Mar 31, 2013

Ch26-03

III The Forms of Error    エラーの形
 

 

全ての問題を解決してくれるようにあなたが聖霊に助けを求めていない理由は簡単に理解することが出来ます。

 彼(聖霊)にとっては、特定の問題解決が他の問題解決よりも難しいことはありません。

全ての問題は彼にとって「同じ」です。

何故なら、それぞれの問題は同じアプローチ(方法)で、全く同じように解決されるのだから。

問題がどのような「形」をとっているように見えても、解決が必要な要素は変わりません。

問題は様々な形で現れることが可能で、問題が続いている限りそれは様々な形で現れるのです。

「特別」な形で問題を解決しようとすることは無意味です。

全ての時の中で問題への答えが与えられて、それがどのような形でも再発しないようになるまで、問題は何度も再発し続けます。

その時はじめてあなたは問題から解放されるのです。

 

聖霊は「あなたが持っているとあなたが考えている全ての問題からの解放」をあなたに捧げています。

聖霊にとっては全ての問題が同じなのです。それぞれの問題は(その問題がとっているように見えている形がどのようであっても)「あなたが得るためには誰かが犠牲に成って損失を被るべきだ(被らざる得ない)という要求」なのだから。

 

そして誰も失わないよう状況が整えられた時、問題が消えているのです。

何故なら、問題は「今はもう修正されている知覚のエラー」なのだから。

彼(聖霊)にとって、一つの間違いを真理の下に持って行くことは、他の間違いを真理の下に持って行くことよりも難しくはありません。

何故なら、そこに在るのは一つの間違いだけなのだから。

「損失(ロス)が可能で、誰かの損失が他の人の得に成り得るというアイディア」が唯一の間違いなのです。

もしこのアイディアが真理であったなら、神は不公平(不正)であるに違いなく、罪が可能で、攻撃が正当化されており、復讐が正しいことになってしまいます。

様々な形で現れている、この「ひとつ」の間違いには「ひとつ」の修正が与えられているのです。

「損失は存在していません。」{これが修正です。}

損失が在り得ると考えることが間違いなのです。

 

 

あなたは問題は持っていないのですが、しかしあなたは自分が問題を持っていると考えているのです。

しかしもし、それらの問題を他の問題とは違うものとしてあなたが知覚/認識している属性(問題の大きさや複雑さや時間や場所)とは関係なく、それらの問題が一つづつ消えて行くことを見たなら、あなたはもうそう考えること(自分が問題を持っていると考えること)は出来ません。

『あなたが見ているものに対して「あなた」が与えている限定が神を何らかの方法で限定出来ている』と考えるのは止めなさい。

正義の奇跡は全ての間違い(エラー)を修正することが出来るのです。

そして全ての問題は間違いなのです。

それ(間違い/エラー)は神の子に対して不正義を行なう(与える)ので、だからそれは真理ではないのです。

聖霊が不正義を「大きい/小さい」あるいは「多い/少ない」と評価することはありません。

 

聖霊にとって、それら(不正義)は特性(properties)は持っていないのです。

それらは「神の子が不必要に苦しんでいる間違い」でしかないのです。

だから彼(聖霊)は棘や釘を取り払うのです。

彼(聖霊)が立ち止まって痛みが大きいか小さいか判断することは無いのです。

彼は一つの判断しか行ないません。

その一つの判断とは「神の子を痛めることは不正に違いなく、だからそれは在り得ない」です。


 

「ある種の間違いだけを修正させて、別の種類の間違いを自分自身の為に取っておくこと(そのままにしておくこと)が安全だ」と信じているあなたは次のことを憶えておきなさい。

正義はトータル(全体的/総括的)なのです。

部分的な正義などは存在していません。

もし神の子が有罪なら、神の子は断罪されて地獄に落とされており、神の子が正義の神から恩寵を受け取るには値しないことになるのです。

しかしあなたが彼(神の子)を有罪と見て死んで欲しいと思ったからと云って、彼(神の子)を懲罰することを神に求めるのは止めなさい。

 

神は「彼の無垢を見る方法」をあなたに捧げています。

そこに見るべきものをあなたが見なかったからといって彼を懲罰しようとすることが正しいことでしょうか?

