Jan 23, 2012

Ch27-3

The Fear of Healing
癒やしに対する怖れ

癒やしは怖ろしいものでしょうか? 多くの人達にとって答えはイエスです。
何故なら非難/誹謗は愛への障害で、壊された体は非難者(告発人)なのだから。
彼等は信頼と平和の前に立ちはだかっており「か弱き者は信頼を持つことが出来ない、そしてダメージを受けた者には平和を感じる理由がない」と主張しています。
自分の兄弟によって傷付けられて、そのまま兄弟を愛し信頼し続けられる人が居るでしょうか?
「彼は一度攻撃しており、もう一度攻撃することでしょう。彼を擁護するのは止めなさい。」{と言って}あなたの傷付いた体が「彼等(兄弟姉妹)から自分を守る必要があること」をあなたに示しています。
「赦すことは寛大な行為ですが。それは彼の正当な権利ではありません。 彼をその罪悪故に憐れむことは出来ても、彼の名誉を晴らす(無垢を証明する)ことは出来ません。
もし彼の愚行を赦したなら、あなたは彼が本当に行なった罪悪に上乗せしたに過ぎないのです。」 {と、か弱き者は言うのです。}

「癒やされていない者」には免除することは出来ないのです。 何故なら彼等は「免除はフェアー(正当)でないことの」の証人なのだから。
彼等(癒やされていない者/か弱き者)は「自分達が見過ごしている罪悪の結果」を保持しようとするのです。

しかし自分でリアルだと考えている罪を赦せる人は居ません。
そして結果を引き起こしているものはリアルであるに違いなのです。 何故なら、{結果が現れていることにより}それ(罪悪)が行なったことが明確に見えているのだから。
赦しは(真理だと知られていることを免除しようとする)哀れみではありません。
邪悪に対してて良きことを返すことは出来ません。何故なら、赦しは「一番始めに罪を設立してからそれを許すこと」ではないのだから。
「兄弟よ、あなたは私を傷付けた。 しかし私はあなたより優れているので、あなたが私に対して行った愚行/傷を私は許そう。」と本気で言える人がいるでしょうか?
彼の免除とあなたの瑕疵(傷)は両立出来ないのです。その一つがもう片方を打ち消しており、一つが真であればもう一つは偽であるに違いないのです。

罪を目撃/証言しそれを許すことは、理性には見る(受け入れる)ことの不可能なパラドックスなのです。
何故なら罪の目撃/証言は「自分に対して行なわれたことは免除不可能だ」という主張なのだから。
そして{罪を証言した上で}赦しを与えることにより、あなたは兄弟に慈悲を与えるのですが、「彼が本当は無垢ではないという証拠」は保持し続けるのです。
病者は告発人であり続けるのです。 病人達には自分達の兄弟姉妹と自分達の両方を赦すことは出来ないのです。 何故なら「真の赦しによって統治されている者」が苦しむことは不可能だから。
彼(真の赦しによって統治されている者)は兄弟の目の前に罪の証拠を差し出さないのです。 だから彼は罪を見越して、自分自身からも罪を取り除いたに違いないのです。
赦しは(赦した者と赦された者の)両方の為であり、片方だけの為では在り得ません。
赦した者は癒やされるのです。
そして彼の癒やしの中に「彼が本当に赦して(免除して)おり自分自身を(そしてどの様な生き物も)全く断罪していない」という証拠が示されているのです。

赦しがあなた自身と兄弟姉妹に対して癒やしをもたらしていないなら、その癒やしはリアルではありません。
「あなた」は彼の罪が「あなた」に全く影響を与えていないことを証言することによって、「彼の罪がリアルでないこと」をデモンストレートしなくてはいけません。
そうでなければ彼は無罪では在り得ません。彼の罪が罪悪に値する効果を出していないと示されない限り、彼の無垢(無罪)は正当化出来ないのです。
罪は解除出来ない見越せない結果を内包しようとする試みで、だから罪は赦しを越えているのです(もし罪が実在しているとするなら、それは赦せないものなのです)。
これらを{罪が実在しているという誤解を}解除することが、これらが単なるエラーにしか過ぎなかったと証明することに繋がるのです。
あなた自身を癒やさせ、あなたが赦せるように成り、兄弟姉妹とあなた自身に救済を捧げられるように成りなさい。
壊れた体は癒されていないマインドを示しています。
癒やしの奇跡は「分離には効果が無いこと」を証明しているのです。

