Aug 13, 2011

Ch17-7~9

Practical Forgiveness
赦しの実際(実践)

聖霊の目的を実行することはとてもシンプルで、そして絶対的なものです。シンプルに実行するためには聖霊の目的を絶対的なものとしなければならないのです。
シンプルとは簡単に理解出来るということです。だからこれはクリア(明快)なのです。

聖霊のゴールは総括的/抽象的なものとして設定されています。
聖霊はあなたと協力してこれ(ゴール)をよりハッキリさせ実際的なものにするのです。 何故なら実践は実際的なものだから。
聖霊は全ての状況に対してとても特定の実際的なガイドライン(指示)を与えます。 そしてあなたはまだ聖霊のゴールが全てに当て嵌まることを理解していません。
だから(あなたがそれぞれの状況の先まで見通せるようになるまで、あなたの今の理解よりも広い視点が得られるまで)現時点では各ガイドラインをそれぞれの状況に個別に当て嵌めるべきなのです。
あなたを悩ませている全ての状況内ではまず一番初めに「ここで私は何を望んでいるのだろう?{ここで私は何をのぞむべきなのだろう?}これは何の為なのだろう?」という質問を考慮するべきなのです。 一番初めにゴールを明確にするべきなのです。 
{一番初めに、聖なる関係(良きこと)をゴールとして受け入れ望むべきなのです。}
何故なら、明確に理解されているゴールが{あなたが体験する}結果を決めるのだから。

しかしエゴのプロセスはこの逆なのです。 エゴのプロセスの中では、どうにでも在り得る(成り得る)状況が結果を決定しているのです。

この様な乱雑なアプローチ(手法)が行なわれる理由は明白です。
エゴには、自分が何を求めているか解らないのです。エゴにわかるのは「自分が何を求めていないか」だけなのです。エゴはポジティブなゴールは持っていないのです。
{ここのポジティブなゴールは何ですか?と父に訊ねることによって}明確でポジティブなゴール(目標)を初めに設定していないので、状況がただ襲い掛かって来ているように見え、その状況が終るまでその意味が解らないのです。
物事(状況)が終ってしまって初めて、あなたはそれを振り返り、その意味(理由)が何だったか調べようとするのです。 
そしてその時あなたが考え付いている理由は間違っているのです。
あなたが考えた理由は過去の判断であり、そしてあなたは何が起こるべきだったかさえも知らないのです。
何故なら、初めにゴールが{聖なる関係がゴールとして}設定されておらず、それによって方法を定めることがされていないからです。 

だからここで出来る唯一の判断は、エゴがそれを(その関係を)気に入っているか(それともエゴが復讐を求めているか)どうかだけなのです。
あらかじめ結果に対する判断基準を決めていなかったことが、理解を難しくしており、評価を不可能にしているのです。

あなたが求めている出来事を{あなたが求めるべきこととして父があなたに示したことを}(それが起こる前に)あらかじめ決めておくことの価値は、「これをすることによりあなたは(それ以降に発生する)状況を、あなたが求めている出来事を発生させる方法として知覚認識する」ということです。 {つまりあなたが求めている出来事をあらかじめ決めておくことによって、ネガティブな知覚認識が起こらなくなるのです。}
これによりあなたは、ゴール(目的)の達成を邪魔するもの全てを無視することに全力を費やし、ゴールの達成を促進するすべてのことに集中するのです。
このアプローチ(手法)を使うことで、「聖霊が真理と間違いを見分けている」方法にあなたが近づいていることが明白に解るでしょう。(このアプローチでは)「真理は」ゴールをもたらす為に使えるものになるのです。 そしてこの視点からは「間違い」は「無用なもの/無効なもの」になるのですこのアプローチをとることにより状況に意味が与えられますが、それはゴールが状況に意味を与えたからなのです。

これ以外にも真理のゴールには実際的な利点があります。
もし状況が真理と正気の為に使われたなら、その結果は平和に違いないのです。
そしてこれは結果がどうであるか(結果が人々にどう受け取られていたか)とは全く関係ありません。
何故なら、もし平和が真理と正気の絶対条件で、真理と正気が無い限り平和が成立し得ないなら、{状況がどの様に知覚/認識されていたかに関わらず}平和が在る所には真理と正気が在るに違いなのです。
真理はそれ自体で存在しており、それ自身から発生しているのです。
従ってもしあなたが平和を体験しているなら、それはあなたのもとに真理がやって来たからなのです。
そしてあなたは結果を正しく見るのです。 何故なら(真理を自分のゴールとして設定している)あなたが騙されることは不可能なのだから。
そして(真理を自分のゴールとして設定している)あなたは平和の状態にあるので、この結果を認識するのです。
これもまたエゴの見方とは正反対のものなのです。
何故ならエゴは状況が体験を発生させていると考えているから。
しかし聖霊は「実際にはゴール(目標)として定められている通りの状況が起こっており、それがゴールに従って体験されているのだ」ということを知っているのです。

