Nov 24, 2011

Ch02-1

THE ILLUSION OF SEPARATION
分離の幻想。


[この部分は聖書で失楽園(原罪/分離)の原因として書かれている基本的に間違った知識(情報)に関して述べているものです。]

(どの様にして分離が起こったか)これを現在の失楽園のストーリーと比べて、それ程怖ろしくない受け入れ易いものにするためのコメントが述べられています。
まずはじめに、あなたが昨夜聞いた(シェークスピアの)「真夏の夜の夢」に書かれている対句を見てください。

"Be as thou wast wont to be, See as thou wast wont to see."
「汝が(在ろうと)望んだ通りに成り、汝が見ようと望んだ通りに見る。」

(王女)タイタニアを彼女自身の(在る事と知覚する事に対する)間違いから解放した時に、オベロンがこれらの言葉を言ったことは注目に値します。
これらの言葉がタイタニアの真のアイデンティティと能力と判断(ジャッジメント)を再設立したのです。 (上記の対句とACIMの内容は)明確に同じことを示しています。

それから辞書から幾つかの言葉の定義を書き出すよう私(イエス)はあなた(ヘレン)に求めました。
これらの定義は辞書の中で一番最初に出てくる説明ではありません。しかしそれでも、これらの定義が辞書に載っていることがあなたを安心させることでしょう。


Project(投射/投影)動詞:前や外に伸ばす

Project(プロジェクト)名詞:マインド内のプラン

World(世界):自然で広大な区域。 (あなたが一番初めに“World(世界)”ではなく“word(言葉)”と書いたことに注目してください。)

 
精神病(精神異常)と精神安定(精神衛生)と投射に関することに関しては後で話します。天国からルシフェルが自分自身を投射したことに関しても後で述べます。
『人(Man)は「空の殻」を作ることは出来ても、何も創造することは出来ないこと』をわたし達は既に述べました。 
ACIMの後のセクションでは「人は神と共に創造することが出来る」と述べられており、「人は自分だけでは(神と繋がっていない限り)何も創造することは出来ない」がより正しと思われます。 訳注}

この虚無(空の殻)が、投射を誤用する為のスクリーンとして使われているのです。

聖書に庭園として述べられている「エデンの園」は、もともと庭園ではなかったのです。
それ(エデンの園)は、完全で「必要/欠乏の無い」マインド状態のことだったのです。
「人は分離以前には、何も必要とはしていなかった(何も欠乏を体験していない状態にあった)」と聖書の中で説明されていることは注目に値します。

「知恵の樹」も「知恵の樹の果実を食べること」も比喩で(この一つ前のセクションで説明されていた)知識/叡智(Knowledge)の誤用を表しているシンボルなのです。

「怖れへの寄り道」の本当の意味が完全に理解出来るようになるには、この(投射の)概念をより詳しく説明する必要があるのです。
投射とは、神が神の子に与えた神の根源的属性(根源的性質)なのです。

ACIMテキストの後続のチャプターでは、「神の行なっている投射」は「神の拡張(神が自らを差し伸べていること)」と表記されており、「投射/投影」はエゴの行なっていることを説明する言葉としてだけ使用されるように成って行きます。訳注}

創造時に、神は自身の創造能力を自身から(神が創造した)魂達へと投射したのです。 そして神は「神自身と同じように創造しようという愛の願い(意図/意志)」を魂達(ソール/Souls)にも植え付けた(吹き込んだ)のです。
「既に創造されているもの」と「創造されつつあるもの」を取り違える根本的間違いに関して、わたし達はすでに説明しています。
そして魂に関する限り、人が完全に創造されているだけではなく、パーフェクトに創造されていることに関しても、わたし達はすでに話しています。
彼(人)の中には虚無(空虚)は無いのです。
そして次のこともすでに説明されていますが、これももう一度繰り返すに値します。
魂は、それが創造者に似ている故に、創造的なのです。
神の子がこの能力(創造的能力)を失うことは不可能です。 何故なら、これは彼(神の子)の持って生まれたものだから。{創造的能力は彼の中に内在しているものだから。}

