出会う場所
この世界と繋がっている人達は「真実にしたいと思っている特別性(これを真実にしようと自分達で決めている特別性)」をどれだけ執拗に守ろうとすることでしょう!
彼の願いは彼にとっては法で、だから彼はそれに従うのです。
彼の特別性が要求するものを彼は何も拒否しないのです。
彼は特別性が必要とする全てを「自分が愛しているもの」に与えるのです。
そして特別性が彼に呼び掛けている間、彼はそれ以外の声は聞かないのです。
(些細な攻撃から/疑いの囁きから/怖れの示唆から/深い尊敬意外のあらゆるものから)自分の特別性を守る為にはどのような努力も惜しまず、どのような犠牲も厭わず、どのような値段も高すぎないのです。
あなたがあなたの父に愛されているように、「あなたが大切にしている特別性」が『あなたが愛している「あなたの子」』なのです。
そしてあなたの特別性が「神の父性を(神から奪い取るのではなく)あなたが神と共有する為に行なう『あなたの創造』=あなたの子供」の場所に居座ってしまっているのです。
あなたの力としてあなたが作ったこの子供は何なのでしょうか?
これほどの愛が与えられている、地上のこの子供は何なのでしょう?あなたの創造{あなたと神の共同創造}にとって替わろうとしている「神の創造に対するこのパロディー」は何なのでしょうか?
そして神のホストが「彼等よりも好ましい子供」を見つけた今、彼等は何処に居るのでしょうか?
{そして神のホストであるあなたが「より好ましい子供=あなたの兄弟の中の神聖」を発見している今の中には、あなたが求めていた特別性を示している体はもうどこにも居ないのです。}
神の記憶は一人だけで孤独に輝いているものではありません。
「あなたの兄弟の中に在るもの」は今でも創造の全てを内包しています。
今までに創造された全て/これから創造される全て/既に生まれたもの/未だ生まれていないもの/未だ未来に在るもの/過ぎ去ったように見えるもの、それら全てがまだあなたの兄弟の中に在るのです。
あなたの兄弟の中に在るものは不変で、それを認識することによって「あなた」の不変性が確認されるのです。あなたの中の神聖は彼のものなのです。 {あなたの中にある神聖は、あなたの兄弟に所属しているのです。}
そしてあなたが神聖を兄弟の中に見ることにより、神聖があなたに返って来るのです。
「あなたが特別性に与えている全ての捧げ物」も兄弟のものであり、こうして{あなたが特別性に与えている全ての捧げものが}あなたに返って来ているのです。
{あなたが特別性に与えた}愛と気遣いが、強い庇護が、日夜の思考が、深い心配が、これが自分だという力強い確信が、「彼(兄弟)のもの」なのです。あなたが特別性に与えているもので、彼に支払われないもの{彼に与えられていないもの}は何も無いのです。
そして彼に与えられていないものは、あなたにも与えられていないのです。
{あなたが特別性に与えているものは全て、あなたの兄弟のものとして考えられているのです。 そして「あなたの兄弟のものとして認識されているもの」は全てあなたのものとして認識されるのです。}
特別性があなたを支配している限り、どうしてあなたにあなたの価値を知ることが出来るのでしょう?
彼(兄弟)の神聖の中にあなたが自分の価値を知ることが出来ないことが在り得るのでしょうか?
あなたの特別性を真実にしようと求めるのは止めなさい。何故なら、もしあなたの特別性が真実であったなら、確かにあなたは迷ってしまう(失われてしまう)のだから。
だから(あなたの特別性を真実として見ようとすることは止めて)彼の神聖を見る為に真実が与えられていることに感謝しなさい。何故ならそれ(彼の神聖)が真実なのだから。そして彼の中で真実であることは、あなたの中でも真実であるに違いないのです。
あなた自身に対して次のことを訊ねなさい:「あなたはマインドを守ることが出来ますか?」
体なら少しは守ることが出来るでしょう。時間から体を守ることは出来ないけれど、一時的に体を守ることは出来るでしょう。そしてあなたはセーブしようと沢山考えていますが、あなたは{マインドを、そして体を}痛めているのです。
何の為にあなたはそれ(体)を保存/保持しようとするのでしょうか?