あなた自身が解決しようとして問題を保つ度に、あるいは、その問題には解決方法が無いと{自分で}判断する為に問題を保つ度に、あなたは問題をより大きくし、癒やしの望みの外に問題を置いたのです。{その時}あなたは正義の奇跡が公平であることを否定しているのです。

 
 
 

もし神が公平/正義であるなら、正義に解決出来ない問題は存在しないのです。

しかしあなたは「ある種の不正義が公平で正しく、あなた自身を保つために必要である」と信じているのです。

あなたはこれらの問題を「解決出来ないより大きな障害」と考えているのです。

何故なら、あなたは誰かにロス(損失)を被って欲しいのだから。そして、誰かが犠牲から完全に保全される{犠牲から完全に守られる}ことをあなたは望んでは居ないのだから。

 
 

今一度あなたの特別な役割を考慮してみてください。

その人の中にパーフェクトな無罪をあなたが見るように、「ひとり(ONE)」があなたに与えられています。

そしてあなたは彼からどのような犠牲も求めないのです。 

何故なら、彼がロス(損失)を被ることをあなたは意図しないから。

あなたが呼び出す正義の奇跡が彼のもとに在ると同じだけ確実に、それが{正義の奇跡が}あなたのもとに在るのです。

そしてそれが(正義の奇跡が)全ての者達によって受け取られるまで、聖霊は満足しないのです。

何故なら、『「あなたが彼(聖霊)に与えたもの」が全ての人達のものに成り、あなたがそれを与えたことにより、全ての人達が等しくそれを受け取ること』を彼(聖霊)が確約出来るのだから。

 

 
であれば、あなたの全ての問題に対する修正をあなたが受け入れる意図を持てるようになった時、あなたの解放がどれだけ大きなものになるか考えてみなさい。

あなたはひとつの問題も保とうとはしません。 何故なら、あなたはどのような形の痛みも求めないのだから。

そしてあなたは、聖霊の優しい視線の中でそれぞれの小さな痛みが解決されることを見るのです。

 
 

何故なら、彼(聖霊)の視界の中では、それら全ては小さく(永遠に解消され思い出されることのない)消え去る前の卑小な見かけでしかないのだから。

一度は「特別」な問題に見えていたものが、修正不可能な間違いに見えていたものが、癒やされようのない悩みの種に見えていたものが、普遍的な祝福へと変容されたのだから。

犠牲は消え去ったのです。

そしてその代わりに神の愛が思い出されるのです。 神の愛が輝き、犠牲と損失の全ての記憶を消し去っていくのです。

 
 

正義が怖れられるのではなく、正義が愛されるまで、彼(神)は思い出されないのです。

彼(神)は誰に対しても何に対しても不正では在り得ないのです。 何故なら、彼は「全ては彼に所属しており、全ては永遠に彼が創造した通りであること」を知っているのだから。

彼が愛している全てのものは無罪であって攻撃が届かないに違いないのです。
 

あなたの特別な役割がドアを広く開けるのです。 そのドアの向こうには彼(神)の愛の記憶が損なわれること無く完璧に保たれているのです。

あなたがするべきことは「地獄ではなく天国が自分に与えられることを願うだけ」なのです。すると{天国への}ドアを硬く閉ざしているように見えている全てのボルトやバリアーが取り外され消えて行くのです。

何故なら、パーフェクトな愛の中で父があなたを創造しており、『父があなたに与えているものをより少なく受け取ること』はあなたの父の意志ではないのだから。

 

 

Mar 29, 2013

Ch26-02

II The “Sacrifice” of Oneness   ワンネスの犠牲(一体性の代償)

 

あなたが見ている世界はワンネス(一体性)の犠牲/代償に基づいているのです。

それは全く統合されておらず、繋がりが完全に失われている絵なのです。

それぞれの個体の周りにはとても硬く見える壁が作られており、その中にあるものが外に繋がることは出来ないように見えているのです。 そして{壁の}外にあるものが、壁の中に閉じ込められているものへと伸び出し{壁の中に閉じ込められているものと}繋がることも出来ないように見えています。

それぞれが自分自身を十全に保つ為には、他の部分(他者)を「犠牲/代償」にする必要があるのです。

何故なら{壁によって切り分けられているように見えている}彼等がお互いと繋がったなら、彼等はそれぞれに自分達のアイデンティティ(自己認識)を失ってしまうから。そして彼等の分離によって彼等の救済{安全}が保たれているのだから。

こうして体が囲っている「小さなもの、卑小なもの」が自己に成るので。 そして{自分の体以外の}その他全てを犠牲にすることにより{体という卑小な自己が}保たれているのです。

