Mar 15, 2011

あなたは#17

2006826日(真夜中)

42. Wholeness is the perceptual content of miracles.

42. 全体性/完全性が、奇跡の知覚的内容(見て感じて認識出来るもの)です。

奇跡によって、「あなたの全体性の中に必要とされている側面」が(問題として現れている)欠乏に取って代わることが可能です。


It thus corrects, or atones for, the faulty perception of lack anywhere.

だからそれは(奇跡は)欠乏という誤った知覚/認識を修正することが出来るのです(たとえ欠乏の認識がどこに現れていたとしても)。

全体性を見ていない分離的知覚(分離的認識)は間違ったものです。だからそれは優しく修正される必要があります。


2006827

Here we begin to make the fundamental distinction between miracles and projection.

ここでわたし達は、奇跡と投射の基本的違いを知りはじめます。

奇跡は、「限定された視点」や「あなたの選んだマインド体験」を超えたところから来るのです。

投射とは、あなたが自分の外に押し出している(自分の中に統合出来ていない)状況で、それは奇跡を必要としています。


The stimulus MUST precede the response, and will also determine the kind of response that is evoked.

反応の前には必ず刺激があります。そしてどのような反応が起こるか決定するのは刺激なのです

エゴを刺激するものは防御だけです。
そして複数のエゴ間では、一つの防御がもう一つの防御を刺激しているのです。

しかし精霊はあなたの防御に対して常に「愛」で応えています。 そして大いなる「愛」は、完全に無防備なのです。

防御は、エゴが一番初めに行った(「神」に対する)攻撃的な動きを隠すためのものなのです。

神から分離した神の子(それはとても奇妙な現われでした)が「神」に対して感じ始めた反感が怖れを生み、神の子は自分が神から分離したままで居られると考え始めました。

この(架空の)分離に対して「神/父」が感じるに違いない反応(があると神の子は信じたのです)に対して、神の子は防御の必要を感じ出したのです。 神の子によってこのように想像された「神の反感/怒り」が、聖書に失楽園として描かれているのです。

しかしこの愚かな考えは、神の子が「神」に対して行った攻撃的考えを「神」に投射しただけだったのです。


Behavior IS response, so that the question "response to what?" becomes crucial.

行動/振る舞いは反応です。だから「それは何への反応なのか?」という疑問への答えが重要なのです。

神の子の防御(「神」に対する攻撃)は、神の子自身にとっても耐えられないことだったので、神の子はそれを「神」(神の子を永遠に愛している源)に対して投射するしかありませんでした。

「どのようにすれば愛せるのか」忘れてしまったので、神の子は「父」も自分と同じように愛することを忘れてしまったのだと仮定しました。
「神」という父/母が(そして神の子自身が)愛そのものであることを忘れてしまったのです。

自分自身や「父」に対するこの誤認識/誤解ゆえに、不適切な反応が刺激されるようになったのです。


Since stimuli are identified through perception, you first perceive the stimulus and then behave accordingly. It follows, then, that: As ye perceive, So shall ye behave.

刺激は知覚を通して認識されるので、あなたはまず刺激を知覚し、それにしたがって行動します。 つまりあなたは知覚に左右されて行動しているのです。

怖れ、それは分離感覚を得る前には感じられることの無かった(聞いたことも無かった)感情でした。 

神の子が自分の「父」に背を向けた時に感じた怖れは、(我々が感情と呼んでいる)もうひとつの体験、つまり怒りですぐに覆い隠されました。

神の子は、怒りによって状況をコントロールすることが出来ると再び感じ始め、怖れの感情を正当化することが出来るようになりました。

これを理解することが重要です。 何故なら、この防御的正当化(言い訳)が、一番初めの怖れの体験から発展した全ての感情を司っているのだから。

そしてこの怖れ(Fear)の原因は、「この言葉そのもの」の中にも書かれています。

FEARForgetting Everything’s All Right(全てが良きことなのを忘れてしまった状態)。

しかし、目覚めているにしろ、夢みているにしろ、神の子こそが永遠のあなたです。

その神の子がワンネス(一体性/全てがひとつであること)を、合一を忘れてしまったのです。

神の子は分離が不可能なことを忘れてしまいました。
だから、これが不可能であることを「笑って思い出すこと」が出来ないでいます。
そして、『「ひとつ」が、「父/母」神と共にある(そして全てと共にある)あなたの存在の在り方であること』を忘れてしまったのです。


The Golden Rule asks you to behave toward others as you would have them behave toward you.

