May 21, 2012

権威問題など

authority issue)に関して
1994年 Princeville, Hawaii 会合からの抜粋


質問: イエスとしてのあなたの役割に関して質問があります。
あなたは足弱な人を立たせ、らい病者を癒やし、ラザロを蘇らせ、社会問題にも答えていました。
そしてわたし達の思考レベルを高め、わたし達が神の愛を認識出来るようにして、(神の)癒やす能力を示しました。 これらのあなたの役割に関して話して下さい。
 

ラジ: あなたの質問の一部は権威問題と関連しています。
何故ならあなたが聖書の中に読んだことから明白であるように、私は人間的状況に対する{父の}権威を表現していたのです。  身体であろうとも、海であろうとも、重力であろうとも{父の権威がそれらの上にあるのです}。

"And the word was spoken, and it was done."
[そして言葉が話され。それがなされた。]

そこにはプロセスが無いのです。  


"The word of God is quick and powerful, and mightier than a two-edged sword,"
[神の言葉はパワフルで迅速で諸刃の剣よりも強い。]

これが(私の人生を通して)デモンストレートされていたのです。
 しかしそれは現在とは異なる時間と場所の中でデモンストレートされていたのです。
いいえ!! 言い直しましょう。

それは現在とは異なるマインドの枠組み内でデモンストレートされていたのです(それは現在の人々とは異なるマインド状態にある人達に対するデモンストレーションだったのです)。

「当時のマインド状態」では神が本当はどのようなものか全く知られていませんでした。
当時の人達は「幾つもにも分離した{そして時には神々同士で対立しており、必ずしも慈悲深くは無い}神々が居る」と考えていたのです。
当時は神を(あるいは神々を)喜ばせようとして犠牲(生贄)を捧げたりもしていたのです。
神の唯一性(神がひとつであること)さへ明確に理解されてはいなかったのです。

確かに少なくともユダヤ人達は{旧約聖書という}歴史を持っており、彼等には神の唯一性は事実として認められていました。
しかし異邦人達(非ユダヤ人達)にはそのような確信がなく、彼等はそのような概念さえ持っていなかったのです。
現在では多くの人達が安らかにこれを受け入れていますが、「この唯一の神が全能であること」も当時は余り理解されていませんでした。
 
確かに(何らかの形で)神に対する微かな信念が当時そこにあったのですが、そこには神格(Godhead)の唯一性に対する信念があったのですが、
しかしそれ(ひとつの慈悲深い全能の神が居ること)は当時広く信じられていた「神に対する認識」ではありませんでした。

だから当時のキリストの役割は「神の唯一性(Singularity of God - 神がひとつであること)に対する気付きをシッカリと打ち立てること」だったのです。
そして(ひとつである)神の全能と、そして日々の生活の中での神と人々の関わりを示し、「(例え一人だけであっても)神と共にある人こそがマジョリティ(有効)」であって、だから人々はもう犠牲を捧げるなどのプロセス(儀式)を通して神々を崇め祭り(気まぐれで嫉妬深い)神々のご機嫌を伺う必要はないのだと示すことがキリストの役目だったのです。

今日のキリストの役割は当時のキリストの役割とは異なっているのです。何故なら今日人々のマインド状態は当時の人々のものとはだいぶ違うのだから。
 

権威問題に関しては以前にも話しています。
今は「神の権威をあなた達一人一人が(あるいは特定の人が)自分固有の権威(権限)として表現し体現するべき時」ではないのです。

今日人類は(まだある程度の無知を示していたとしても)2000年前の状況から遥か先に来ているのです。
今日の無知は2000年前の無知とは種類が違うのです。
だから今日の無知を修正する真理も、2000年前に無知を修正していた真理とは違うものになるのです。

"If ye have the faith of a grain of mustard seed, you can say unto this mountain, get thee hence," and the mountain will move."
[あなたに芥子種ほどの信心があった場合(あなたがホンの僅かでも信心を持っていた場合)、あなたがこの山に対して「汝よここに来なさい」と言ったなら山が動くことでしょう。]という聖書の言葉について私は過去に説明したことがあります。

