Nov 12, 2011

Ch23-3

The Laws of Chaos
カオス(無秩序)の原則

「カオスの原則」を光の下に晒すことは出来ても、それを理解することは不可能です。
無秩序な原則など殆ど無意味で、だからこれは理性の領域からは外れています。
でも「カオスの原則」が理性と真理の障害に成っているように見えているのです。
だから、わたし達はカオスの原則を冷静に見て、それら(カオスの原則)の先に何が見えるか調べてみましょう。
「カオスの原則が保持して(成り立てて)いるもの」を理解しようとするのではなく、カオスの原則が何なのか調べてみましょう。
カオスの原則が何の為のものなのか(どのような目的の為に作られているのか)理解することが絶対必要なのです。何故なら、カオスの原則の目的は「真理を無意味にした上で真理を攻撃すること」なのだから。
ここに「あなた達が作った世界」を統治している原則が示されているのです。
しかしこれら(カオスの原則)は{実際には}何も統治してはおらず、これらを破ろうとする必要もないのです。
(必要なのは)カオスの原則を見据えて、それらを乗り越えて行くことだけなのです。

カオスの第一原則は「それぞれの人達にとって真理は違う(各人のために異なる真理が存在している)」というものです。
(カオスの)その他の原則同様に、この原則は「各人は分離しており、人の思考は他者の思考とは違うもので、その人の思考がその人を他者から隔てて(分離して)いる」と主張しているのです。
この原則は「幻想にヒエラルキー(上下構造)があり、(異なる幻想の中に)より価値の高い幻想が存在し、より価値の高い幻想こそが真実なのだ。」という信念から発展して来たものです。
そして「各人がこれ(より価値の高い幻想)を自分の為に設立し、他者が尊んでいるものを自ら攻撃することにより、これ(より高等な自分の幻想)を真実にしようとするのです。」
これが正当化されているのは、価値(それぞれの人達の価値観)に違いがあり、違う価値(違う価値観)を持っている人達が「似ていない/同じでない(人達)」と見られ、従って敵として見られているからです。

これ(カオスの第一原則)がどのようにして奇跡の第一原則の邪魔をしているように見えるか考えてみなさい。
これ(カオスの原則)は色々な幻想の間に真実の段階を設定し{それぞれの幻想の中に異なる真実性があると設定しており}、特定の幻想をその他の幻想よりも克服し難いものとして見せているのです。
これらの幻想が全て同じでどれも等しく間違っていることが理解されたなら、「奇跡がこれら全ての幻想に対処し、奇跡が全ての幻想を消し去ること」を理解することが容易に成ります。
どのようなエラーでも修正可能なのです。 何故ならエラーは真実ではないのだから。
(他の幻想の下に持っていくのではなく)真理の下に持って来られた時、幻想はただ消えて行くのです。
無の特定の一部が(無の他の部分よりも)真実に対するより強い抵抗力を持っていることは在り得ません。

(罪の信奉者が慈しんでいる)カオスの第二原則は「全ての人達は罪を犯さざる得ない(罪を犯している)、だから(全ての人達は)攻撃と死に値する(攻撃されたり死んだりすることが可能だ)」というものです。
(第一の原則と密接に繋がっている)この第二の原則は「エラーが、修正を必要としているのではなく、懲罰を必要としている」という要求なのです。
何故なら、エラーを犯している者を「破壊」した場合、彼(エラーを犯した者)を修正の届かない所に置くことになり、従って赦しの届かない所に彼を置くことに成るのだから。
こうして、彼のしたことが「彼に対する覆せない宣告(神自身にさえもそれを見越す力がない判決)」として解釈されるのです。
罪とは「神の子は自身の破壊を確定してしまう間違いを犯すことが出来る」という信念なので、罪は{それが実在したとするならば}免除(解除)出来ないものなのです。

これが(カオスの第二原則が)父と子の間の関係にどのようなことを行なっているように「見えて」いるか考えなさい。
(カオスの第二原則の下では)父と子はもう決して「ひとつ」に戻れないように見えているのです。 何故なら(この原則の下では)父と子が違っており、彼等(父と子)はお互いの敵で、片方がもう片方を常に断罪していなくてはならなく成っているから。{だから、父と子はもう二度とひとつに戻れないように見えているのです。}
こうして神と子の関係が敵対関係に成っているのです。 ちょうど「神の子」の分離した側面同士{分離した神の子同士}が争う為だけに出会っており、繋がる為に出会ってはいないように。
片方が弱くなり、(そちらが負けた事により)もう片方がより強く成るのです。 そして神への(そしてお互いへの)怖れが当然に見え始め、神の子が(彼自身と彼の創造者に対して)行なった事によって(神への怖れが)リアルに作られたのです。

