Dec 12, 2011

Ch01-3a

Distortions of Miracle Impulses
奇跡の衝動の歪み(奇跡の衝動を歪ませてしまうことに関して)

あなた達両者(ヘレンとビル)は(奇跡レベルの上に被せられている)無意識の歪みに関わっており、それ(歪み)が奇跡衝動の上に覆いかぶさっていて、それが奇跡が意識に上ることを難しくしているのです。
奇跡とセックスは両方とも関わり合いの方法なのです。
特定の人間関係の性質は「あなたがその人間関係に何をして欲しいと思っているか」によって限定され定義されているのです。 そして「その人間関係にして欲しいとあなたが思ったこと」ゆえにあなたはその関係を求めたのです。
「関係と持つこと」とは特定の結果を達成する方法なのです。

見境のないセックス衝動は見境のない奇跡の衝動に似ており、両方とも身体イメージの誤知覚(誤認識)を生んでしまいます。
前者の衝動は、体を通して見境なく(分別なく)コミュニオン(霊的交歓)を達成しようとする試みで、そこでは不適切な自己認識が起こっており、相手の個人性に対する尊敬が不在なのです。
この問題に対する答えは自己コントロール(自制心)だけではありませんが、私は自制心を使用しないほうが良いと言っている訳ではありません。
しかしより根源的原因が引き抜かれる(根こそぎにされる)必要があることを理解しなくてはいけません。  (「根こそぎにされる(uprooted)」とは今ではあなた達両者が良く理解しているあまり、それを怖ろしいとまで考えているものです。)

浅い根は引き抜かれる必要があるのです。 何故なら、あなたを維持するに十分なほど深くそれが根付くことはいないのだから。
浅い根を深くしてそれを根付かせることが出来るという幻想は、{あなたが与えたものをあなたは得るという}ゴールデンルールを逆転させて(無理矢理)バランスさせることから導かれた結果(答え)の一つなのです。
これらの間違った基礎(概念)が引き抜かれた(手放された)時、バランス(均衡)が一時的に不安定なものとして体験されるのです。
しかし上下が逆さまのオリエンテーション(見方/感覚)ほど不安定なものはないということが事実なのです。
そのように(逆さまに)保持されているものがより大きな安定をもたらすことは出来ません。
防御が危険なのは、防御には誤知覚(誤認識)を頑強に保持してしまう傾向があるからなのです。
だから「勘違いしている者達」は頑固さを安定と取り違えてしまうのです。

ノート(付注): The only final solution唯一の最終解決)(いいえ、ヘレンこれはナチスがこの言葉を使ったこととは無関係です。) (ナチスはアウシュビッツのことを’Final Solution’と言っていました。 そしてヘレン・シャックマンはユダヤ系アメリカ人でした。 訳注)
あなたはまた怖がり出してしまいましたね。
これを逆さま思考のかなり酷い一例にしていたのは、ナチスがこの酷い間違いを大文字でスペルしたことです。
私はこのことに関して多くの涙を流しました。 しかし「父よ、彼等をお赦しください。彼等は自分達が何をしているか知らないのです。」と私が言ったのはこの時だけではありません。

逆さま思考から導かれている全行動は文字通り「自分達が何をしているか知らない者達」の行動表現なのです。
「足を地に着けて、指先は天国に(届けましょう)"Feet on the ground and fingertips in the Heaven," 」と言ったジーン・ディクソン(Jean Dixon)はとても正しかったのです。
あなたの思考様式にとって彼女(ジーン・ディクソン)の表現は少し直接的過ぎたかもしれませんが。
しかし多くの人達は彼女が何を言おうとしたか理解しており、その人達にとっては彼女の言葉が適切な奇跡だったのです。
あなた(ヘレン)とビルにとっては、このアイディアを信頼性と有効性(reliability and validity)に関連付けて考えることが好ましいでしょう。