ゴールデン・ルール(最上のルール)は、「あなたが他の人にしてもらいたいと思っているやり方で、他の人に対して振る舞いなさい」です。

このゴールデン・ルールは、あなたとその他の創造物(創造されたもの)の対等/平等関係を指し示しているのです。

対等関係とは素晴らしいものです。 対等関係の中では「愛」と尊敬だけが可能なのです。

対等関係が、全てのリアルな関係の基礎なのです。
ここでは、あなたとあなたの兄弟姉妹の対等/平等関係に絞って話をしています。


This means that the perception of BOTH – of both You and the Individual and world You see ‘out there’ – must be accurate.

これが(このルールが)「両方の(あなたと、あなたが外に見ている他者や世界の)知覚が正確であること」を保障するのです。

正確な知覚は、平等だけを見ているものです。


The Golden Rule is the rule for appropriate behavior.

このゴールデン・ルールが適切な振る舞いを提示しています。

適切な振る舞い(適切な行動)は、あなたが自身のために求めている尊重と同じものを他者に対して示すものなのです。


You cannot behave appropriately unless you perceive accurately, – perceive another as worthy of this respect – because appropriate behavior DEPENDS on lack of level confusion.

正確に知覚しない限り、あなたは適切に振舞うこと(他者を尊重すること)が出来ません。 何故なら、レベル・コンフュージョン(レベルの取り違え)が無くならない限り(適切な)振舞いは不可能だから。

エゴは常に、他者が自分自身に対してより高いレベルの振舞いをするように要求し(そして、他者が他者に対してもより高いレベルの振舞いをするように要求し)、しかし自身が他者に向かって振舞う時には自己意志レベル(自分勝手なレベル)の振舞いを要求します。

だからあなたは神性と繋がる必要があるのです。 何故なら、あなたは自身だけでは正確に知覚することが出来ないのだから。

『「他者」としてあなたに見えている者(あなたでない者)』に対する判断は常に、(「優れた者/劣った者」というエゴの認識状態ではなく)「平等だけを見ている者」と共に行う必要があります。

知覚は常に感情により色付けされています。 そして感情がレベル・コンフュージョン(レベルの取り違え)そのものなのです。

それは何故でしょう?

『二つの感情しか存在しておらず、それは「愛」と怖れである』と我々は言いました。
あなたが普段体験している「愛」は感情です。
それは移ろい易く、他者が何をどうしているかに左右されてしまいます。

「愛」だけが(正しく理解された「愛」だけが)、全てに対する適切な反応なのです。

「愛」を実現するには、(感情ではなく)(真の愛の源である)聖なるガイダンスに頼るべきなのです。

他者との関わりにおいて私(イエス)のガイダンス(指示)を求めることが、彼等に対して「愛」を表現することなのです。


The presence of level confusion – or believing the illusion You have projected ‘out there’ – ALWAYS results in variable reality testing, and therefore in variability in behavioral appropriateness.

レベル・コンフュージョン/「レベルの取り違え」は(あなたが外側に投射している幻想を信じたなら)、常に「変動するリアリティ・テスト」あるいは「適切な振舞いの揺るぎ」をもたらします。

聖なる助けを求めて伸び出す(手を外に伸ばす)ことで、この揺るぎ(変動)が修正されるのです。 (常に与えられ続けている)この聖なる助けを受け入れなければ、あなたは感情をもとに反応してしまうことでしょう。


Since you and your neighbor are equal members of the same family, as you perceive both, so you will behave toward both.

あなたとあなたの隣人は、同じファミリーの平等なメンバーなので、その両方に対するあなたの知覚に応じて、あなたはその両方に対して振舞うことになります。

「愛の声」は「他者に対するあなたの振舞い(定義)が、あなた自身へのあなたの振舞い(定義)を決める」という平等性/対称性をあなたに思い出させているのです。 
「愛の声」は、あなたの兄弟のリアリティを尊重(再発見)するだけでなく、あなたのリアリティを尊重(再発見)するよう、あなたに思い出させるのです。


The way to perceive for Golden Rule behavior is to look out from the perception of your OWN holiness, and perceive the holiness of others.