あなたが彼(兄弟姉妹)に対して証明したことを、あなた自身が信じるのです。
証言の力はあなたの信念からやって来ます。
そしてあなたの言う/する/考えること全てが、あなたが彼(兄弟姉妹)に教えていることを証言しているのです。
あなたの体は「彼の行為によってあなたの体が痛みを被ったことは無い」と教える方法/手段に成り得るのです。
そしてあなたの体の癒やしが、彼に「無垢/無罪の証言」を与えるのです。
この証言が千語よりも偉大な力で話すのです。
何故なら、ここで彼の赦しが彼に対して証明されているのだから。
奇跡があなたに与えたよりも少ないものを、奇跡が彼に捧げることは出来ないのです。
だからあなたの癒やしは、あなたのマインドが癒やされていることを示し、彼がしていなかったことに対して(あなたが彼を)赦したことを示しているのです。
こうして彼は自分の無垢が失われていないことを確信し、あなたと共に癒やされるのです。

このようにして奇跡は「不可能だと世界が主張している全てのこと」を解除するのです。
そして古代のクラリオン(高音トランペット)の命の呼び掛けの前に絶望と死は消えて行かざる得ないのです。
この呼び声は死と罪悪の脆弱で惨めな泣き声を遥かに越えた力を持っているのです。
この父から子への(そして子からその子への)古代の呼び掛けが、この世界が聞く最後のトランペットに成るのです。
兄弟よ、死は存在していません。
あなたが彼を憎んでいない(あなたは彼によって傷付けられていない)ことを兄弟に示そうとあなたが願った時、あなたはこれ(上記のこと)を学ぶのです。
彼は自分の手があなたの血で染まっていると考えており、だから彼は断罪されて立っているのです。
しかし、あなたは癒やされており彼の罪悪は無意味な夢の薄絹でしかないと彼に示す為に、これ(癒やし)があなたに与えられているのです。

癒やしとは何と公平なのでしょう!それは「あなた自身と兄弟の罪悪からの完全な解放のギフト」を公平/同等に与えるのだから。 
あなたの癒やしが(あなたの痛みだけでなく)彼の痛みを無くすのです。
そしてあなたが彼の健全を願ったので、あなたは癒やされたのです。
これが奇跡が従っている法則なのです: 癒やしは特別性は全く何も見ないのです。{癒やしはあなたとあなたの兄弟姉妹を分けて考えないのです。}
奇跡は、同情(憐れむこと)から来るのではなく、愛から来るのです。
そして愛は、全ての苦しみが空虚な空想で、馬鹿げた願いで、それには効果がないことを証明するのです。
あなたの健康は「あなたの兄弟の手があなたの血で染まっていないことを見たい、兄弟のハートに(罪の証拠で重くなっている)罪悪が無いことを見たい」というあなたの願いの結果なのです。
そしてあなたの願いがあなたに与えられ、あなたはそれ(あなたが願ったこと)を見るのです。

あなたの静寂の「コスト」は彼(兄弟姉妹)のものでもあるのです。
この「値段」を聖霊と世界は違うように解釈するのです。
世界は「あなたの救済が彼の救済を犠牲にしている」という「事実」の主張を知覚/認識しています。
聖霊は『「あなた」の癒やしが彼の癒やしの証言で、あなたの癒やしが彼の癒しから切り離されることは出来ないのだ』と知っています。
苦しむことに彼が合意している限り「あなた」は癒やされないのです。
しかしあなたは「彼の苦しみが無目的でそれには全く原因が無いこと」を彼に示すことが出来るのです。
「あなた」の癒やしを彼に示しなさい。そうすれば彼はもう苦しむことに同意し続けなくなります。何故なら、彼の無垢(無罪)があなたと彼の両方の視界の中で確立されたのだから。
そして微笑みがあなた達の視界を取り替えるのです。何故ならその時、神の子が自分は神の子だと思い出したのだから。

