Nov 22, 2011

Ch23-5

The Fear of Life
生命に対する怖れ

『殺人が取る「形」が安全を提供出来る』とあなたは考えているのですか?
戦場から罪悪が無く成り得るでしょうか?
神への恐れは、死への怖れではなく、生命への怖れなのです。
彼(聖霊)だけが安全な場所なのです。
彼(聖霊)の中には攻撃がなく、幻想が天国の中を歩き回っていることもありません。
天国は完全に真なのです。 天国の中へは「違い」は全く入っていきません。
そして「全く同じもの」が闘争/対立することは不可能です。
あなたは「殺人へのあなたの熱望」と戦うように求められているのではありません。
あなたに求められているのは、あらゆる「形」の殺人は全て同じ意図をその中に隠し持っていることを認識することです。
あなたが怖れているのは{殺人の}形ではなく、これ(あらゆる「形」の殺人が全て同じ意図をその中に隠し持っていると認識すること)なのです。

愛で無いものは殺人なのです。 愛しないことは攻撃に違いないのです。
全ての幻想は真理に対する攻撃なのです。
そして全ての人々が「愛のアイディア」に対して暴力を振るっているのです。何故なら、それは(全ての幻想は)真理と等しく見えているから。
真理と等しく、それでいて{真理と、お互いと}「違う」ものなど存在し得るでしょうか?
殺人と愛は両立し得ません。
しかしもしそれら(殺人と愛の)両方が真理(真実)であったなら、それらは同じで、お互いから識別不可能ということに成ってしまいます。
神の子を体と見ている者達には、そう見えるのです。
何故なら、子の創造者(神)と似ているのは体ではないのだから。
そして生命に溢れていないものは、生命の子では在り得ないのだから。

体を拡張して、体に宇宙を保持させることが可能でしょうか?
体に創造が可能でしょうか? 体は「体が創造したもの」に成れるでしょうか?
「それ(体)そのもの」をそれ(体)が創造に対して捧げて、決して損失を被らないことが体に出来るでしょうか?
神は「神自身の働き」を体とは分け合いません。
神は創造の働きを神の子の上に与えたのです。 何故なら神の子は、神自身のものなのだから。
子の働きが殺人であると信じることは罪深いことではありませんが、それは狂気なのです。
「同じもの」{全てと等しく同じもの}が「違う」働きを持つことは出来ません。
創造とは神の拡張の方法なのです。
そして神のもの(神の働き)は、「神の子のもの」でもあるに違いないのです。
(だから)父と子の両方が殺人者か、でなければ、両方とも殺人者ではない(殺す働きを持っていない)に違いないのです。
生命は、死を作らず、それ自身と同じもの(似たもの)を創造するのです。

あなた達の関係のラブリーな光りは、神の愛のようなもの(神の愛に似たもの)です。
それはまだ、神が自身の子に与えた聖なる役割を担うことが出来ていません。何故なら、あなた達がお互いに与えている赦しはまだ完了していないのだから。
だから、それ(あなた達のお互いへの赦し)はまだ創造の全てには拡張出来ないのです。
(あなた達をまだ魅了している)殺人と攻撃の様々な形をあなた達はまだそれそのものとして認識しておらず、それが(あなたが全てに対して差し伸べることの出来る)癒やしと奇跡のパワーを限定しているのです。
しかし聖霊は、どの様にしてあなた達の僅かなギフトを増やして、それを強力にすればよいか理解しています。
そして聖霊は、どの様にすればあなた達の関係が戦場から引き上げられるか理解しています。

どのような形の殺人もあなたの意志/意図ではないと理解することがあなたの役割なのです。
戦場を見越す(見透かす)ことが、今あなた達の目的に成ったのです。
引き上げられて、より高い所からそれ(戦場)を見据えなさい。
そこ(あなた達が引き上げられた、より高い所)からは、あなた達の視界は全く違うものに成ります。
ここ(戦場の只中)では、これ(闘争)がとてもリアルに見えています。
ここ(戦場)において、あなたは自分がその一部に成ることを選んでいるのです。
ここにおいては、殺人があなたの選択なのです。
しかし上からは(上においては)、あなたは(殺人ではなく)奇跡を選択しているのです。
そしてこの選択から来る視点/視界が「紛争はリアルではなく、そこから簡単に抜け出ることが出来る」とあなたに示すのです。
体は争うかも知れません。 しかし形の衝突は全く無意味です。
そしてそれ{父と子の闘争}が決して起こらなかった、とあなたが気付いた時にそれは終わるのです。