そしてその他全ての人達も(それら自身の{分離した}アイデンティティを保つために){あなたの体という}この小さな部分を失い、不全なまま保たれているのです。
 
 

あなた自身に対するこの知覚の中では、「体」の損失は確かに犠牲なのです。

そして体の光景(体の視点)が「犠牲が限定されていて、あなただけの為に何かが残されていること{あなただけの為に特定の体が与えられていること}」の印になるのです。

この少しのもの(卑小な体)をあなたのものとする為に、外の全て{体の外に見えている全てのもの}に対して限定が掛けられており、「自分のものだとあなたが考えている全て」に対しても限定が掛けられているのです。

 

何故なら、「与えること」と「受け取ること」は同じなのだから。

そして体の限定を受け入れることは、あなたが見ている全ての兄弟の上にそれらの限定を適用することなのだから。

 

何故なら、あなたはあなた自身を見ているように彼(兄弟)を見ざる得ないのだから。

体は損失(ロス)であり、体は犠牲にすることが出来るのです。

そしてあなたが兄弟を体として見ている限り、「彼独自の独房の中であなたから分離している体」として兄弟を見ている限り、あなたはあなた自身と彼(兄弟)から犠牲を求めているのです。

 

 
「神の子が自分の父抜きにして自身を知覚すること」を要求するよりも大きな犠牲があるでしょうか?{これよりも大きな犠牲はありません。}

そして「彼の父(子の父)が自身の子を抜きにして在ること」を要求するよりも大きな犠牲があるでしょうか?

しかし全ての犠牲は「彼等{父と子}が{お互いから}分離しており、お互いを失っていること」を要求するのです。

誰かから何らかの犠牲(代償)が求められているのなら、神の記憶が否定されているに違いなのです。

どれらだけ神の子が真理を証言したとしても、分離した体達の世界の中では、神の子の全体を証言しているどのような者が見られているのでしょうか? {分離した体の世界の中では、神の子の全体を証言している者は見られないのです。}

 

そのような世界の中で彼(神の子の全体を証言している者=聖霊)は見られていないのです。

そして{そのような世界の中では}彼の合一と愛の歌も全く聴かれていないのです。

しかしそれ(聖霊の愛の歌)は「彼の歌の前に世界が退き、彼の視界が体の目を置き換える為に」彼に与えられているのです。

幻想ではなく(幻想の代わりに)真理への証言者を見ようとする者は、単に世界の中で(世界に意味と論理を与える)目的を見ることを求めるのです。

 

 
あなたの特別な役割(働き)が無かったなら、この世界はあなたにとって意味がありません。

しかしそれ(この世界)は天国そのものと同等に豊かで無限な宝庫に成れるのです。

ここにはあなたの兄弟の神聖が見られない瞬間は無いのです。 あなたが自分に割り当てている全ての貧しい破片や幸福の欠片に対して無限の供給(サプライ)を付け加える瞬間が、いつも見られているのです。

あなたがワンネス(一体性)の視界を失うことは可能ですが、そのリアリティを犠牲にすること(失うこと)は出来無いのです。

そしてあなたが犠牲にしたものを失うことも出来ないのです。『「それ(一体性のリアリティ)が失われていないこと」をあなたに示す聖霊の役割』を失わせることも出来ないのです。

 

 
であれば、あなたの兄弟があなたに向かって歌っている歌を聞きなさい。

そして世界を退かせ、平和の為に彼の証言者が捧げている休息を受け取りなさい。

そして彼を裁くのは止めなさい。何故なら{兄弟を裁いたなら}あなたの為の解放の歌があなたには聞えないから。 {何故なら兄弟を裁いたなら}「目撃/証言するよう彼に与えられているもの(あなたがそれを見て彼と共に喜ぶ為のもの)」を見ることが出来ないのだから。

彼の神聖を「罪に対するあなたの信念」への犠牲(代償)にするのは止めなさい。

あなたの無垢を彼の無垢と共に犠牲にし、死に値する罪をあなたが彼の中に見る度にあなたは死ぬのです。

しかし全ての瞬間にあなたは再生することが可能で、生命をもう一度与えることが出来るのです。

彼(兄弟)の神聖があなたに生命を与えます。 彼の無罪が神に知られているのであなたは死ねないのです。 そして彼(兄弟)がそれ(あなたの中の光り)を見ていないことによりあなたの中の光りが塗りつぶされることは無いように、{彼の無罪が}あなたによって犠牲に上げられることも出来ないのです。