ここに、カオスの原則が必要としている傲岸がとても明確に出現しています。
ここに、「リアリティの創造者は、どのようであるべきか、どのように思考するべきか、何を信じるべきか、それを信じた上でどのように反応するべきか」定義しようという試みが(原則として)示されているのです。 (この原則の下では)「彼(神)の信念として何が確立されているか」という事に関する真理を彼(神)に訊ねることさへ必要ではないと見られているのです。
(その場合)神の子が神にこれ(神の子が自分で定義した真実)を告げることが出来、彼(神)は彼(神の子)の言葉を受け入れるか、そうでなければ(神の子によって)誤解されるしか選択肢(オプション)が無いのです。

このことから(カオスの原則を永遠のように見せている)第三の馬鹿げた信念(カオスの第三の原則)が導かれるのです。
もし神が間違えを犯し得ないなら、神は「神が何か(神とはどのような存在か)という神の子の信念」を受け入れ、それ故に神の子を憎む必要がある、と考えられるのです。
この第三の原則がどのようにして神に対する怖れを強化しているか解りましたか?
これによって、苦境の中で神に目を向けて助けを求めることが不可能に成ってしまったのです。
何故なら(これらの原則/前提が受け入れられていることにより)神がその(神の子が抱いている怖れ/罪の)原因を作った「敵」に成っており、神への嘆願が無益に成ってしまっているのだから。
そして神の子の全側面{神の子の全て}が神と争っているように見えており、神を攻撃することが正当化されてしまっているので、神の子の中に救済を見ることも出来なくなっているのです。
 
このようにして{神と神の子の}闘争が必然になってしまっており、神の助けが届かなくなっているのです。
すると救済が不可能なままになってしまいます。何故なら、{神が敵に成ったが故に}救済が敵に成ったのだから。(こうして)解放が不可能に成ったのです。
こうしてアトーンメント(贖罪/和解)が神話(フィクション)に成り復讐に成り、「赦しでないもの」が神の意志に成ったのです。
これら全てが始まっている所からは、達成可能な助けは何処にも見当たらず、破壊だけが最終的結果になるのです。
そして神そのものがこれら(復讐/死/病/罪)の味方に成っており、神の子をやっつけようとしている者に成ったのです{神が神の子を殺そうと望んでいると考えられるように成ったのです}
『「エゴが求めているもの」からあなたが逃れること』をエゴが許可すると考えるのは止めなさい。
それ(「エゴが求めているもの」からあなたを逃すこと)がこのコース(ACIM)の役割で、このコースはエゴが尊んでいるものは尊ばないのです。{このコースは、エゴが認めているものは認めないのです。}

エゴは『エゴが「取る」もの』だけを尊ぶのです。
このことからカオスの第四原則が(「他の原則が全て受け入れているので、これも真に違いないこと」として)導かれています。
「あなたが取ったものをあなたは持っている」という信念が、この原則のように見えているものなのです{これがカオスの第四原則なのです}
これによって他者の損失物があなたの獲得物に成る(という状況が提示され)、「あなたが『あなた自身以外のもの』を取り去る(消し去る)ことは決して出来ないこと」が認識されなくなってしまうのです。
しかし{エゴの他の}全ての原則が必然的にこれ(エゴの第四の原則)を引き起こさずにはおれないのです。 何故なら、敵同士はお互いに与え合わず、自分達が尊んでいるもの(自分達で価値を見い出している何か)を分け合うことも無いのだから。
そして『あなたの「敵達」があなたから遠ざけているもの(あなたに与えていないもの)』は、「彼等(敵達)がそれをあなたの視界から隠している」という理由だけから「それは得る価値があるに違いない」と考えられてしまうのです。