真理のゴールには信心(信じる心)が必要なのです。
聖霊の目的を受け入れるためには信心が必要不可欠なのです。
そして信心とは全てを内包した総括的なものなのです。
真理のゴールが設定されている所には信心も在るに違いないのです。
聖霊は状況のその全体を(一つのまとまりとして)眺めています。
これに関わっている全員がその役目を達成するという事実をゴールが確立しているのです。
これは避け得ようのないことで。 失敗する人は誰も居ないのです。
真理のゴールは「あなたの信心」以上を、そして「あなたに与えられること」以上を求めているように見えます。
しかしこれはエゴの視点からそう見えるだけなのです。
何故ならエゴは分離する(切り分ける)ことにより闘争/矛盾を解決出来ると信じており、状況全体を一つのものとして知覚認識することがないからです。だからエゴは状況を細かく切り分けて、その一つ一つにバラバラに対処しようとするのです。何故なら{状況を全体的に(全体として)知覚していない}エゴは分離に信心を与えており、全体には信心を与えていないから。

難しく見える状況に遭遇した時、エゴはその様子(要素)を別の場所に持って行き、そこで問題を解決しようとします。 {エゴは、あなたの分離したマインドの中に問題を持って行き、それをそこで解決して解決策を導き出します。)これは成功したように見えるのです。
しかし合一(Unity、一体性)と対抗しているこの試みは、真理のゴールを不明瞭にしてしまうのです。
その場合、平和は幻想の中でしか体験出来ないのです。その場合、真理は出てきません。 何故なら(信心が本来属しているところから隔てられてしまって)信心が否定されているのだから。
こうしてあなたは(真理のゴールが発生させている)状況に対する理解を失ってしまうのです。 何故なら幻想がもたらす解決は幻想体験しか起こさないから。 そして偽りの平和はそこに真理が入って来れる条件を満たしているものではないから。
{上記の文章は、エゴが偽りの成功という幻想体験を作ってしまっており、あなた達はその幻想を体験している、と言っているようです。訳者}

状況内の各要素を代用品{自分の思考/概念}で取り替えてしまうことは、あなたの信心の不足を証明しています。
それは「問題と解決が同じ場所に存在している」とはあなたが信じていなかったことを示しています。 この信心の欠如が問題なのです。 
{「問題と解決が同じ場所に存在している」とあなたが信じていないことが問題なのです。}
あなたが問題(状況の一要素)をその源から切り離して他の所に持って行った時、それはあなたが信心を欠いていたことを証明して(デモンストレートして)いるのです。
その結果あなたは問題を見ていないのです。
この問題は解決出来るという信心{孤児としてではなく、聖霊と繋がった神の子としてみんなと一緒に解決出来るという信心}をあなたが持っていたなら、問題は消えて行ったことでしょう。
そして状況はあなたにとって意味深いもの(実りの多いもの)に成っていた筈なのです。
何故ならその場合(これが解決出来るという信心をあなた達が持っていた場合)、理解への障害が取り除かれた筈なのだから。
問題を他の場所に(それが発生している場所以外の所に){あなた達の分離しているマインドの見方の中に}持って行こうとすることは、その問題を保ち続けることなのです。 何故ならその場合、あなたは自分自身をその(状況/問題の)中から外す事でその問題を解決不可能にしているのだから。

Need for Faith 信心の必要

どの様な状況であろうとも信心に解決出来ない問題は存在していません。
問題のどの要素であっても、それをシフトしてしまえば、解決は不可能に成ります。もし問題の一部を他の場所にシフトしたなら問題の意味(本質)が失われてしまいます。 しかし問題の解決はその意味の中に{問題/状況が提示している意味の中に}含まれているのです。

あなたの全ての問題はすでに解決されており、あなたが自分をその解決から切り離していることは在り得ないでしょうか?
あなたの信心は、何かが行なわれた場所、何かが行なわれていることをあなたが見ている場所にあるに違いないのです。
状況とは複数の思考が繋がって出来ている関係なのです。
もし問題が知覚認識されているなら、それは複数の思考がぶつかって争っていると判断されたからに違いないのです。
しかしもしゴール(目的/目標)が真理であるなら、それは(複数の思考が争うことは)不可能です。
(問題が認識されている場合)そこには体のアイディア{分離している積りでいるエゴのアイディア/体に対する思考}が忍び込んでいるに違いないのです。 何故ならマインド{聖なるマインド/全体的マインド}には攻撃することは出来ないから。

