Mar 15, 2011

あなたは#4


16. Miracles are teaching devices for demonstrating that it is more blessèd to give than to receive.

16. 奇跡は『与えるほうが受け取るよりも、より祝福された行為である』と示すための学習教材です。11

全ての者が平等に祝福されている「リアリティ」の素晴らしいルールがここに示されています。

何故、与えるほうがより祝福されているのでしょう? それは現在のあなたが自分自身の解釈/定義だけで一杯にっており、より多くの祝福を得ることを重荷と解釈してしまっているからです。

マインドが自分で一杯にってしまっている時には「良きこと」でさ、そこに入って来ることが出来ません。

与える意志(限定された自己感覚を手放す意志)が持てれば、あなたのマインドの中に「神聖」が入って来れるスペース(余裕)が作られるのです。

そうすれば、あなたは「良きこと」を本当に与えられるようにります。


2006年5月16日

They simultaneously increase the strength of the giver and supply strength to the receiver.

奇跡は「与えている人」の力を増す、と同時に「受け取っている人」に力を与えます。

この文章は、あなたの友人の「J」に対して私が言いたかったことをパーフェクトに表しています。

息子さんが癒やしを受け取れるようにサポートしている時、彼女(J)はこの文章の言い表している場所(状態)に安らかに留まって居るべきなのです。

『与えることによりあなたは受け取る』という「聖なる法則」をあなたは覚えていますね。 あなたの「愛」があなたの「力」です。

精神病(そしてあらゆる精神異常)に関する問題は、私が自閉症に関して言ったことと全く同じなのです。
自閉症=自己的閉鎖であり、そこでは自分一人だけの一つの信仰/宗教になってしまっているのです。
そして、これは「そのように診断されている人」だけに当てはまることではなく、エゴの全てに当てはまるのです。

自己への耽溺を癒し修正するものが「愛」です。

「より強きもの」が彼等の「愛」を表現します。 「愛」を「表現」する度に、人々がそれを与える度に、「愛」は自然と増強していきます。 「受け取る人」にはギャップ(これは余り適切な言葉ではありませんが)があるのです。 これはたとえば、頭脳の中のレセプター(受容体)のようなものです。

感情が受容体をブロックしていた場合、それは栄養を受け取ることが出来ません。 この場合は「愛の栄養」です。

しかし、光が闇の中を突き進むように「愛」が突き進んで行き、『「愛」への感受性をブロックし塞いでいるもの』を緩めるのです。

「愛の声」を諦めずに聞き続けることが、ここでのです。

私は(生存を前提にしている)人間的愛のことを言っているのでしょうか? いいえ、違います。

私が話しているのは、『全ての「ひと」と全ての「もの」の「リアリティ」を常に認識し続ける』という意味での「愛」です。

これに対する抵抗はほとんど存在していません。

この認識が育っていることを全ての人が感じています。 これを言葉にすることが出来ていない人でも、これを認識しています。

この認識によって、あなたは自分が持って歩く「寺院」(「愛」の聖域)を得るのです。

この「寺院」は「あなた自身」であって、あなたはこれをどこへでも持って行くことが出来ます。

寝ている息子さんの傍らにあなたが座っている時、彼の「神聖なるもの」を認識しなさい(彼の健全を見つけなさい)。 そうすれば、病院が「聖域」つまり「神の寺院」に変容するでしょう。 病院が「神の寺院」として具体化され、あなたにも見えるようになるでしょう。

そうすれば、そこにいる全ての人が、「聖なる現れ」の中に招き入れられるでしょう。 「地獄であったもの」が「天国」として見られるのです。 そして、そこはこれまでずっと「天国」であり続けて来たのです。


17. Miracles are the transcendence of the body.

17. 奇跡は体を超越させるものです。

私はここで何を言おうとしているのでしょうか? 私はあなたに体を捨てて、体のないマインドとして揺れ動くように言っているのでしょうか?  
いいえ、違います。

『「マインド」と呼ばれているもの』と『「体」と呼ばれているもの』をあなたが分離させることは不可能です。英語のボディー(体/体現する)が、名詞であると同時に動詞であるように。 

マインドがなければ体は存在しません。 そしてマインドは(自身の源を示している)体を何らかの形で表現しない訳にはいきません。 だから体のない(体という表現を全く伴わない)マインド状態も不可能です。

