May 7, 2011

まとめ II

どうすれば我々の意識を神のもとに戻す事が出来るのでしょうか?
分離した(天から意識を背けた)とはいえ、わたし達の意識は神の意識から隔たっていません。
しかし純粋な意識である神は光そのもので、(分離的な意識に基づいた)人の言葉は喋りません。

人と喋る役割は精霊が受け持っています。
精霊の別名は良心(正しい心/正気)です。

そして「精霊」と「神から分離した人のマインド(エゴ)」は綱引きのような対立を起こし続けます。
それに耐えられなくなった時、人は神に意識を戻し始めるのです。
それまで人は「地に存在している意識」の源のフリを続けるでしょう。

(天と地を結んでいる人ではない)地の人(人間)で在り続けることに耐えられなくなった時、神への帰還が始まるのです。
すると人の意識は地上の体から広がり出て、神をもう一度認め直すのです。

「精霊」と「エゴ」が綱引きしている状態で、自分の意志をこの地に現そうとしても抵抗が多く起こり上手く行きません。
本当に上手く行くのは神とあなたが一つに成った時の意志なのです。

「あなたの意識があなたの世界を作っている。」
ある意味でその通りです。
しかし、リアルな世界を作っている「あなた」は、「神が知っているあなた(神の子)」であって「エゴ(神から分離している人のマインド)」ではないのです。

神から分離している人達のマインドは共同幻想(この言葉を吉本隆明から拝借してみました)を作っているのです。
共同幻想もまた(分離という)アイディアで出来ており、(そのかなりの部分は)無意識の思考によって保たれています。
共同幻想の中で自分の意志を成り立たせることも可能なのですが、基本的にそれはあまり平和ではなく(そこには対立が含まれており)その状態は長持ちしません。

ではどうしたら、「神が知っているあなた(神の子)/神とあなたの意志が一つに成った状態」に戻れるでしょうか?
意識的に自分から綱引きに負けようとしても(自分の意志をただ放棄しようとしても)、エゴが邪魔をしてそのままでは神(精霊)と意識をひとつにすることは出来ません。

神と一体の意識を取り戻すには、精霊の力を借りて共同幻想から意識/注意を外す必要があります。
精霊の力を借りるには、自分が今まで一人で孤独の内に行なってきた思考と意志判断と知覚認識を精霊の下に戻す必要があるのです。 これが比較的困難な部分です。
何故なら、我々にとって自分達の共有されている思考/価値判断/知覚認識こそがリアリティそのものだと信じられているからです。
しかし実際には、我々の思考/価値判断/知覚認識はリアリティと我々の間に挿入され続けている幻想(定義)なのです。
この幻想(定義)が大多数の人々によって上手く共有されている限り、その幻想がリアリティとして受け取られ続けてしまうのです。
これらの(分離的)「思考/価値判断/知覚認識」が(無意識の内にあなたを神から隔てている)原罪であり、これらが罪/病/死の体験をもたらしているのです。

この状態を破るためには、リアリティを直接意識的に体験する必要があり、そのためには精霊の助けが必要なのです。

ここでのキーワードは意識そして無意識です。
何故なら大半の「思考/価値判断/知覚認識」は無意識の内に行われており、それらは無意識の内にリアリティとして受け取られてしまっているからです。
精霊(神の代弁者)の助けを借りて、この無意識のプロセスを意識的に止める必要があるのです。

ではどのようにして我々の「思考/価値判断/知覚認識」を精霊の下に委ねれば良いのでしょう。
あなたが何かを感じている時、何かを考えている時、何か/誰かを見て聞いている時、あなたが何かをしている時、つまりあなたが起きている時(そして本当はあなたが寝ている時も)、あなたは自分の世界に対する定義(自分の存在環境)を構築し続けているのです。
これは世界(リアリティ)に対する定義であって、リアリティそのものではありません、しかし大多数の人達がある程度同じ定義をいっせいに信じ始めたなら、それをリアリティと見分ける事は困難なのです。
だから精霊の助けが必要なのです。 だからあなたは一人では目覚められないのです。
ではあなたと精霊が居れば十分なのでしょうか? いいえあなたは世界/神の動き/自分の兄弟姉妹を見て、その上に掛けられている定義群が解除されることを見なくてはいけません。 これが「赦し」と呼ばれている体験なのです。 
そして、これはあなたがする事ではなく、精霊があなたの為にしてくれることなのです。
赦すこと(定義を解除すること)は(現時点では)あなたには出来ないのです。