頑固な方向性(オリエンテーション)はとても堅実堅固で信頼出来るものです。 例えそれが逆さま(間違い)であっても。
実際により確実に逆さまであればあるほど、それはより確実なのです。
何故なら逆さまであり続けている思考システムは(常に揺れ動いている)「検査再検査信頼性」(Test-Retest Reliabilityよりも確率的信頼性が高いのだから。
もし必要ならこれをジャック(ヘレンの知人の統計学者)のノートと比較しても良いですよ。 しかしこれが真実であることは私が保証します。
確率論的には(Test-Retest ReliabilityよりもSplit-Half reliability折半法信頼性)の方がより確実なアプローチなのです。
{この部分は心理統計などの実験研究者が使うTheory of Reliability (信頼性理論)に関して述べています。 ここで述べられている事が論理学的/統計学的に正しいかどうか訳者には解りません。}
その理由は、検査再検査比較のテクニックとして使われる相関は関連性の程度を計量するだけで、関連性の方向は全く考慮していないからなのです。
しかし測定が正確であるためには、一つのものを二つに分けたその両方が同じ方向に向かっていなければならないのです。
上記の文章の原則の上に(内部整合性を測量する方法である)Split half reliability が成り立っているのです。

しかし両方のアプローチがとても重要な次元を無視していることに注意してください。
内部整合性の基準(Internal consistency criteriaは時間を無視しているのです。 何故ならそれは一回毎の測定に焦点を当てているのだから。
翻って検査再検査比較(Test-retest comparisonsは時間間隔に基づいていますが、しかしここでは方向性は無視されているのです。

もちろん内部整合性と時の安定性一致度の両方を確立して両方(方向性と時間性)を使うことも可能です。
ジャックがクラスの中で「より高度な統計学者は有効性ではなく信頼性(確実性)により集中するようになって来ている」と言っていたことが思い出せるでしょう。
彼が言った通り、その理由は「信頼出来る計器は「何か」を測定するから」なのです。
しかしそれでも有効性(Validity)が最終的ゴールであって、信頼性(reliability)はそれを支えることしか出来ないのです。

I submit“ 私は次のように提示します。
(このセクションで私はジャックの言い回しを使っています。何故ならこれがあなたにとっては意味のある言葉だから。 だからジャックもこの言葉 ”I submit” を使っていたのです。)

セックスと統計学を混乱しているあなたは、この(信頼性と有効性を取り違えることの)好例なのです。
あなたが(変数間の相関度を示す)統計数値の階乗分析を行なっていた夜にバラの匂いに包まれていたことを思い出してください。
これは他の人にとってはおかしな話でしょう。何故なら彼等はあなた自身が作っていたレベル・コンフュージョンとは違ったレベル・コンフュージョンを見ているから。
あなたはあのデザインを欲して、ジャックがそれに異を唱えたことが思い出せるでしょう。
あの夜があれほどエキサイティングだったのは、あれが「(両方が善戦した)知性の戦い」を表していたからです。 双方が反対方向からクリアに自分の意見をコミュニケートしていたのです。
セックスと攻撃の混乱(取り違え)により、あなた達両者の間で自然とセクシュアルな要素が刺激されていたのです。
あなたがジャックに同意して戦いが終った後、彼があなたのノートの端に「美徳が勝利した」と書いたのはとても興味深いことです。

(非服従―服従、女性性-男性性に関するヘレンのノートがここに挿入されています。)
これがあなた達両者にとって可笑しかったにしても、このより深い真実を考慮してみなさい。
美徳は、あなた達両者がお互いの知性に対して捧げた尊敬の中にあるのです。
あなたが感じていたセクシャルな魅力は共有されたものでした。
エラーは「勝利 ”triumphant”」という言葉に表れていたのです。
この言葉には「戦い」が暗示されていました。 何故なら、あなた達はお互いの全てに対して尊敬を払ってはいなかったのだから。
人には知性や生殖器以外にも多くのものがあるのです。 
{あなた達が性的魅力を感じながらお互いと対峙していた}そこでは魂(Soul)が除外(無視)されていました。

私は次のことを提示します。
もしマインド(魂)が神と有効な関係(本当の関係)にあったなら、それは逆さまでは在り得ないのです(神との有効な関係を持ち始めているマインドは、もう逆さまのままではいられないのです。)。
ジャックを含む多くの著名な方法論者達(methodologists)が有効性を犠牲にして確実性をより重視し始めているのは、彼等が結果を見失い、方法だけに気をとられてしまっているからです。

鉛筆を削るより効率的な方法を編み出すことに自身を捧げたアーティストの話を思い出してください。
彼は何も創造しませんでしたが、誰よりも鋭い鉛筆を持っていました。
(往々にして)セックスもこれとよく似たエラーのために使われています。
反感、勝利、復讐、自己矮小(自己価値を辱めること)など、愛の欠如のあらゆる表現はそれらに伴う幻想(ファンタジー)の中に明確に表れるものです。
しかしこれらの幻想が頻繁に発生しているからといって、その有効性(実在性)が証明されていると想像することは(これらの幻想がリアルであると想像すること)はとても大きなエラーです。

