Sep 30, 2011

Ch20-6

Heralds of Eternity
永遠を告げに来る使者達

 
この世界で神の子が自分自身に一番近づくのは、聖なる関係の中なのです。
聖なる関係の中で神の子は、自分の父が持っている確信を自分の中に見つけ始めるのです。
そしてそこ(聖なる関係の中)で彼は(父の法の外に出されていたものに対して)父の法を修復して「失われていたもの」を見つける自分の役目を発見するのです。
何かが失われるのは時間の中だけで、それが永遠に失われ続けることは決してありません。
だから神の子の役割も時間の中で少しづつ繋がっていき、それぞれの繋がりが時間の終わりをより近くに引き寄せているのです。
それぞれの繋がりの奇跡は永遠の前触れを告げに来る力強い使者なのです。
(統合された確実な)一つの目的を持った者は怖れません。
彼の目的を彼と分け合っている人は、誰も彼と一つにはなれません。
{「彼(聖霊)の目的を彼(聖霊)と分け合って居ない人は、誰も彼(聖霊)と一つには成れません。」の間違いでしょう。 
あるいは「彼(エゴ)の目的を彼(エゴ)と共有している人は、誰も彼(聖霊)と一つにはなれません。」 と言うことかもしれません。 訳注}

永遠のそれぞれの使者達は罪と怖れの終わりを歌っています。
それぞれの使者達は、それを(怖れと罪を)遥かに越えた時の中で喋っています。
二つの声が一緒に高まり、全ての人達のハートに呼びかけ、全ての人達のハートが一つのものとして鼓動します。
このようにして一つになった心臓の鼓動の中で、愛の合一(統合)が宣言されており、愛の合一が歓迎されているのです。
(神の子の合一を一緒に保つ力を持っている)あなたの聖なる関係に平和あれ。
あなた達がお互いに対して与え合っている時、あなた達は全ての人の為に与えているのです。
そしてあなた達のギフトの中で全ての人達が嬉しくなっているのです。
誰が「あなた(達)が与えたギフト」をあなた(達)に与えたか忘れないでください。
そしてあなたがこれを忘れている訳ではありませんが、誰が(あなたに与えるようにと)彼にこのギフトを与えたか覚えておいて下さい。

あなたの兄弟の価値を高く評価し過ぎることは不可能です。
これが出来るのはエゴだけで、エゴは他も(他の人の評価も)自分の為に欲しがるのです。だから兄弟の評価を低くするのです。
しかし「全く評価し得ないもの」を評価することは不可能です。
「あなたの判断を遥かに超えているもの」を判断しようとする無意味な試みが怖れを引き出していることをあなたは認識出来ていますか?
あなたには見えないものをジャッジ(断定/判断)しようとするのは止めなさい。
(自分で判断することを)止めない限り、あなたにそれ(あなたにまだ見えていないもの)は見えないのです。
しかし(自分で判断することを止めて)それ(あなたに現在見えていないものを見る力)が来ることを辛抱強く待ちなさい。
平和だけをあなたがあなたの兄弟から求めるように成った時「あなたの兄弟の価値を見ること」があなたに与えられます。
そしてあなたが彼の為に求めたもの{あなたが彼に与えたもの}を、あなたは受け取るのです。

あなたに平和を捧げている彼の価値をあなたはどのように計れるのでしょう?
彼の捧げもの以外の何をあなたが求めることが出来るのでしょうか?
彼の価値は彼の父により確立されています。 あなたが彼を通して「彼の父のギフト」を受け取った時、あなたは「彼の価値が彼の父により確立されていること」を認識します。
あなたの感謝のヴィジョンの中で、彼の中のものがとても眩しく光り、あなたは彼をただ愛して安堵するのです。
あなたは彼を裁こうとは考えないのです。
キリストの顔を見て、それでも裁きに意味が在ると固執する人がいるでしょうか?
何故ならこの固執は「(キリストの顔が)見えていない人」のものだからです。
ヴィジョンか裁き(ジャッジ/断定)か、それはあなたの選択ですが、その両方を一緒に同時に選ぶことは決して出来ません。