 

 
生命を犠牲にしようとしているあなたは、自分の眼と耳に「神とその聖なる子の死に対する証言」をさせようとしているあなたは、彼等(神と神の子)を「神の意志が意図しなかった者達」にする力があなたにあると考えるのは止めなさい。

天国の中で神の子は体の中に幽閉されておらず、孤独の中で罪に対する犠牲にされては居ないのです。

そして彼(神の子)は天国の中に居るので、彼は永遠であり、全ての場所に居るに違いないのです。

彼は永遠に同じなのです{彼は永遠に同じで在り続けるのです}。

全ての瞬間に生まれ変わり続け、時間によって触れられることは無く、死によっては(あるいは生命に対するどのような犠牲もよっても)触られない所にいるのです。

何故なら、彼(神の子)は{死と犠牲の}どちらも作っておらず、「自分のギフトが犠牲や損失をこうむる事は決してないと知っている者」から「ひとつのもの(ひとつの全体)」だけが彼に与えられているのだから。

 

 

神の正義は神の子の上に優しく置かれており、彼(神の子)に対して世界が投げ掛けようとする全ての不正から彼を安全に保っています。

「あなた」は彼の罪をリアリティに出来るでしょうか? そして彼に対する父の意志を犠牲に出来るでしょうか?

「彼自身が自分をその中に見ている腐り果てた牢獄」の中に彼を見ることにより彼を断罪するのは止めなさい。 {彼を肉体(分離した体)の中に見ることにより、彼を断罪するのは止めなさい。}

「ドアが開かれ、彼が入って来てあなたを照らし、自由のギフトを(彼があなたの為に受け取ることにより)あなたに戻すこと」を確約するのがあなたの特別な役割なのです。

「自身を正義から隔てるために彼(神の子)が作った牢獄」から神の聖なる子を解放することだけが聖霊の特別な役割なのです。

「あなた」の働き(役割)が、彼自身(神の子自身)の役割から切り離されていることが在り得るでしょうか?

 

Ch26-01

Ch26 Transition   移行
 
I イントロダクション

 


攻撃のダイナミックス(力学)の中では、犠牲が主要なアイディアです。

{犠牲という}この支点の上に、全ての妥協が、何とか取引しようとする全ての試みが、そして全ての葛藤/闘争が、見せかけのバランス{見せ掛けの平和}を得ているのです。

「誰かが失わずには済まされない」という中心テーマのシンボルがこれ{犠牲}なのです。

これが「体」に焦点を当てていることは明白です。

何故なら、これ{犠牲}は常に損害を限定しようとする試みなのだから。

体とはそれ自身が犠牲なのです。それは少しだけあなた自身の為に保留しておく為に、

力を放棄することなのです。

 

兄弟を(あなたの体から切り離されている)他の体の中に見ることは、彼の小さな部分だけを見よう(そして見えていない他の部分は犠牲にしよう)とする願いの表現なのです。

世界を見たなら、あなたは{世界が}それ自身以外を超えて何にも繋がっていないことを見るでしょう。

{世界の中に}見えている全てのものは、少し近づいたり、少し遠ざかったりすることが出来ますが。 それらがお互いと繋がることは出来ないのです。

Mar 14, 2013

Ch25-09

The Justice Of Heaven
天国の正義


あなたの小さなエラーが天国の正義によって解除出来ないと考えることは傲岸でしかありません。

そしてそれは「あなたの小さなエラーは(永遠に修正不可能な、そして正義ではなく復讐で迎えられるべき)罪であって間違いではない」という意味でしかないのです。

罪の全ての効果から解放される意志があなたにありますか?

この答えが必然的に内包している全てをあなたが見るまで、あなたは上記の質問には答えられません。

何故なら、あなたがこの質問に対して「ハイ」と答えた場合、あなたはこの世界の全ての価値を放棄して、その代わりに天国の平和を選んでいることに成るのだから。

そしてあなたは一つの罪も保たなくなるのです。

 

「これが可能だという事に対する疑念」をあなたは一つも尊重しなくなり、罪が保たれなくなるのです。

全ての幻想よりも真理の方が大きな価値があることをあなた意図するのです。

そしてあなたは「自分は真理が何か知っていないので、自分に対して真理が暴き示されべきである」と認識するのです。


躊躇しながら与えたなら、ギフトは得られないことになるのです。

何故なら{その時}あなたはギフトを受け取ることを躊躇しているのだから。

ギフトを受け取ることに対する躊躇が消え去り「ギフトがあなたに与えられること」に対してあなたが意欲的に成れるまで、{あなたが受け取ることを躊躇した}ギフトはあなたの為に取って置かれているのです。