体(複数形)の思考は不信心の証です。 何故なら体には何も解決することは出来ないのだから。そしてこれは(体の思考は)関係の中に入り込んで邪魔するものであり、状況に対するあなたの思考エラーがあなたの信心の欠如の言い訳に成るのです。
あなたはこのエラー(間違い)をするでしょう。 しかしそれを心配する必要はありません。
{あなたは、自分のことを体という他の者から隔たれている存在と考えており、その前提の上に解決を求めていることでしょう。}

このエラーは問題ではないのです。 しかしあなたの利益(優位)を確保する為にこのエラー(誤解)を使おうとするのは止めなさい。 何故ならそうしようとしてしまうことが問題なのだから。
{個人の利益を優先することは止めなさい。}
不信心が信心の前に引き出された時、それが信心の邪魔をすることはありません。しかし信心に対して不信心を使った場合、信心は常に壊されてしまいます。
{他者を操って個人の利益を確保しなくては安全が得られ無いという不信心を使った場合、他者を攻撃して自分の安全を確保しなくては成らないという不信心を使った場合、信心は壊されてしまいます。}
あなたの信心が不足しているなら、それが失われた所{状況説明/知覚認識を聖霊とエゴのどちらに訊ねるかあなたが選択している所}でそれが修復されるよう求めなさい。 あたかもあなたから不正に信心が奪われたかのように、それ以外の場所(あなたの信心が失われた場所以外の所)で信心があなたの為に作り上げられることを求めるのは止めなさい。 
{あなたが何かを疑っているなら、その真の原因はあなたの選択の中に在るのです。 あなたの外に疑いの原因を求めるのは止めなさい。}

どの状況であれ、あなたが与えていないものだけがその状況内で不足し得るのです。 {どの状況であれ、自分の源を認識しようとするあなたの意欲だけが、その状況内で不足しているものなのです。}

しかしこのことを覚えていてください: あなたの関係のために神聖のゴールが設定されており、それはあなたによって設定されたのではないのです。
神聖は信心を通してだけ見えるものなので、そしてあなた達のお互いに対する信心はとても乏しく限られたものなので、あなたの関係は神聖なるものではなかったのです。 だからあなたがこのゴールを設定したのではないのです。
設定されているゴールを達成する為にあなたの信心は大きく育つ必要があります。ゴールのリアリティはあなたの信心が育つことを求め呼び出すのです。何故ならあなたは平和と信心は常に一緒にやって来ることを見るのだから。
どのような状況の中で信心を持たずにいて互いに対する信頼を保つことが出来るのでしょう?
あなたの全ての状況は、(あなたの関係の為に設定されている)目的を満たす為の方法でしかないのです。
それ以外のものとしてあなたの関係を見たなら、あなたはその時不信心なのです(神に信頼を与えていないのです)。

あなたの不信心(疑う心)を使うのは止めなさい。それを自分の中に受け取り、静かに眺めてみなさい。 しかし疑いを使うのは止めなさい。不信心は幻想の召使であって、その主人の(幻想の)忠実な僕なのです。
不信心を使ったなら、それはあなたを幻想に直接導くことでしょう。それがあなたに与えようとしているものに誘惑されるのは止めなさい。
それは(ゴールに対して邪魔するのではなく)あなたがゴールに与えている価値に障害を与えるのです。
不信心が捧げている幻想の平和を受け取るのは止めなさい。その捧げものを見据えて、それが幻想であると認識しなさい。
信心が真理と繋がっているように、幻想のゴールは不信心と強く繋がっているのです。
(あらかじめ真理に対して献身されている/捧げられている)何らかの状況内で誰かがその役目をパーフェクトに満たすことに対する信心をあなたが欠いていたなら{現象が現れるよりも前に信心を与えることがあなたに出来ていないなら}、あなたの献身は分離してしまっています。
だからあなた達はお互いに対して不信心なのです。 そしてお互いに対して不信心を使っているのです。