投射が誤用される度、何らかの空虚(欠乏)が存在する(生み出される)ことになるのです。
そして{神のアイディアではなく}人自身のアイディアをその空虚の中に入れ込むことが人には可能なのです。
これが何を意味しているか注意深く考えて見たなら、下記のことが明白に解るはずです。

第一に、『人のマインドが「神が創造したもの」を置き換えることが可能だ』と暗黙の内に仮定されるのです。

第二に、『「パーフェクトなもの」を「不完全/欠乏状態」にすることが可能だ』という概念が導入されるのです。

第三に、「人が(人自身を含む)神の創造を歪めることが可能だ」という信念が立ち昇り(成立し)、これが容認されるのです。

第四に、(第一/第二/第三によって)人が自分自身を創造出来るように成ったので、人自身の創造の方向を人が自分で決めることが出来る{と想定されるのです}。

これらの関連し合った歪みが「分離時に起こったこと」を象徴しているのです。
これらの歪みは、それ以前には存在しておらず、今も実際には存在していないのです。
世界は自然で広大な区域(natural grand division)として(あるいは神から外側に投射されたものとして)創られたのです。 だから神が創った全てのものは「神に似ている」のです。

Pro(認/肯定)という接頭語の反対はCon(反/否定)であることを思い浮かべてください。
だから厳密に言えばProjection(投射)の反対は、Conjecture (推定している不確定な状態、推測)であるべきです。 
(分離に)続いて始まった防御に関連(付随)して他の{原初の分離以外の}エラーが起こっており、それらに関しては後で説明します。

例えば、落胆(Dejection)は明らかに陰鬱(Depression)と関連付けられており、
注入(Injection)は所有の誤謬(特にPenetration/挿入)として誤解されるかもしれません。
そして拒絶(rejection)は拒否(denial)と明確に結び付けられて(関連付けられて)います。

拒否(rejection)が、「拒否されたものは無価値であるという知覚」を必然的に伴っている「拒絶すること」(refusing)として使用され得ることにも注目してください。
神が行った投射は、父(神)の子供達が父から継承(相続)している内的輝きに非常に似ているのです。
「外に投射する」という語句が、投射の源は内部にあることを暗示していると理解することは重要です。
投射の源は内部にあることが父/神にとって真実であると同様に、子/人にとってもそれ(投射の源は内部にある)が真実なのです。

元々「世界」という言葉は、「神による人の正しい創造」と「正しいマインドを持っている人が正しく創造している状態」の両方の意味を持っていたのです。
そして「正しいマインドを持っている人が正しく創造している状態」の為に、神が人に自由意志を与える必要があったのです。 何故なら、愛に溢れた全ての創造は自由に与えられるものだから。

これら二つの状態(「神による人の創造」と「正しいマインドを持っている人が正しく創造している状態」)内には、どのようなレベルの違いもなく、そこでは一直線上の創造しか行われておらず、そこに存在していた全ての側面(aspects)は同じ順位/レベル/状態(order)だったのです。

「蛇のウソ」が導入された時、それ(蛇が言い表したとされている状態)は真理ではなかったのでウソと言われているのです。
人が蛇のウソに聞き入っていた時、人は「真実ではないこと」を聞いていたのです。
人は、自分でウソを信じ続けようと選択しない限り、真実でないことを信じ続ける必要はないのです。
人の全ての誤創造は「目を瞬かせている間/瞬時」に消え去るのです。何故ならそれ(誤創造)はヴィジュアル(視覚的)な誤知覚(誤認識)なのだから。