あなたの兄弟の体は、あなたにとっては役に立たないもので、それはあなたの兄弟にとっても同じです。{あなたの体は、あなたの兄弟の役に立ちません。}
それ(体)が「聖霊の教えること」だけの為に使われている時、それ(体)には機能がないのです。
何故ならマインドはコミュニケーションの為に体を必要とはしていないのだから。 体を見ている視界を聖なる関係の目的の為に仕えさせることは出来ないから。
そしてあなた達が(体の目を使って)お互いをそのように(体として)見ている限り、方法と結果が繋がっていない(合致していない)のです。
どうしてこれ(方法と結果を繋げること)を達成する為に聖なる瞬間が沢山必要になるのでしょうか? 一つの聖なる瞬間で十分なのに。 聖なる瞬間はひとつだけなのに。
時間を黄金の光りのように突き通している「永遠の小さな吐息」は全て同じです。
その前には何もなく、その後にも何もありません。

あなたは各「聖なる瞬間」を、時間内の異なるポイントとして見ています。
しかし聖なる瞬間は決して変化しません。
聖なる瞬間の中に入ったもの、そしてこれから聖なる瞬間の中に入るものは、今ここに在ります。
過去は聖なる瞬間(今ここ)から何も取り去らず、未来は聖なる瞬間に対して何も付け加えません。
だからここに全てがあるのです。
すでにここにあなたの関係の愛らしさが(パーフェクトなハーモニーの方法と結果と共に)在るのです。
ここに、あなた達がいつの日かお互いに対して捧げるパーフェクトな信心があり、それはすでにあなた達に捧げられています。
そしてあなた達がお互いに与え合う無限の赦しが、すでにここに与えられています。 あなたが(未来に)見るキリストの顔が、ここで(聖なる瞬間の中で)すでに見られているのです。

あなたは「このようなギフトを与えようとしている者」を評価(判断)出来ますか?
あなたはこのギフトを他のもの(他のギフト)で取り替えてしまおうとしますか?
このギフトは神の法をあなたの記憶の中に取り戻すのです。
それら(神の法)を思い出すだけで、あなたを痛みと死に縛り付けていた法則は忘れ去られるに違いないのです。
これは『「あなたの兄弟の体」があなたに捧げるギフト』ではありません。
このギフトを隠しているヴェールは、あなたの兄弟も隠してしまっています。
あなたの兄弟が(あなたへの)ギフトなのです。 しかしあなたの兄弟はそのことに気付いていません。 そしてあなたも全くそのことに気付いていません。
あなた達両者の中にギフトを見ている者に信心を与えなさい。彼があなた達両者の為に(あなた達両者の替わりに)このギフトを捧げてそして受け取るのです。
そして彼のヴィジョンを通してあなたはそれ(ギフト)を見ます。 彼の理解を通してそれを認識し、あなた自身としてそれを愛するのです。

安楽を受け入れ、愛と共に、そして「彼(聖霊)が見ているもの」に対するパーフェクトな自信と共に、あなた達を見守っている聖霊を感じなさい
彼(聖霊)は神の子を知っています。そして(宇宙がその優しい手の中で安全に平和に置かれている)父の確信を分け合っています。
今わたし達は(父の確信を分かち合う/共有するために)神の子が学ぶべきことを考えてみましょう。
宇宙の創造者が(創造を)捧げるべき彼とは何でしょう?
宇宙の創造者がそれ(創造されている宇宙)を彼に捧げて、彼に創造/宇宙を捧げることによって宇宙が安全であると知るべき、彼とは何でしょう? 
{神の子とは何でしょうか?}
彼は自分自身を、彼の父が彼を(神が神の子を)知っているようには見ていません。
しかし神の確信/信頼が置き間違えられる(裏切られる)ことは不可能です。