"You can't move a mountain that isn't already moving" – 「既に動いていない山をあなたが動かすことは出来ない。」と私はその時説明しました。

それは今朝私が言った「カヤックが川の中に置かれたときの説明」と同じ意味です。

つまり既に起こっている動き(父の動き)にあなたが自分を譲っていない限り、あなたはその創造の動きに参加出来ないのです。

現在エゴからくる間違った権威感覚がとても強く成っています。
このようにしてモダンなスピリチュアルの教え(形而上学/メタフィジックス)の多くは、神に訊ねることなく、神の名前の権限を使って何かをしようとしているのです。 動きの中に自らを譲ることなく{神の権威を使って何かをしようと試みているのです}。

だから基本的に『病気に向かって「ここから出て行きなさい」と云って自己の聖なる権威を主張すること』を私は誰にも勧めていないのです。 何故なら...

人々は今日故郷のとても近くまで来ています。(2000年前に比べて)完全にリアルに成るポイントの直ぐ近くに来ているのです。
あなた達は「自分達が故郷から遠ざかった第一ステップ(神からの独立宣言)」を取り消す寸前まで来ています。
そして独立の主張(独立意志の挿入)を解除する特定の行動とは、(現在の自己感覚を放棄して)もう一度父の意志に譲り始めることなのです。

天国の門を通り抜けることを目的として権威を執行するのではなく、プライベートな意図を放棄する方法として神の意志に自らを譲り、そうすることによって神の意図があなたに届くように、神の意図が衝動としてあなたに感じられるように、あなたが感じている神の意図という衝動があなたを正気に運んでいけるように{父の意志に譲るのです}。
これ(父に譲ること)が理性的に感じられても感じられなくとも、人々が(特にメタフィジカルなことを行なおうとしている人達が)これを好ましいと思わなくとも、これが真実なのです。

私はあなたを騙そうとしているのではないのです。私はあなたに真実を述べています。 あなたは私がネガティブなこと(あなたの能力を否定すること)を言っていると受け取ってしまうかもしれませんが。あなたはこれを「自己成就するネガティブな預言(自己実現的予言=何かを言う事によってその言われたことが現実化すること)と受け取ってしまうかもしれませんが。
私がこれ(あなたは神の意志に譲らなくてはならないこと)を言わなかったとしても、それでもこれ(メタフィジカルな試みの失敗)は起こるのです。

{メタフィジカルな学びを行なおうとしているあなたが}失望し自分が袋小路にいると気付いた時、{自らの意志を神の力で通そうとすることよりも}より正しい道があると知らせるために私はあなたにこれを伝えているのです。
 
世界に対する個人的権威の執行は、(メタフィジカルな手法やより一般的な方法を使って)世界に対してあなたの主権を主張することは、崩壊し始めています。 それは崩壊し続けていくでしょう。

それは何故でしょう?
何故ならあなた達はそれ(メタフィジカルな手法)から学ぶべきことを既に学び終えているからです。
 
第一に人々は一つの神がいることを知る必要があったのです。木々の中に独立した神々が宿り、湖に孤立した神々が宿り、動物達の中に{独立自立した}神々がいるのではなく、『「全てを内包している愛」である無限の一知性』があり、その動きが創造であり、この神以外に神はないと知る必要があったのです。 これが神の唯一性なのです。

それからあなた達は(“意識の発達”の上で)神が有効であることを知る必要があったのです。
ここで私が“意識の発達”と言っているのは、天国に対する偏見に満ちた知覚(バイアスの掛かった認識)を持つことをあなた達が選んだからです。{だから意識が発達する必要が生まれたのです。}
だから「明晰(創造に対する明晰な理解)から離れる動き」とそれに続いて「明晰に戻る動き」が表れたのですが、しかしそれら全ては{本当は全て同時に起こっているのです}。
しかし「放蕩息子の放逐と帰還として見えていること」に対する説明が出来るよう、私は(あたかも時間が実在しているかのように)比喩的に話しているのです。

