暗闇からの救済者
「体の目が知覚しているもの」があなたを怖れで満たしていることは明白ではありませんか?
もしかしたらそこに(体の目が知覚しているものの中に)満足/成就の希望があるとあなたは考えているかも知れません。
「あなたが知覚している世界(あなたが知覚した通りの世界)」の中である程度の平和や満足を得ようとあなたは空想しているかもしれません。
しかし{そのようなことを試みても}結果は変わりないことが明確なのです。
あなたの希望や空想に関わらず{そのような試みの}結果は常に失望なのです。
そしてこれに例外はなく、例外が将来起こる可能性も無いのです。
過去の唯一の価値は、『「あなたが保とうと思わなかった報酬」をそれ(あなたの過去)があなたに与えたこと』がそこ(過去)から学べることだけです。何故なら、これを学ばない限り、あなたはそれ(過去)を手放してそれを永遠に立ち去らせようとしないから。
しかしあらゆる場所と時間で、あらゆる意味で、あなたの報酬は怖れと罪悪だけだったのです。
『「この方向での変化(今までのやり方が良い変化を示すこと)」を求めて「より良い結果を生む変化』を遅らせることは無駄だ』とあなたが気付くまでどれだけ時間が掛かるのでしょうか?
一つ確実なことは、あなたが物事を見ている(あなたが今まで物事を見てきた)やり方は、あなたの未来の希望へのサポートは与えておらず、希望の兆しも全く見せていないということです。
希望が存在していない所にあなたの希望を与えたなら、あなたは希望を失ってしまうに違いないのです。しかし「希望が絶対見つかるはずのない場所」の中で希望を探そうとしている限り、あなたはこの絶望を選んでいるのです。
しかしこれから離れた希望{あなたの知覚している世界から来ていない希望}を、「この世界の中には無い基盤(理由)」の上に正当化されている(揺らめき、かすかに見える)希望を、あなたがある程度見つけていることも真実ではないでしょうか?
それでもあなたはそれら(希望)が未だここ(あなたが見ている世界)に在って、それ故に「あなた自身に与えた希望の無い報われない仕事」が放棄出来ない状態を望んでいるのです。それが(今まで失敗しかもたらして来なかった試みが)ある日突然成功する、そして今まで起こらなかったことが突然起こるという考えの上に『「今まで失敗し続けてきたこと」を求め続ける理由があるという固定された信念』を持ち続けることが理に適っているでしょうか?
この過去は失敗しました。
「あなたのマインド内に在るもの」を暗くしようとしていたものが、あなたのマインド内から消え去ったことを喜びなさい。
内容の為に形を受け入れるのは止めなさい。何故なら、形は内容の方法でしかないのだから。
そして額縁(枠組み)は「絵が見えるようにそれを掲げる為の方法」でしかないのです。絵を隠してしまう額縁には目的(意味)がありません。
もしそれだけがあなたに見えていた場合{額縁が絵を完全に隠してしまって額縁しか見えなかったのなら}、 それはもう額縁ではありません。
絵が無かったなら額縁には意味が無いのです。額縁の目的(意義)は、絵を目立たせることで、それ自体を目立たせることではありません。
空っぽの額縁を壁に飾ってその前に立って、あたかもそこに名画が在るかのようにそれに対して深い敬意を示す人が居るでしょうか?
しかしあなたが兄弟を体として見ているなら、あなたはこれだけを(額縁だけを見ることを)しているのです。
暫くの間、それ(神の意志)を全く不明瞭にすることなく、体はそれを保つでしょう。
しかし神が創造したものは額縁(枠組み)を必要とはしていないのです。
何故なら、神が創造したものを神がサポートしており、神自身の中にそれを縁取っている(神という額縁の中に創造を保持している)のだから。 神は自分の名作が見れるようあなたにそれを捧げて(差し出して)いるのです。
あなたはその替わりに額縁を見ようとするのですか?そして(神の名作である)絵は全く見ようとしないのですか?