 

神の正義は、怖れではなく、感謝を保障しているのです。

「あなたが与えるもの」が全ての人達によって受け取られ、それはあなたから(そして誰からも)失われないのです。 そして神の子に与えられた全ての宝は彼{神の子}の為に天国の中で大切にされ保たれており、「それを受け取ろうと意欲的に手を伸ばしている人達全員」に与えられているのです。

 

そしてこの宝が与えられる度に減ることもないのです。 {この宝は幾ら与えられても減少しないのです。}

受け取られたそれぞれのギフトが供給に付け加えられるのです。

何故なら神は公正なのだから。

神は「(救済を神からのギフトとしては見たがっていない)神の子」とは争いません。

しかし神の正義は、全ての人達によってこれ(ギフト=救済)が受け取られるまで、満たされないのです。

 

「問題に対して聖霊が与える答え」は常に「誰も失うことがない(失う人が誰も居ない)回答」に成るのです。

彼(神)は誰からも犠牲を求めていないので、これが正しいに違いないのです。

「少しでもロス(損害)を誰かから要求している答え」は問題を解決しておらず、問題を増やしており、状況を強化し、解決をより難しくしており、状況をより不正にしているのです。

聖霊が不正(不平等)を解決として見ることは不可能です。

彼(聖霊)にとって不正なことは、それが不正であるが故に、修正されるべきなのです。

そして全てのエラーは「少なくともひとつが{一人のひとが}不正に見定められていた知覚」なのです。

誰かが失っている(損をしている、負けている)と見られている時、それは神の子に相応しい正義ではなく、彼(神の子)が断罪されています。
 
そして{その場合}、正義の代わりに、懲罰が彼への支払い(神の子が受け取るべきもの)になるのです。

無垢な視界が、懲罰を不可能にし、正義を確実にするのです。

聖霊の知覚は攻撃の余地を残しません。

損失/損傷だけが攻撃を正当化出来るのです。 

そして彼(聖霊)はどのような損失も見ることは出来ないのです。

 

世界は問題を{聖霊とは}違うように見ています。

世界は解決を「誰が勝って誰が負けるかが定められる状況、勝者がどれだけ取って敗者がどれだけ保持出来るか確定している状態」として見るのです。

しかしそれでも問題は未解決のまま残り続けます。何故なら、敗者の居ない状態/誰も不正に扱われていない状態(従って復讐の基盤の無い状態)を設立出来るのは正義だけだから。 

問題解決は復讐では在り得ないのです。 {復讐は問題解決には成り得ないのです。}

復讐は(それが最善の形で現れている場合でも殺人が明確に起こっていないだけで)最初の問題の上にもう一つ問題を加えるだけなのです。

 

聖霊の問題解決が問題を終らせる方法なのです。

問題が解決されるのは、問題が正義によって迎えられたからです。

問題が正義に出会うまで、問題はまだ解決されておらず、だから問題が繰り返されるのです。

 

「誰も失う人は居ないということが正義の意味である」という原則がこのコースにとって必要不可欠なのです。

{『誰も損失を受け得ないことが正義である』という原則がこのコースにとって必要不可欠なのです。}

何故なら、奇跡は正義に依存しているのだから。

{奇跡が依存しているのは}この世界の目が見ている正義ではなく、「神が知っている正義/聖霊が与える視界の中に反映されている叡智」としての正義なのです。

失うことに値する者は誰も居ません。

彼(人)に対する不正は起こり得ません。

癒しは全ての人達の為であるに違いないのです。 何故なら、彼はどのような攻撃にも値しないのだから。

「ある人がより多くの苦しみに値し、他の人がより少ない苦しみにしか値しない」というようなことが無い限り、奇跡の中に難易度の違いが在り得るでしょうか?

これ(特定の人がより多く苦しむこと)が全く無垢な者に対する正義で在り得るでしょうか?

 

奇跡が正義なのです。

奇跡/正義は、特定の人達への特別なギフトではなく、「(より断罪されており従って癒やしから離れている)余り価値の無い人/慈悲に値しない人」には与えられない特別なギフトでもないのです。

 

 

特別性の終焉が「目的」である時、「救済から離れていることが出来る者」などが居るでしょうか?