神と人の関連性(神が人と密接に関わっていること)を実演する為に、「いまここ」と神の関連性をデモンストレートする為に、私がやって来ていたのです。
そして私が言葉を言った時、言葉がなされたのです。 そして人々が神の有効性/関連性(人々の生活に対する神の力の関与)を体験出来たのです。これは想像上のこと(幻想)ではなかったのです。
何年も足の悪かった男が(人々が見知っていた足弱の男が)癒やされるのを人々は見たのです。
これは神の力と神の現れの体験だったのです。と同時にこれは「神が人に与えた地の全てのもの」に対して神の主権が成り立っていることを示す実演だったのです。

これはあなた達の為に(当時の人々の為に)便宜を図ることだったのです。
これが当時のあなた達のマインド状態にとって必要なことだったのです。
マインドを学習させるために、当時の人達の信念を打ち破るための学習プロセスとして、このこと(私の行なった奇跡)が必要だったのです。

それから私は "If you have seen me, you have seen the Father." [あなたが私を見たならば、あなたは父を見たのです。]とも言いました。
私がこう言った時私の弟子達は「同じ真理が彼等自身に対しても当て嵌まること」を理解していました。 「あなた達がお互いを見たなら、あなた達は父を見たのです。」
 「父」は(神々ではなく)ひとつの神であると示すだけでなく、「父」は怒りの神ではなく愛の神であると示す必要があったのです。

これは新しいことだったのです。
人々が怖れる怖がる必要のない「力ある神(神が万能であること)、人々が信頼することの出来る神、人々の味方である神」というアイディアは(当時の人々には)新しいものだったのです。
私は「あなたにはパワフルな援軍(協力者)が居る」というアイディアを当時の言葉で表明していたのです。

当時は「ひとつの神が存在している/神はひとつである」という事実さえまだ完全に理解されては居なかったので、神の出現を十全に表現することは不可能だったのです。
それでもそれは(私が述べた言葉は、私の行った奇跡は)癒やしの目的を果たしていたのです。
瞬間的癒しが瞬間の中の(人々の生活と関連している)神の力をデモンストレートしていたのです。

ある意味では、そこで言われていた全てはコード(符丁)だったのです。
「当時の人々の便宜を図ること」とはこのことを言っているのです。
私が話していた寓話は、当時の人々が把握できるコード(彼等に受け入れられる表現)で真理を言い表していたのです。

今日も私はコード(あなた達が受け入れられる理解出来る表現)を使って話しています。
理解(認識)を誘発し点火するシンボルを示し、「わたし達が話して来たこと」をあなたが信頼しそれに決意を与えられるようにしようとしているのです。(この意図は今も昔も変わりません。)
 

世界がどうであろうともキリストの役割は同じなのです。
このような動き(キリストの教えの伝達)が起こっていて、そして今から150年程前に{よりモダンな}メタフィジカルな教えが起こりました。 

それは(無限のマインドである神と人々が「マインド」として繋がることが可能であるが故に)神の出現がどれだけ近しい(親しい)ものか示すことだったのです。

『「神が決して耽溺しなかったこと」に人々が(自分達が)耽溺していると「考える」ことにより全てをダメにしていること』が人々に理解出来る様にしていたのです。
だからクリアに知性的に「考える」ことによって自分達の生活が変る、クリアな思考が変化をもたらすと人々は学んだのです。
 

しかしそれらはまだ全て(神に対する人々の理解を促進するよう)便宜をはかることだったのです。

なぜ人々はこれ(神に対する迷信に左右されないクリアな思考)を学ばなくてはならなかったのでしょうか?
人々は、マインドのレベルで明確に体現された知性には好ましい直接的効果がある(好ましい結果が得られる)ことを体験を通して体感レベルで学ぶ必要があったのです。

なぜこれが重要だったのでしょうか?
神に対する人々の概念が「怒れる神」である限り、神という無限のマインドへ自分達を譲る(これが次のステップなのです)勇気が持てなかったのです。
神が時には祝福し恩寵を与え 時には(彼等の成長の為に)苦しみを与えていると考えられていた場合(それは馬鹿げたウソか、怖れに満ちたエゴから来ているのですが)、その神に対して譲ることが出来るでしょうか?