ここに狂気の全メカニズム(働き)が見えています。
あなたのものであるべき貴重な遺産(あなたの正当な所持品)を{敵によって}隠された(拒否された)ことに対する報復(敵によって奪われたことに対する敵への報復)、そして「あなた自身」を救済する為に敵が被るべき当然の損失によって、「敵」が強化されているのです。 
こうして{敵を想定し敵を強化することにより}「罪深い者達(罪深い他者達)」が自分達の無垢に反対の意を唱えているのです。
(敵の不届きな振舞いのせいで)この様な汚い攻撃を行なうハメ(立場)に追いやられなかったなら、彼等{あなた}は親切心だけから反応したことでしょう。
しかし野蛮な世界の中では、親切な者は生き残れないのです。
だから彼等{あなた}も「取るか取られるか」(という状況の中に落とし込まれているのです)。

そしてまだ「説明」されていない不明瞭な質問が存在しています。
(この裏切に満ちた抜け目無い敵から正義の怒りの中でもぎ取られるべき)隠された秘宝は、比類なき真珠は、この貴重なものとは、いったい何なのでしょうか?
これこそ、あなたが求めており決して見つけられなかったものであるに違いないのです。
そして今あなたは、何故自分にはこれが見つけられなかったか「理解」出来るのです。
それはこれがあなたの敵によって奪われ、あなたが考えてもみない場所に隠されたからです。
彼(あなたの敵)はそれを彼自身の体の中に隠して、{自分の体を}彼の罪悪のカバー(彼の罪悪を隠す幕)としたのです。
彼は彼自身の体を「あなたの所持品」を隠す所としたのです。

するとあなたは彼の体を破壊し犠牲に上げて「あなたのもの」を取り返さなくてはならなく成ったのです。 彼の裏切りが、彼の死を要求しており、彼の死によってはじめてあなたが生き残れる(ことに成ったのです)。
だからあなたは正当防衛の為だけに攻撃している(ことに成る)のです。
しかし(彼の死を必要としている)あなたは何を求めているのでしょうか?
それ(あなたの攻撃)が何の為だったか知らずに居て、あなたの殺人的攻撃が正当化出来るでしょうか?
ここでカオスの最後の原則が「救助」にやって来るのです。
それ(カオスの最後の原則)は「愛の代用品が存在する{愛以外のことが可能である}」と主張するのです。
これこそあなたの全ての痛みを癒やす「魔法」で、これがあなたの狂気の中に欠けていた唯一の要因で、これこそ正気をもたらすものなのです{とカオスの最後の原則は主張しているのです}
これがあなたが攻撃しなくてはならない理由なのです。
ここにあなたの復讐が正当化されているのです。

(ここにおいて)ヴェールが取り外された「エゴの秘密のギフト」を見てみなさい。
これ(エゴの秘密のギフト)は、このギフトの正当な所有者(であるあなた)から隠されるよう(憎しみと悪意をもって)兄弟の体に埋め込まれていたもので、それが兄弟の体からもぎ取られた(もぎ取られる)のです。
彼(兄弟)は(あなたの生命に意味/意義を与えるであろう)秘密の内容をあなたから奪おうとしたのです。
あなた達のお互いに対する憎悪から生まれて来た「この愛の代用品」は救済に違いないのです。   
これに代わるものはなく、これはひとつだけ存在しているのです。
そして全ての関係は、これを獲得してあなたの所持品にするという目的を持っているのです。
(しかし「愛の代用品である救済」に対する)あなたの所有が完璧に成ることは決してありません。
そしてあなたの兄弟はあなたの行った窃盗への抗議として「あなた」を攻撃し続けるのです。
そして神が(あなた達)両者に対する復讐を止めることもないのです。
何故なら狂気の中で、彼/神もまた「愛の代用品」を持っているに違いなく、あなた達両者を殺すのだから。

自分が(硬い地に足を着けて、)正気の道を(その中で意味/意義を見つけることが可能な世界の中を)歩いていると考えているあなたは、次のことを考慮してみてください:
あなたの「正気」はこれら(カオス)の原則に依存しているように見えています。
これらの原則があなたの足元を確実であるかのように見せているのです。
そしてあなたが意味を探しているのはここ(カオスの原則が統治している狂気の中)なのです。
これらが、「あなた」があなたの救済のために作った原則なのです。
これら(カオスの原則)は天国に替わるものとしてあなた(達)が望んでいる代用品を設置しているのです。
これが(天国を代用品で置き換えることが)カオスの原則の目的なのです。 カオスの原則はこの為に作られているのです。
これら(カオスの原則)がどのような意味を持っているか訊ねることは無意味です。 これは明白でしょう。
狂気の意味は狂気の沙汰に相違無いのです。
あなたは{自分達の}「ゴール」が狂気であると本当に理解していますか?