{あなたが体をどのような目的で使おうとしているか}この選択の中に体の健康と障害が掛かっているのです。{どんな目的であなたが体を保持し使おうとしているか、その選択に体の健康が左右されるのです。}それを(体を)見せびらかしのために保ったり、他者を誘惑するエサにしたり、その中により優れたスタイルであなたの特別性を住まわせたり、あなたの憎しみの周りに愛らしさの額縁を編み上げたりしたなら、あなたはそれ(体)に対して腐敗と痛みを宣告しているのです。
そしてもしあなたがこの目的を兄弟の中に見ていたなら、あなた自身に対するあなたの宣告もそれと同じに成るのです。
であれば、真理が兄弟の上に輝き「あなた」に腐敗からの安全を与えるよう、兄弟の周りに神聖の額縁を編みなさい。
父は「父が創造したもの」を安全に保ちます。
あなたが作った間違ったアイディアでそれ(父が創造したもの)に触れることは出来ません。何故なら、それはあなたによって創造されたものではないのだから。あなたの馬鹿げた空想によって脅かされるのは止めなさい。
不滅なものは攻撃され得ません。「一時的でしかないもの」は{神が作った不滅なものに対しては}効果は持っていないのです。
あなたがその中に{父の創造の中に}見ている目的だけが意味を持っており、もしこれが真実であるならば、その安全は確実なのです。
もしそうでないなら、それには(あなたが見ているものには)目的がなく、それは無為な手段でしかないのです。
真理の手段として知覚/認識されているあらゆるものは、その神聖を共有しており、真理自身と同じだけ安全に光の中で安らかなのです。
そしてそれ(真理の手段として現れているもの)が無くなった時、この光が消えることもありません。その神聖な目的がそれに不滅性を与えており、天国の中に新たな光を据えたのです。
天国の中で「あなたが創造したもの達」が「あなたからのギフト(「あなたが創造したもの達」をあなたは忘れてはいないというサイン)」を認識しているのです。
地上(地球上)の全ては「これは何の為に存在しているのか?」という問い掛けによってテストされるのです。
その答えが「あなたにとってそれが何であるか」決めるのです。
{地上の全てのもの}それ自体には何も意味がなく、しかしあなたは(あなたが仕えている目的に従って)それにリアリティを与える ことが出来るのです。
ここにおいて「あなた」はそれと共に{癒やす目的を遂げる為の}方法でしかないのです。
神は方法であると同時に結果なのです。
天国の中で方法と結果はひとつであり、それらは神と共にひとつなのです。これが(時間の中ではなく永遠の中の)真の創造の状態なのです。
ここでは{地上では}これは誰にも説明出来ません。この条件がどのような意味を持っているか説明する方法もありません。
あなたが「学ぶこと」から「与えること」へと通り抜けるまで、「あなたが創造したもの達」の聖なる家をあなたが再び作るまで、これは理解出来ません。
父の共同創造者{であるあなた}は子供を持っている必要があるのです。
そしてこの子供はその創造者{あなた}と似ているように(同じように)創造されているに違いないのです。{父の共同創造者によって創造されているこの子供は}パーフェクトな存在であって、全てを内包しているそして全てに内包されている存在であって、そこに足されるべきものはなく、そこからは何も取り去られないのです。
それはサイズや重さや時間の中には生み出されておらず、どのような不確実性や限定によって抑えられてもいません。
ここで方法と結果がひとつに成っているのです。
そしてこの「ひとつのもの」にはどのような終わりも全く無いのです。
これら全ては真実です。しかし「まだ学ばれていない一つのレッスン/まだ確実でない目的の思考/分離されている目的の希望」を記憶の中に持っている者にとっては、これには意味がありません。
このコースは簡単に学べないことを教えようとしてはいません。
この学習範囲はあなたの能力/理解を超えてはいません。このコースの学習内容で現在のあなたの理解範囲を超えているのは「あなたのものはあなたの準備が出来た時にあなたのもとにやって来る」ということだけです。
ここでは方法と目的が分離されているのです。何故なら、{ここでは}それらはそのように{分離されているものとして}作られており、そのように{分離されているものとして}知覚認識されているのだから。
知覚の目的が理解されるまで、全ての知覚が逆さまで在り続ける(逆転している)ことを憶えておく必要があります。
