Oct 19, 2012

Chapter 31-3

The Self-Accused
自らを断罪している者


自分を断罪している者だけが他者を断罪するのです。
異なる結果をもたらす選択をしようとし始めたなら、あなたには先ず第一に良く学ぶべきことがあります。

これ(あなたがここでこれから学ぶこと)があらゆる誘惑に(そしてあらゆる状況に)対するあなたの一番最初の反応に成るようにしなければいけません。これが殆ど自動的と言っていいぐらい反射的な(あなたの)反応に成るようにする必要があるのです。
(下記に示される)これを学びこれをマスターしなさい。 何故なら、ここにおいてハピネス(幸福)の延期が(あなたには認識出来ない程短く)縮められるのだから。
 

「どのような時でも決してあなたは自分の兄弟の『罪』故に彼(兄弟)を憎んではいないのです。 彼の罪がどのような形で現れているように見えても、{彼の罪が現れている}その形は『あなたがそれ(罪/分離)を自分のものだと信じており、だから攻撃が正当化されている(だから攻撃が必要だ)と信じていること』を隠しているのです。」

「それら(彼の罪)をあなたの中で赦すことが出来ない」とあなたが信じなかったなら、彼の罪が罪で在り得たでしょうか?

「それらの罪があなたのリアリティである」とあなたが信じなかったなら、どうしてそれらの罪が彼の中でリアルに成っているのでしょうか?
あなたがあなた自身を憎んでいる場所以外の何処で、あなたがそれら(彼の罪)を攻撃する必要が在るのでしょうか?

 
「あなた」は罪ですか? あなたが攻撃している時、この質問に対するあなたの答えは「ハイ、その通り」です。

何故なら、攻撃することによりあなたは自分が有罪であることを主張しており、「あなたに相応しいもの」を{他者にも}与えなくては成らなくなってしまうのだから。

「あなたであるもの」以上に「あなたに相応しいもの/あなたに与えられるべきもの」が在り得るでしょうか?

あなたが攻撃に値する{自分は攻撃に値する}とあなたが信じなかった限り、誰かに対して攻撃を「与えよう」とあなたが思い付くことさへ無かったことでしょう。

あなたは何故攻撃しなくてはならないのでしょうか? 攻撃することからあなたは何を得ているのでしょうか?
攻撃することからあなたが求めている結果とは何でしょうか?

どうして(どうしたら)殺人があなたに利益をもたらせるのでしょうか?


罪(複数形)は体達の中に在るのです。罪はマインド内には知覚されません。 罪は、目的とは見られず、行動と見られるのです。
体達は行動するけれど、マインドは行動しない{と考えられています}。

だから体がしたことに対して体に責任があると考えられています。

体は「あなたの命令に従うもの、パッシブ/受動的なもの、それ自体では何もしないもの」とは見られていません。

もしあなたが罪であれば、あなたは体なのです。 何故なら、マインドが{体から離れて}行動することはないのだから{と考えられているのです}。
そして目的は、マインド内ではなく、体の中にあるに違いなのです。{と考えられています}。

体はそれ自体で行動しており、体がそれ自体を動機付けているのです。
もしあなたが罪であるならば、あなたはマインドを体の中に閉じ込めており、マインドに取って替わって行動する「マインドの監獄{つまり体}」にマインドの目的を与えているのです。

 
看守は、命令に従うのではなく、囚人に対して命令を強制するものです。
しかし体こそが囚人であって、マインドは囚人ではないのです。
体は全く思考しません。体は学ぶ力も許す力も隷属させる力も持っていません。

体は、マインドが仕える必要がある命令は下さず、体が従うべき条件も設定しません。

体は「自ら体の中に住もうとしているマインド」だけを囚人にしているのです。

体の囚人に成ろうとするマインド」の命令によって、体が病気になるのです。

こうして体は年を取り死にます。何故なら、{体の囚人に成ろうとしている}マインドはそれ自体の中で病んでいるのだから。

 これら全てが学習によって変るのです。

『「マインドによって与えられた目的」に沿う様に体の見掛けが変ること』をマインドが好まない限り、体は変れないのです。 体の中では学習は起こっていないのだから。{学習はマインドの中で起こることで、本来マインドは体の中に縛り付けられてはいないのだから。} マインドが学習するのであって、マインドの中で全ての変化が行なわれているのだから。


自分が罪だと考えているマインドは、一つの目的だけを持っているのです。

その目的とは、体を罪の源にして、マインドが選んだ刑務所に罪を留め置き、それ(罪の刑務所である体)を防御し、マインド自身を罪から遠く切り離し、体を『「憎しみ/邪悪/病/攻撃/痛み/加齢/悲しみ/苦しみの犬達」に吠え立てられている眠った囚人』にすることなのです。

ここに犠牲の考えが保存されているのです。何故なら、ここで罪悪が世界を統治し、世界が罪悪自身と同じように(何者も慈悲を見つけることは出来ない場所として、殺人と死以外に怖れの猛威を逃れる方法が無い場所として)在るよう命令しているのだから。

ここであなたは罪を作っており、罪が喜びを守ったり自由を受け入れたりすることは出来ないのです。何故なら、それら(自由と喜び)は罪が殺すべき敵なのだから。
死の中で罪が保たれており、「自分達が罪だと考えている者達」はそれ故に死ななくてはならないのです。


『あなたは自分が信じていることを見ており、あなたには自分が信じていることを「変える」ことが出来ることを』を喜びましょう。

体はそれ(変化したあなたの信念)に従って行きます。 あなたが行きたくない場所に体があなたを導くことは決してありません。
体はあなたの眠りを守らず、体があなたの目覚めを妨げることもありません。

あなたの体を束縛から解放したなら、あなたは誰のことも「あなたが抜け出てきた事柄に拘束されている囚人」とは見なくなります。

あなたは「自分で選んだ敵」を罪悪の中に留めようとはしなくなり、「自分の友達だとあなたが考えている人達」を移ろい行く愛の幻想に縛ろうともしなくなります。
無垢な者達は自分達の解放の為に喜んで他者を解放するのです。

そして「彼等(他者を解放した無垢な者達)が見ているもの」が、拘束と死からの彼等の自由を維持する(守る)のです。

 
変化に対してあなたのマインドをオープンにしたなら、あなたの兄弟やあなた自身から古代の懲罰を強要されることは無くなります。

「求めることが出来る犠牲は存在していない」と神が言ったのだから、捧げられる犠牲もないのです。

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