Oct 21, 2012

Ch31-5

Self Concept Versus Self

自己概念と自己



世界の学習は「世界のリアリティと合致するよう調整されている自己」という概念の上に作られています。
これは{影と幻想の世界に対して}良くフィットする概念です。 何故なら、これは影と幻想の世界に適したイメージだから。

ここでこのイメージが歩き回っており、「それが見ているもの」はそれと一つなのです。{影と幻想の世界の中を自己概念のイメージが歩き回っており、影と幻想の世界の中では「自己概念」と「自己概念が見ているもの」は同一なのです。}


世界の学びは自己概念を作る為に存在しているのです。

あなたは自己を持たずに{この世界の中に}やって来て、{この世界の中を}進みながら自己を作り上げていくのです{と考えられています}。

これが{この世界の}目的なのです。 

そしてあなたが「成人」する頃には、世界の要求に答えられるよう、世界と等しく関わり合うことが出来るよう、あなたは自己を完成させているのです。


{このような}自己概念は「あなた」によって作られているのです。

しかしそれ(あなたの自己概念)はあなた自身とは似ても似つかないものなのです。

これは神の子というあなたのリアリティに取って替わる為に作られている偶像(アイドル)なのです。


世界が教えようとする自己概念は見掛け通りのものでは在りません。

何故なら、それは二つの目的に仕えるように出来ているのに、{あなたの}マインドが認識出来るのは、その内一つの目的だけなのだから。

初めの目的は無垢な顔を示しており、無垢な要素が行動されるのです。

この顔が笑い魅了し、愛しているようにさえ見えるのです。

それが同胞を探し、時には苦しんでいる者達を慈悲を持って見て、時には慰めを与えるのです。「自分は邪悪な世界の中の良き者である」とそれは信じるのです。

世界は邪悪で、無垢に相応しい避難所と愛を提供することが出来ないので、この要素(自己概念の内のあなたが認識している部分)は怒り出します。

だからこの顔は頻繫に『「寛容であろうとしている者達や良くあろうとしている者達」に対するこの世界の不正』への嘆きの涙に濡れているのです。


この要素(無垢の顔/あなたが認識している自己概念の一部分)が自分から攻撃を仕掛けることは決してありません。

しかしその無垢に対して、毎日幾千もの小さな攻撃がされており、その感情を苛立たせており、最後には侮蔑と虐待に至るまで刺激し続けます。

自己概念が気高く纏っている無垢な顔は「自己防御の為の攻撃を許可すること」は出来るのです。 何故なら、無防備な無垢に対してこの世界が厳しく対処していること{この世界が無垢を虐げていること}は良く知られた事実だから。


自分自身の絵を描いている人達の中で、この顔を無視している人は一人も居ません。何故なら、彼(自分自身の絵を描いている人達/自己概念を自分で作っている人達)にはそれ(無垢な顔)が必要なのだから。

{無垢な顔の}反対側を彼は見たがりません。

しかしここ(無垢な顔の反対側)にこの世界の学びの目的が設定されているのです。

何故なら、ここで世界のリアリティが設定されており、アイドル(偶像)が最後まで見破られないように作られているのだから。{何故なら、エゴの現実感は自己概念(現在のあなたのアイデンティティ)の反対側に設置されており、それによってこの自己概念が偽りであることが隠されているのだから。}

この無垢な顔の下には「自己概念が教えているレッスン」が在るのです。

このレッスンは酷い置き換えであり、(そこに隠されている裏切り/欺瞞を知覚出来ない限り)微笑んでいる顔を{この置き換え/欺瞞から}永遠にそむけ続けなければ成らない程酷い怖れなのです。


{自己概念の}このレッスンは次のことを教えようとしているのです。

"I am the thing you made of me, and as you look on me you stand condemned, because of what I am."
『私は「あなたが作った私」なのです{私はあなたが作った通りにあなたの目の前に存在しています}。そしてあなたが私を見ている時、私であるもの(あなたが作った私の状態)故に、あなたは断罪されて立っているのです。』


この自己概念に対してこの世界が笑って認証を与えています。何故ならこの自己概念によって、世界の道が上手く保持されており、道の上を歩いている者達は逃れることが出来ないのだから。

