Nov 21, 2011

Ch23-4

Salvation Without Compromise
妥協なき救済

「ある種の攻撃の形をあなたが認識出来ていない」ということが真実ではないでしょうか?
どのような攻撃の形でもあってもあなたを傷つけることが可能で、そしてあなたが認識していない攻撃の形が(あなたが認識している攻撃の形と同じ位)あなたを痛め得るのならば、「あなたは常に{自分が感じている}痛みの源を認識している訳ではない」ということが真実なのではないでしょうか?
どのような形の攻撃でも、攻撃は全て破壊的なもので、その目的は変わりません。 {どのような形を取ったにしろ、攻撃の目的は全て同じです。}
攻撃の唯一の目的は殺人なのです。
そして殺人者が感じざる得ない懲罰への怖れと重い罪悪感を覆い隠す為には、どのような形の殺人が必要とされているのでしょうか?
彼は攻撃しながらも、自分が殺人者であることを否定し、笑って自分の蛮行を正当化するのです。

しかし彼(殺人者)は苦しみ、自分の意図を悪夢の中で見るのです。 その悪夢の中では、微笑みは消え、目的が立ち昇って来て怖れに満ちた彼(殺人者)の意識と出会い、彼を追い続けるのです。
何故なら殺人を「考えて」、思考が内包している罪悪を逃れられる者は居ないから。
死が意図されていた場合、それ(その死)がどのような形で現されていたにしろ、そこに違いがあるでしょうか? 
例えそれがどれだけ愛らしく他愛的に見えたとしても、なんらかの形の死が祝福(神があなたを通して兄弟に話しかける声)で在り得るでしょうか。
包装紙(外側を包んでいるもの)があなたの与えるギフトに成ることはありません。
どれだけ美しく飾ってどれだけ優しく与えたとしても、空の箱には何も入っておらず、(空のギフトによって)受け手も送り手も長くごまかされることはありません。
あなたが兄弟への赦しを保留している場合、あなたはその兄弟を攻撃しているのです。
(その場合)あなたは彼に何も与えず、そしてあなたが彼から得られるものは「あなたが彼に与えたもの」だけなのです。

救済にはどのような形の妥協も含まれません。
妥協とはあなたが求めているものの一部だけを受け取ることです。
妥協とは少し(一部)だけを得て、それ以外の全てを放棄することです。
しかし救済は何も放棄しません。救済は全ての人達にとって完璧なのです。 
妥協のアイディアを受け入れたなら、救済が認識出来なくなってしまって、救済の目的に対する意識が失われてしまいます。 
妥協が受け入れられている所では、救済が否定されているのです。
何故なら、妥協とは「救済は不可能だ」という信念なのだから。
妥協のアイディアは「少し攻撃して少し愛してこそ、『違い』を知ることが出来る」と主張するのです。
妥協のアイディアはこのようにして「同じもの一部が異なり得て、と同時に同じものが一つのものとして保持され得る」と教えようとするのです。
{「同じもの」=「神の一人子/兄弟姉妹の共同体」}
これが意味を成しているでしょうか? このようなことが理解可能でしょうか?

このコースは全く妥協をしないからこそ簡単なのです。
しかし妥協が可能だとまだ信じている人達には、これは難しく見えるのです。
もしそれ(妥協が可能だ)が本当なら、「救済とは攻撃である」ということに成ってしまいますが、彼等(妥協が可能だと信じている人達)にはそれが見えていないのです。
救済が不可能であると言う信念には、「救済がすでに来ている(起こっている)」という静かな確信を保持することが出来ないのです。
赦しを少し差し控える(押し留める)ことは不可能なのです。
そして「これを愛してあれを憎んで(世界の一部を憎み、一部を愛して)赦しを理解すること」も不可能です。
あなたの平和に対するあらゆる形の攻撃を認識したいとは思いませんか? もしそうすること(平和に対する攻撃の全ての形を認識すること)によって初めて「あなた」がそれ(平和)を失うことが不可能に成るとしたならば。
もしあなたがそれ(平和)を防御しようとしなければ、あなたのビジョンの中でそれ(平和)を永遠に輝かせることが出来るのです。それ(平和)を永遠にクリアにし続け、決して見失わないようにすることが出来るのです。

「平和を防御することが可能で、平和を守る手段として攻撃することが正当化出来る」と信じている人達には、平和が彼等自身の中に在ることが知覚出来ないのです。
どうすれば彼等にこれ(平和が彼等自身の中に在ること)を知ることが出来るのでしょう?
「何らかの形の殺人によって自分達の平和を守ることが出来るという信念」と同時に赦しを受け入れることが可能でしょうか?
「彼等の野蛮な目的が彼等自身に向けられている」という事実を自ら受け入れることが彼等に出来るでしょうか?
敵と合一しようとしたり、敵と自分の目的を一つにしようとする人は誰も居ません。
敵と妥協して、しかし(敵が何かを彼から奪った故に)敵を憎まない人は居ません。
休戦を平和と間違えたり、妥協を「闘争からの解放」と取り違えたりするのは止めなさい。

闘争から解放されるということは、闘争が終るということです。
ドアが開かれ、あなた達は戦場を去ったのです。
銃声が暫く止んで、死の場所に漂っている怖れが見えていないからといって、それらが(戦場に)戻ってこないと一縷の望みを掛けて、そこ(戦場)に居残るのは止めなさい。
戦場に安全はありません。
あなた達は上からそこ(戦場)を安全に眺めて、それ(闘争)には影響されないで居ることが出来るのです。
しかしあなたはそこ(戦場内)で安全を見つけることは出来ません。
そこに残っている一つの木もあなたを守ることは出来ないのです。
殺人への信心に対して逆らえる防御の幻想は一つも無いのです。
ここに(殺人への信心の中に)体が立っており、それは「コミュニケートしようという自然な願い」と「殺して(自ら)死のうという不自然な意図」の間で引き裂かれているのです。

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