Oct 29, 2011

Ch22-7

Freedom and the Holy Spirit
自由と聖霊

 
あなたは体の自由とマインドの自由のどちらを求めていますか?
あなたは両方を得ることは出来ません。
どちらにあなたは価値を見ているでしょう。 どちらがあなたのゴールなのでしょう?
どちらか一方をあなたは方法として見ており、もう片方をあなたは目的として見ています。
そして一方(方法として見られているもの)がもう片方(目的として見られているもの)の為に奉仕し、(目的として見られている)片方が優勢に成り、(方法として見られている)一方の重要性を軽減することにより(目的として見られている)片方の重要性が増すのです。
方法が目的に仕えており、目的が達成されるに従い方法の価値が軽減されます。そして方法が役割を持っていないと認識された時には、その方法は完全に消される(手放される)のです。
自由を求めたらな、それを探そうとしない人は居ません。
しかし人は、そこに自由が在る(だからそこで自由を見つけることが出来る)と自分で信じている場所を探すのです。
人は「マインドの自由」か「体の自由」か、そのどちらか片方だけが可能だと信じて、「自分が選ばなかった方」を「自分が選んだ方」の為に奉仕させて、自分が選んだ自由を探させようとするのです。

体の自由が選ばれている所では、マインドが方法として使われており、マインドの価値は体の自由を達成する方法を企画するその能力にあるものとされます。
しかし体の自由には意味がないのです。
だから(体の自由を追求している)マインドは幻想に仕えるように成ってしまいます。
この状況はとても逆説的で不可能なものなので、これを選んでいる人達全員は、何が価値あるものなのか全く解らないのです。
しかし(あまりに深く記述不可能な)この混乱状況内でも、聖霊は優しい忍耐を持って待ち(彼が彼の創造者の愛に確信を持っていると同じ位)結果に対する確信を持っているのです。
彼(聖霊)は、(愛が愛を大切にしていると同じ位)「彼の創造者にとって大切な人」によってこの狂気の選択がなされていることを知っているのです。

神が愛しているものの中で(神がそれを永遠に自由にしておきたいと考えているものの中で)方法と結果(目的)の役目を彼(聖霊)が簡単に取り替えられることを考えて恐れるのは止めなさい。
そうではなく「あなた」が「彼/神」の目的に奉仕する方法と成れることに感謝しなさい。
これが自由へと導く唯一の献身(奉仕)なのです。
この目的に仕える為には体を無罪と知覚する必要があるのです。 何故なら無罪がゴールなのだから。
矛盾の不在によって、方法から目的への優しい変換が(赦しに満ちた目の前で憎しみが感謝へシフトするのと同じように)容易になるのです。
あなた達の体を無罪だけに仕えさせることにより、あなた達はお互いによって清められるのです。
そして『「あなたが癒やそうとしているもの 」に仕えているもの』をあなたが憎むことは不可能です。

この聖なる関係は、無垢な中で愛らしく、その力は万能で、あなた達の空を照らしている太陽よりも遥か強い光で輝いていて、父自身のプランの実現方法としてあなたの父によって選ばれているものなのです。
これが(聖なる関係)が全く「あなた{個人}のプラン」に仕えていないことに感謝しなさい。
聖なる関係に提供されているものは何も誤用出来ません。
聖なる関係に与えられているものは何も{あなたのプランによっては}「使われない」のです。
この聖なる関係は、全ての痛みを(それがどのような形で表れていたとしても)癒やす力を持っています。
あなた達のどちらも、自分だけで(神のプランに)奉仕することは全く出来ません。
あなた達の繋がった意志の中にだけ癒やしがあるのです。
何故なら、ここに「あなた」の癒やしが在り、ここであなた達がアトーンメント(贖罪/和解)を受け入れるのだから。
そしてあなた達の癒やしの中で、神の子の共同体(Sonship)が癒やされるのです。 何故なら、あなた達の意志は繋がっているのだから。