これが(あなたの兄弟が永遠に断罪され続けることを確約する)中心的レッスンなのです。何故なら、今{この学習によって}「あなたである者」が彼(兄弟姉妹)の罪{の証拠}に成ったのだから。 それによって赦しが不可能に成っているのだから。

このレッスンが信じられたなら、彼(兄弟)が何をしていたにしろ、あなたの断罪の指は彼を指し示しており、その狙いは揺ぎ無く死を与えるのです。

それ{断罪するあなたの指は}はあなた自身をも差しています。しかしそれ(あなた自身への断罪)は無垢な顔の下の霧の奥深くにまだ隠されているのです。

そして{霧に}包まれたこれらの貯蔵庫(金庫)の中に、彼の罪とあなたの罪が保存されており、暗く見えないようにされており、そこでそれらがエラーとして知覚されることはないのです。 しかし光がそこに届いたなら{上記のレッスンを信じているあなたの意識の上に光明が届いたなら}、それら(断罪や世界のレッスン)がエラーであることが明確に示されるのです。


{しかしこのレッスンが信じられている限り}「あなたである者」故にあなたが非難されることはなく、それ{あなたである者}があなたにさせている行動をあなたが変えることも出来るません。

あなた達はお互いに相手の罪を象徴しているのです。静かにしかし切迫した状態で、あなたは「あなたが憎んでいるもの、憎まれているあなた」を兄弟に対してまだ断罪しているのです。


概念は、学ばれるものであって、ナチュラルなもの(根源的なもの)ではありません。

学ばれなかったならば概念は存在していないのです。

概念は与えられるものではなく、作られたものなのです。

概念はどれも真実ではなく(憎しみに沸きかえり、怖れから来る歪みの)熱に浮かされた想像から来ていたりするのです。

概念とは「それ(概念)を作った者が自分自身に意味を与える方法」にしか過ぎないのです。

概念が世界を保持しています。

しかしこれら(概念)を使って「この世界がリアルだとデモンストレートすること」は不可能です。

何故なら、これら(概念)は全て世界の中で作られており、世界の影の中に産み落とされており、世界の方法により育てられ、最終的にその思考の中で「熟成/成人」しているものなのだから。

これら(概念)は世界の絵筆で描かれた偶像(アイドル)なのですが、この絵筆が「真理を表す絵」を描くことは不可能なのです。

自己概念は無意味なのです。 何故なら、ここに{概念で出来た世界の中に}に居る誰にも「それ(自己概念)が何の為に存在しているか見ること」は出来ないのだから。だから、それ(自己概念)が何か理解することも出来ないのです。


世界が導く学びは全て「あなた自身に対する下記の概念」をあなたに学ばせようとする単一の狙いに始終しているのです。

『あなたは世界の法に従うことを選び、{世界の中の}道を越えて行こうとは求めず、あなた自身をあなたが見ている方法にも気付かないだろう。』


だから今聖霊は心の平和を得る為に「この自己概念を解除する必要がある」とあなたに見せる(解らせる)方法を発見する必要があるのです。

「あなたはそれ(あなたの自己概念)とは違う者である」というレッスンを学ばない限り、これは解除出来ないのです。

何故ならこれを学ばなければ『{ACIMのレッスンは}「現在あなたが信じていること」を「自己を完全に失ってしまうこと」で取り替えるよう要請していること』に成ってしまい、あなたの中に大きな恐怖が起こってしまうから。


だから聖霊のレッスン・プランは簡単なステップで並べられており、時には不安に至りストレスを感じるかもしれないけれど、それは今までに学ばれて来たことを破壊するのではなく、「{世界の中で今まで学ばれて来たことが真実だと示している}その証拠として見られているもの」を{世界の中の学習が起こる前の状態に}変容し直すだけなのです。

であれば『あなたは「あなたはこのような者だと兄弟が決めた者」なのだ、あなたの兄弟があなたを決めている』という証拠が何処にあるか考慮してみましょう。

あなたは自分がこのように考えているとは知覚していません。しかし、あたかもこれが真実であるかのようにあなたが振舞っていることはもう理解出来るでしょう。

彼はあなたの為に反応しますか? これから何が起こるか彼は知っていたでしょうか?
全ての状況内で、彼があなたの未来を見て、それが起こる前にあなたが何をするべきか任命する(決める)ことが{彼に}出来ますか?

