Nov 6, 2011

Ch23-2

The Irreconcilable Beliefs
両立しない複数の信念

神の記憶は静かなマインドにやって来るのです。
神の記憶は闘争/葛藤があるところには来れません。何故なら「それ自身と争っているマインド」は永遠の優しさを思い出せないから。
戦争(争い)の方法は、平和の方法ではありません。
そして「好戦的な者達」が思い出そうとするものは愛ではないのだから。
{他者を打ち負かそうとする}勝利」の信念が望まれていない限り、戦争は不可能です。
あなたの中に現れている葛藤/闘争は、「勝利する力をエゴが持っている」とあなたが信じていることを示しています。
そうでなければ何故あなたはエゴとの自己同一視を行なったのでしょう?
{そうでなければ、あなたがエゴと自身を同一視することはなかったでしょう。}
確かにあなたは、エゴが神と戦っていることを理解しています。
エゴは自分が敵を持っていないと確信しています{エゴは自分が無敵だと確信しています}
(しかしそれと同じ位確実に)「超越するべき敵がいる(そしてその敵に打ち勝つことが出来る)」という固定観念をエゴは持っているのです。

あなたは「あなた自身と争うことは神との戦うことだ」と理解していないのですか?
{このような、神とそして自分に対する}勝利が考えられますか?
その場合、その勝利はあなたが求めているようなものでしょうか?
神の死(もしそのようなものが可能なら)は「あなたの死」に他成りません。
これが勝利でしょうか?

エゴは常に敗北へと行進しています。何故なら、{エゴが示している}絵はあなたに対する勝利が可能だと考えているから。
しかし神は「そうではない」と考えます。
戦争(闘争)は存在していません。
{戦争が現れている}そこには、「神の意志を攻撃して覆すことが可能だ」という狂気の信念があるだけなのです。
あなたは(神の意志を攻撃して覆すことが可能だという)この信念と「アイデンティファイ/自己同一」するかもしれません。
しかしこれは決して狂気以上のものには成らないのです。
狂気の中では怖れが権力を握り全てを統治して、そこで愛が怖れによって置き換えられているように見えています。
これ(狂気の中で怖れが主権を持ち、愛を怖れで置き換えること)が闘争の目的なのです。
そして「これが可能だと考えている者達」にとっては、これがリアルに見えるのです。

神とエゴが(あるいはあなた自身とエゴが)決して出会わないままになる事は不可能であると知りなさい。
あなた達は出会って、無意味な土地(基盤)の上で奇妙な同盟を作っているように見えています。
何故ならあなた達の信念は(エゴが選んだ住家である)体の上で重なって(出会って)いるから。 そして体が「あなた」の住家だとあなたは信じているのです。
あなた達は誤解(あなたの自己認識/評価の間違い)の上に会合しているのです。 
エゴは「(あなたがエゴと共有している)あなた自身に対する幻想」と繋がっているのです。
しかし幻想達が(幻想同士が)繋がることは出来ません。
それらの幻想は全て同じで、全て無(何でもないもの)なのです。
彼等(幻想)の繋がりは虚無に根ざしていて、二つの幻想は一つの幻想と同じ位無意味なのです。
そして千の幻想がお互いと繋がったとしても、それは全く無意味なのです。
(虚無である)エゴは虚無と繋がるのです。
エゴが求めている勝利は、エゴ自身と同じ位無意味なのです。

兄弟達よ、あなた達自身との戦いはもう殆ど終っています。
平和の場所で旅が終わりを迎えます。 ここであなたに捧げられている平和を、あなたは今受け取りたいとは思いませんか?
あなたが戦ったこの敵(あなたの平和を脅かす者)が、ここで、あなたの目の前で「あなたに平和を与える者」に変換されるのです。
あなたの「敵」は(どのような闘争も勝利も攻撃も知らない)神そのものだったのです。
彼(神)はあなたをパーフェクトに完全に永遠に愛しているのです。
自身の創造者(神)と戦っている神の子は、自然が風に対して怒って(そしてこの風はもう自分の一部ではないと)叫んでいると同じ位馬鹿げた状態にいるのです。