聖なる関係の前では罪は存在していません。 エラーの形はもう見られていないのです。
そして愛と繋がった理性が全ての混乱を静かに見据えて「ここに間違えがある」とだけ観察するのです。
そしてあなた達が自分達の関係の中に受け入れたアトーンメントが、エラーを修正して、{エラーが起こっていた}その場所に天国の一部を嵌め込むのです。
このギフトが与えられることを可能にしたあなた達は何と祝福されているのでしょう?
あなた達が持ち寄っている天国の各部分が、「あなた」に与えられているのです。
天国の中の全ての空き場所は、あなた達が持ってくる永遠の光で再度満たされて、それが今「あなた」を照らすのです。
無罪の方法が怖れを知ることは出来ません。何故なら、無罪の方法は愛だけを持って行く(持って来る)のだから。

平和の子供達よ、光があなた達のもとに来ています。
あなたが持って来ている光りをあなたは認識していません。 しかしあなたは今でも(その光りを)覚えています。
自分自身で他の人達のもとに持って来ているヴィジョンを自身に対して否定出来る者が居るでしょうか?
自分自身を通して自分で天国に置いたギフトを認識出来ない人が居るでしょうか?
あなたが聖霊に与えた優しい奉仕は、あなた自身に対する奉仕なのです。
今彼(神)の方法に成っているあなたは、彼(神)が愛するもの全てを愛しているに違いないのです。
あなたが持って来ているものとは、永遠なもの全てに対するあなたの記憶なのです。
無時間(永遠)に仕えているマインドの中に「時間の中にある何かの跡」が長く残ることはありません。
「平和の方法と成った関係」の平和を妨げられる幻想はありません。

あなた達が完全な赦しと共にお互いを見た時(そこからはどのエラーも除外されておらず、何も隠されていません)、あなた達に見越せない(見通せない)何らかの間違いがどこかに在り得るでしょうか?
どのような苦しみの形があなたの視界をブロックし、あなたがそれを越えて見ることを妨害出来るのでしょうか?
間違いとしてあなたに認識出来ないどのような幻想が在り得るのでしょう。(あなたは、幻想というその影の中を怖がることなく通りぬけられるのです。)
神は何者にも「神の意志を持っている者達」の邪魔をさせません。
そして彼等(神の意志を持っている者達)は自分達の意志が神のものであると認識するのです。 何故なら彼等は神の意志に仕えているのだから。
こうして自分から神の意志に仕えるのです。 どうして神の意志が彼等の意志でないことが在り得るでしょう?
そして「彼等が何か」ということに関する記憶が長く遅れること(押さえ付け続けられること)が可能でしょうか?

あなた達は自分達の価値をお互いの目を通して見るのです。 (そこに居ると考えられていた攻撃者の代わりに)そこに自分の救済者を見るにつれ(自分の救済者をそこに見た)それぞれの人達が解放されるのです。
(人々の)この解放を通して世界が解放されるのです。 これに仕えることが、平和をもたらすあなたの役割なのです。
何故なら、あなたは「ここでの自分の役割が何か」訊ね、その答えを得たのだから。
これ(この答え)を変えようとするのは止めなさい。 そしてこれを他のゴールで代用しようと(置き換えようと)するのも止めなさい。
このゴールがあなたに与えられており、この目的だけがあなたに与えられているのです。
これ(この答え/ゴール)を受け入れて、これに意欲的に仕えなさい。 
何故なら、あなた達がお互いに与え合うギフトを使って聖霊がいつどこで何をするか、聖霊が誰にそれ(ギフト)を与えるかは、彼(聖霊)次第なのだから。

彼(聖霊)は、それら(ギフト)が喜んで受け取られる所にそれを授けるのです。
彼(聖霊)は全てのギフトを平和の為に使います。
一つの微笑みさえ、僅かの間違いをやり過ごす親切心さえ、誰からも失われません。
これは「あなたの父が愛しているもの」を慈善をもって見ようとする宇宙的祝福以外の何で在り得るでしょう。
赦しを拡張すること(差し伸べること)が聖霊の役割なのです。 この役割を聖霊に任せなさい。
あなたは「拡張出来る(差し伸ばせる)もの」を聖霊に与えることに専念しなさい。
彼(聖霊)に使う事の出来ない暗い秘密を保つことなく、彼(聖霊)が永遠に拡張し続けられる小さなギフトを彼 (聖霊)に捧げなさい(与えなさい)。