未来に対するそのような予知を持っているなら、彼が世界と(そしてあなたをも)作ったに違いないのです。


『「あなたの兄弟が作ったあなた/あなたの兄弟が定義したあなた」があなたである』などということは絶対在り得ないことに見えるでしょう。

もしあなたの兄弟があなたを作ったのだとしたら、誰が無垢な顔をあなたに与えたのでしょうか? これが「あなたの」貢献なのでしょうか? これを作った「あなた」は誰なのでしょうか?

あなたの美徳に騙されている者は、あなたの美徳を攻撃している者は、誰なのでしょうか?


この概念の馬鹿らしさは少し忘れて、次のことだけを考えて見ましょう。

『「これが自分自身だ」とあなたが考えている者』は{つまりあなたの自己概念は}二つの部分に分かれているのです。

その内の一つがあなたの兄弟によって生成されているなら、もう片方の部分を作ったのは誰なのでしょうか? 誰に対して何かを{あなたの中の一部を}隠し続ける必要があるのでしょうか?

もし世界が邪悪であったとしても、それでも「あなたが何から出来ているか、あなたがどのような者であるか」隠す必要は無いのです。 誰がそれ(その秘密)を見るというのでしょうか?

そして「攻撃されている者」以外に防御を必要とするものが何かあるでしょうか?

もしかしたらこの概念が暗闇に隠されている理由は、「光りの中ではこれが(この自己概念が)真実だと考えていない者」が「あなた」だからではないでしょうか。

そしてもし世界の軸受け(世界の基盤)が全て取り除かれたなら、あなたが知っている世界に何が起こるでしょうか?
世界に対するあなたの概念は、自己に対するこの自己概念に依存しています。

そしてそのどちらか{「自己の概念」か「世界の概念」}が疑われたなら、それら両方が消え去るのです。


聖霊はあなたをパニックさせようとはしません。

だから彼(聖霊)は小さな疑問を考慮することだけを{あなたから}求めるのです。

「あなたで在るべきもの(あなたであると考えられているもの)」にはアルタナティブ(その他の在り方、その他の可能性)があるのです。

例えば、『「自分の兄弟はこう在って欲しい」とあなたが選んだもの』があなたなのかもしれません。

この考えは「全く受動的な自己」から「少なくとも自発的に選択している自己」へと自己概念をシフトさせます。 そして{このシフトは}「何らかの関与(関わり合い)が介在しているに違いない{自分が世界に影響を与えているに違いない}」という認識をもたらします。

{自分が兄弟の在り方を選択しているのだという、この視点からは}あなたが「あなた達両方の{在り方を}選択していること」がある程度理解されるのです。 

そして「彼(兄弟)が象徴しているもの」は、あなたがそれ(彼が象徴しているもの)に与えた意味を持っているのです。

そしてこれは『「あなたが見ていること」は「知覚者のマインド状態{知覚者としてのあなたのマインド状態}」を反映している』という知覚の法則を垣間見させてもいるのです。


しかし誰がこの選択を初めに行ったのでしょうか?

もし『「兄弟をこのように存在させよう」としてあなたが選んだものがあなたであったならば、そしてそれ以外の選択肢がそこに在ったならば、「一つを選択し、もう一つを放棄する決定」を誰かがまず初めに決めたに違いないのです。


このステップにも利益(有益な理解)は在るのですが、しかしこれでもまだ{何故このようなことが起こっているのかという}基本的質問に届いてはいません。

自己に対するこれらの概念の前に何かが起こっている筈なのです。

そして彼等(分離しているあなた達)を生み出した学びの前に何かがなされている筈なのです。

{自分を無垢な被害者と見たにしろ、自分を決定者/定義者としても見たにしろ}どちらの見方も、これを説明することは出来ません。


第一の視点から第二の視点へシフトすることの利益は{被害者の視点から決定者の視点へシフトすることの利点は}、{第二の視点が受け入れられたなら}「あなたが行なった何らかの決断によって選択が起こっていること」が理解されることです。