ゴールデン・ルールに基づいた振る舞いが出来るように知覚するためには、「あなたの自身の神性を知覚しているところ」から見ることです。 そうした上で他者の神性を知覚し認めるのです。

神性とは、『全てが「愛」であるという認識/意識』です。

ではどのようにすれば、あなたは自分と兄弟の神性に気付くことが出来るのでしょうか?

あなたの良識/あなたの守護神/あなたのガイド/あなたの正しいマインド/より高いパワー/精霊/(全ての人に与えられている)私=イエス。
色々な名前で呼ばれていますが、それらのものに助けを求めるのです。
あるいは直接「神」に助けを求めるのです。 
あなたの兄弟姉妹をあなた自身として愛せるように助けを求めるのです。


2006831

The emptiness engendered by fear should be replaced by love,

怖れによって植え付けられた虚脱感は、愛によって置き換えられるべきなのです。

だから聖書には「完璧な愛が怖れを取り除く」と書かれているのです。29

(より良き道を学ぶまで)ヨハネはその兄弟と共に雷の息子達と呼ばれていました。 だから彼は自分の手紙の中で「愛」について沢山したためたのです。
彼等のしていた多くの落雷(怒りの表現)は怖れを隠すためだったのです。

私が教えた「愛」の道を彼等が学ぶに従い、怖れが溶けてゆき、それが「愛」としての「神」への気付きで置き換わられたのです。

さて、この文章の後ろの部分を読みましょう。


because love and its absence are in the same dimension, and correction cannot be undertaken except WITHIN a dimension.

何故なら、愛とその不在は同じ次元にあり、その(愛の不在に対する)修正もそれらと同じ次元から行われなければならないから。

この文章に対しても説明が必要でしょう。
どうして「愛」と「愛でないもの」(怖れ)が同じ次元にあるのでしょうか?

怖れはあなたの現在の「生命」体験(それは三次元世界と呼ばれているもので、リアリティの次元ではありません)だけに当てはまるように見えます。(脚注15を再度参照して下さい。)

その答えは修正にあります。

リアリティが存在している所でだけ修正が行われ得るのです。 我々が説明している「愛」は、リアリティとしてだけ存在しています。

だから「愛」の不在に対する信念は「愛」が存在する場所でしか成り立ち得ません。 そしてこの信念に対する修正も真の「愛」(「神」である「愛」)が実在する所でしか成し得ないのです。

でなければ、「愛」の不在(として見えているもの)に取って代わるべきものは見当たらなくなってしまいます。

このことから、実際には次元などなく、唯一実在する「場所」=天国(あるいは「神」の現れそのもの)に対する認識/誤認識しか実在していないことが分かります。(脚注15がここにも当てはまります。)


Otherwise, there has been a confusion of levels.

でなければ、そこではレベル・コンフュージョン(レベル間の取り違え)が起こっているのです。

レベル間の取り違え(Level confusion)とは、「ひとつ以上の(分離した)実在がある」と信じることです。

ここで言うレベルとは、あなたが行っている理解のレベル、そして信念のレベルのことです。

だから、あなたが怖れを信じているなら(自分が怖れを体験していると信じているなら)、この信念への真理による修正がその場(怖れの起こっている場所)でなされる必要があります。 その場所で真理/真実が「愛」だと示される必要があるのです。

そして私がさっき言ったとおり、リアルな「愛」だけが怖れを解除するのです。

だから修正は、リアルな「愛」の領域内でリアルな「愛」として行われる必要があります。

『「愛」でないもの』の領域がどうして在り得るでしょうか? 『「愛」でないもの』とは、夢見ている者達が共有している間違った知覚にしか過ぎないのに。

そして「愛」の全体性(「愛」が全てを内包しているということ)と「神」と親密であることが再び発見されたなら、それはなんと喜ばしいことでしょう。


Death is a human affirmation of a belief in “fate,” or level confusion.