戦いに関わっていながら、戦いが存在していないと知覚することが可能でしょうか?
殺人を選択しながらも、奇跡の真理を認識することが可能でしょうか?
(あなたのマインドを暗く殺人的にしてしまう)攻撃の誘惑が沸き起こって来たなら、上から戦いを見ることがあなたには出来ることを思い出しなさい。
あなたには認識出来ない形(で攻撃が起こっていた場合)でも、あなたはその印(攻撃のしるし)を良く知っています。
(攻撃が起こっていた場合)痛みの一突きがあり、罪悪の呵責があり、そして何よりも平和が消えてしまうのです。
あなたはこれを(このような状態を)良く知っています。
こうなった場合、高い場所から去るのではなく、直ぐに殺人ではなく奇跡を選びなさい。
すると神自身と天国の全ての光が優しく傍に来てあなたを支えてくれます。
何故なら、その時あなたは「彼(神)があなたを据えた場所(神があなたに与えた場所)」に留まることを選択しているのだから。
そして幻想には「神の平和と一緒に神の子を攻撃すること」は出来ないのです。
戦場内から誰かを見ようとするのは止めなさい。 そこから人を見た場合、あなたはどこでもない場所からその人を見ているのです。
あなたが戦場内から人々を眺めていた場合、(そこから見て「あなたが見ているもの」に対する意味を理解することを可能にする)参照点をあなたは持っていないのです。
何故なら、体だけに攻撃や殺人が可能で、もしそれらがあなたの目的であった場合、あなたはそれら(攻撃している体)と一つであるに違いなにのだから。
「{神の聖なる}目的」だけが統合を可能にし、目的を分け合っている者達は一つのマインドを分け合っているのです。
体そのものには目的はなく、それは孤独であるに違いないのです。
それ(体の孤独)を下から(戦場内で)克服することは不可能です。
上から見た場合、戦闘中の人達にそれ(体)が与えている限定は消え去り知覚されません。
体は、「父」と「(父が子の為に創造した)天国」の間に立ちはだかっているのです。{戦場内ではそのように見えているのです。} 何故ならそれには目的がないから。{何故なら、聖なる目的を神と分け合っているのはあなた達のマインドで、(あなた達を限定しているように見えている)体は聖なる目的を現していないから。}

「父の目的を分け合って(受け入れて)それが自分達のものだと知っている者達」に何が与えられているとあなたは思いますか。
彼等は{戦場からは}何も求めません。 {彼等には}どの様な悲しみも在り得ないのです。
彼等が愛している光だけが(彼等の)意識の中にあり、愛だけが彼等の上に永遠に燈っているのです。
これ(光/愛)が彼等の過去であり、現在であり、未来なのです。
それは常に同じで、永遠に完璧で、完全に分かち合われているのです。
彼等は、自分達の幸福が損なわれることは不可能だと知っています。
もしかしたらあなたは、何かあなたが勝ち得るものが戦場にあると考えているかもしれません。
(あなたが戦場で勝ち得る)それは、あなたにパーフェクトな静けさと、とても深く静かで(それ故にあなたの確信を濁らすことは不可能な)愛の感覚を捧げられるものでしょうか?
(あなたが戦場で勝ち得る)それは、永遠に存続するものでしょうか?

自分達の意識(マインド)の中に神の力を宿している者達には、戦いは決して考えられないのです。
(戦いを考えた場合)自分達のパーフェクション(完璧性)を失う以外に彼等に得られるものがあるでしょうか?
何故なら、戦場で考えられる全てのことは体に関すること(体が提供していたり所有していたりするように見えているものに関すること)だから。
自分が全てを持っていると知っている者が、限定を求めることは在り得ず、体の捧げ物(体が提供しているように見えているもの)を尊ぶことも在りません。
征服の無意味さは、戦場の上に現れている静かな階層/領域を見れば明らかです。
何が全てと対立/闘争出来るのでしょうか?
より少ないものを捧げ、より多く熱望され得るようなもの(より限定されたものを与えながらもより強く求められるもの)がそこ(戦場)に在り得るでしょうか? {いいえ。それは不可能です。}
自分自身が神の愛によって支えられている時 、「奇跡と殺人のどちらを選ぶべきか決めることは難しい」と誰が思うでしょうか?

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