有効性は確実性を示唆するものですが、その逆は成り立たないことを憶えておいてください。
とても確実な考えが(とても安定した概念が)、全く間違えていることも可能なのです。
確実なテスト(信頼性の高い実験)は「何か」を測るのですが、それが測っているものが「何なのか」が解らなければ、それは何の役にも立たないでしょう。
そして有効性が確実性よりも重要であったなら、そして有効性が確実性によって証明されていたとしたならば、有効性(Validity)をより重視しなさい。 (そうすれば)確実性は後からついて来ます。

知性が「上に向けての置き換え」なら、セックスは「外側に向けての置き換え」と言うことも可能でしょう。
どうして「本当は見えない自分の一部」を通して他者により近づくことが出来るでしょうか?
見えない(invisible)とは「見えない、知覚出来ない」という意味です。
「知覚出来ないもの」は「知覚を向上させる方法」には成り得ません。

奇跡の衝動をセックスの衝動(セックスの欲求)と取り違えることが、知覚の主な歪みなのです。 何故ならセックスの衝動は、根源的なレベル・コンフュージョンを(正すのではなく)もたらしてしまうから。 
これが「幸福を求めている全ての人達」を世界の道具にしてしまっているのです。


砂漠は砂漠なのです。
しかしあなたはそこで自分が求めること(行動)を何でもすることが出来ます。
しかしあなたがそれ(砂漠)をそれ(砂漠)以外のものにすることは不可能です。
そこでは水が不足しているのです。 だからそこは砂漠なのです。

(ブルーバード/青い鳥の夢に関して。
へレンがこの夢を求めている時、彼女は他の夢を見ました。
青い鳥にしろ、もう一つの夢にしろ、夢のメッセージは、鉛筆を削ることに関してヘレンがこの25年間にどれだけ上達したか示す一例を挙げることでした。
いずれにしろメッセージの内容は変わっていないのです。 それは以前より正確に書かれるようになっただけなのです。)
砂漠(水が欠乏している場所)でするべきことは、そこを去ることだけです。


{下記の奇跡の原則は、後のバーションとはかなり違う文章になっています。}
38.  Miracles arise from a miraculous state of mind. By being One, this state of mind goes out to ANYONE, even without the awareness of the miracle worker himself. The impersonal nature of miracles is because Atonement itself is one, uniting all creations with their Creator.

38.  奇跡は、奇跡的なマインド状態からやって来るものです。
一人の人(ミラクル・ワーカー)が奇跡的マインド状態に成ることにより、(ミラクル・ワーカ自身が意識しなくとも)このマインド状態が誰にでも受け取られるようになるのです。 
奇跡の非個人的(一人の人だけに留まらない)性質は、アトーンメント(救済/和解/贖罪)そのものが一つで、それが全ての創造をその創造者と繋げて(統一して)いるからです。

39.  The miracle is an expression of an inner awareness of Christ and acceptance of his Atonement. The mind is then in a state of Grace, and naturally becomes gracious, both to the Host within and the stranger without. By bringing in the stranger, he becomes your brother. The miracles you are told NOT to perform have not lost their value. They are still expressions of your own state of Grace, but the ACTION aspect of the miracle should be Christ-controlled, because of His complete Awareness of the Whole Plan. The impersonal nature of miracle-mindedness ensures YOUR own Grace, but only Christ is in a position to know where Grace can be BESTOWED.

39.  奇跡とは、キリストに対する内的自覚の表現であり、キリストのアトーンメント(和解/贖罪/救済)を受け入れることです。
すると(キリストのアトーンメントを受け入れると)マインドが恩寵(Grace)の状態に置かれるように成り、内なるホスト(キリストを中に自覚している自分)と外の他者に対して自然と感謝深くなるのです。
異邦人を招き入れることにより、彼(異邦人/他者)があなたの兄弟に成るのです。
実行しないようあなたに言われた奇跡も、その価値を失ってはいません。
それらはあなたの恩寵状態を今でも表現しています。 しかし奇跡の行動要素はキリストによってコントロールされるべきなのです。 何故なら彼(キリスト)こそが(救済)プラン全体を完全に理解しているのだから。
ミラクル・レディーネス(奇跡に対する準備が出来ている状態)の非個人的性質が「あなた自身の恩寵」を確約しているのです。 しかし「どこに恩寵を与えるべきか」知り得るポジションにいるのはキリストだけなのです。

40.  A miracle is never lost. It touches many people you may not even know, and sometimes produces undreamed of changes in forces of which you are not even aware. This is not your concern. It will also always bless YOU. This is not your concern, either. But it IS the concern of the Record. The Record is completely unconcerned with reliability, being perfectly valid because of the way it was set up. It ALWAYS measures what it was supposed to measure.