彼(聖霊)は全ての人を取り入れて、それを平和の為の有用な力にするのです。
彼(聖霊)はそれ(全ての人達の総体)に対して祝福を惜しまず、それをどのような方法でも限定しようとはしません。
彼(聖霊)はそれに「神が彼(聖霊)に与えた全ての力」を繋げて、それぞれの小さな「愛のギフト」を全ての人達の為の癒やしの源にするのです。
あなたが他者に与えるそれぞれの小さなギフトが世界を燈すのです。
暗闇を心配するのは止めなさい。そこから目を逸らして、お互いを見なさい。
そして光を知っている彼(聖霊)に暗闇を追い払わせ、あなた達がお互いを祝福する信心と自信の優しい微笑みの中にそれ(光)を静かに置きなさい。

あなたの(この)学習に世界の幸福が掛かっているのです。
そして傲岸だけがあなたの意志を否定しようとするのです。
神の意志が無力だとあなたは考えるのですか? そう考えることが謙虚なのでしょうか?
この信念(神の意志が無力だという信念)が何をしたかあなたは知りません。
{この信念故に}あなたは、あなた自身を無防備で傷付き易く簡単に壊れてしまうものと見ています。
そしてあなたは自分よりも力強い無数の攻撃者達のなすがままに成っていると信じています。
このエラーがどのようにして起こっているのか正面から見てみましょう。
何故なら、ここに「神に対する怖れを保っている重い錨(それは動かしようが無く、岩のように硬いのです)」が埋まっているように見えているから。
これ(神の意志が無力だというエラー)が残っている限り、そのように(あなたが脆弱に)見えるのです。

誰が、神を攻撃することなく神の子を攻撃出来るのでしょう。
神の子がか弱く脆弱で簡単に破壊出来るなどということが在り得るでしょうか? 神自身がそうでない限り。
あなたが知覚し正当化している全ての罪と断罪が、あなたの父に対する攻撃であることをあなたは知っていません。
だからそれ(罪/分離)は起こりえず、リアルではなかったのです。
それがあなた自身の試みであったことがあなたに解らないのは、父と子が分離しているとあなたが考えているからです。
そして怖れ故に、あなたは父と子が分離していると考えざる得ないのです。
何故なら、偉大な宇宙の創造者(その偉大な力をあなたが知っている者)を攻撃するよりも、他者やあなた自身を攻撃するほうがより安全だと見えたから。

あなたが彼(神)とひとつである時、そしてこの一体性を認識している時、あなたは彼(神)の力が「あなた」のものであると知るのです。
しかし「何らかの形の攻撃に何か意味がある」とあなたが信じている限り、あなたはこれを思い出しません。
これ(攻撃)には意味が無いので、これ(攻撃)は全く正当化出来ないのです。
あなた達各人がお互いから分離しており、あなた達の創造者からも分離していた場合にのみ、これ(攻撃)が正当化出来るのです。
何故ならその場合にのみ「創造の全てを攻撃することなくして、創造の一部だけを攻撃すること」が可能に成るのだから。 父の居ない子を攻撃することが出来るように成るのだから。
その場合にのみ、あなた自身を攻撃から除外して他者を攻撃したり、他者に痛みを感じさせること無くあなた自身を痛めることが可能に成るのです。

この信念をあなたは求めていたのです。
しかし安全の中から攻撃したいという願望以外に、これに価値があるでしょうか?
攻撃は安全でも危険でもなく、不可能なのです。
何故なら、宇宙はひとつだからです。
攻撃することによって始めて、宇宙がその創造者から分離していると見ることが可能にならなかったなら、あなたは宇宙のリアリティを攻撃しようとはしなかったでしょう。
だから(あなたが宇宙のリアリティを攻撃して、宇宙とその創造者を分離して見ているので)愛に攻撃することが可能で、愛が怖ろしくなれるように見えているのです。
「違う者」だけに攻撃することが可能なのです。
「あなたには(他者を)攻撃することが出来るので、あなたは(あなたから攻撃を受けている他者とは)違うに違いない」とあなたは結論付けるのです。
しかし聖霊はこれに違う説明を与えるのです。
「あなた達は違わないので、あなたは攻撃出来ない。」{これが聖霊の説明です。}