そしてこの額縁(枠組み)は創造者と繋がっており、創造者と一つであり、と同時に創造者の名作と一つなのです。
絵を見づらく(わかりづらく)しており、そして絵の替わりに額縁を大切にしたいと思わせているのは、あなた(達)の分離した目的なのです。
しかし神は自身の名作を永遠に残る額縁の中に置いたのです。 そしてあなたの額縁は塵の中に崩れ去ったのです。
しかし{あなたの額縁が崩れ去ったからといって}絵が何らかの形で破壊されたと考えるのは止めなさい。神が創造したものは全ての破壊/腐敗から安全に守られており、神が創造したものは不変であり、永遠の中にパーフェクトに存在しているのです。
神の額縁(聖霊)をあなたの額縁(体)の替わりに受け入れなさい。 そうすればあなたは名作を見るのです。
その愛らしさを見て、それを考えたマインドを理解しなさい。それ(聖霊)を考えたマインドは、肉と骨の中にそれを考えたのではなく、それ自身と同じだけ愛らしい額縁(枠組み)の中にそれを考えたのです。
その神聖が「暗闇の枠組みによって隠されてしまっている無罪無垢」を燈しており、「(絵の創造者に向けて放たれている光を反射している)絵の顔」の上に光のヴェールを投げ掛けているのです。
あなたがこの絵を死の額縁の中に見たからといって、この顔が暗くされたことが一度でもあったと考えるのは止めなさい。
あなたがそれ(聖霊の無罪無垢な顔)を見れるように、そして神がそれに与えた神聖をあなたが見れるように、神がそれを安全に保ちました。暗闇の中で「暗闇からの救済者」を見つけなさい、そして父のマインドが兄弟をあなたに見せているように兄弟を理解しなさい。
{その時}暗闇は彼には触れておらず、「自分で見るために彼(あなたの兄弟の神聖=聖霊)を引き出したあなた」にも暗闇は触れていないのです。
彼の無罪は、あなたの無罪を描いているのです。
彼の優しさがあなたの力に成り、あなた達両者は喜んで自分達の内側を見て、(あなたが彼の上に見たもの故にそこに在るに違いない)神聖をそこに見るのです。
彼(兄弟の中の聖霊)は額縁で、彼の中にあなたの神聖が置かれており、神が彼に与えたものがあなたに与えられるに違いないのです。
彼が自分の中の名作をどれだけ無視していたとしても、そして暗闇の額縁だけを見ていたとしても、「彼(あなたの兄弟)がまだ見ていないものを{あなたが}彼(兄弟)の中に見ること」だけがあなたの役目なのです。
このようにして見ることの中で「死を見る代わりにキリストを見ているヴィジョン」が共有されている(分かち合われている)のです。
「彼と同じように彼の子を(神と同じように神の子を)愛しているあなた」に彼(神)が感謝を捧げないことがあるでしょうか?
神が愛しているものに対する神の賞賛をあなた達がわかち合ったなら、神が神の愛をあなた達に知らせないことがあるでしょうか?
神はパーフェクトな父として神自身の創造を慈しんでいるのです。
そして神の一部が(それがどの部分であろうとも)神の喜びを分け合う為に、(創造に対する)神を賞賛する為に、繋がたなら神の喜びが完成されたのです。
この兄弟が神からあなたへ贈られているパーフェクトなギフトなのです。
『「神のパーフェクトな子」がそれそのものとして存在していることにあなたが感謝していること』に対して神は感謝しており嬉しく思っています。そして神の感謝と喜びが「(神と共に神の喜びを完成させている)あなた達」の上に輝いているのです。
こうしてあなた達の喜びが完成するのです。
「自分達の父の幸せを完成させようと(そしてそれと共に自分達の幸せを完成させようと)意図している者達」には暗闇の一束でさえ見えないのです。
孤独であることは神の意志ではありません。
それはあなた達の意志でもありません。
あなたの兄弟を赦したなら、あなたが自分を兄弟からそして兄弟の父(神)から分離することは出来ません。
「あなた」は赦しを必要とはしていません。何故なら完全に純粋な者は決して罪を犯さなかったのだから。
であれば、彼/神があなたに与えたものを与えなさい。 「あなた」が神の子を一つと見て(神があなたに感謝していると同じように)あなたがその子の父に感謝出来るように{聖霊があなたに与えたものを{兄弟に}与えなさい}。そして彼(父)の賞賛があなたに与えられていないと考えることは止めなさい。
何故なら、あなたが与えたものは「彼」のもので、あなたがそれ(あなたが神から受け取ったギフト)を{兄弟に}与えることにより、「神のあなたへのギフトがどのようなものか理解すること」をあなたは学ぶのだから。
だから「彼(聖霊)が父と子に等しく捧げたもの」を聖霊に与えなさい。
あなた達の上に力を持っているのは「神の意志」と「(神の意志を差し伸べようとしている)あなた達の意志」だけなのです。
あなたはこの為に創造されており、この為にあなたの兄弟があなたと共に(あなたとひとつに)創造されているのです。
あなた達は同じで、神自身も「ひとつ」であって、神の意志は分離していません。
だからあなた達も一つの目的を持っているに違いないのです。何故なら神は同じものをあなた達両者に与えたのだから。
「兄弟に対して完成を捧げることによりあなた達が完成されることを求めている意図/意志」とあなた達が繋がったなら、神の意志がまとめられるのです。彼(兄弟)が見ている罪深さを彼(兄弟)の中に見るのは止めて、彼(兄弟)に名誉を与え、あなた自身と彼(兄弟)を尊重出来るようにしなさい。
あなた達各人には(暗闇から光へ移行する)救済の力が与えられています。
暗闇から光へ逃れることがあなたが分け与えるもの{救済}であり、これによってあなたは「決して分離したことのないもの、全てに等しく与えられている神の愛の全てから離れたことが無いもの」を「ひとつ」に見るようになるのです。
No comments:
Post a Comment