人の霊的な目(スピリチュアル・アイ)は眠ることが可能です。
(しかし、この後すぐエレベーター係のボブに関して付注で書き記すように)寝ている目でもまだ見ることが出来るのです。
(クリスチャンサイエンスの創立者である)メリー・ベーカー・エディによって説明されているように、「{その時}アダムの上に深い眠りが訪れた」{旧約聖書の創世記第二部から}という表記に注意を払うことは有意義です。
聖書ではこの眠りを(エバの創造時の痛みから)アダムを守る麻酔として解釈していますが、エディー女史が言っているように「その後アダムが目覚めた」とは何処にも書いていないこと{従って神の子アダムはまだ眠り続けていると考えられること}は注目に値します。
確かにクリスチャン・サイエンスは不完全ですが、この点に関しては彼等は明確な理解を得ていました。

(人が見ている)世界の中の人の歴史は、真の完全な目覚め(再度目覚めること、再生)を示してはいません。
誤創造の意図を持って人が投射を続けている限り、目覚めは不可能です。
しかし神が自身のスピリット(霊)を人に対して投射している様に人が投射することは今でも可能なのです。 (神と同じように投射/拡張する)その可能性は今でも人の中に存在しているのです。
そしてリアリティの中では、これ(神と共に神と同じように投射を行なうこと)だけが人に可能な唯一の選択肢なのです。何故なら、自由意志とはパーフェクトな創造を行う人自身の喜びの為に作られているものなのだから。

全ての恐れは最終的には『「神の力を横取りする人の能力」に対する根源的な誤認識』に還元され得るものなのです。
しかし人にはこれ(神の力を奪うこと)を本当に行なうことは出来ておらず、未来にそうすることも不可能なのです。
上記の文章の中に、怖れから人を解放する本当の正当性(道理)が示されているのです。
これ(怖れからの解放)は人がアトーンメント(和解/贖罪)を受け入れることにより達成されるのです。 そしてアトーンメントを受け入れることにより、人は自分自身のエラーが実際には全く起こっていなかった(自分が実際には過ちを犯していない)ことを理解するのです。

アダムの上に深い眠りが訪れたその時(アダムが眠ったことが原因で)アダムは悪夢を体験する状態に陥ったのです。
もし誰かが寝ていて悪夢を見ている時に、照明が突然燈されたなら、寝ている人はその光を自分の夢の一部として解釈してしまう可能性が高いのです。
しかし彼が一旦目覚めたなら、この光が(もはやリアリティを与えられていない)夢から解放する手立てとして正しく知覚されるのです。
「汝は、行って同じようにしなさい。」という聖書の言葉で私は(この部分を)締めくくりましょう。

その(目覚めの)為には、「(ウソという果実を生んでいる)知恵の木」とは別の叡智が必要とされることは明白です。
(曖昧にするのではなく光を燈す)叡智があなたを解放する唯一の知識で、それは「あなたが自由であること」を明確にあなたに示すのです。
前出のセクション(失楽園に対する解説)が挿入されているのは、リアルな知識と間違った知識を見分けられるように成る必要があるからです。
この識別を行なった上で(上記の説明を聞いた上で)、少し前に話したエラーに(話を)戻す必要があります。 ここでもう一度説明し直すことが必要です。

 
第一のエラーは、「物理的(身体的)なもの」だけがリアルであるという間違いに関連したものです。

第二のエラーは、「人以外のもの」に関することです。

第三のエラーは、非身体的な性質を「身体的なもの」に対して与えることに関してです。

第四のエラーは、叡智(知識)の誤用に関してです。
{このセクションの後部では、これらのエラーは「精神異常の原則」と呼ばれています。訳注}

これらのエラー全ては「所有の間違い(所有に関する誤解)」に包括されるものです。
この内の{最初の}三つの間違いに対する否定メカニズムに関しては、もうある程度説明していますが、より詳しい説明を加えて行きます。]