Sep 28, 2011

Ch20-5

Entering the Ark  
箱舟に入る

 
あなが何かに自分を痛める力を与えない限り、あなたを痛め苦しめることが出来るものは何もありません。 
あなたはこの世界の法則に力を与えようとしており、『「与えること」を「あなたが与えたものをあなたは失う」と解釈している世界の法則』にあなたは力を与えているのです。
しかしあなたの役割は力を与えようとすることではありません。
力(パワー)は神のものです。
力は神から(あなた達に)与えられており、(「あなたが与えた時あなたは得る」と心得ている)聖霊によってその力が再度目覚めるのです。
聖霊は罪に力は与えず、だから罪は力を持っていないのです。
そして聖霊は罪の結果(世界が罪の結果を見ている様子:死/惨めさ/痛み)も持っていないのです。

これらの事は起こっていないのです。何故なら聖霊はこれら(死/罪/病)を見ておらず、「これらの源として見えているもの」に力を与えてもいないのだから。
こうして聖霊は、あなたをこれら(死/罪/病)から自由にするのです。
(「あなたが何か」ということに関する幻想を持っていない)聖霊は(すでに全ての真実を与え受け取っている)神に全てを与えるだけなのです。
聖霊は、真実でないものは受け取らず、真実でないものは与えないのです。
天国の中には罪の居場所はありません。 天国の中では罪の結果は異邦人(エイリアン)で、罪の源と同様に罪は天国に入ることは出来ないのです。
だからあなたは自分の兄弟を「罪を持っていない者(無罪)」として見る必要があるのです。 何故ならあなたの兄弟の中に天国があるのだから。
あなたが彼の中に罪を見たなら、あなたにとって天国は失われているのです。
しかし彼を彼そのものとして(ありのままに)見たなら、「あなたのもの」が彼からあなたに輝き出て来るのです。

あなたの救済者はあなたに愛しか与えません。
しかしあなたが彼(あなたの救済者)から何を受け取るか、それはあなた次第です。
それ(あなたの救済)は彼の中に在って、それがあなたの全ての間違いを無視する(見越す)のです。 そしてその中に彼自身の救済があるのです。
これはあなたに関しても全く同じです。
救済とは「与えることに関するレッスン」で聖霊がそれを翻訳/解釈するのです。
これは(「神の法以外の法則」を確立して「神が創造しなかったもの」を強制する力をそれらの法則に与えている)マインドの中で神の法を目覚めさせることなのです。
あなたの狂気の法則はあなた達が間違えを起こすように作られており、これらの法則の結果をあなたの正当な支払いとして受け入れる事により、これらの法則にあなた達を統治する力が与えられているのです。

これは狂気でなくて何なのでしょう?
あなたは「あなたを狂気から救出する者」の中にこのようなものを見ようとするのですか?
あなたがこの狂気から自由である程に(あなたの救済者である)彼もこの狂気から自由なのです。 そして彼の中にあなたが見ている自由を、あなたはあなたのものとして見るのです。
何故ならあなた達はこれを分け合うのだから。
神が与えたものは神の法に従います。 神が与えたものは神の法だけに従うのです。
そして神の法に従っている者達が、その他の原因(神の法則以外)の結果を被ることは不可能です。
自由を選択した者達は、その選択の結果だけを体験するのです。
彼等の力は神のものです。 そして彼等はこの力を「彼等と分け合うように神が与えたもの」だけに与えるのです。

彼等に触れること(彼等に影響を与えること)が出来るのはこれ(神が彼等に与えた力)だけなのです。何故なら彼等はこれだけを見て、神の意志に従って彼等の力を分け合うのだから。
このようにして彼等の自由は確立され保持されるのです。
これは幽閉しようとする、そして幽閉されようとする、全ての誘惑の中でも保持されるのです。
あなたは「この自由を学んだ者達」に自由が何か尋ねるべきなのです。
「どのようにして鷹が飛んでいるか」ツバメに聞くのは止めなさい。何故なら、小さい翼を持っている者達は、あなたと分け合う力を自分達のためにまだ受け入れてはいないのだから。
無罪(無垢)な者達は受け取ると同時に与えるのです。
ならばあなたの兄弟の中に無罪の力を見なさい。 そして「あなたが彼に捧げた罪(あなたが兄弟に与えた罪)」から解放する力を彼(兄弟)と分け合いなさい。

