あなたが見ている世界はワンネス(一体性)の犠牲/代償に基づいているのです。
それは全く統合されておらず、繋がりが完全に失われている絵なのです。
それぞれの個体の周りにはとても硬く見える壁が作られており、その中にあるものが外に繋がることは出来ないように見えているのです。 そして{壁の}外にあるものが、壁の中に閉じ込められているものへと伸び出し{壁の中に閉じ込められているものと}繋がることも出来ないように見えています。
それぞれが自分自身を十全に保つ為には、他の部分(他者)を「犠牲/代償」にする必要があるのです。
何故なら{壁によって切り分けられているように見えている}彼等がお互いと繋がったなら、彼等はそれぞれに自分達のアイデンティティ(自己認識)を失ってしまうから。そして彼等の分離によって彼等の救済{安全}が保たれているのだから。
こうして体が囲っている「小さなもの、卑小なもの」が自己に成るので。 そして{自分の体以外の}その他全てを犠牲にすることにより{体という卑小な自己が}保たれているのです。
そしてその他全ての人達も(それら自身の{分離した}アイデンティティを保つために){あなたの体という}この小さな部分を失い、不全なまま保たれているのです。
あなた自身に対するこの知覚の中では、「体」の損失は確かに犠牲なのです。
そして体の光景(体の視点)が「犠牲が限定されていて、あなただけの為に何かが残されていること{あなただけの為に特定の体が与えられていること}」の印になるのです。
この少しのもの(卑小な体)をあなたのものとする為に、外の全て{体の外に見えている全てのもの}に対して限定が掛けられており、「自分のものだとあなたが考えている全て」に対しても限定が掛けられているのです。
何故なら、「与えること」と「受け取ること」は同じなのだから。
そして体の限定を受け入れることは、あなたが見ている全ての兄弟の上にそれらの限定を適用することなのだから。
何故なら、あなたはあなた自身を見ているように彼(兄弟)を見ざる得ないのだから。
体は損失(ロス)であり、体は犠牲にすることが出来るのです。
そしてあなたが兄弟を体として見ている限り、「彼独自の独房の中であなたから分離している体」として兄弟を見ている限り、あなたはあなた自身と彼(兄弟)から犠牲を求めているのです。
そして「彼の父(子の父)が自身の子を抜きにして在ること」を要求するよりも大きな犠牲があるでしょうか?
しかし全ての犠牲は「彼等{父と子}が{お互いから}分離しており、お互いを失っていること」を要求するのです。
誰かから何らかの犠牲(代償)が求められているのなら、神の記憶が否定されているに違いなのです。
どれらだけ神の子が真理を証言したとしても、分離した体達の世界の中では、神の子の全体を証言しているどのような者が見られているのでしょうか? {分離した体の世界の中では、神の子の全体を証言している者は見られないのです。}
そのような世界の中で彼(神の子の全体を証言している者=聖霊)は見られていないのです。
そして{そのような世界の中では}彼の合一と愛の歌も全く聴かれていないのです。
しかしそれ(聖霊の愛の歌)は「彼の歌の前に世界が退き、彼の視界が体の目を置き換える為に」彼に与えられているのです。
幻想ではなく(幻想の代わりに)真理への証言者を見ようとする者は、単に世界の中で(世界に意味と論理を与える)目的を見ることを求めるのです。
しかしそれ(この世界)は天国そのものと同等に豊かで無限な宝庫に成れるのです。
ここにはあなたの兄弟の神聖が見られない瞬間は無いのです。 あなたが自分に割り当てている全ての貧しい破片や幸福の欠片に対して無限の供給(サプライ)を付け加える瞬間が、いつも見られているのです。
あなたがワンネス(一体性)の視界を失うことは可能ですが、そのリアリティを犠牲にすること(失うこと)は出来無いのです。
そしてあなたが犠牲にしたものを失うことも出来ないのです。『「それ(一体性のリアリティ)が失われていないこと」をあなたに示す聖霊の役割』を失わせることも出来ないのです。
そして世界を退かせ、平和の為に彼の証言者が捧げている休息を受け取りなさい。
そして彼を裁くのは止めなさい。何故なら{兄弟を裁いたなら}あなたの為の解放の歌があなたには聞えないから。 {何故なら兄弟を裁いたなら}「目撃/証言するよう彼に与えられているもの(あなたがそれを見て彼と共に喜ぶ為のもの)」を見ることが出来ないのだから。
彼の神聖を「罪に対するあなたの信念」への犠牲(代償)にするのは止めなさい。
あなたの無垢を彼の無垢と共に犠牲にし、死に値する罪をあなたが彼の中に見る度にあなたは死ぬのです。
しかし全ての瞬間にあなたは再生することが可能で、生命をもう一度与えることが出来るのです。
彼(兄弟)の神聖があなたに生命を与えます。 彼の無罪が神に知られているのであなたは死ねないのです。 そして彼(兄弟)がそれ(あなたの中の光り)を見ていないことによりあなたの中の光りが塗りつぶされることは無いように、{彼の無罪が}あなたによって犠牲に上げられることも出来ないのです。
天国の中で神の子は体の中に幽閉されておらず、孤独の中で罪に対する犠牲にされては居ないのです。
そして彼(神の子)は天国の中に居るので、彼は永遠であり、全ての場所に居るに違いないのです。
彼は永遠に同じなのです{彼は永遠に同じで在り続けるのです}。
全ての瞬間に生まれ変わり続け、時間によって触れられることは無く、死によっては(あるいは生命に対するどのような犠牲もよっても)触られない所にいるのです。
何故なら、彼(神の子)は{死と犠牲の}どちらも作っておらず、「自分のギフトが犠牲や損失をこうむる事は決してないと知っている者」から「ひとつのもの(ひとつの全体)」だけが彼に与えられているのだから。
神の正義は神の子の上に優しく置かれており、彼(神の子)に対して世界が投げ掛けようとする全ての不正から彼を安全に保っています。
「あなた」は彼の罪をリアリティに出来るでしょうか? そして彼に対する父の意志を犠牲に出来るでしょうか?
「彼自身が自分をその中に見ている腐り果てた牢獄」の中に彼を見ることにより彼を断罪するのは止めなさい。 {彼を肉体(分離した体)の中に見ることにより、彼を断罪するのは止めなさい。}
「ドアが開かれ、彼が入って来てあなたを照らし、自由のギフトを(彼があなたの為に受け取ることにより)あなたに戻すこと」を確約するのがあなたの特別な役割なのです。
「自身を正義から隔てるために彼(神の子)が作った牢獄」から神の聖なる子を解放することだけが聖霊の特別な役割なのです。
「あなた」の働き(役割)が、彼自身(神の子自身)の役割から切り離されていることが在り得るでしょうか?
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