狂気を求める人は誰も居ません。狂気をそれそのままに見たならば、自分の狂気にしがみ付こうとする人は誰も居ません。
狂気を守っているのは「その狂気が真理なのだ」という信念なのです。
これは真理に取って代わろう(真理と狂気と取り替えよう)とする狂気の働きなのです。
これ(狂気)を信じるには、これ(狂気)が真理として見られる必要があるのです。
もしこれ(狂気)が真理ならば、それ以前までは真理であったものが今狂気に成ったに違いないのです。
狂気が正気で幻想が真理で攻撃が親切で憎しみが愛で殺人が慈悲だという、このような全く逆さまな逆転こそがカオスの原則がかしずいている(引き出そうとしている)ゴールなのです。
これら(カオスの原則)は、神の法をそれが逆転しているように見せている方法なのです。
(神の法が逆転して見えている)ここで罪の法が、愛を人質にしているように見えており、罪を無罪釈放しているように見えているのです。

これら(カオスの原則)はカオスのゴールのようには見えていません。
何故なら、大いなる逆転(神の法を逆さまに見せていること)によって、それら(カオスの原則)が「秩序」の原則のように見えているから。 どのようにしてこのように見えることが可能になっているのでしょうか?
カオスは無法で、原則を持っていません。
カオスが原則を持っていると信じられる為には、「この原則のように見えているもの(カオスの原則)」がリアルであると知覚される必要があります。
これら(カオス)の狂気のゴールが、正気として見られる必要があるのです。(灰色の唇と視力の無い目を持った見るも怖ろしい)怖れが愛の玉座に持ち上げられているのです。 死につつある愛の征服者が、愛の代用品が、救済からの救出者が玉座に引き上げられているのです。
怖れの原則は死を何と愛らしく見せることでしょう!
愛の玉座に座っている{偽りの}ヒーローに感謝を捧げなさい! 彼が神の子を怖れと死の為に保っているのです。{と怖れの原則は言うのです。}

しかしどうしたらこのような原則が信じられるのでしょうか?
これを可能にする奇妙な装置があるのです。
そしてこれはあなた達にとって不慣れなものではないのです。
これが機能しているように見えていることをわたし達は何度も見てきました。
本当はこれ(カオスの原則)は働かない(機能していない)のです。 しかし(影達だけが主要な配役を務めている)夢の中では、これ(カオスの原則)がとてもパワフルに見えるのです。
形を強調して「内容を無視」しない限り、カオスの原則が信念を引き出すことは不可能です。
それらの一つが(カオスの原則の一つが)真実だと考えてる人は誰も「それ(カオスの原則の内容)が言っていることを見ていません」。 それ(カオスの原則)が取る「形」が意味を持っているように見えているのです。 ただそれだけなのです。

何らかの殺人の形が死を意味しないことが在り得るでしょうか?
どのような形の攻撃が愛で在り得るのでしょうか?
どのような形の断罪が祝福で在り得るのでしょうか?
自分の救済者を無力にしておきながら、救済を見つけられる人が居るでしょうか?
彼(救済者)への攻撃の「形」に騙されるのは止めなさい。
あなたが彼を傷つけようと試みながら(あなたが)救済されることは不可能です。
自分自身を攻撃することによって攻撃から自分を守れる人が居るでしょうか?
この狂気がどのような形を取ろうと、それ(狂気の形)にどのような意味があるというのでしょうか?
これ(この狂気)はそれ自身を打ち砕く裁きで、「これを助けたい」と自分で言いながら「自分が助けたいはずのもの」を断罪しているのです。
「あなたが愛らしい(好ましい)と考える形」を狂気が取って(持って)いる時、それ(狂気の形)に騙されるのは止めなさい。
「あなたの破壊を意図しているもの」はあなたの友人(味方)ではありません。

