天国の正義
あなたの小さなエラーが天国の正義によって解除出来ないと考えることは傲岸でしかありません。
そしてそれは「あなたの小さなエラーは(永遠に修正不可能な、そして正義ではなく復讐で迎えられるべき)罪であって間違いではない」という意味でしかないのです。
罪の全ての効果から解放される意志があなたにありますか?
この答えが必然的に内包している全てをあなたが見るまで、あなたは上記の質問には答えられません。
何故なら、あなたがこの質問に対して「ハイ」と答えた場合、あなたはこの世界の全ての価値を放棄して、その代わりに天国の平和を選んでいることに成るのだから。
そしてあなたは一つの罪も保たなくなるのです。
「これが可能だという事に対する疑念」をあなたは一つも尊重しなくなり、罪が保たれなくなるのです。
全ての幻想よりも真理の方が大きな価値があることをあなた意図するのです。
そしてあなたは「自分は真理が何か知っていないので、自分に対して真理が暴き示されべきである」と認識するのです。
躊躇しながら与えたなら、ギフトは得られないことになるのです。
何故なら{その時}あなたはギフトを受け取ることを躊躇しているのだから。
ギフトを受け取ることに対する躊躇が消え去り「ギフトがあなたに与えられること」に対してあなたが意欲的に成れるまで、{あなたが受け取ることを躊躇した}ギフトはあなたの為に取って置かれているのです。
神の正義は、怖れではなく、感謝を保障しているのです。
「あなたが与えるもの」が全ての人達によって受け取られ、それはあなたから(そして誰からも)失われないのです。 そして神の子に与えられた全ての宝は彼{神の子}の為に天国の中で大切にされ保たれており、「それを受け取ろうと意欲的に手を伸ばしている人達全員」に与えられているのです。
そしてこの宝が与えられる度に減ることもないのです。 {この宝は幾ら与えられても減少しないのです。}
受け取られたそれぞれのギフトが供給に付け加えられるのです。
何故なら神は公正なのだから。
神は「(救済を神からのギフトとしては見たがっていない)神の子」とは争いません。
しかし神の正義は、全ての人達によってこれ(ギフト=救済)が受け取られるまで、満たされないのです。
「問題に対して聖霊が与える答え」は常に「誰も失うことがない(失う人が誰も居ない)回答」に成るのです。
彼(神)は誰からも犠牲を求めていないので、これが正しいに違いないのです。
「少しでもロス(損害)を誰かから要求している答え」は問題を解決しておらず、問題を増やしており、状況を強化し、解決をより難しくしており、状況をより不正にしているのです。
聖霊が不正(不平等)を解決として見ることは不可能です。
彼(聖霊)にとって不正なことは、それが不正であるが故に、修正されるべきなのです。
そして全てのエラーは「少なくともひとつが{一人のひとが}不正に見定められていた知覚」なのです。
誰かが失っている(損をしている、負けている)と見られている時、それは神の子に相応しい正義ではなく、彼(神の子)が断罪されています。
そして{その場合}、正義の代わりに、懲罰が彼への支払い(神の子が受け取るべきもの)になるのです。
無垢な視界が、懲罰を不可能にし、正義を確実にするのです。
聖霊の知覚は攻撃の余地を残しません。
損失/損傷だけが攻撃を正当化出来るのです。
そして彼(聖霊)はどのような損失も見ることは出来ないのです。
世界は問題を{聖霊とは}違うように見ています。
世界は解決を「誰が勝って誰が負けるかが定められる状況、勝者がどれだけ取って敗者がどれだけ保持出来るか確定している状態」として見るのです。
しかしそれでも問題は未解決のまま残り続けます。何故なら、敗者の居ない状態/誰も不正に扱われていない状態(従って復讐の基盤の無い状態)を設立出来るのは正義だけだから。
問題解決は復讐では在り得ないのです。 {復讐は問題解決には成り得ないのです。}
復讐は(それが最善の形で現れている場合でも殺人が明確に起こっていないだけで)最初の問題の上にもう一つ問題を加えるだけなのです。
聖霊の問題解決が問題を終らせる方法なのです。
問題が解決されるのは、問題が正義によって迎えられたからです。
問題が正義に出会うまで、問題はまだ解決されておらず、だから問題が繰り返されるのです。
「誰も失う人は居ないということが正義の意味である」という原則がこのコースにとって必要不可欠なのです。
{『誰も損失を受け得ないことが正義である』という原則がこのコースにとって必要不可欠なのです。}
何故なら、奇跡は正義に依存しているのだから。
{奇跡が依存しているのは}この世界の目が見ている正義ではなく、「神が知っている正義/聖霊が与える視界の中に反映されている叡智」としての正義なのです。
失うことに値する者は誰も居ません。
彼(人)に対する不正は起こり得ません。
癒しは全ての人達の為であるに違いないのです。 何故なら、彼はどのような攻撃にも値しないのだから。
「ある人がより多くの苦しみに値し、他の人がより少ない苦しみにしか値しない」というようなことが無い限り、奇跡の中に難易度の違いが在り得るでしょうか?