第一の(エラーに対応している)否定メカニズムは、身体的不能力(身体障害)あるいは不能(感)なのです。

第二の(エラーに対応している)否定メカニズムは、多くの場合破産です。
物をコレクションしている人達は、往々にして自分達の経済的余裕を越えてコレクションを続けることによって「停止/中断」を(自分自身に対して)試みることがあります。
このような停止/中断のアイディアが容認されなかった場合、満たされることの無い所有欲と捨て去り続ける欲望が同時に表れるという奇妙な妥協が試みられる場合もあります。
この一例は投資家やギャンブル中毒の人達ですが、特に競馬に中毒している人達にこれが顕著に表れています。
この状態では、相反している衝動が人と物の両方から取り外されて、動物に投資されて(与えられて)いるのです。
このこと(衝動が動物に向けられていること)が暗示している「人々に対する見下し(人を無視する傾向)」が、競馬中毒者達の過度な迷信(縁起担ぎ)の原因なのです。
アルコール中毒者達もこれと共通した状況に居るのですが、彼等の敵意は外側ではなくより内側に向いているのです。

エラーを守るために行なわれている防御は特に解除が難しいのです。何故なら、これらの防御は新たな誤知覚(誤認識)を導入して、おおもとのエラーをより解り難くしてしまうから。
第三のエラーの擬似的修正メカニズムは、(防御行為が必然的にもたらす)エラーが持っているより包括的な性質故に、より有効なものとして見られるのです。 

その例題(サンプル)の幾つかを下記に示します。
a.       所有対被所有の闘争/葛藤」の一要素が支配的に成り得ます。
もし「憑依現象/Possessing」と関連付けてこれが試みられたなら、それはパラノイアな解決を導いてしまいます。
「取り付かれた状態/神がかり」の要素が「迫害」幻想を引き出してしまうかもしれず、
往々にしてこれら(神がかりと迫害の幻想)は同時に起こるものです。

b.    もし「憑依状態」が高められたなら、外的力による何らかの所有状態が起こりますが、「他者を攻撃すること」が大きく強調されることはありません。{憑依状態が高められた場合}「他者からの攻撃」がより強調されるのです。
この状態がより強烈に表されたなら「悪魔に乗っ取られた感覚」が起こり、a. 所有対被所有の闘争/葛藤」に変動(変化)が起こらない限り、パラノイア型偏執症、被害妄想)よりも緊張型分裂病方の「解決/決断」が起こりやすいのです。
より強度のパラノイア患者は自分の解決に関してより頑なで、変動から逃れる為に一つの投射源に固執するでしょう。
(追加: このタイプのパラノイアは、一つに統合しようとするその試み故に、逆さまな形の宗教なのです。)

1,2、そして4(のエラー)は、精神病状態(知覚判断思考系不全)よりも、神経症状態(ストレス系不全)を起こし易いのですが。 必ずそうであるとは限りません。
しかし3(のエラー)は、そのより根源的なレベル・コンフュージョン(レベルの混乱)故に、{1,2,4のエラーと比べて}精神病的修正により反応し易いのです。
しかし3(のエラー)によって引き起こされている大きな恐れそのものが精神病状況を引き起こし、(このエラーを起こしている)個人をより強く精神病的解決(精神病症状)へと引き付けてしまうことも可能なのです。

これらの違いは奇跡には何の効果も与えません。奇跡はこれら全てを易々と癒やしてしまうのです。
これは奇跡が基本的に「内的エラー識別{自分のマインドの中で各種のエラーを異なるものと見ること}」を避けるからなのです。
奇跡が行なうのは、真理と全てのエラーを識別することだけなのです。
だからある種の奇跡が、他の奇跡よりも偉大に見えるのです。
しかしこのコースの第一のポイント(原則)が、「奇跡には難用度の違いは無い」であることを思い出してください。