死とは「運命」への信念に対する人間的認証であり、つまりレベル・コンフュージョン(レベルの取り違え)なのです。

あなた達が「死」と呼んでいるものは、分離した神の子達がでっち上げた信念に対する確証なのです。

これは憲法の人権規定のようなものですが、私はこれのことを「相互合意されている定義群」と呼んでいます。 これはあなたが信じている規定なのですが、人権規定というよりは人権否定です。

あなたが自分の信念を信じているのは、それがあなたの望んでいる結果を引き出すものだからです。 「死」は、新しい物語と共に夢の中に戻っていくチャンスをあなたに与えているのです。


That is why the Bible says, “There IS no death,”30 and why I demonstrated that death does not exist.

だから聖書には「死は存在していない。」30と書かれており、死が存在していないことを私は実証してみせたのです。

死があなた達全員に対して持っている催眠的拘束力を打ち破るために、それ以外の選択(生命への「愛」への選択)があることを示すために、私は生き返って見せたのです。


2009118日 

[サン~ローズの注釈: 「死が実存していないことが聖書に書いてある」とイエスが言ったことに対して、聖書の中の二つの箇所(脚注30を参照)をもとに私が質問した時、彼は私がその箇所を覚えておけば、後でそれに関して話すと言いました。 下記が彼のその答えです。]

あなたがこの質問をするまでに三年を要していることは興味深いですね。
その間に(あなたがそれについて気付いていなくとも)どれだけあなたの思量が育ったことか。

「スピリット(霊)だけが生命である」(ヨハネ 6:63)、そして「肉体という体の感覚は間違ったもので、そのようなものは存在していない」と私が言った時、このことを言おうとしていたのです。

肉体は生きることも死ぬことも出来ないのです。 何故なら、あなたが自分の体だと考えているものは、全くそのようには存在してないのだから。

今ここにおいて、あなたはスピリット(霊)なのです。
(これをカーソンにも必ず教えてあげてください。)

だから、スピリットがあなたの今ここでのリアリティなのです。
しかし、現在あなたはそれとは全く違う体験をしています。

しかし、これ(スピリット/今ここ)がリアリティであり、「実際に起こっているとあなたがとても固く信じている事」を何時でもこれ(スピリット)で凌駕する(取り替える)ことが出来るのです。

初めの内ヨハネは、自分に起こった啓示に関して「死は存在しない」とハッキリ言っていたのです。

「全ての涙はふき取られるだろう」と談話の中で言われています。
この言葉の意味は「今視界がクリアになり、このクリアな視界により、「生命」しか存在していないことが明らかになり、だから死が存在していないことが明らかになった」と言うことです。

では今から、この箇所がどのように聖書に書かれている示し、それから、私が本来なにを言おうとしていたか説明します。

「そして、神は彼等の目から全ての涙をふき取るでしょう。 そうなれば、もう死も悲しみも嘆きもなくなるでしょう。 それらがなくなれば、もう痛みもなくなるでしょう。」

“And God shall wipe away all tears from their eyes; and there shall be no more death, neither sorrow, nor crying, neither shall there be any more pain: for the former things are passed away.”

黙示録にはこのように書かれています。

聖書の中の多くのことが未来形で語られているのは、リアリティ(天国)を抱擁すること(受け入れること)を遠い未来へと延期しようとしたからだ、と以前私が言ったことを思い出して下さい。

つまり「何時の日か、神があなたの涙を拭いてあなたを慰めるでしょう。 しかし、それはまだ今ではありません。」 と言うわけです。

そして「まだ今ではありません」と長いこと言われ続けてきたのです。

このことは、未来形で語られている黙示録のその他の言葉や、その他聖書のあらゆる場所にも当てはまります。

しかし、あなたが助けを必要としているのは今なのです。
今あなたは助けを必要としています。

そして私はそれが今与えられていると皆に指し示すためにやって来たのです。

「神」の王国は、今ここであなたに得られる体験なのです。 あなたがそれを許可さえすれば、今この瞬間にそれは可能なのです。

毎日毎週があなたのクリスマス(キリストがあなたとして生まれ変わっている時)であり、あなたの復活なのです。 そして「見よ、全ては新しくある。」

そして「過ぎ去った」「前のもの達」(“former things” that “are passed away”)とは何のことでしょうか? それは分離体験全体のことです。 それは幻想/孤独/欠乏/苦しみ/痛み/死のことです。

この箇所は次のように書かれるべきだったのです。

And God is Love, and Love has wiped away the grief that has blinded your vision.  So now You may see that there is no need for death, nor sorrow, nor crying, for your willingness has restored to You your right awareness of Sonship and Creation.  The need for sorrow is gone because You are, once again, in your Right Mind. Welcome back.