神の唯一性を理解するだけでなく、神が無限のマインドであることを理解出来なくては、人々が自分達の権威の主張(これが正しいのだという自分達の思考)を放棄して「神という無限なマインド(これが人々の正しいマインドであり人々の故郷なのです)」の中に自らを譲って行くことは出来ないのです。

信頼と共にそれ(神の意志)をデモンストレートしそれ(自分の思考)を放棄しそれ(神の意志)に譲ることが出来るように、人々はデモンストレーション(体験)を通して神の本質と性質を知る必要があったのです。 

世界や病に対する主権や権利を主張出来ているかのように振舞い続けたのでは、(今までは{ある時点までは}神の主権を表明し神の真理を体現して来た)「分離した自己感覚」を放棄する地点(境地)には到達出来ないのです。

ひとつ明確にしておきたいのですが、私は「病を抱擁しなさい。病を受け入れなさい」とは言っていません。
先日ある人が「病を抱擁するべきですか?」と訊ねた時、私は「いいえ。あなたはあなたの問題を愛しておらず。あなたはあなたの病を愛していません。」と言いました。
あなた達は病を「神の子には相応しくないこと/不当な重荷」として認識しています。{それは正しいのです。}

しかし現在のあなたの自己感覚から来る権威を使って(メタフィジカルに)病を追い払おうとするべきではありません。

まずあなたは「病が神の子に相応しくない不当なことだ」と認識し、その上で「神の主権を言い立てるプライベートで分離したポジション」は主張しないことにより、「あなたという神の子」があなたに届く場所に行くのです。 

あなたは「神を反映していない不当なこと」に対して同意するべきではないのです。
あなたは「神を反映していない不当なこと」は否定するべきなのです。
しかし怖れと共に否定してはいけません。

あなたはそれ(病/病状)が神の真理とは一致しないことを認識し、従ってそれが幻想に違いないことを認識するのです。
「リアルな意味(その場所の中の神の現れ)を認識する度量(キャパシティ)をあなたが持っている場所」にあなた自身を導かせるのです。 するとあなたは癒やしを見るのです。
それはあなた自身が権威を執行したからではなく、「権威を執行して追い払わなければならないようなこと」は何もリアルには起こっていないからなのです。

「神のパーフェクション(完璧性)に対するあなたの意識があなたに明確に成っている場所」の中にあなたが自分を譲るのです。 何故ならその時あなたは分離した視点/見方は放棄しており、神の視点があなたを満たし、「あなたの正しマインド」があなたに成っているのだから。

これはとても重要なことです。あなたがこの質問をしてくれて私は嬉しいです。
何故なら「時は変化しているのだから」。
これは本当は「マインドの枠組みが変化している」ということなのです。
それ(マインドの枠組み)は前ほどは硬直しておらず、それはもう以前ほど初歩的ではないので、だから(私が2000年前にしていたように)簡素な寓話で話さなくても良いのです。


しかし私は今日も寓話的に話しています。
私の言っていることと現在のあなたの体験がどう関連しているか良く理解されるように、そして「現在あなたが体験している自己」からあなたがより迅速により容易に解放されるように。

今日それ(幻想からの解放)はとても簡単になって来ているのです。
私が保証しましょう。 (人々から拒否されてしまうことなく真理を言う為に)真理が隠されている必要はもうそれ程ひどくはないのです。

この質問をしてくれてありがとう。このテキストを読んだ人達もあなたがこの質問をしてくれたことに感謝することでしょう。
 

私は2000年前の自分の人生の後期に次の文章を言いました。

"The works that I do, shall ye do also. And greater works than these, because I go unto the Father."
[私がしている仕事をあなた達もまたするだろう。それ以上に偉大な仕事もするだろう、何故なら私は父のみもとに行くのだから。]

私の人生が「神の教え」や「人の真実」を表現していただけでなく、私の人生そのものが人の目覚めのプロセスを表明しデモンストレートしていたことを知っておいてください。
私が述べた文章(私がしている仕事をあなた達もまたするだろう。それ以上に偉大な仕事もするだろう、何故なら私は父のもとに行くのだから。)は、私がした仕事(瞬間的癒やしを行なったこと、瞬時に実現する言葉を与えたこと)に言及しているのです。