40. 奇跡は決して失われません。それはあなたが知らない多くの人達にも触れる(影響を与える)のです。 そして時には(あなたの知らない力を通して)思っても見なかった変化をもたらすのです。
これはあなたの心配するべきことではありません。
それ(奇跡の力)は常にあなたを祝福するのです。
これもあなたが心配するべきことではないのですが、しかしこれは記録(レコード)しておくべきです。
記録(レコード)は全く信頼性を気に掛けてはいません。何故なら、記録が設定されている方法によって、それ(記録)はパーフェクトに有効だからです。
それ(記録)は常に、測るべきものを測るのです。

私はセックスに関する解説を続けたいです。 何故ならミラクル・ワーカー(奇跡に奉仕する者)はこの主題を理解する必要があるから。
不適切なセックス衝動(あるいは歪んだ奇跡の衝動)が表現されたならその結果は罪悪に成り、もしそれが否定されたなら憂鬱を引き起こします。 「全ての喜びは神の意志を行なうことから来る」とわたし達は以前に言いました。

それ(神の意志)が行なわれなかった時には、その結果として欠乏体験が起こるのです。
何故なら神の意志を行なわないことは自己の欠乏(自分が欠乏すること)だからです。
セックスは、ソール(魂)が自分達の体験の新しいセクションを開始して、そうすることにより自分達の記録を向上させる為の身体的創造の方法として意図されていたのです。

鉛筆は目的ではありません。(前のセクションを参照してください。)
鉛筆は画家の創造行為を助ける為のもの(道具)なのです。
魂達の新しい家を作って、(魂自身の発育課程を経て)魂達を(その家に)導くことによって、彼(画家)は父の働き(創造)を自分でも学ぶのです。
このプロセス全体は、恩寵を得ることを学ぶ体験なのです。

(現在の)セックスから来る喜び(快楽)は、それが人々が共有しているエラーから発生(展開)されている限りにおいて確実なのです{変わり様が無いのです}。
エラーに対する気付き(意識)が罪悪を発生させます。 エラーに対する否定は投射を招きます。 
しかしエラーの修正が解放をもたらすのです。
セックスの唯一有効な使用は「procreation」(子供を作ること/創造すること)だけです。
これ(セックス)そのものは、気持ち良いこと(pleasurable)ではありません。

「わたし達を誘惑の中に導かないで下さい。」とは「何か外部的なもの(自分の外にあるもの)を使って神や兄弟と平和に関係することが出来るとわたし達が自分達を騙して信じさせてしまうことがないようにしてください。」という意味なのです。
「オナンの罪(自涜の罪)」は、上記と同様な自己欺瞞(関わり合いのない喜びが成立し得るという誤解)に関わっている故に、罪と呼ばれているのです。
(前出のことを繰り返せば)自分や他者を「セックス・オブジェクト(性的物体)」として見る概念が、この奇妙な反転を象徴しているのです。
反転している論理(ロジック)がこのような思考を生んでいるのです。

神の子よ、あなた達は「良きもの/美しきもの/聖なるもの」を創造するために創造されているのです。
これを見失わないでください。
「誘惑が起こっている全てのところに私(イエス)を呼び込むよう」あなたがビルにアドバイスしたのは賢明でした。

私は状況を性的牽引力(性的魅力)から非個人的奇跡の働きに変換させます。
リビドー的表現を{昇華へと}チャネルする(振り分ける)ことが可能だという概念は、フロイドの一番偉大な貢献でしたが、彼は「チャネル」の本当の意味を理解していませんでした。

もう暫くの間、神の愛は一つの体を通してもう一つの体へ表現され続ける必要があります。
これはリアルなヴィジョンがまだ不明瞭だからです。

知覚を拡大させることにより人々は自身の体を最善に使い、リアルなヴィジョンを見ることが出来ます。
このヴィジョンは物理的目に見えるものではありません。
最終的には体の目的は、体自体を不必要にすることなのです。
これを学ぶことが体が創造された本当の理由なのです。