自然がこのようなことを設立し、それを真にすることが可能でしょうか?
あなたのどの部分があなたで、どの部分があなたから離されているべきか、あなたに決めることが出来るでしょうか?
あなた自身に対する戦争とは「自分は自分自身ではない、そして自分は神の子ではない」と神の子に教えようとする試みだったのです。
この為に「自分/あなたの父」の記憶が忘れられる必要があったのです。
あなたが自分を体だと考えたなら、この(父の)記憶が体の人生/生命から忘れられるのです。あなたは自分が父の記憶を忘れたと信じてしまうのです。
しかし真理がそれ自身から忘れ去られることは決してありません。
そしてあなたは「あなたが何か」忘れたことはないのです。
(あなたで在るものに対して勝利しようとする)あなた自身の奇妙な幻想だけが、それ(父の記憶)を忘れているのです。

あなた自身と戦争することは、二つの幻想を戦わせて、「(その戦闘に勝った)勝利者が真実だ」と信じることにより、これらの幻想をお互いから異なったものにしようと試みることでしかありません。
しかし、これらの幻想と「真理」の間に葛藤/闘争は存在していないのです。
これらの幻想はお互いから異なってはいないのです。
幻想は両方とも真実ではなく、だから幻想がどのような形を取っていても「違い」はないのです。
これらの幻想は狂気から作り出されたもので、これらの幻想を作った者{狂気}の一部で在り続けているのです。
狂気は、リアリティへの脅威とは成り得ず、リアリティに対して影響力は持っていません。
幻想が真理に打ち勝つことは出来ず、何らかの形で真理を脅かすことも不可能です。
そして彼等(これらの幻想)が否定しているリアリティは、彼等(これらの幻想)の一部でもないのです。

「あなた」が覚えているものは、あなたの一部なのです。 何故ならあなたは「神があなたを創造した通りであるに違いない」のだから。
真理は幻想とは戦いません。 そして幻想も真理とは戦いません。
幻想は他の幻想だけと戦うのです。 細分化されている(細かく切り分けられている)幻想は、細分化しようとするのです。
しかし真理は不可分(切り分け不可能)で、幻想達の狭いリーチ(守備範囲)を遥かに越えています。
「自分が闘争/矛盾の中に居ることは不可能だ」とあなたが学んだ時、あなたは「あなたが知っていること」を思い出すのです。

あなた自身に関する一つの幻想はその他の幻想と争うことが出来ます。
しかし二つの幻想が戦っている戦争は、何も起こっていない状態なのです。
そこには勝利がなく、そこには勝者も居ないのです。
そして闘争から離れて、闘争には触れられず静かに、神の平和の中で真理が輝いて立っています。

闘争は、二つの「力」の間に起こる必要があります。
一つの力と無の間に闘争が起こることはありません。
あなたを攻撃することが出来るのはあなたの一部だけなのです。
そしてあなたの一部を攻撃することによりあなたは、あなた自身に関する二つの幻想を作り、それらをお互いに争わせるのです。
あなたが愛以外のものをもって「神が創造したもの」を見る度に、これ(あなた自身の二つの幻想がお互いと戦うこと)が起こるのです。

闘争は怖ろしいもの{怖ろしく見えるもの}です。 何故なら闘争が怖れの誕生なのだから。 しかし「無から生まれているもの」が戦いを通してリアリティを獲得することは不可能です。

何故あなたは、あなたの世界をあなたに対する闘争/葛藤で満たそうとするのでしょうか?
これら全ての狂気をあなたの為に終了させなさい。 そして平和の中で(今でもあなたの静かなマインドの中で輝いている)神の記憶を振り返りなさい。

複数の幻想間の闘争/葛藤が真理の下に持って来られた時、それがどのように消え去るか見て御覧なさい。
それを対立/相反している真理間の争いとして見ている間だけ、この対立/闘争の勝利者(よりリアルに見える幻想)がそれ程リアルではない幻想を征服して、それ(あまりリアルでない幻想)を破ることによりそれを幻想に引き下げることにより、より真実リアルに成るものとして見ている間だけ、それ(闘争/葛藤/対立/相反)がリアルに見えるのです。
{二つの幻想の間に闘争/対立が起こっており、この闘争の中で「よりリアルなもの/よりリアルな視点」が「あまりリアルでないもの/あまりリアルでない視点」を負かしてそれ「あまりリアルでないもの」を幻想(間違い)と宣言し、そうすることによって「よりリアルなもの」がよりリアルな征服者に成れると考えている限り、闘争/対立がリアルに見えるのです。}
何故なら闘争/対立とは、二つの(複数の)幻想間から一つ選択してそれをリアリティと宣言し、もう一つの幻想(その他の幻想)を消滅させ憎ませることなのだから。
ここでは{幻想同士を戦わせてその中の一つを真理として選んでいる状態では}父の意志が決して思い出されないのです。
しかし神の住家に侵入して「神が永遠に愛しているもの」から神を追い出せる幻想はありません。
そして「神が愛しているもの」は永遠に安らかで平和に違いなのです。 何故なら、それが(そこが)神の住家なのだから。
そして「神に愛されているあなた」は神自身と同じように真理であり神聖であって、幻想では在り得ないのです。