『そして「神」は「愛」であり、あなたの視界を妨げていた嘆きを「愛」が拭き取りました。だから今あなたには死や悲しみや嘆きの必要がないことが分かるのです。何故ならあなたの意欲(「神」に譲る気持ち)が「神の子の共同体」とそして「創造」に対する正しい意識的気付きを修復したのだから。悲しむ必要は無くなったのです。 何故ならあなたは再びあなたの正しい「マインド」の中に戻ったのだから。 お帰りなさい。』


200691

I came to fulfill the law by REINTERPRETING it.

私は、法を再解釈して法を満たすために来たのです。

エゴにとっては、法は独善的で懲罰的に見えるでしょう。
しかし法は基本的「愛」なのです。 それは基本的なゴールデン・ルールなのです。
私はまた、法を生きることで、それを満たすためにもやって来たのです。


200692 真夜中

The law itself, if properly understood, offers only protection to man- to Every One.

法そのものは、それが正しく理解されれば、人に(全ての人に)保護/安全だけをもたらします。

これは、(たとえ憎しみの夢の中にあっても)「愛」が全ての人にもたらす保護なのです。


It is those who have not yet “changed their minds” – changed their minds about the world they – You – see – who entered the“hellfire” concept into it.

「自身のマインド」をまだ変えていない人(世界に対する見方を変えていない人)だけが、法の中に「地獄の火」の概念を取り入れているのです。

真実を言えば、地獄の体験は分離の瞬間から始まっていたのです。

そして死が発明された時、死の後に起こる事として地獄(それは単に分離の絶望感を示していただけなのですが)が未来(まだ起こっていない時間)に投射されたのです。

そして次の事が(「自分達はまた夢の中に戻って来れる」と知った上で「分離した者達」が考え出した)とてもよく出来たトリックなのです。 
「投射されている地獄は実際には決して起こらない」のです。 

しかし、少しは苦しむ必要があると感じられていました。 そうでなければ「神の怒り」が大きく成りすぎるだろうから。
しかし、そのようは心配は必要なかったでしょう。

何故なら、「神」から(他の全てから)分離している場所で生きる人生は地獄そのものだから。 だから懲罰は「犯罪」にみあっていたのです。


I assure you that I will witness for anyone who lets me, and to whatever extent he You permits it.

あなたに確約しましょう。 私は、その人が許可するなら、誰の証人にでもなれるのです。 その人が(あなたが)許可する限り(その人の)真実を証言しましょう。

証人とは何のことでしょう?

わたしは、あなたの(そして全ての人の)神性のためにここに立っています。
あなたの保護のために、あなたの「愛」のために。 「神」の完璧性と「愛」を体現しているあなた達全員のために。

そして、私はあなたの無垢/無罪を証言するのです。
何故なら、あなたがしたことは、奇妙で痛みに満ちた(しかし魅惑的な)夢に落ち込んだだけなのだから。

それでも、あなたはまだ神聖なままなので、あなたは「自身の神聖の美しさ」を「あなたの兄弟姉妹」として見れるようになるのです。


YOUR witnessing demonstrates YOUR belief, and thus strengthens it.

あなたの証言が、あなたの信念を実証し、それを強化します。

あなたが、他者の(全ての人の)ための証人として立とうと思えるようになっている時、その時あなたは既に自分の証人にも成っているのです。
何故なら、他者の無垢を証言出来るように成るためには、あなたは自身の無垢を既に知っていなければならないのだから。

だから、受け取るよりも与えることの方がより祝福されているのです。


Those who witness for me are expressing, through their miracles, that they have abandoned the belief in deprivation in favor of the abundance they have learned BELONGS to them.

わたしのために証言している人は、彼等自身の奇跡を通して、「欠乏への信念を捨て(それこそが自分達のものだと)彼等が学んだ豊かさへの信念を選んでいること」を表明しているのです。

「奇跡によって驚かされること」を期待しなさい。奇跡は起こるのだから。

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