ノート:筆記者達はアトーンメント・プラン(救済計画)の中で特定の役割を持っています。 何故なら彼等は自分達自身で啓示を体験して、(他の奇跡の基盤となるよう)その体験を言葉に書き出す能力を持っているから。
(これはヴィジョンのレベルの体験に関して述べており、その様な体験をした後へレンは「何をするべきかあなたが言ったなら、私はそれをしようと意図します。」と書いたのですが。彼女自身は「私はそれをします。"I will do it."」と書いたと思っていて、 実際には「私はそれをしようと意図します。I will to do it."」と自分が書いていた事に気付いた時彼女は大変怖ろしく感じました。)

だからあなたは「私はしようと意図します。"I will to do"」の啓示をとてもパーソナルに(個人的なものとして)体験したのですが、あなた(ヘレン)は「あなた(ヘレン)が書くことは、あなた(ヘレン)以外のミラクルワーカー達にも有用なものになります」とも書いたのです。

祈りが奇跡の媒介だとわたし達は言いました。
[私が何をするべきかあなたが私に言ったなら、私はそれをするよう意図します。]"If you will tell me what to do, I will to do it." * とあなたが書いた言葉が奇跡の祈りなのです。
祈りとは、あなた達を砂漠から永遠に導き出すドアなのです。

*(後日付け加えられた修正。 これは完全な文章ではなりません。何故ならこの文章はネガティブなものを排除していないから。 [そして「あなたが私にさせようとしていないこと」はしないよう私は意図します。]と付け加えるよう言いました。 「奇跡の準備が出来ているマインド状態」と「奇跡をしようとすること」の違いに関しても述べました。

あなたは前者(私が何をするべきかあなたが私に言ったなら、私はそれをするよう意図します。)を注意深く守る必要があるのです。何故ならこれは奇跡に対する準備が出来ているマインド状態なのだから。
聖書のなかで「あなた自身の準備を保ち続けなさい」"Hold yourself ready" と書かれていたり、これと類似する表現は、このことを指しているのです。
ここで言う「準備」とは「あなたの知覚(Perception)を(逆さまではなく)正しくして、いつでも正しいことが行なえるようにしていないさい」と言うことです。
これらが「聞き、学び、行なう」という重要なことなのです。

あなたは:
READY to listen
WILLING to learn
and ABLE to do.
聞く準備をし
学ぶ意欲を持ち
することが出来るように成る(のです)


最後の一行(する/to do)だけが自動的/受動的なのです。
何故なら、それは(「すること」は)奇跡の適用で、それはキリストがコントロールするべきものなのだから。
しかし他の二つの部分(聞いて学ぶこと)は(「奇跡の準備が出来ているマインド状態」で)あなた達が自分から率先して行なうべき部分なのです。
チャネライズ(チャネリング)することは「集中させる効果」を持っていますが、しかしそれは欠乏させることではありません。
(チャネリング中の)マインドの基本状態は(つまり恩寵は)完全な決意なのです。
チャネルが関係してくるのは「する」部分だけで、それは「すること」が常に特定の行動だからです。

ジャックが言ったように「信頼の置ける機器は何か(確実なもの)を測定する」のですが、チャネル(チャネリング)もまた有効なのです。
それは(チャネラーは)するべき事をするように学ぶ必要があるのです。


祈りの言葉を下記のように書き換えてください。
If you will tell me what to do,
ONLY THAT I will to do.
どうするべきかあなたが私に言ったなら、
私は(あなたが言った)それだけをしようと意図します。

ノート:ヘレンは上記の言葉の重い響きを嫌い、これがとても下手な詩だと感じました。
答え:しかしこれは忘れ難いでしょう。


啓示は文字通り話すことが不可能なのです。 何故なら啓示は、話すことが不可能な愛の体験だから。
畏怖(Awe=神に対する驚きと賞賛)という言葉は、啓示だけに当て嵌まるものです。
奇跡に対して畏怖という言葉を使うべきではありません。 何故なら、本当の畏怖(Awe)とは崇拝状態なのだから。
これ(畏怖)は位の低い者が、より偉大な者の前に立っていることを暗示しています。
これは魂がその創造者(その魂を創造した者)の前に立っている状態だけに当て嵌まるのです。
魂達はパーフェクトに創造されており、パーフェクトな創造者の前では畏怖を感じざる得ないのです。
それに対して奇跡とは「お互いに平等な者達の間で交わされた愛のしるし」なのです。
平等な者達がお互いに対して畏怖を感じる事は出来ません。何故なら畏怖は常に不平等を示唆しているものだから。