これ(特定の人がより多く苦しむこと)が全く無垢な者に対する正義で在り得るでしょうか?
奇跡が正義なのです。
奇跡/正義は、特定の人達への特別なギフトではなく、「(より断罪されており従って癒やしから離れている)余り価値の無い人/慈悲に値しない人」には与えられない特別なギフトでもないのです。
特別性の終焉が「目的」である時、「救済から離れていることが出来る者」などが居るでしょうか?
ある種の間違いが赦せない(特定のエラーは赦すことが不可能)というようなことが在り得て、その間違いが(癒やしと平和に戻ることではなく)復讐に値した場合、どこに救済の正義が在るのでしょうか。
神は神の子が正義であることを求めており、「神の子がそれよりも(神から求められている正義よりも)不正に成るよう救済が求めること」は不可能です。
もし聖霊のギフトである奇跡が、選ばれた特別なグループだけに与えられ、「ギフトを受けるに値しないと思われている者達」に対して否定されていたなら、彼(聖霊)は特別性の仲間に成ってしまいます。
「彼(聖霊)が知覚出来ないもの」に対して彼(聖霊)が証言することは出来ません。
そして全ての人々は「彼(聖霊)の癒やしと解放と平和のギフト」に等しくふさわしいのです。
あなたの問題を解決する為に聖霊に問題を与えるということは、あなたが問題の解決を求めていることを意味しています。
聖霊の助けなしで、あなた自身で解決しようとして問題を保つことは、「問題を未解決に保とう、そして問題の不正と攻撃の力を保とう」と{あなたが}選択していることを意味しています。
あなたが先ずはじめに不正に成ることを選択していない限り、誰もあなたに対して不正に成れる人は居ません。
{あなたが始めに不正で在ることを選択したなら}あなたの道を塞ぐように問題が現れ、憎しみの風で平和を蹴散らすのです。
「全ての兄弟が奇跡に対して等しい権利をあなたと共有している」と考えない限り、あなたは「同等の権利を有している者」に対して不正なのだから、だから{全ての兄弟が奇跡に対して等しい権利をあなたと共有しているとあなたが考えない限り}あなたは彼等(兄弟)に対する「あなたの権利」を主張/要求しません。
{兄弟があなたと共有している奇跡への権利をあなたが}否定しようと求めたなら、あなたは否定されていると感じるでしょう。
奪おうと求めたなら、あなたは奪われた(貧しくされた)のです。
「他者が奇跡を受け取れない故に(あなたが)奇跡を受け取れる」ということは決してありません。
赦しだけが奇跡を捧げる(与える)のです。そして免罪が全ての人達に対して正当に当て嵌まるに違いないのです。
あなたが保って隠している小さな問題があなたの隠れた罪になるのです。
何故なら、あなたはそれらの問題があなたの為に取り払われることを選択しなかったのだから。
するとそれらの問題は埃を吸い大きくなるのです。
それらの問題が「あなたの知覚している全て」を覆い、「誰に対しても公正ではないあなた」だけが残るように成るまで(それらの問題は大きくなるのです)。
すると「自分は一つの権利も有していない」とあなたは信じるように成るのです。
そして敵意と正当化された復讐により慈悲が失われ、「赦しに値しない者」としてあなたを断罪するのです。
「赦されざる者/赦されていない者」は他者に与える慈悲は持っていないのです。
だから「あなた自身の為に赦しを取ること」があなたの唯一の責任であるべきなのです。
あなたが受け取った奇跡をあなたは与えるのです。
それぞれが{それぞれの奇跡が}「法(その上に救済が成り立っているのです)」のイラストレーション(説明)に成るのです。
その法とは「誰かが癒やされる為には、正義が全ての人達に対して行なわれなくてはならない(正義が全ての人達に対して行なわれるに違いない)」ということです。
誰も失うことなく(損することなく)、全員が利益を得なくてはいけないのです。
それぞれの奇跡は「正義/奇跡が全ての人達に捧げられた時、正義に何が達成出来るか示すサンプル(実例)」なのです。
奇跡は等しく受け取られ与えられるのです。
「与えることと受け取ることが同じである」という認識/意識が奇跡なのです。
奇跡は「おなじもの」を「似ていないもの{お互いと似ていないもの}」にはしないのだから。 奇跡は、違いが存在していない所に違いは見ないのです。
従って奇跡は全ての人達にとって同じであるに違いないのです。何故なら、奇跡は人々の中にどのような違いも見ていないのだから。
奇跡の捧げものはユニバーサル(普遍的)で、その教えは一つのメッセージだけを教えようとするのです。
神のもの(神に属するもの)は全ての人々のものであり、「神のもの」が人の取り分なのです{「神に所属しているもの」が人に与えられるべきものなのです}。
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