「違う者達」に攻撃することが可能であるならば、どちらのポジション(意見)も論理的な結論です {「違う者達」に攻撃することが可能であったならば、聖霊の説明も「違う者/エゴ」の説明も論理的に成り立ちます}。
どちらの結論も保持することが可能ですが、両方の結論を保持することは不可能です。
どちらが正しいのか答える為に訊ねる必要がある質問は「あなた達が違うかどうか」です。
あなた達が理解しているポジジョン(地点)からは、あなた達は違っているように見えており、従って攻撃出来ているように見えています。
二つの選択肢の中で、こちらの意見の方があなた達にとってはより自然で、あなた達の体験とも一致しています。
だからあなたは(今までの体験とは)違う体験(より真理に沿った体験)をする必要があるのです。 何が自然で真理かあなたに教える体験が必要なのです。
これがあなたの聖なる関係の役割なのです。
{あなた達の関係の中では}「一人が考えたこと」をもう一人が(考えた)彼と共に体験するのです。
これは「あなた達のマインドがひとつである」という意味なのです。

このハッピーな事実を怖れを持たずに見なさい、そしてこれがあなたに重い荷を背負わせていると考えるのは止めなさい。
何故なら、あなたがこれを喜んで受け入れた時、あなたの関係が「創造者とその子の合一」を反映していることをあなたは理解するのだから。
(全てを)愛するマインドからは、どのような分離も起こりません。
そして一人の抱く全ての思考がもう片方に喜びを与えるのです。 何故なら、彼等は同じなのだから。
喜びは無限です。 何故なら、愛の輝ける思考はそれぞれその存在を拡張し、それ自身をより多く創造するのだから。
その(愛の)中にはどこにも違いが無いのです。 何故なら全ての思考はそれ自身に似ているのだから。

あなたと繋がる光が宇宙全体を照らすのです。
そしてそれ(光)があなたと繋がっているので、それ(光)があなたとあなたの創造者をひとつにしているのです。
そして彼(神)の中で全ての創造物が繋がっているのです。
「愛の力がそこに在る」とあなたの関係が(あなたに)教えて、全ての怖れを不可能に出来るのに、あなたはもう一人で怖れることが出来ないことを悔やむのですか?
このギフトと共にエゴを少し保とうとしてしまうのは止めなさい。
何故ならこのギフトは「使用される」為に与えられており、不明瞭にする為に与えられているのではないのだから。
「あなた達は分離し得ない」とあなたに教えるものが、エゴを否定するのです。
あなた達が同じか違うか、それは真理に決めさせなさい。 そして「あなた達が違う、あなた達が同じ、のどちらが真理か」真理があなたに教えることを許可しなさい。

Oct 28, 2011

Ch22-6

 Ch22-6のテキストは一番最初はSpecial Messagesのセクションに書かれていましたが、後日このセクション(Chapter22)に移され、その後にChapter18内に移動されました)

I Need Do Nothing
私は何もする必要がない

テキスト内容に関してはCh18-8 "I Need Do Nothing"を参照してください。
http://availabenotes.blogspot.com/2011/08/ch18-78.html

Ch22-5

Weakness and Defensiveness
弱さと防御性

人はどのようにして幻想を克服するのでしょうか? 
もちろん力や怒りによってではありません。 そして幻想に対して反対することによって、それを克服出来る訳でもないのです。
「それら幻想がリアリティに反している」と理性があなた告げることを許すことによって幻想が克服されるのです。
「それら幻想は真理であるべきことに反しています。 そしてそれらに対する反対も、リアリティからではなく、幻想から来ているものなのです。」(と理性があなたに告げるのです。)
リアリティは何に対しても反対/対立しません。
純粋に存在するものは防御を必要とせず、防御を提供もしません。
幻想だけが、その弱さ故に、防御を必要とするのです。
弱さだけが邪魔をしている時、真理の道を歩むことが難しいでしょうか?
「あなた」がこの闘争に見えている状態の中の強者なのです。 そしてあなたは防御を必要としていません。
防御を必要としている全てのものは、あなたが欲するべきものではありません。
何故なら、防御を必要とする全てのものがあなたを弱くしてしまうのだから。