これらのノートに記されている精神異常の症状は、奇跡が行なう「解除」の側面を反映しているのです。
しかし{奇跡の}「行動」の側面の方がより重要なのです。
しかし奇跡は誤った前提の上には起こり得ません。 だから、解除が(行動より)先に起こらなくては成らない場合もあるのです。
時には(解除と行動の)両方が一度に起こることもあります。しかし現在あなたはまだこれに対する準備は出来ていません。
それから精神病に対する洞察を誤用することも可能で、その場合自分自身の症状に熱中(執着)してしまうことに成ります。
だから殆どの人達にとってこれは(洞察によって精神病を治そうとすることは)精神衛生の為に作られているコースに比べて、有用でないのです。
しかし(精神分析医を含む)精神障害などに関わっている職業の人達の中には、精神異常の原則をポジティブに応用出来る人もいるでしょう。
あらゆる形のポゼション誤謬(possession: 所有、憑依)の修正に必要/有効なのは、所有をより正確に再定義することなのです。

「取って代わる/乗り移る」というような概念は神聖なリアリティ内には全く存在していません。 そして神聖なリアリティだけが唯一実存するリアリティなのです。

自分でそう望まない限り「憑依される、乗り移られる」人は居ないのです。
しかし人が自分のマインドを({神の}権威の下ではなく)圧政(暴力的支配)の下に置いたなら、その場合その人は自分で自由意志の中に「被支配/支配」(の状況)を導入しているのです。
この状態は(自由意志と拘束を結びつけてしまうあらゆる考えが陥る)明白な矛盾を生みます。
例え穏やかな形であっても、(自由意志と拘束を結び付けて考えてしまう)このような関連付けはリスクが高く、(特に外部からのストレスを受けた場合)不意に大きく広がってしまうこともあります。
何故なら、この状態は外部の状況が平和な時にだけ、内部からコントロールすることが可能なのだから。

そして外部条件は(まだハートがピュアに成っていないかもしれない人々を含む)多数の人々の思考によって作られているので、これ(自由意志と拘束を結び付けること、自分で自由意志の中に「被支配/支配」の誤謬を導入すること)は安全な状態ではありません。

あなたは何故「彼等」の支配に屈ししまうのでしょうか?
この質問への答えが、憑依問題全体の正体を明らかにします。

人々の思考が(あるいは外的環境が)あなたに影響を与えられるとあなたが信じたなら、(人々が実際に何を考えていたかに関係無く)あなたは人々があなたを所有し得ると考えてしまいます。
{しかし本来}あなたはどのような愛が欠如した表現(憎しみ/怖れの表現)からも全く影響を受けません。
例えこれが(愛を欠いた表現)があなた自身から発せられていても、他者から発せられていても、あなたから他者に発せられていても、他者からあなたに発せられていても{あなたはその表現からは全く影響を受けません}。
(あなたがこのテストに合格して良かったです。これは重要なことでした。これはヘレンが初めのうちテキストを書き取ることを渋っていたことに言及しています。)

平和は「あなた」の中の特性(性質)なのです。
あなたは平和を外に見つけることは出来ません。
全ての精神病は(何らかの意味で)外側を探す行為なのです。
しかし精神衛生(精神の安定)は内的平和なのです。

内的平和によってあなたは、外からの愛の欠乏(愛を欠いた表現)に対面しても揺るがずに居られるのです。そしてあなた自身の奇跡を通して(他者の愛の欠如によってもたらされた)外的条件を修正することが可能なのです。

Nov 22, 2011

Ch23-5

The Fear of Life
生命に対する怖れ

『殺人が取る「形」が安全を提供出来る』とあなたは考えているのですか?
戦場から罪悪が無く成り得るでしょうか?
神への恐れは、死への怖れではなく、生命への怖れなのです。
彼(聖霊)だけが安全な場所なのです。
彼(聖霊)の中には攻撃がなく、幻想が天国の中を歩き回っていることもありません。
天国は完全に真なのです。 天国の中へは「違い」は全く入っていきません。
そして「全く同じもの」が闘争/対立することは不可能です。
あなたは「殺人へのあなたの熱望」と戦うように求められているのではありません。
あなたに求められているのは、あらゆる「形」の殺人は全て同じ意図をその中に隠し持っていることを認識することです。
あなたが怖れているのは{殺人の}形ではなく、これ(あらゆる「形」の殺人が全て同じ意図をその中に隠し持っていると認識すること)なのです。