(この地球の上を孤独に歩いているように見えている)それぞれの人達には一人の救済者が与えられており。 その救済者の特別な役割はその人を解放し、それにより自身も解放されることなのです。
分離した世界の中では、それぞれが独自に割り当てられていますが、彼等は全て同じなのです。 {分離した世界の中では、一人の個人に特定の救済者が割り当てられているように見えていますが、それらの救済者は本当は全く同じなのです。}
しかし彼等(救済者)が全て同じだと知っている者達は、救済は必要としていません。
{何故なら全ての救済者が同じだと知っている者達はすでに救済を得ているのだから。}
それぞれの人達は、キリストの顔を見て彼(キリスト)を無罪と見る用意が出来ている時に自分の救済者を発見するのです。
このプランはあなたが作ったものではなく、あなたが学ぶように与えられている分部以外のことを思い悩む必要もありません。 何故なら、それ(あなたが学ぶべき部分)以外の全ての部分を知っている者が、あなたの助けを必要とすることなく(あなたが学ぶべき部分以外のことを全て)用意するのだから。
しかし彼(あなたの救済者)が{あなたが学ぶべき部分への}あなたの関与を必要としていないと考えるのは止めなさい。
何故ならあなたの部分(あなたが学ぶべき部分)に全てが掛かっており、あなたの部分がなければ(あなたが自分の役割を果たさなければ)すべては未完成なままなのだから。
平和の箱舟の中には二人づつ入って行くのですが、もう一つの世界が彼等と共に(その二人と共に)始まるのです。
聖なる関係が聖霊の役割を共有するように成った今、それぞれの聖なる関係がここから(平和の中に)入って行って、聖霊のプランの中のその特別な役割を学ぶ必要があるのです。
そしてこの目的/役割が満たされたなら、(その中には罪が入って来れない、そして神の子がその中に怖れなく入って行ける)新しい世界が立ち上がるのです。
そして彼(神の子)はそこで少し休んで、幽閉生活を忘れ自由を思い出すのです。

あなたがそこ(新しい世界)に居なければ、どうして彼がそこに入って休憩し思い出せるでしょう?
あなたがそこに居ない限り彼は完成しておらず、彼がそこで思い出すのは彼の完成なのです。
これがあなたに与えられている目的です。
あなた達がお互いを赦すことが、あなた達二人だけの為だと考えるのは止めなさい。
何故なら新しい世界全体が(休憩する為に)ここに入って来る全ての二人組みの手に掛かっているのだから。
そして彼等が休んでいる時キリストが彼等に輝きかけ、彼等は神の法を思い出し、それ以外の全ての法則を忘れて、神の法則だけが彼等と彼等の全ての兄弟の中を完全に満たすことだけを熱望するのです。

これが達成された時、あなたが彼等(あなたの兄弟)なしで休むとあなたは思いますか?
私があなたを置いてきぼりにして私自身の一部を忘れることは出来ないように、あなたが彼等の中の一人でも外に置き去りにすることは出来ないのです。
あなたは自分がまだ時間の中にいる時に(平和への道が開くまでまだ沢山しなくてはならないことが残っているのに)どのようにして平和に成れるのか不思議に思っています。
それはあなたには不可能に思えるかもしれません。
しかし神が上手く働かない救済プランをあなたに与えることが可能かどうか自分に訊ねてみてください。
神のプランをあなたが満たすべき役割として受け入れたなら、(あなたの心配をよそに)聖霊はそれ(あなたが満たすべき役割)だけをあなたの為に用意するのです。

聖霊はあなたの先に行き、あなたの道を真っ直ぐにして、あなたが躓かないようにして、あなたの道を阻むものがないようにするのです。
あなたが必要とするものであなたに与えられないものは何も無いのです。
全ての障害が(そこにあなたが辿り着く前に)消え去るのです。
あなたは自分が満たす役割/目的以外は、何も考える必要がなく、何も思い煩う必要がないのです。
あなたの役割があなたに与えられたように、あなたの役割は満たされるのです。
神の確約は全ての障害を越えて保たれるのです。 何故ならそれは偶然ではなく必然なのだから。
それはあなたに掛かっている(依存している)のです。 そして神の子よりも確実なものがあるでしょうか?