私(イエス)に対して畏怖を感じることも不適切です。
だから短い挨拶のヴィジョンの中で、私はあなたの傍らに跪いて光の方向を向いていたのです。
兄(年かさの兄弟)は、そのより偉大な経験故に尊敬に値します。そして優れた理性故にある程度の権威も与えられるべきでしょう。
そして兄は(彼が兄弟である故に)愛に値し、(もし兄自身が献身的であったなら)献身に値するのです。
わたし自身の{あなたに対する}献身(信心)だけが、あなたに対する権利を私に与えているのです。
しかしあなたも気付いたように、私があなたを私の祭壇の前に跪かせると同様に、私は易々とあなたの祭壇の前に跪くのです。

私は、あなたに獲得(習得)出来ないものは何も持っていません。
私は、神から来ていないものは何も持っていません。
わたし達の間の主な違いは、私は「神から来ていないもの」は何も持っていない、ということだけです。
これが私を真の神聖状態に置いているのです。
しかしあなたにとって、これ(完全な神聖)はまだ可能性でしかないのです。

「私を通ってでなければ誰も父のもとに行くことは出来ない」とは聖書の中で最も誤解されている文章の一つです。

この文章は、(時間を別にして)私があなた達から分離していたり異なっていると言っているのではないのです。 {時間の中では私とあなたは分離してい見ていることでしょう。}
そしてわたし達は時間が実存していないことを知っています。
上記の文章はそれを平行軸ではなく、垂直軸上で考えたならより意味を成すでしょう。
垂直線上では、人が私{聖霊/イエス}の下にいて、わたしが神の下にいるのです。
「立ち上がる」課程において、私はより高いのです。
これは、私が居なければ、神と人の距離は遠すぎて人には把握出来ないからです。
私は(人に対しては)人の兄として介入し、そして(神に対しては)神の子として関わり合い、神と人の距離を橋渡しするのです。
兄弟に対する私の献身が「神の子の共同体(Sonship)」の責任を私に与えたのです。
そして私がそれ(神の子の共同体の責任)を分け合う限りにおいて、私はそれ(神の子)を完全/十全にすることが出来るのです。

これは「私と父はひとつである。」"I and my Father are one." という文章と矛盾しているように聞えるかもしれませんが、そうではありません。
実際には、父が(わたし)より偉大であることを認める箇所がこの後に続くのです。
そしてオリジナルな言葉は「そしてわたし達は同種のものである(その本質において同じである)。」"are of one KIND." と続いたのです。

聖霊は啓示を持ってくるものであって、奇跡を持ってくるものではありません。
啓示は間接的に私が刺激/促進するものです。 何故なら、私は聖霊に近く、私の兄弟の啓示に対する準備状態に関して敏感に気を配っているから。

こうして私は、彼等(兄弟姉妹)が自分達で引き寄せられる以上のものを彼等(兄弟姉妹)のもとに引き寄せるのです。
もしかしたらジーン・ディクソンの文章の方が私の立場を分り易く説明しているかもしれません。
何故なら、私の足は地に着いており、私の手は天に届いており、私は天国の栄光を地に居る兄弟のもとに持って来ることが出来るのだから。


聖霊は最上のコミュニケーション媒体なのです。
奇跡はこのタイプのコミュニケーションを用いません。何故なら奇跡は、一時的なコミュニケーション装置なのだから。

(啓示により人が神と直接コミュニケーションする)原初の形に戻れた時、奇跡の必要は無くなります。
聖霊は、高い秩序のコミュニケーションと低い秩序のコミュニケーションの橋渡しすることにより、神から人への通信チャンネルを開き続け、啓示が可能であるように保つのです。
啓示は双方向(のコミュニケーション)ではありません。
啓示は常に神から人にもたらされるものです。
これは神と人が同等(平等)ではないからです。
奇跡は相互に働きかけるものです。 何故なら、奇跡は常に平等な者同士の間で働くものだから。

水平線上(経度上)では、神の子の共同体(Sonship)の中で人々が平等に成るには殆ど無限の時間が必要に見えています。
しかし時間は人工的な学習機材として導入されているだけのものなのです。

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