「体を超越する」とは、「自分は体である」(体という現われが自分を定義している)という思考から自身を解き放ちなさい、と言う意味です。 

あなたは「表現されたマインド」なのです。 これはとても美しいことです。この状態/この認識から、奇跡は神聖であると同時に全く自然に見えるのです。

人間あるいはエゴにとって体は、何か硬いもので、傷付き易く、損なわれ易いもので、物質/物体と呼ばれています。 しかしあなたの真の体は、そのようなものではありません。

あなたの「真の体」は「マインド」を「体現しているもの」です。
体に対するあなたの現在の体験は、「マインドであるフリをしているもの」つまり「エゴが体現している体」でしかありません。


聞きなさい。 あなたに言って聞かせましょう。
あなたが「怖れの声」(エゴ)を聞いている時、基本的に体はイド(感情欲求衝動過去経験の集まり)を現しています。

あなたが「愛の声」(それが「私」/「神」/「精霊」のどれからのものであっても)を聞いている時、体に対する真実が「啓示」として示され、それが奇跡として現れるのです。


They are sudden shifts into invisibility, away from a sense of lower-order reality. That is why they heal.

これら奇跡は、『「より低い秩序のリアリティを反映している感覚」から「見えない領域」へと移動する』瞬間的シフトなのです。 だから奇跡は癒やしをもたらすのです。

もう一度言いましょう。 「見えない領域」へのシフトとは、「エゴ的マインド」から「真のマインド」へ移行する「動き」です。 これは「リアルでない状態」から「リアルな状態」へのシフトなのです。

「リアル」な状態が光り出せば、あなたが癒しと呼んでいるシフトが起こり始めます。

つまりこのシフトは、「リアリティ」への「動き/移動」なのです。
これはエゴの意図に反して勝手に起こってしまう「動き」に見えますが、本当は「精霊」の行動であって、エゴを覆して「神聖なる正常状態」が上手く働けるようにするものです。

「聖なる完璧性」があなたをパーフェクトにする事を許可しなさい。


ここで一つの事を明確にしておきましょう。
全ての癒しは、「聖なる正常状態」への回帰なのですが、『癒された「人間の体」があなたの本来あるべき姿なのだ』というわけではないのです。

「人間の体」や「人間の状況」は実在しているものではありません。

「人間の体」や「人間的状況」は、『常に「正常」で「パーフェクト」であり続けている「天国」』に反するエゴの「間違った限られた視点/視界」なのです。

だから私は自分の弟子達に 「あなた達も、天におられるあなたの「父」と同じようにパーフェクトに成りなさい。」と言ったのです。

天国にいるあなたの「父」が、パーフェクトであり、「父」と同じようになることが天国の体験なのです。

「父」とは何でしょうか?
「父」とは「全て/全体」の事です。 完全にパーフェクトな「無限」つまり「創造の全て」です。

よりシンプルに言えば、「神」の「それぞれのアイディア」は「それ自体」が「パーフェクト」なのです。「父」が「全ての完璧性/完全性」(絶対的調和 ‐全てのアイディアがパーフェクトに影響し合っている状態)なのです。

いや、もっと良い言い方があります。

「それぞれのアイディア」がパーフェクトに踊っており、最高の振り付けのもとに「全て」が動いています。
これが「無限の体験」であると認識したなら、あなたは「リアリティ」が持っている「平和」と「調和」と「美」の巨大さを感じることになるでしょう。

しかし、エゴにとっては、お互いと上手く付き合うことさえ困難なのです。

「父であり母である神のマインド」があなたを正しく「導く」ことがどれだけ重要で有益か解りましたか?

今晩はこれで十分です。 「神」の偉大さをより大きく感じて下さい。


2006520

私たちは、「あなたはパーフェクトになりなさい “Be Ye therefore perfect”」に関してもう少し話しましょう。

パーフェクション(完璧性)とは、あなたの「存在」に対する絶対「真理」です。 それは、手つかずで穢れのない揺ぎ無く明瞭な事実です。

あなたの「父であり母である神=根源神」はパーフェクトなので、したがって、あなたもパーフェクトなのです。

強情なエゴのマインドが、「神こそ愛だ!」と繰り返し言いながらも、「神」の深遠なあり方に対して、痛みや惨事や病や死を付け加えていることは不思議ではないでしょう。

ほとんどのことに対して一貫性の無い)エゴは「自分が愛している筈の者」をコントロールするために、彼等に痛みや苦しみを与えたがることに関しては一貫しています。

(既にご存知のとおり)必滅者(モータル)の神は、死の神です。 つまり必滅者(自分は最終的に死ぬと思っている者)にとっては「死そのもの」が神(絶対)なのです。

多くの人達が「疑うこと無く頑なに信じていること」は何でしょう?