Sep 27, 2011

Ch20-4

Sin as an Adjustment
調整としての罪    
{ここで言う調整(Adjustment)とは、エゴが知覚などを調整して「罪が実存しており罪が存在していると考えることが正しいと感じられるリアリティ」を作っていることを指しています。}

罪に対する信念は調整なのです。
そして調整とは変化、あるいは知覚がシフトすること、でなければ『前まで「このよう」だったものが違うものに変えられた』という信念なのです
だから全ての調整は歪みで、リアリティに対してこの歪みを保つ為に防御の必要が言い立てられるのです。
叡智(knowledge)は全く調整を必要とせず、何らかのシフトや変化がそれに対して行なわれたなら叡智は失われてしまうのです。
何故ならシフトや変化が叡智を単なる知覚(一つの見方)に変えてしまうからです。
知覚(一つの見識)の中では確実性が失われており、そこには疑いが入っているのです。
この悪化した状態に対して調整{再調整}が必要なのです。 何故ならそれら(歪んだ知覚、そして歪んだ知覚が引き起こしている悪化)は真実ではないのだから。
真実は「彼であるもの」だけに呼びかけるのです。 だから真実を理解する為に真実を調整を必要は本来ないのです。

あらゆる調整はエゴの為のものです。
何故なら、全ての関係は(その関係をエゴの好みに合わせる為の)調整に依存しているというのがエゴの硬い信念だから。
全く何の干渉も挟まれない直接的関係は常に危険なものとして見られるのです。
エゴは全ての関係の仲裁者を自認しており、エゴは必要だと考えた調整を何でもしてしまい、出会おうとする者達の間に調整を差し挟み、彼等を分離して彼等が合一すること(一緒になること)を阻むのです。
この巧妙な干渉が「自分達の聖なる関係をそれそのものとして認識すること」を難しくしているのです。

神聖(な者達)は真理に対して干渉しません。
神聖(な者達)は真理を怖れていません。 何故なら神聖は真理の中で自分達の神聖を認識し、自分達が見たものを喜ぶのだから。
神聖は真理を真っ直ぐに見て、自分達を真理に対して調整しようとはせず、自分達に対して真理を調整しようともしません。
だから神聖は(まずはじめに真理を何処に置こうかと自分達で決めてしまわずに)真理が自分達の中に在ることを見るのです。
神聖が見ようとしたことが質問を発しており、彼等が見た(受け取った)ことが答えたのです。
しかし「あなた」は世界を作り、世界に対して自分を調整し、そして世界を自分に対して調整させているのです。
そして(あなたの知覚認識の中では)あなた自身とそれ(世界)の間には違いがないのです。 何故ならあなたの知覚認識があなた自身と世界を作っているのだから。


シンプルな質問がまだ残っており、あなたはそれに答える必要があります。
あなたは自分が作ったものが好きですか?
殺人と攻撃の世界、常に在る危険の中を臆病に歩き回り、一人で怯えて、死がもう少しだけ待ってくれること以上の希望を持たず、それでも最終的には死が訪れてあなたが消えてしまう(このような世界をあなたは好きですか?)
あなたがこれを作ったのです。
この世界があなたが考えているあなたの絵なのです
あなたはこのようにあなた自身を見ているのです。
殺人者は恐れ戦いており、殺す者達は死を怖れています。
これら全ては「自分達自身の調整によって怖ろしく作られている世界」に対して自分達を調整しようとしているもの達の怖ろしい思考に過ぎないのです。
そして彼等は「悲しみを抱えたもの」の中から悲しみを持って外側を見ており、「そこ(外側)」に悲しみを見ているのです。