あなたに出来ることは、自分の「思考/価値判断/知覚認識」を精霊の下に持っていくことだけなのです。

しかしその前にあなたは、自分の「思考/価値判断/知覚認識」(そして自分の反応)を止めなければいけません。 自分の「思考/価値判断/知覚認識/反応」を止めなければ、それを精霊の下に持っていくことは出来ないのです。
だから思考を止めること、自分だけで判断することを放棄すること、自分の知覚をそのまま受け入れてそれがリアリティだと思い続けることをやめること、物事/人物への反応を止めること、が必要なのです。

しかし、それらを止めようとすると感情が沸き起こってきます。
「これは不当だ! これは受け入れられない! 私は自分を主張しなくては! これ程強靭な世界に対して何をしても無駄だ!」
あらゆる感情の波を浴びても、あなたはそこで立ち止まらなければ行けないのです。
感情に突き動かされて、感情の中に入ってしまっては「思考/価値判断/知覚認識/反応」を止めることが出来ません。
感情は思考と繋がっており、思考と感情は分離していません。 しかし感情に圧倒されている時点ではこのことには気付けないでしょう。 あなたの苦しみの感情の根源にはあなたの思考(定義)があるのです、しかしあなたの思考は無意識の中に潜んでいるので、あなたにとっては世界があなたの感情(身体/理性)を傷つけているように見えるのです。


感情の波をやり過ごしてあなたが立ち止まった時、あなたは静寂の中に居るのです。
その静寂の中に精霊は居ます。
そこで、あなたは自分の「思考/価値判断/知覚認識/反応」を精霊に差し出し、それらを自分では受け取らないのです。 
ここまでがあなたの役割です。 ここから先が精霊の仕事です。
ここまでは(精霊には手出しが出来ず)あなたは自分で行なう必要があります。
しかしここ(静寂)から先は、あなたは自分でしようとはせずに、精霊に任せるのです。

その時その静寂の中で、あなたは過去を手放しています。
そこでは過去へのこだわりが消えており、「過去がこうだったから、未来はこうなるに違いない」という過去から未来への投射がありません。
(エゴは今の瞬間の中には存在出来ないので、必ず過去を作り、そこから未来を投射し続けます。)

「(エゴが行なっている)過去からの投射」が消えている瞬間が、聖なる瞬間なのです。
そこにはエゴが幻想を挿入する隙間がなく、そこであなたはすべてを神と共有しているのです。
あなたは神と共に、すべてをこの静寂の中から見るのです。

そこではインスピレーションを受け取ることでしょう。
そこでは啓示が示されることでしょう。
しかしあなたは、それらの啓示やインスピレーションを聖なる瞬間から取り出して定義(共同幻想)の中で使うことは出来ないのです。
何故なら、真の世界は聖なる瞬間の中に存在しており、「過去から未来への投射/共同幻想/世界に対する定義/思考/価値判断/知覚認識」の中には存在していないのだから。

だからあなたがするべきことは、おのずと明らかです。
自分の意識を聖なる瞬間に留め続けること。
そこから神/精霊と共に全てを眺め、全てを感じ、全てを「考える」のです。
つまり聖なる瞬間(静寂)の中に留まり続けることが必要なのです。

これはあなたが一日中ただ座って瞑想だけを続けることを意味しているのでしょうか?
これはあなたが人々から離れて洞穴に住みつくことを意味しているのでしょうか?

いいえ、あなたは自分の行く所全てにあなたの静寂を持っていくのです。
あなたは自分が出会う全ての人に自分の静寂を分け与えるのです。

そしてもし、あなたの静寂を揺るがす何かが起こったなら、そこで踏み止まって反応を止め、もう一度静寂の中に入り直すのです。

あなたの目の前にはやるべき事があり、言うべきことがあるでしょう。
自分の静寂の中でそれらをするのです。



おまけ:

「分離」って解りにくいなー。 何かもっと違う言葉ないん?

よっしゃー! まかしとき!!
「神様のことを知らんぷりする」


長すぎるがなぁー!!

では「全体を切り分けて、それぞれの部分にお互いと相容れない性質を与えること」

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