あなたは「自分はそのような無意味な原則は信じていない。そのような原則の下に行動してはいない」と主張し考えています。
これら(カオスの原則)が言っていることを見て、あなたがこれら(カオスの原則)を信じることは出来ません。
兄弟よ、あなたはこれら(カオスの原則が言っていること)を信じてはいません。
何故なら、(あなたがカオスの原則の内容を無視しているのでない限り)このような(無意味な)内容を持っているこれら(カオスの原則)が取る形を知覚することは出来ないから。
これ(カオスの原則)はどのような形で保持し得る(成り立ち得る)のでしょうか?
あなた達はこれら(カオスの原則)が持っている「形」故に、これら(カオスの原則)を信じており。 その内容は認識していないのです。
あなたは蓋骨の上にばら色の唇を描く事が出来るでしょうか? それを愛らしく着飾らせ愛撫し甘やかし、それを生きさせることが出来るでしょうか?
そしてあなたは「あなた」が生きている幻想に満足することが出来るでしょうか?

天国の外には生命はありません。 神が生命を創造した所に生命があるに違いないのです。
天国から分離している全ての状態の中で、生命は幻想なのです。
最善でもそれは「生命のように見えるもの」で、最悪ならそれは死です。
しかしそれらは両方とも、「生命ではないもの」に対する裁きなのです。
それらは両方とも、不正確であり無意味であることにおいては同じなのです。
天国の中に居ない生命は不可能です。そして天国の中に無いものは、どこにも無いのです。

天国の外には、幻想の対立だけが立っている(成立している)のです。 それ(幻想の対立)は無意味で、不可能で、全ての理性の範疇を超えていますが、しかしそれが天国に対する永遠のバリアー(防御壁)として知覚されているのです。
幻想とは形で、そのの内容は決して真理ではないのです。

カオスの原則が全ての幻想を統治しています。
それらの形はお互いと矛盾し争い、その中の一つを他よりも高く評価することを可能に見せています。
それぞれの形(幻想)は、「カオスの原則が秩序の原則である」という信念の上に依存しているのです。
それぞれの形は、これら(カオス)の原則に完全に従っており、これらの原則が真実であるという証人(証言)をある程度差し出しているのです。
より優しく見える攻撃の形も、その証人/証言やその結果/証拠を確実に見せていることにかけては(より激しい攻撃の形と同等に)確実なのです。
(幻想の形ではなく)幻想が示唆している信念故に、幻想が怖れを持って来ることが確実なのです。 
愛に対する信心の欠乏が(それがどの様な形で現れていたにしろ) カオスをリアリティとして証言(証明)してしまうのです。

罪に対する信念からは、それに続いてカオスに対する信念がやって来るに違いないのです。
罪への信念/信心に続いてカオスへの信念/信心がやって来るので、これが(カオスの原則が)論理的結論に見えているのです。 これが論理的思考の有効な結論に見えているのです。
確かにカオスへのステップは、それらの開始点から上手く展開されているのです。
それぞれ(の信念)は、異なった形で真理を逆転して発展させているもので、それらは(真理から離れて)より深いエラーへと導いて行くものなのです。
(真理を逆転してそこから遠ざかっている)どれか一つのステップが他のステップより小さいと考えたり、一つのステップから後戻りすることが他のステップからの後戻りよりも難しいと考えるのは止しなさい。
天国からの堕落(下落)全体が、一つ一つそれぞれのステップに依存しているのです。
そしてあなたの思考が始まっている所で、それ(天国からの下落)が終る必要があるのです。

兄弟よ、地獄への下落に向かって一歩でも進むのは止めなさい。
何故ならその一歩を踏み出したなら、あなたはその後の{地獄への}進行を認識することが出来なくなり、それら(地獄の幻想)が続いてやって来てしまうから。
(あなたの行う)全ての形の攻撃によって、あなたは天国から遠ざかる曲りくねった階段に自分の足を踏み出しているのです。
しかしどの瞬間にでも、これら全てを解除する(取り消す)ことが可能なのです。
どのようにしてあなたは、天国と地獄のどちらの階段を自分が選んでいるか知ることが出来るのでしょうか?
それはとても簡単です。 
あなたはどう感じていますか? あなたの意識の中に平和がありますか?
あなたは自分がどちらへ向かっているか確信を持っていますか?
そして、あなたは天国のゴールが達成出来るという確信を持っていますか?
もしそうでなければ、あなたは{地獄への道を}一人で歩んでいるのです。
ならば、あなたと繋がることを友達に求め、あなた(達)が行こうとしている所に対する確信をあなた自身に与えなさい。

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