この文章の後部をあなた達はまだ誰も真に理解していません。
この文章の前部があなた達の形而上学的発達を促進したのです。


"The works that I do shall ye do also, and greater works than these, because I go unto the Father."
[私がしている仕事をあなたもまたするだろう。][そしてそれ以上に偉大な仕事もするだろう、何故なら私は父のみもとに行くのだから。]


わたし達はこの三日間何を話して来たのでしょうか?
わたし達は「父のもとに行くこと」に関して話して来たのです。
「静寂の中に入って行くこと」とは「父のもとに行く」という意味なのです。

私は人間的意識の中に存在しながらも父のところに行き父のもとに留まったので父に対する気付きが人間意識の中に打ち立てられ、こうして私がその人生の中で体現した全てによって(癒しという愛の変容の表現として)「世界はこうあるべきである」と言う機会を人々は得たのです。
しかし全ての人々は『現在の自分達の自己感覚から「世界を与え続けること」を止めるポイント』まで到達し、父のもとに行かなくてはならないのです。
 
これが上記の文章“私がしている仕事をあなたもまたするだろう。そしてそれ以上に偉大な仕事もするだろう、何故なら私は父のみもとに行くのだから。”の意味なのです。

そしてこれが全ての人達が現在居る場所なのです。 何故ならこれが(父からの分離を解除する)「故郷への最後のステップ」なのだから。
 
現在わたし達があなた達全員に対して「お帰りなさい!」と言うことが殆ど可能になっているのです。
わたし達は「仕事」や「より偉大な仕事」をし続けようとしている人達に対して、そのような成長段階(個人の視点/ポジションに留まって仕事を続けること)には必要以上に長くは留まり続けないよう指示しているのです。

そのステージには拘り続けず、次の段階に移るよう説得しているのです。
父のもとに行くために(自分の権威は)手放すよう言っているのです。
 

「{私が通り出てくる}ドアをブロックしないこと」によりポールはコレをしているのです。

聖書の詩編の中には 

"Lift up your heads, O ye gates; and be ye lift up, ye everlasting doors; and the King of glory shall come in."  

[門よあなた達の頭を上げなさい、永遠のドアよ持ち上げられなさい、そして栄光の王が入ってきます。]と書いてあります。

あなたが「神が輝き通る場所」なのです。 これ(神が通り出てくるドアに成ること)が神の子の役割なのです。
だからあなた達が自身の中に入って聞いている時、あなた達は(神の意志を通す)ドアとして立っているのです。
 
私も(ポールと共に)ドアとして立っています。
その結果としてあなた達は父を聞いているのです。
そしてポールがドアとして立っている時あなた達は父を見ているのです。

そして(あなた達がドアとして立っていたとしても、いなかったとしても)あなた達がお互いを見ている時あなた達は父を見ているのです。
その時あなた達が{父の意志の表明を可能にする}ドアとして立っていたなら、父の現れが(父の存在が)そこに体験出来るのです。
あなたが「父のもとに行っている時」、あなたは「あなたであるもの(あなた本来の姿)」のもとに帰って来ているのです。
そして「あなたであるもの」とは「父があなたという特定意識に成っていること」なのです。

私が使っている言語故に「父」と「あなた」が二つの分かれたものとして聞えるかもしれませんが、{父があなたに成っていることとは}それぞれのアイデンティティを失うことなく、それでいて分離不可能な合一(Unity)の体験なのです。 しかしあなたが神との合一を体験している時「アイデンティティ」という言葉は無限に新しい意味(神)を持っているのです。

あなたが「神」という言葉に成る訳ではありません。
それは動きなのです。 神の動きの意識体験が「あなた」なのです。
神の動きの意識体験がこの瞬間のあなたなのです。
だからあなたが卑小な存在から偉大な存在に卒業する(移動する)わけではありません。
あなたはただ「あなたがリアルだと考えて来た卑小さは幻想であった」と発見するだけなのです。
それがあなたの偉大さ(巨大さ)を暴き示し、(今まで真で在り続けてきた)あなたの全体を照らし出すのです。

だから人類全体は「父のもとに行くこと」を体験するポイントに居るのです。
それは何故でしょう? あなたはまだ意識的にこれ(「父のもとに行くこと」)を選択していないかもしれないのに何故なのでしょう?