愛で無いものは殺人なのです。 愛しないことは攻撃に違いないのです。
全ての幻想は真理に対する攻撃なのです。
そして全ての人々が「愛のアイディア」に対して暴力を振るっているのです。何故なら、それは(全ての幻想は)真理と等しく見えているから。
真理と等しく、それでいて{真理と、お互いと}「違う」ものなど存在し得るでしょうか?
殺人と愛は両立し得ません。
しかしもしそれら(殺人と愛の)両方が真理(真実)であったなら、それらは同じで、お互いから識別不可能ということに成ってしまいます。
神の子を体と見ている者達には、そう見えるのです。
何故なら、子の創造者(神)と似ているのは体ではないのだから。
そして生命に溢れていないものは、生命の子では在り得ないのだから。

体を拡張して、体に宇宙を保持させることが可能でしょうか?
体に創造が可能でしょうか? 体は「体が創造したもの」に成れるでしょうか?
「それ(体)そのもの」をそれ(体)が創造に対して捧げて、決して損失を被らないことが体に出来るでしょうか?
神は「神自身の働き」を体とは分け合いません。
神は創造の働きを神の子の上に与えたのです。 何故なら神の子は、神自身のものなのだから。
子の働きが殺人であると信じることは罪深いことではありませんが、それは狂気なのです。
「同じもの」{全てと等しく同じもの}が「違う」働きを持つことは出来ません。
創造とは神の拡張の方法なのです。
そして神のもの(神の働き)は、「神の子のもの」でもあるに違いないのです。
(だから)父と子の両方が殺人者か、でなければ、両方とも殺人者ではない(殺す働きを持っていない)に違いないのです。
生命は、死を作らず、それ自身と同じもの(似たもの)を創造するのです。

あなた達の関係のラブリーな光りは、神の愛のようなもの(神の愛に似たもの)です。
それはまだ、神が自身の子に与えた聖なる役割を担うことが出来ていません。何故なら、あなた達がお互いに与えている赦しはまだ完了していないのだから。
だから、それ(あなた達のお互いへの赦し)はまだ創造の全てには拡張出来ないのです。
(あなた達をまだ魅了している)殺人と攻撃の様々な形をあなた達はまだそれそのものとして認識しておらず、それが(あなたが全てに対して差し伸べることの出来る)癒やしと奇跡のパワーを限定しているのです。
しかし聖霊は、どの様にしてあなた達の僅かなギフトを増やして、それを強力にすればよいか理解しています。
そして聖霊は、どの様にすればあなた達の関係が戦場から引き上げられるか理解しています。

どのような形の殺人もあなたの意志/意図ではないと理解することがあなたの役割なのです。
戦場を見越す(見透かす)ことが、今あなた達の目的に成ったのです。
引き上げられて、より高い所からそれ(戦場)を見据えなさい。
そこ(あなた達が引き上げられた、より高い所)からは、あなた達の視界は全く違うものに成ります。
ここ(戦場の只中)では、これ(闘争)がとてもリアルに見えています。
ここ(戦場)において、あなたは自分がその一部に成ることを選んでいるのです。
ここにおいては、殺人があなたの選択なのです。
しかし上からは(上においては)、あなたは(殺人ではなく)奇跡を選択しているのです。
そしてこの選択から来る視点/視界が「紛争はリアルではなく、そこから簡単に抜け出ることが出来る」とあなたに示すのです。
体は争うかも知れません。 しかし形の衝突は全く無意味です。
そしてそれ{父と子の闘争}が決して起こらなかった、とあなたが気付いた時にそれは終わるのです。

