)の中に『彼(キリスト)から「あなた」への呼び掛け』を聞き、神に対して神自身のもの{神自身の答え/神自身の子}を返すことにより{兄弟に対してあなたが}答えるように、神は彼に呼び声を与えているのです。
{しかし、見えない目/体の目を使って見ていた場合、あなたが彼の訴え掛けを聞くことはないのです。}
神の子は次のことだけをあなたから求めているのです。
あなたがそれ(彼のもの)を彼と共有出来るよう、あなたが彼に対して「彼への支払い/彼に与えられるべきもの」を返すことです。
あなたも彼も、一人だけではそれ(彼のもの/彼の神聖)を受け取ることが出来ず、だからそれはあなた達両者にとって使いようが無いまま保たれます。
しかしあなたと彼が一緒なら、他者を救い自分自身も一緒に救う「同等」の力をそれ{彼のもの/彼への支払い}が(あなたと彼の)それぞれに与えるのです。
あなたによって赦されたあなたの救済者が「あなた」へ救済を捧げます。
しかしあなたによって断罪されたなら、あなたの救済者はあなたに死を捧げるのです。
あなたは全ての人達の上に「あなたの救済者に対してあなたが選んで与えた役割」の反映/反射を見ているのです。
もしあなたが彼(あなたの救済者)の正しい働き(それだけが彼が本当に持っている役割なのです)を選ばなかった場合、「神が彼に与えた役割を彼が満たした場合に彼が見つけたであろう全ての喜び」をあなたは彼から奪っているのです。
しかしその場合、彼だけから天国が奪われると考えるのは止めなさい。{あなたが彼に対して正しい働きを選ばなかった(与えなかった)場合、あなたからも天国が奪われてしまうのです。}
あなたが彼の隣を歩くことにより「あなた」を通して道が示されるまで、彼の正しい役割は修復されず、「あなた」が正しい道を見つけることもないのです。
彼が救われることも、彼が自由を得ることによってあなたがあなた自身の自由を得ることとも、犠牲ではありません。
「彼」の働き/役割を満たさせることは、「あなた」の働き/役割を満たさせることでしかないのです。
だからあなた達は天国か地獄に向かって歩いているのですが、いずれにしろ一人で歩いているのではないのです。
あなた(達)が彼の無罪無垢を知覚した時、それはどんなに美しく成ることでしょう!
「あなたの為に神が彼に与えた視力のギフト」を彼があなたに捧げる自由を得た時、「あなた{達}」の喜びはどれ程大きくなることでしょう。
彼(聖霊)が必要としているのは次のことだけです。
『「神が彼に与えた仕事」を完成させる自由』をあなたが彼(兄弟姉妹)に与えること{が必要なのです}。
次のことを憶えておきなさい。
「彼(聖霊)」がすることを「あなた」も彼(兄弟)と共にするのです。
あなたが彼(兄弟)を見た時、{あなたが彼をどう見たかに従って}彼があなたに対して持つ役割/働きを「あなた」が定義するのです。
あなたが彼を今までとは異なるように見て「彼があなたに対してどうあるべきか」神が指定したように彼が成ることをあなたが許すまで{、彼はあなたが彼に対して定義した役割しか果たせないのです}。
「神の子が自分自身に対して抱いている憎しみに対抗して、神が自分の創造を地獄の痛みから救うことは出来ない」と信じられてしまっています。
しかし彼が彼自身に(人が人自身に)示す愛の中で、神の意志が行なわれることを許可する自由を神が得るのです。
あなた達はそれぞれに『「あなたに対する神の意志がどのようであるべきか」というあなた自身の信念の絵』を見ているのです。
「あなた」の赦しの中で、「彼」のあなたへの愛をあなたは理解するのです。
あなたの攻撃を通して{あなたは}天国を地獄であると信じ、「彼」があなたを憎んでいると信じるのです。
あなたの兄弟をもう一度見直しなさい。 彼が天国か地獄への別れ道であること(「あなた」が兄弟をどう知覚認識するかによってあなたが天国を体験するか地獄を体験するか決まること)を理解しながら。
そして次のことを忘れないでください。
あなたが彼に与えた役割が、「あなた」に与えられるのです。
そしてあなたが彼に指し示した道(方向)を「あなた」は歩んで行くことに成ります。
何故なら、それが(あなたが彼に指し示した道が)あなたがあなた自身に対して下したジャッジメント(裁き)なのだから。
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