ある種の間違いが赦せない(特定のエラーは赦すことが不可能)というようなことが在り得て、その間違いが(癒やしと平和に戻ることではなく)復讐に値した場合、どこに救済の正義が在るのでしょうか。

神は神の子が正義であることを求めており、「神の子がそれよりも(神から求められている正義よりも)不正に成るよう救済が求めること」は不可能です。

 

もし聖霊のギフトである奇跡が、選ばれた特別なグループだけに与えられ、「ギフトを受けるに値しないと思われている者達」に対して否定されていたなら、彼(聖霊)は特別性の仲間に成ってしまいます。 

「彼(聖霊)が知覚出来ないもの」に対して彼(聖霊)が証言することは出来ません。

そして全ての人々は「彼(聖霊)の癒やしと解放と平和のギフト」に等しくふさわしいのです。

 

あなたの問題を解決する為に聖霊に問題を与えるということは、あなたが問題の解決を求めていることを意味しています。

聖霊の助けなしで、あなた自身で解決しようとして問題を保つことは、「問題を未解決に保とう、そして問題の不正と攻撃の力を保とう」と{あなたが}選択していることを意味しています。

あなたが先ずはじめに不正に成ることを選択していない限り、誰もあなたに対して不正に成れる人は居ません。

{あなたが始めに不正で在ることを選択したなら}あなたの道を塞ぐように問題が現れ、憎しみの風で平和を蹴散らすのです。

「全ての兄弟が奇跡に対して等しい権利をあなたと共有している」と考えない限り、あなたは「同等の権利を有している者」に対して不正なのだから、だから{全ての兄弟が奇跡に対して等しい権利をあなたと共有しているとあなたが考えない限り}あなたは彼等(兄弟)に対する「あなたの権利」を主張/要求しません。

{兄弟があなたと共有している奇跡への権利をあなたが}否定しようと求めたなら、あなたは否定されていると感じるでしょう。

奪おうと求めたなら、あなたは奪われた(貧しくされた)のです。


「他者が奇跡を受け取れない故に(あなたが)奇跡を受け取れる」ということは決してありません。

赦しだけが奇跡を捧げる(与える)のです。そして免罪が全ての人達に対して正当に当て嵌まるに違いないのです。

あなたが保って隠している小さな問題があなたの隠れた罪になるのです。

何故なら、あなたはそれらの問題があなたの為に取り払われることを選択しなかったのだから。

するとそれらの問題は埃を吸い大きくなるのです。

それらの問題が「あなたの知覚している全て」を覆い、「誰に対しても公正ではないあなた」だけが残るように成るまで(それらの問題は大きくなるのです)。

すると「自分は一つの権利も有していない」とあなたは信じるように成るのです。

そして敵意と正当化された復讐により慈悲が失われ、「赦しに値しない者」としてあなたを断罪するのです。

「赦されざる者/赦されていない者」は他者に与える慈悲は持っていないのです。

だから「あなた自身の為に赦しを取ること」があなたの唯一の責任であるべきなのです。

 

あなたが受け取った奇跡をあなたは与えるのです。

それぞれが{それぞれの奇跡が}「法(その上に救済が成り立っているのです)」のイラストレーション(説明)に成るのです。

その法とは「誰かが癒やされる為には、正義が全ての人達に対して行なわれなくてはならない(正義が全ての人達に対して行なわれるに違いない)」ということです。

誰も失うことなく(損することなく)、全員が利益を得なくてはいけないのです。

それぞれの奇跡は「正義/奇跡が全ての人達に捧げられた時、正義に何が達成出来るか示すサンプル(実例)」なのです。

奇跡は等しく受け取られ与えられるのです。

「与えることと受け取ることが同じである」という認識/意識が奇跡なのです。

奇跡は「おなじもの」を「似ていないもの{お互いと似ていないもの}」にはしないのだから。 奇跡は、違いが存在していない所に違いは見ないのです。

従って奇跡は全ての人達にとって同じであるに違いないのです。何故なら、奇跡は人々の中にどのような違いも見ていないのだから。

奇跡の捧げものはユニバーサル(普遍的)で、その教えは一つのメッセージだけを教えようとするのです。

 

神のもの(神に属するもの)は全ての人々のものであり、「神のもの」が人の取り分なのです{「神に所属しているもの」が人に与えられるべきものなのです}。