関係が神聖である為には、その神聖がその関係と共に全ての場所に行く必要があるのです。何故なら神聖と信心は同時に成立するものだから、関係とそれに対する信心も同じで、関係が行く全ての場所に信心も行くに違いないのです。
ゴールのリアリティは、それ(ゴール)が成就する為に必要とされる全ての奇跡を呼び出しそれを達成します。
何も小さ過ぎることはなく、大き過ぎることもなく、細か過ぎることはなく、重過ぎることはなく、弱過ぎることはなく、激し過ぎることはなく、全ては優しくその目的の為に使われるのです。
宇宙が喜んでこの目的の為に便宜を図り、この目的が宇宙の為に便宜を図るのです。
しかし邪魔をするのは止めなさい。
あなたの中に設定されている力は(聖霊のゴールが設立されている者の中では)無限に対するあなたの卑小な概念を遥かに超えているものなのです。 だからどれだけ偉大な力が自分と共にあるのかあなたには理解出来ていません。

そしてあなたはこれを(この力を)完全な安全の中で使うことが出来るのです。
しかし(星を越えてその彼方の宇宙まで届く)その偉大な力にも関わらず、あなたの不信心が僅かでもあれば(あなたがこの力の替わりに不信心を使ったならば)それは不能になってしまうのです。
これに関して考えて見なさい。 そして不信心の原因を学びなさい。
{不信心の原因は}『「他者があなたにしたこと」を理由にあなたが他者を非難している』とあなたが考えていることなのです。

しかしあなたが彼を非難している本当の原因(理由)は「あなたが彼に対して行なったこと」なのです。
それが(あなたの不信心が)彼を非難している原因は、彼の過去の行いではなく、あなたの{過去の}行い故なのです。
そしてあなたの過去故に、あなたは彼を疑っているのです。
しかしあなたは(彼同様に)過去に自分であったものから無罪なのです。
実際に起こらなかったことには原因がなく、それは存在しておらず、それが真理の邪魔をすることもないのです。
だからそこには不信心の原因は存在しておらず、信心の原因がそこに在るのです。

この信心の原因が、その目的を分け合っている全ての状況内に入って来ています。
状況の中心から真理の光が輝いており、真理の光りが「この状況の目的が呼び掛けている全ての人」に触れています。

あなたの関係全体(の全要素)が全ての状況に対して完全に関わっているのです。
あなたが自身のどこか一部でもこの関係の外に置いたなら、この状況を神聖に(十全に)保つことは出来ません。
何故なら状況はあなたの関係全体の目的を分け合っており、そこから(あなたの関係全体の目的から)その意味(その存在理由)を届けているのだから。
あなた達はお互いに信心を与え合いながら状況の中に入って行くべきなのです。でなければあなたは自分の関係に対して不信心なのです。
この目的があなたから信心を求めており、あなたの与えた信心があなたの目的を受け取り分かち合うよう他の人達に呼びかけるのです。

そしてあなたは「一度は自分を幻想に導く為にあなたが使っていた方法」が「真理の方法」に変換されることを見るのです。
真理は信心を求め、信心は真理のための空間(余裕)を作ります。
聖霊が(あなたの目的を彼の目的で置き換えて)あなたの関係の目的を変えた時、彼(聖霊)がそこに置いたゴールがあなたの入って行った(そしてこれから入って行く)全ての状況へと差し伸ばされた(拡張された)のです。
このようにして全ての状況が(それを無目的にしていた)過去から解放されたのです。

全ての状況内をあなたと共に歩んでいる彼故に、あなたは信心を求めたのです。
あなたは最早完全に狂気ではなく、孤独でもないのです(孤立してもいないのです)。何故なら神の中では孤独は夢でしかないから。
あなたの関係は聖霊のゴールを分け合って(受け入れて)おり、あなたは孤独から守られています。 何故なら真理が入って来たのだから。
それ(真理){あなた達の関係}は力強く信心を求め呼びかけています。
それに対して不信心を使うのは止しなさい。何故なら真理はあなたを救済と平和へと導いて行くのだから。


The Conditions of Forgiveness
赦しの条件

聖なる瞬間は、全ての状況の本来在るべき姿でしかないのです。
聖霊の目的がそれ(聖なる瞬間)に与えた意味(見方)が全ての状況にも与えられているのです。
それは信心が真理の呼び掛けに答えられるように成るまで不信心(疑い)を保留すること(不信心を遠ざけ使わないこと)を呼び掛けているのです。