世界が本当はどのようなものかあなたは考えたことがありますか?
ハッピーな目を通して見たなら世界はどう見えるでしょう?
あなたが見ている世界はあなた自身への裁きなのです。
本当はあなたが見ている世界は、全くそこには無いのです。
しかし裁きがそれ(あなたが見ている世界)に対して宣告をしており、それを正当化しており、それを「リアル」にしているのです。
これがあなたの見ている世界で、これが(「あなた」が行なった)あなた自身に対する裁きなのです。
あなた自身に対するこの病的な絵がエゴによって注意深く保たれているのです。
これがエゴのイメージで、エゴはこれを愛しており、エゴはこれをあなたの外(世界の中)に置いているのです。
そして(この絵/世界が外側に存在していてあなたの運命がそれに依存しているとあなたが信じている限り)この世界に対してあなたは自分を調整し続けなければならないのです。

(あなたが見ている)この世界は非情です。 もしこの世界があなたの外に実在していたなら、それは確かに怖ろしいものだったかもしれません。
しかしこの世界を非情にしているのはあなたなのです。
だからもしこの世界があなたを非情な目で見ているように見えたなら、それは修正可能なのです。
聖なる関係の中に居る誰が、長く不聖なままで居られるでしょう?
神聖(神聖な者達)が見ている世界は神聖と一体なのです。 丁度エゴが見ている世界がエゴにそっくりであると同じように。
神聖が見ている世界は美しいのです。 何故なら神聖は自分達の無垢を世界の中に見ているのだから。
神聖は「世界がどのようなもの」か世界に告げました、がしかし世界に命令はしませんでした。
神聖は自分達の指令に合わせようとして(世界や自分達を)調整しませんでした。
神聖は優しく世界に訊ねて「あなたは何なのですか?」と囁いたのです。
すると「全ての知覚を見守っている者」がそれに答えるのです。


世界の裁きを「私は何なのか?」という質問への答えとして受け取るのは止しなさい。
世界は{あなたがまだ見ている世界は}罪を信じていますが、しかし「あなたが世界を見ているように世界を作っている信念」はあなたの外には無いのです(その信念はあなたの中にあるのです)。
神の子を彼(神の子)の狂気に合わせて調整しようとするのは止しなさい。
彼(神の子)の中には異邦人が居て、その異邦人は真理の家の中に不注意に入って来て、フラフラと出て行きます。
彼(神の子の中の異邦人)は目的を持っていないのです。
しかし聖霊が捧げていて(あなたが受け取っている)輝ける光の前で異邦人は消え去るのです。
何故なら異邦人には住家がなく、しかし「あなた」は歓迎されているのだから。
この浮浪者の異邦人に「私は誰か?」と尋ねるのは止めなさい。この異邦人こそ、全宇宙の中でこの答えを知っていない唯一の者なのだから。


しかしあなたは彼(神の子の中の異邦人)に尋ねており、あなたは彼の答えに従って調整しているのです。
この一つの無謀な思考が(それは強烈に傲慢で、そしてとても卑小で無意味だったので、それはそのまま真理の宇宙をすり抜けて行って)あなたのガイドに成っているのです。
あなたはこのガイドに向き合っており、このガイドに宇宙の意味を尋ねているのです。
こうしてあなたは「視力を有している宇宙{宇宙が宇宙自身を神の視点から見ています}」の中の唯一盲目な者に「私は神の子をどのように見るべきなのですか?」と訊ねているのです。
判断(裁き/正気)を完全に失っている者に判断(ジャッジメント)を仰ごうとする人が居るでしょうか?
あなたはそのような者の答えを信じて、そしてあたかもそれが真理であるかのように、その答えに従って{自分を、自分の知覚/世界/思考を}調整するのですか?
あなたが見ている世界は、それ{完全に裁きを失っている世界/とても卑小で無意味な一つの無謀な思考/分離のアイディア}があなたに与えた答えなのです。
そしてあなたはそれ{分離のアイディア}に従って世界を調整して、その答えを真実にする力を{分離のアイディアに}与えているのです。