人間的状況の中で、このような最上級の信任を得ているのは死だけです。
だから、そのような状態の中では、あなたの神は死ではないでしょうか?

しかし、これら全ては「神」に対するあなたの不思議な夢想の中で起こっていることです。  あなたが馬鹿げた夢の中でうなされ続けていても、「神」(私たちの「源」自体)は輝き続け、あなたで在り続け、「全てのリアリティ」で在り続けています。 そして、あなたが目覚めるのを「喜びそのもの」「愛そのもの」として待ち続けています。


2006521

18. A miracle is a service.

18. 奇跡は奉仕です。

これに関してメリー・ベーカー・エディー(Mary Baker Eddy、クリスチャン・サイエンスの創立者)がタルムード(ユダヤ教の法律解説書)について言ったことを思い出して下さい。

誰かの必要を満たす最上の方法は、あなたのガイダンス(精霊からの指示)に従って、「必要を(途絶えることのない)供給に変容させる方法」をその人に教えることです。

「必要/欲求が満たされ続ける体験が、神の豊潤さの完全性/全体性を示すものである」と信じている人は、「神」を理解していません。

そのような考えは、「居心地の悪さを感じずに、夢の中に留まるチャンス」を提供しているに過ぎません。

私はあなたを愛しているので、あなたの願いを完全に無視することは出来ませんが、私があなたに与えている「リアルなギフト」は「完全性(既に完全であること)」です。

覚えておいて下さい。 あなたが「無限の聖なる瞬間」を意図した時、「永遠」を作っている「無限の聖なる瞬間」をあなたが願った時、「永遠/無限」のために必要なもの「全て」をあなたは今この瞬間に持っています。 

これが今日まで言い続けられて来た次の言葉の本当の意味です。

「今日この日、日々の糧を私たちに与えてください。」
“Give us this day our dailybread.”

この言葉は間違って解釈されています。

現在この文は「人は日々必要なものを少しづつねだる必要がある」と理解されています。 しかしこの「真の意味」はそうではありません。

主の祈り(とあなたが呼んでいるものは)、嘆願の祈りではなく、安心したマインドの祈りであり宣言なのです。

何を安心しているのでしょう?  
祈り手は、『意識が「神」(「全てのマインド」)と「一つ」であること』に確信を持って安心しているのです。

この「聖なる祈り」の中に、いまここで(この人間の夢の中で)「神の現れ」と「神の力」を述べているこの祈りの中に、「ねだる行為」は含まれていません。

「意識そのもの」である「神聖そのもの」である「我らの父」。
これは私が『「神」が存在し、そして私たちは沈黙します。』“-God is, and then We cease to speak.” と言ったことと等しいものです。

これは「神」が「今ここに現れていること」を認めているのです。
「神が今ここに現れていること」が(永遠にあなたのものである)天国(神の大国)なのです。

「子供達よ怖れるのは止めなさい。 王国をあなたに与えることが「父」の喜びなのです。」(ルカ12:32)と私が言ったことを思い出して下さい。

既に与えられているこの「ギフト」は永遠にあなたのものです。あなたはただ「それ」を忘れてしまったのです。 だから私があなたに、この「聖なる事実」を思い出させているのです。

だから王国が来ているだけでなく、それは間違いなく、あなたのものなのです。

天国は全ての人のもので、その豊潤さは分け与えても減ることはなく、むしろ限りなく豊かになるのです。 

何という「ギフト」でしょう!
これは「父であり母である神」から「全てのもの」に対して自由に「与え」られている「ギフト」なのです。

あなたはこのギフトから取り残されては居ないのです。

「あなた達の中の最小の者から最大の者まで。」 
しかし「最小の者」など居ないのです。 あなた達は全員「最大の者もの」なのだから。


2006522

It is the maximal service one individual can render another.