それは夢(幻想)に対して自分の決意(信任)を与えている人達の数がもう十分多くなく、夢を保持し続けることが出来なくなって来ているからです。
兄弟姉妹の共同体全体内で夢に対する決意(信頼)が無くなって来ているので、夢は統一性を失くしつつあるのです。
夢の状態(幻想状態)の中で統一感を作り続けるには、夢への決意(確信)が不足しているのだから。

だから(葡萄園の働き手の寓話のように)「遅く来たお寝坊さん達(今から目覚めの兆しを得始める人達)」も「朝早くから自分達の目覚めの為に働いてきたあなた達」と同時に目覚めるのです。
 
だから私があなた達に教えて来たことが、夢を崩壊させることを促進しているだけでなく、目覚めに積極的に参加することを意識的に選択することも奨励しているのです。
そしてこの選択は「あなたの意志(あなた個人の意図)を使わない選択」をすることなのです。これは意図的に選択権を(あなたの最上の論理と思考の観点から導かれている選択を)放棄する選択なのです。

だから{ある意味では}今は2000年前とは違うのです。
目覚めを目前にしている人達に対してキリストが言うことと、まだ夢の中にドップリ漬かっている人達に向かってキリストが言うことは異なっているのです。



そしてこの機会にA Course In Miraclesについて現在問題提起されていることに関しても私は話しましょう。
ACIM{の出現}は世界の中で起こっている聖なる出来事で、それは夢を打ち破ることで、それは完全にユニークで、それは今までに起こったどのような事とも関連していない、という主張がされています。
私(イエス)がこの著作者であることはこの本を読めば明白であるけれども、「ACIMのイエス」は「聖書に書かれているイエス」とは相容れないという主張をしている人がいます。

それに関して私はあなたにこう尋ねましょう。
「もしACIMのイエスと聖書のイエスが相容れない(両立し得ない)のであれば、何故コースがイエスに言及しており、何故イエスがコースの著作者であるという主張がなされているのでしょうか?  何故コースの中で私の弟子への言及がなされており、聖書の中に書かれている私の言葉がコースの中にも書いてあるのでしょうか?」

その理由はコースのイエスと聖書のイエスには関係/関連があるからなのです。
この関係が「各世紀間を跨ぐリアルな存在の繋がり」を設立しており、それが神のデザインの中で「時々の各信仰」を一つにするのです。
つまり「時の外にあるデザイン」の中で「リアルな存在」が一つに成るのです。
 
ACIMは聖書のイエスとは関係無いという主張をしている人」がコースをとても愛していて、その試みがどれだけ誠意に満ちたものであっても、「2000年前に深く眠っている人々に話しかけていたキリスト」を「今日故郷へ帰る一歩手前に居る人達に話しかけているキリスト」と無関係にしようとすることは愚かなことです。

神の統一的デザインがあなた達の中でどれだけ細分化されているように見えても、神の唯一性が「全く関連していないように見える様々な人生」に分かれているように見えても、キリストとACIMには関係がある(そして全ては全てと関係している)と全ての人達が知ることが重要なのです。

私がこう言っているのは、あなたは自分の意志を使って「人々に対するあなたの振舞い」を正直に正しくリアルにすることが出来るからなのです。
あなたがこれをした時全ての人々が神聖であることをあなたは発見します。 人々がそれ(人々自身の真実)をあなたに告げることが出来ても出来なくても、人々が叡智の場所からこれ(彼等自身の真実)をあなたに告げられなかったとしても{あなたはあなたの意志を使って「人々に対するあなたの振舞い」を正直に正しくリアルにすることが出来、それによって人々が神聖であることをあなたは知るのです}。

この答えはこれで終わりです。

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