神とあなた自身に対するあなたの確信が、(分離しているのではなく、ひとつの存在として住んでいる)あなた達両者の故郷なのです。
神の一番聖なる家へのドアを開けて、神をホームレス(宿無し)にしている(そして神の子を神と共にホームレスにしている)罪の信念の全てを赦しによって跡形も無く拭わせなさい。
神の家の中であなた達はお互いに対して異邦人(見知らぬ人)ではありません。
平安と平和の中に神が彼(兄弟)を置いている住家(神は彼と共にそこに居ます)にあなたの兄弟を招き入れなさい。
幻想は「愛が居る場所」の中には居場所を持っていません。 そこ(愛が居る場所)では、愛があなた達を「真理でない全てのもの」から守っています。
平和の中に住んでいるあなた達は、創造者と同じように無限なのです。
そして神を思い出している者達には全てが与えられているのです。

聖霊は神の住家の上を見守っており、その平和が決して乱されないことを確信しています。
どうして神の休らう(やすらう)所がそれ自身に反抗し「そこに住んでいる者」を克服/制服しようと出来るでしょう?
神の家がそれ自身を「切り分けられているもの/分離されているもの」として知覚している時、何が起こるか考えてみなさい。
{神の家(あなた)が自身を「分離しているもの」として知覚しているその時}祭壇が消え去り、光りが暗くなり、聖なる者の寺院が罪の家に成るのです。 そして幻想以外は何も思い出せなくなります。
幻想達は(お互いに対して)闘争/葛藤/対立することが出来ます。 何故なら各幻想はその形が違うのだから。
そして幻想達は、どの「形」が真実か決めようとして戦うだけなのです。

幻想は幻想と出会い。真理はそれ自身と出会います。
幻想達の出会いは戦争を起こします。
自分自身を見ている平和(平和な者)は、自分自身を拡張(差し伸ば)します。
戦争(争い)は怖れが生まれる条件で、怖れがより大きくなり(状況を/他を)圧制しようとします。
平和とは、愛が住んでいる(安らかになっている)状態で、愛がそれ自身を分け合おうとするのです。
闘争/葛藤/対立と平和は反対のものです。
そのどちらかが居たなら、もう片方はそこには居られません。
どちらからが現れたなら、もう片方は消えてしまいます。
そして幻想の戦場と成っているマインドの中からは、神の記憶が消えてしまっているのです。
(しかしこの無意味な戦争を遠く超えた所に)神の記憶が輝いており、あなたが平和の味方に成った時(あなたにより)思い出されるのを待っているのです。

2 comments:

  1. Anonymous9/11/11 18:52

    いつも岡上さんのテキスト翻訳を読むのを楽しみにしています。
    ナチュラルスピリットの翻訳も持っていますがいまひとつピンとこないもどかしさを感じています。
    その点岡上さんの訳は自分の感覚にしっくりきます。
    ちゃんと理解できているかどうかは別ですが・・・(^_^;)

    JACIMの公認版もそのうち出版されるということですが、ワークブックのサンプルを読む限り自分の読む翻訳ではないと感じています。
    なにか冷たくて権威主義的で、上から見下ろされているような感じがして好きにはなれないですね。

    岡上さんのACIMの訳本が出版されるということは望めないことなのでしょうか?
    単なる翻訳本でなく(Rajのような)解説付きのACIM本があったら、少しは難解さも薄れて読みやすくなると思います。

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  2. こんにちは。
    コメントありがとうございます。

    WEBを読んでくださって嬉しいです。

    ACIMに関しては(コメント欄ではなく)本文でお答えいたします。
    すぐ書き上げられるかどうかは解りません。ご了承ください。

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