あなたはこの狂気のため息に、あなたの不聖な関係の意味を尋ね、この狂気の答えに応じてあなたの関係を調整したのです。
それはあなたをハッピーにしましたか?
あなたは神の子を祝福するために喜んで出会いましたか? そして彼があなたに差し出した全ての幸福に関して彼に感謝しましたか?
あなた達はお互いを「神からあなた達への永遠のギフト」として見ましたか(認めましたか)。
あなた達は「自分達両者の中で輝いている神聖」が相手を祝福しようとしていることを見ましたか
これがあなた達の聖なる関係の目的なのです。
聖なる関係を達成する方法を「この関係を不聖にしようとし続けている唯一の者」に訊ねるのは止めなさい。
それに「方法や結果を調整して変える力」を与えるのは止めなさい。

長年重い鎖に繋がれて来た囚人達は、空腹で痩せこけ力弱く疲れて、長く暗闇だけを見てきた目は光を覚えておらず、自由に成った瞬間に飛び上がって喜ぶことは出来ません。
彼等が自由の意味を理解するまでには少し時間が掛かります。
あなた達は埃の中を手探ってお互いの手を見つけました。それを手放すべきか、長く忘れられてきた命を掴み取るべきか、決めかねています。
手に力を込めて、あなたの力強いコンパニオンに目を上げなさい。 彼(あなた達のコンパニオン)の中にあなた達の自由の意味があるのです。
彼はあなた達と共に(あなたの横に)磔られた様に見えています。
しかし彼(あなた達のコンパニオン)の神聖は汚されることなくパーフェクトに保たれており、あなたの横に居る彼と共にあなた達はパラダイスに入り、神の平和を知るのです。
{あなた達のコンパニオンは、あなたの横にいる人と共にあるのです。}

これがあなた達両者に対する私の意図であり(これをあなた達がお互いに対して望むことが私の意図であり)、これが彼自身{神の子自身}に対する私の意図なのです。
何故なら天国とは(怖れのヴェールが掛かっていない)パーフェクトで直接な合一(一つになった状態)そのものなのだから。
ここでわたし達はひとつに成っており、お互いを(そしてわたし達自身という一つのものを)完璧な優しさで見ており、ここではわたし達の間にどのような分離思考を挟むことも不可能なのです。
分離(状態)の中の囚人だったあなた達は、今パラダイスの中で自由に成ったのです。
そしてここで私はあなた達と一緒に成ります(合一します)。 私の友達よ、兄弟よ、私自身よ。
あなた達がお互いに与え合ったギフトが、わたし達の合一がもうすぐなされることを私に確信させました。
だからその信心を(その信心が正当であると知っている)私と分け合ってください。

パーフェクトな愛の中に恐れはありません。 何故ならパーフェクトな愛は罪を知らないから。
そしてパーフェクトな愛は自分を見るように他者を見るのです。
慈善/慈愛をもって自分の中を見ている者が、(自分の)外にどのような怖れを見ることが出来るのでしょう?
無垢な者は安全を見て、ピュアな者は神を神の子の中に見て、父のもとに導くよう子を見るのです(自分達を父のもとに導くよう神の子を見てそれに従うのです)。
そして彼等(無垢でピュアな者達)が自分達で行こうと意図した所以外に行き着くことが在り得るでしょうか?
今あなた達一人一人は、(神が自分の子を神聖に創造して、自分の子を神聖なままに保ったと同じ位確実に)自分の相手を父のもとに導いているのです。
あなたの兄弟の中には「あなた達が不滅であるという神の光の永遠の約束が」あるのです。
彼(あなたの兄弟)を無罪/潔白と見た時、あなたの中に恐れは在り得ないのです。