これは「ひとり」が「もうひとり」のために行える最大の奉仕です。

奇跡は、他者(もうひとり)を「キリスト」として認識することから来るのです。

これはあなたが与えることの出来る最大の「ギフト」です。

兄弟姉妹に対して、これ以外の見方をしたなら、あなたは彼等の体験している痛みを長引かせてしまいます。

私のこの言葉を覚えておきなさい。
人間の夢全体が痛みの体験なのです。 
それは、思い出されている痛みか、今体験されている痛みか、未来に想定されている痛みの体験なのです。
この痛みの根源は何でしょうか?

それは怖れです。 それは『「愛/神」からあなたの思考を分離しておこうと固執すること』によりもたらされた怖れなのです。

それは(あなたが死と呼んでいる)消滅に対する怖れです。 
あなたが「愛」と取替えようとしている卑小な神が死なのです。
死とは、永遠の命を否定するためにあなたが作った慣例なのです。

あなたは(分離により引き起こされた恐怖を和らげるために)他にも奇妙なアイディアを作り上げています。 例えば(天国を空の彼方に押しやった上で)「天国へ行くためには死を経由しなければならない」とあなたは考えています。

またあなたは地球と呼ばれているもの奥深くに地獄を設置しました。 そうして、自身を「空中」に留め置きながら、地獄の中に他者を喜んで突き落としています。 

それからカルマがあります。 これが夢を繰り返すことを可能にし、その中であなたは罪を犯して(出来ればしたくない、少なくとも今はしたくない)その償いを後日することが可能になります。

しかし一番馬鹿げたアイディアはやはり「死」です。

あなたが作り上げた全てのアイディアはこれに依存しています。
このアイディアにより、あなたは暫くの間だけ「生命」を得ることが出来ている「骨と肉」になり、その後、永遠に塵に返ってしまうのです。
これが「神自身の現れ」の食後のデザートに思えますか?

地下に地獄がある必要はないでしょう。 何故なら、あなたは既にここに(つまりマインドの中に)それを(無自覚な愚かさを)作っているのだから。 

こうして、『あなたの兄弟が立っているそこに「キリスト」を認識する』という「ギフト」の意味があなたにも解るでしょう。

(あなたがこのギフトを与えれば)あなたの兄弟は、(人間の夢を見ようとした全ての者達が捉えられている)奇妙な拘束からたちまち解放されるのです。

いまここに彼/彼女の自由がやって来て、あなたを祝福する「光」で照らすのです。 これは全ての人を祝福する、とても純粋な「愛のギフト」なのです。


It is a way of loving your neighbor as yourself.
The doer recognizes his own and his neighbor’s inestimable worth simultaneously.

これはあなたの隣人をあなた自身として愛する方法なのです。
これをしている人(この認識のギフトを贈っている人)は、隣人の(言い表せない程大きい)価値を認め、と同時に、自身の価値をも認識するのです。

あなたは「美しい者」として見られたいとは思いませんか? あなたは自分が「美しい者」であることを良く知っています。
そして、それはあなたの兄弟も同じです。

そして「自分の神聖を自分の体と同じぐらい明白に見ること」をあなた自身も望んではいないでしょうか? それはあなたの姉妹も同じです。

あなたの願いや夢は、あなたの兄弟姉妹の願いや夢と同じものです。 だからこの貴重な「ギフト」を彼等に上げなさい。

これは全くあなたの負担にはならず、これによりあなたが得るものは、かけがえのないものです。

この「ギフト」は無限に拡大されてあなたのもとに返って来ます。
何故なら、「愛」はあなたが使う度に急激に価値を増していく金貨のようなものだから。
このささやかな認識があなたと、そして全てを抱擁するのです。

私の姉妹は「キリスト」です。彼女が居る「ここ」に「神」が居ます。

彼女の口からどのような言葉が飛び出してこようとも、あなたはそう言い、そう考えるべきなのです。

もし彼女が「彼女自身」を思い出せたのなら、彼女は「愛」の言葉を話すでしょう。 

あなたの兄弟も同じです。 「私たち全員」は「かけがえなく」、永遠に「神というひな形」(源)から直接作られ続けているのです。

あなたが人々のために(人々の中に)見つけた「まだ見つかっていない彼等の完璧性(パーフェクトな実相)」が、あなた自身の完璧性をあなたに示すのです。

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