しかし{決定者としての自分という}第二の視点から得られたこの利益はそれと同量の損失によって相殺されます。

何故なら、今度は(第二の視点の観点からは)「あなたの兄弟の罪悪」が「あなたの罪悪」としてあなたの上に掛けられることになるのだから。

そしてあなたは彼(兄弟)の罪悪を共有しなければ成らなくなるのです。 何故なら、あなた自身のイメージの中で、あなたは彼の為に罪悪を選んだのだから。

以前は(第一の視点からは)兄弟だけが悪者だったのですが、(第二の視点を受け入れた)今度は兄弟と共にあなたが断罪されることになってしまいました。


自己概念が世界の大きな関心で在り続けて来ました。

自分自身の謎に対する答えを探さなくてはいけないと全ての人達が信じて来ました。

しかし「救済とは単に概念からの解放である」と見ることが出来るのです。

救済は、マインドの内容(マインドが考えていること)とは関わらず、「マインドが考えているシンプルなステートメント(宣言/声明)」とだけ関わるのです。

そして「考えることが出来る者」は選択することが可能で、異なる思考は異なる結論(結果)に至ると示すことが出来るのです。

そして『それ(自己概念)が考えること全ては「それがどのように作られたのか、それが何なのか」に関してそれが感じている深い混乱を反映している』と学ぶことが出来るのです。

そして自己概念は「それ自身が知っていないこと」に対しては曖昧に答えるように見えているだけなのです。


シンボル群の中からあなたの自己を探そうとするのは止めなさい。

あなたが何であるか、それを概念で象徴させることなど出来ないのです。

悪と関わっている自己(邪悪な者達に反応し続けている自己)をあなたが知覚している限り、例えあなたがどの概念を受け入れたとしても、それは違いをもたらしません。

{そうしている限り}あなたの自己概念はまだ全く無意味で、そして「あなたはあなた自身とだけしか関与(やり取り)出来ないこと」をあなたは知覚しません。

罪悪に満ちた世界を見ているという事は『あなたの学びが世界によって指導され続けており、あなたは自分を見ているように世界を見ている』という印(サイン)なのです。
自己概念は、あなたが見ているもの全てを包み込んでおり、{その自己概念の中に留まっている限り、聖霊の助けを受け入れない限り}その知覚の外に何かを見ることは出来なのです。


もしあなたが何かによって傷付けられることが可能ならば、あなたは「あなたの隠れた願いの絵」を見るでしょう。それだけなのです。{自分が傷付けられてしまうかも知れないとあなたが考えている時、あなたが見ているのはあなたの隠れた願いの幻想でしか無いのです。}

あなたのあらゆる苦しみの中に、あなたは「あなた自身の隠された殺す願望」を見ているのです。


学習が進むに従って、あなたは多くの自己概念を作って行くでしょう。

あなた自身に対するあなたの知覚が変化するに従って{あなたが作って行く}それぞれの自己概念は、あなた自身の関係の変化を表しています。

シフトが起こる度に、ある程度の混乱が起こるでしょうが、しかし「あなたのマインドを握り締めている世界の学習」の拘束が緩んでいることに感謝しなさい。

「それがやっと去って行きあなたのマインドを平和に戻すこと」に自信/確信を持ってハッピーに成りなさい。

非難者の役割が多くの場所に多くの形で表れ、そのそれぞれがあなたを糾弾しているように見えるでしょう。

「それ(断罪)が解除されないかもしれない」と恐れるのは止めなさい。

世界があなたに対する様々なイメージを教えることは出来ません、あなたがそれら(あなたのイメージ)を学ぼうと欲しない限り。

イメージが全て消え去り、「あなたが何か(自分がどのような存在なのか)」あなたは知っていなかったことが見える時が来ます。
封印されておらずオープンなこのマインドに対して、真理が滞りなく縛られることなく戻って来るのです。


自己概念が取り払われた時に真理そのものが示されるのです。

全ての概念が疑われ審議され、「光りが当てられた時打ち崩れてしまう前提」の上にそれら(全概念)が立てられていることが認識された時、クリーンに罪悪無く真理がその聖壇(サンクチュアリー)の中に入って来るのです。


世界が一番怖れているものが下記の文章なのです。

 "I do not know the thing I am,
and therefore do not know what I am doing,
where I am, or how to look upon the world and on myself."
『私というものを私は知っていません。だから「私が何をしているか、私が何処に居るか、世界と私自身をどのように見るべきか」私は知っていません。』


しかしこの学びの中に救済が生まれるのです。

そして「あなたであるもの(真のあなた)」がそれ自身をあなたに告げるのです。

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