聖なる瞬間は輝けるサンプルなのです。それは全ての関係の意味をクリアに疑いよう無くデモンストレートし、全ての状況の全体を見ているのです。
信心は状況の全ての側面(要素)を受け入れました。そして(あなた達の)不信心はそれにどのような排除(限定)をも加える事は出来ていません。
これはパーフェクトに平和な状況です。 それはあなたがその状況をそれそのままにしたからです。 (それは、状況がその真の姿のままで在り続けることをあなたが許可したからです。)
聖霊があなたから求めているのは、このシンプルな挨拶(認識)だけなのです。 真理がそれそのものとして現れる(存在する)ことを許可しなさい。
真理を変えようとしたり、攻撃したり、(現われ出ようとしている真理を)中断しようとしたりするのは止めなさい。
真理が全ての状況を包み、あなたに平和をもたらすことを許しなさい。
(その時点においては)あなたから信心さえも求められていないのです。 何故なら真理は何も求めないから。
真理が入って来ることを許せば、平和の為にあなたが必要としている信心を(真理が)呼び出し、それをあなたの為に確立します。
しかし真理に逆らって立ち向かうことは止めなさい。 何故なら真理はあなたの抵抗に反して入ってはこれないから。
あなたは全ての状況を聖なる瞬間にしたいと思いませんか?
信心のギフトとはこのようなもので、不信心が使われずに脇に退けられた時自由に与えられるものなのです。
その時(疑いの目的の力ではなく)聖霊の目的の力が自由に使えるようになるのです。
この力が瞬間的に全ての状態を「彼/聖霊の目的を確立してそのリアリティをデモンストレートする一つの継続的で確実な方法」へと変換するのです。
すでにデモンストレートされていること(状態)が信心を求めており、求められている信心が与えられたのです。
そして今これが事実に成り、そこから信心を遠ざけて置くことは最早出来ないのです。
真理に対して信心を与えることを拒否し続けるストレスは巨大で、あなたが理解しているよりも大きいのです。
しかし真理(真実)に対して信心で答えれば、ストレスは全く生まれません。

自分の救済者(贖い主)の呼び掛けを認識したあなたにとって、彼(聖霊)の呼び掛けに呼応しないことは、以前よりも大きなストレスとして見えています。
しかし実際にはそうではありません。
以前からストレスはそこにあったのです。 しかしあなたはその原因を何か他のことに求めていたのです。 そして「何か他のこと」がこのストレスを作っているのだ、と考えていたのですが、これは決して真実ではなかったのです。
しかし「何か他のこと」が作ったのは悲しみと憂鬱と病と痛みと恐怖の薄暗いイメージと寒い怖れの幻想と灼熱の地獄の夢だったのです{そのように解釈されていたのです}。
しかし実際にはそれらのイメージは、あなたが真実に対して信心を与えることを、そして真実の明確なリアリティを見ることを拒否していたことから来る耐え難いストレスだったのです。

神の子の磔とはこのようなことだったのです。
彼(神の子)の不信心がこれを彼自身に対して行なったのです。
彼に対して不信心を使う前に注意深く考えなさい。
何故なら彼は蘇り(立ち上がり)、あなたは彼の目覚めの原因をあなた自身のものとして受け入れたのだから。
あなたは彼の救出(贖い)に対する自分の役割を受け入れました、そして今あなたは彼に対して完全に責任を負っています。
今彼を見捨てるのは止めなさい
何故なら、彼に対するあなたの信心の不足があなたにとってどの様な意味があるか認識させるためにこの状況が与えられているのだから。
彼の救済だけがあなたの唯一の目的なのです。
全ての状況においてこれだけ(彼を救済することだけ)を見るようにしなさい。そうすれば全ての状況は、これだけを行なう方法に成るのです。

真理をあなたの関係のゴールとして受け入れた時、(あなたの父があなたに平和を与えていると同じ位確実に)あなたは平和を与える人に成ります。何故なら、平和の条件を抜きにして平和のゴールを受け入れることは出来ないからです。
そしてあなたは平和のゴールに対して信心をすでに持っているのです。 何故なら自分でリアルだと信じていないことを受け入れられる人はいないから。

 [あなたの目的は変化しておらず、これから変化することもありません。何故なら「あなたが受け入れたもの」は「決して変化し得ないもの」だったのだから。
そして「それ(あなたが受け入れたもの)が永遠に不変であるために必要とされているもの」を「あなたの目的」から遠ざけておくことはもはや出来ないのです。]

あなたの解放は確実です。
あなたが受け取ったように、あなたは与えなさい。
そして「あなたを押し留めてしまおうとする、あなたを彼から遠ざけて置こうとする(しかしあなたは彼の呼び掛けに答えたのです)」どの様な状況をもあなたは遥かに超えていることをデモンストレート(表明)しなさい。

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