エゴが何の為に防御を必要としているか考えてみなさい。
常に真理に反するもの(理性に逆らうもの)を正当化しようとして、(エゴは)道理に適ったことが言えない(出来ない)のです。
これが(エゴのこの振る舞いが)正当化(弁明)出来るでしょうか。
これは(あなたを真理から救おうとする)狂気への招待以外の何で在り得るでしょうか?
そして「あなたが怖れているもの」以外の何からあなたが救われることが可能なのでしょうか?
罪に対する信念は、大いなる防御と巨大なコスト(支払い)を必要とします。
(罪を信じる為には)聖霊が提供している全てのものに対して防御して、聖霊が提供している全てのものを犠牲にしなくてはならないのです。
何故なら罪は、あなたの平和から刻み出されているブロックで、平和の帰郷(返還)とあなたの間にこのブロックが置かれているのだから。
しかしどうしたら、平和がかように細かく分けられるのでしょうか?
平和は依然として健全/十全で、平和からは何も奪われていないのです。

邪悪な夢の方法と素材が無(何でもないもの)であることを見なさい。
実際には、あなた達は一緒に立っており、あなた達の間には何も無いのです。
神があなた達の手を取っています。「彼と一つのものとして彼が繋げた者」{神と一つのものとして神が繋げた者}を何が分離出来ると言うのでしょうか?
あなたは、自分の父に対して自分を防御しようとしているのです。
しかし愛を除外しておくことは不可能です。
(無防備な)静けさの中で神はあなたと共に安らいで居ます。何故なら、この静かな状態の中にだけ{神の}力とパワーがあるのだから。
ここにはどのような弱さも入って来れません。何故なら、ここには攻撃がなく、従ってここには幻想がないのだから。
愛は確信の中で安らいでいます。 不安(不確定性)だけが防御的に成れるのです。
そして全ての不安(不確定性)は「あなた自身」に関する疑いなのです。

怖れとは何と脆弱で卑小で無意味なものでしょう!
愛が繋げた者達の静かな力の前では、それらは何と取るに足らないものでしょう!
これがあなた達の「敵」(怖がって宇宙を攻撃しようとしている鼠のようなもの)なのです。 
それが「成功」する可能性があるでしょうか?
自分の全能の力を言い立てるその脆弱な金切り声を無視することが難しいでしょうか?
宇宙全体の全てのハートがひとつになって永遠に歌い続ける「創造者を称える賛美歌」をかき消そうとしている、この脆弱なキーキー声を無視することが難しいでしょうか?
どちらがより強いのでしょう?
この小さな鼠ですか? それとも神が創造した全てのものですか?
あなた達はこの鼠によって繋げられているのではなく、神の意志によって繋げられているのです。
そして鼠に「神が繋げた者達」を騙すことが出来るでしょうか?

あなた達とあなた達の合一の間にあるもの(あなた達の合一を隔てているもの)がとてもわずかなものであることにあなた達が気付きさえしたなら!
それ(あなた達とあなた達の合一の間にあるわずかなもの)が掲げる幻想の基盤のサイズ(大きさ)や幅、重さ、硬さ、堅固さに騙されるのは止めなさい。
しかし体の目にとっては、これが巨大で堅固な山のように動かせない体に見えるのです。
でもあなた達の中には力があり、幻想が(あなた達の中の)この力に抵抗することは不可能なのです。
この体(あなた達とあなた達の合一の間にあるわずかなもの)は動かせないように見えているだけなのです。
真理の中では(あなた達の中にある)この力に抵抗することは不可能です。
であれば、これら両者(真理とあなた達の中の力)が出会った時何が起こるのでしょうか?
硬直状態の幻想を、(幻想の中を)静かに通り抜けてその先に到達するものから、長いこと守り続けることが出来るでしょうか?

次のことを忘れないでください。
(何かに関して/何かに対して)防御的になる必要が立ち昇ってくることを感じている時あなたは、あなた自身と幻想を自己同一視しているのです。
そしてあなたは弱く感じるのです。 何故なら(その時)あなたは一人なのだから。
これが全ての幻想のコスト(代償)なのです。
全ての(幻想は)あなた達がお互いから分離しているという信念に基づいているのです。
全ての幻想の中で、重く硬く動かせないものがあなたと兄弟の間に立ちはだかっているように見えているのです。
真実はその(全ての幻想の)上を軽く簡単に渡って行くことが可能で、(あなたが以前それをどう考えていたかに関わらず)それが無(なんでもないもの)であるとあなたは確信せざる得なくなるのです。
もしあなた達がお互いを赦したなら、これが起こるに違いないのです。
何故なら「あなた達の間に立ちふさがっているように見えているもの」を無視出来ないあなたの意志(意識)が、それを無敵に見せており、それが動かせないという幻想を守っているのだから。