知覚は方法には「見えていません」。知覚が方法{分離という目的をもたらす為の方法}として認識されていないことが、『「あなたが何をどのように知覚するか」は「あなたが知覚を何の為に使おうとしているか」に大きく左右されていること』を理解しづらくしているのです。
「あなたが何を見ているか」知覚があなたに教えているように見えているのです。
しかし本当は、知覚はあなたが教えたもの{あなたが自分や兄弟に教えたもの}を証言しているだけなのです。
知覚は、外側に見えている{分離の}望みの絵で、あなたが真実としたかったイメージなのです。
例えば、あなた自身を見たなら、あなたは体を見ます。しかし異なる光の下でこの体を見たなら、それは異なって見えます。そして光が無かったなら、体は消えているように見えます。 しかし{光が無くとも}あなたは体がまだそこに在ることを確信しています。何故なら、その場合でもまだあなたは手で体を触ることが出来、体が動いていることを聞くことが出来るのだから。
ここにあなた自身としてあなたが求めたイメージが在るのです。
これがあなたの{分離の}望みを真実にしようとする方法だったのです。
それを見る目を、それを触る手を、それが立てる音を聞く耳を、それが(分離したイメージとしての体が)あなたに「与え」るのです。
「それ(体)がそれ自身のリアリティをあなたに対して証明しているのです。」
これはあなた自身に対する論理として作られている体なのです。
それ自身を超えた証拠が入る準備(余地)はそこには無く、それ自身の視界内にはそれから逃れる余地は無いのです。
体自身の目から眺めた時、そのコース(運命)は確実なのです。
それは育ちそして衰退するのです。 それは開花して後に死ぬのです。
そしてあなたはそれ(体)から「離れた」自分は考えてみることも出来無いのです。
{分離した体という}あなたのブランド(刻印)は罪深く、あなたはその行動を憎み、それを邪悪と裁くのです。
それでもあなたの特別性はこう囁くのです。「ここに私の愛する子がおり、私はこの子にとても満足している。」
これは{父の創造と}同じではなく、似ても居ないのですが、しかしこれも「父に対して父が求めるものを捧げる方法」ではあるのです。神の創造の戯曲(パロディー)はこのようなものなのです。
父の子の創造が父に喜びをもたらし父の愛を証言し父の目的を分け合うように、体もそれを作ったアイディアを証言し、そのリアリティやその真実を話すのです。
こうして二人の子{二種類の子供達}が作られており、それらは両方とも地上を歩いているように見えているのですが、彼等が出会う場所はなく、彼等がお互いと出会うことはないのです。
あなたがあなたの外に見ている人が、あなたが愛しているあなた自身の子{神から離れてあなたが作った子供}なのです。
もう一人の子(父の子)はあなたの兄弟の中に休んでいるのです。 そしてあなたの兄弟も{父の子としてのあなたの兄弟も}あなたの中で休んでいるのです。
彼等(あなたの子と神の子、「あなたが自分の外に見ている人」と「あなた達の中に休んでいる父の子」)の違いは「彼等の見掛けや彼等が行く場所や彼等がしていることの違い」に由来しているのではありません。
「彼等{父の子とあなたの子}はそれぞれ異なる目的を分け合っているのです。」{父の子とあなたの子は、それぞれ異なる目的を持っており、それを自分達の仲間とだけ共有しているのです。}彼等がそれぞれの仲間達と共有している目的が父の子を「{父の子に}似ている者達」と繋がらせており、あなたの子達を異なる目的を持った各側面(aspects)に分離させているのです。
神の子は自分の父の意志を保っています。
それに対して{分離を信じている}人の子(The son of man)はエイリアン(侵入者)の意志を知覚してしまっており、「リアリティが自分の意志どおり(知覚どおり)であって欲しい」と望んでいるのです。こうして彼の知覚は彼の望みに仕えており、それに{彼が望んでいることに}真実の見掛けを与えているのです。
しかし知覚は他のゴール{分離以外のゴール}に仕えることも出来るのです。
知覚はあなたの選択によって特別性に縛られているだけなのです。あなたが{特別性とは}異なる選択をして異なる目的の為に知覚を使う為に、それ(知覚)は与えられているのです。
そうなれば、あなたが見ているものがその目的(癒やす目的)に良く仕えるように成り、あなたが見ているものがそれ自身のリアリティをあなたに証明するのです。