戦いに関わっていながら、戦いが存在していないと知覚することが可能でしょうか?
殺人を選択しながらも、奇跡の真理を認識することが可能でしょうか?
(あなたのマインドを暗く殺人的にしてしまう)攻撃の誘惑が沸き起こって来たなら、上から戦いを見ることがあなたには出来ることを思い出しなさい。
あなたには認識出来ない形(で攻撃が起こっていた場合)でも、あなたはその印(攻撃のしるし)を良く知っています。
(攻撃が起こっていた場合)痛みの一突きがあり、罪悪の呵責があり、そして何よりも平和が消えてしまうのです。
あなたはこれを(このような状態を)良く知っています。
こうなった場合、高い場所から去るのではなく、直ぐに殺人ではなく奇跡を選びなさい。
すると神自身と天国の全ての光が優しく傍に来てあなたを支えてくれます。
何故なら、その時あなたは「彼(神)があなたを据えた場所(神があなたに与えた場所)」に留まることを選択しているのだから。
そして幻想には「神の平和と一緒に神の子を攻撃すること」は出来ないのです。
戦場内から誰かを見ようとするのは止めなさい。 そこから人を見た場合、あなたはどこでもない場所からその人を見ているのです。
あなたが戦場内から人々を眺めていた場合、(そこから見て「あなたが見ているもの」に対する意味を理解することを可能にする)参照点をあなたは持っていないのです。
何故なら、体だけに攻撃や殺人が可能で、もしそれらがあなたの目的であった場合、あなたはそれら(攻撃している体)と一つであるに違いなにのだから。
「{神の聖なる}目的」だけが統合を可能にし、目的を分け合っている者達は一つのマインドを分け合っているのです。
体そのものには目的はなく、それは孤独であるに違いないのです。
それ(体の孤独)を下から(戦場内で)克服することは不可能です。
上から見た場合、戦闘中の人達にそれ(体)が与えている限定は消え去り知覚されません。
体は、「父」と「(父が子の為に創造した)天国」の間に立ちはだかっているのです。{戦場内ではそのように見えているのです。} 何故ならそれには目的がないから。{何故なら、聖なる目的を神と分け合っているのはあなた達のマインドで、(あなた達を限定しているように見えている)体は聖なる目的を現していないから。}

「父の目的を分け合って(受け入れて)それが自分達のものだと知っている者達」に何が与えられているとあなたは思いますか。
彼等は{戦場からは}何も求めません。 {彼等には}どの様な悲しみも在り得ないのです。
彼等が愛している光だけが(彼等の)意識の中にあり、愛だけが彼等の上に永遠に燈っているのです。
これ(光/愛)が彼等の過去であり、現在であり、未来なのです。
それは常に同じで、永遠に完璧で、完全に分かち合われているのです。
彼等は、自分達の幸福が損なわれることは不可能だと知っています。
もしかしたらあなたは、何かあなたが勝ち得るものが戦場にあると考えているかもしれません。
(あなたが戦場で勝ち得る)それは、あなたにパーフェクトな静けさと、とても深く静かで(それ故にあなたの確信を濁らすことは不可能な)愛の感覚を捧げられるものでしょうか?
(あなたが戦場で勝ち得る)それは、永遠に存続するものでしょうか?

自分達の意識(マインド)の中に神の力を宿している者達には、戦いは決して考えられないのです。
(戦いを考えた場合)自分達のパーフェクション(完璧性)を失う以外に彼等に得られるものがあるでしょうか?
何故なら、戦場で考えられる全てのことは体に関すること(体が提供していたり所有していたりするように見えているものに関すること)だから。
自分が全てを持っていると知っている者が、限定を求めることは在り得ず、体の捧げ物(体が提供しているように見えているもの)を尊ぶことも在りません。
征服の無意味さは、戦場の上に現れている静かな階層/領域を見れば明らかです。
何が全てと対立/闘争出来るのでしょうか?
より少ないものを捧げ、より多く熱望され得るようなもの(より限定されたものを与えながらもより強く求められるもの)がそこ(戦場)に在り得るでしょうか? {いいえ。それは不可能です。}
自分自身が神の愛によって支えられている時 、「奇跡と殺人のどちらを選ぶべきか決めることは難しい」と誰が思うでしょうか?