であれば誰が癒やしを怖れているのでしょうか?
「兄弟姉妹の犠牲と痛みに自分達の平安を象徴させている者達」だけが癒やしを怖れているのです。
彼等の絶望と弱さが、兄弟姉妹の痛みを正当化している彼等の基盤を表しているのです。
彼(兄弟姉妹)が常に被っている罪悪の棘が、彼(兄弟姉妹)が奴隷で彼等(兄弟姉妹の犠牲と痛みに自分達の平安を象徴させている者達)が自由であることを証明しているのです。
「彼等」が常に感じている痛みは「彼等が彼(兄弟姉妹)を縛り付けているが故に彼等が自由であること」をデモンストレートしているのです。

そして病は犠牲の中のバランスがシフトしてしまうことを阻止しようとする願いなのです。
しかし聖霊を一瞬でも阻止することが出来るでしょうか? 
このような病の言い立て(病の主張)の正当性を証明することが可能でしょうか?{そのようなことは出来ないのです。}
そして(あなたが立ち止まって狂気に聞き入ったからと云って)「あなた」の癒やしが遅らされる必要があるでしょうか?


修正はあなたの働きではありません。 修正は「罪悪ではなく公正を知っている者」に所属しています。 もしあなたが自分で修正の役目を行なおうとしたなら、あなたは赦しの働きを失ってしまいます。
「修正とは決して告発/断罪せずに赦すことでしかない」と学ばない限り誰も赦せる人はいません。
あなたは一人ではそれらが(修正と赦しが)同じだと見ることが出来ず、だから修正はあなたのものではないのです{あなたが修正を行なうのではないのです}。
アイデンティティ(自己認識)と働きは同じで、あなたの働きによってあなたはあなた自身を知るのです。
だからあなたが自分の役目と他の役目(聖霊の役目)を取り違えているなら、あなたはあなた自身(あなたが誰か)に関して混乱しているに違いないのです。
分離は、神から神の働きを奪って、神の働きが神のものであることを否定しようという願いでしかないのです。
しかし神の働きが神のものでなかったのなら、それは「あなた」のものでもないのです。
何故なら「あなた」は自分が奪おうとしているものを失わずにはおれないのだから。

分裂したマインドの中ではアイデンティティも分離しているように見えるのです。
そして『「複数の相反した目的や異なる目標」を持っていながら統合されている働き』を知覚/認識することは不可能です。
これ程分裂しているマインドにとって修正は「あなた自身のものだとあなたが考えている罪」を他者の中で懲罰する方法でしか在り得ないのです。
こうして彼はあなたの兄弟(同胞)ではなく{あなたの裁きの}被害者に成り、あなたよりも罪深い点においてあなたとは異なった存在に成り、「彼(兄弟)よりも無垢なあなた」から修正される必要がある人に成るのです。
これが彼(兄弟姉妹)の働きをあなたの働きから分裂させてしまい、あなた達に異なる役割を与えてしまうのです。 
だからあなたは「一つの目標を持ったアイデンティティ(自己認識)」を分け合って一つの働きを持っている一存在としては知覚されていないのです。

「あなた」が行おうとする修正は分離を引き起こしてしまうのです。 何故なら、あなたは修正に分離の役割(機能)を与えてしまっているのだから。
あなたが修正を免除と同じと知覚認識した時「あなたのマインドと聖霊のマインドが一つであること」をあなたは知っているのです。
こうしてあなたの自身のアイデンティティが見つかるのです。
しかし彼は彼に与えられたものを使って働く必要があり、あなたは自分のマインドの半分しか彼に与えていないのです。
だから彼は「もう半分」を象徴しており、あなたが大切にしていることとは「異なる」目的を持っているように見えるのです。
このようにしてあなた(達)の働き/役割が半分つづに分離しているように見え、お互いと対立しているように見えるのです。
そしてこれら二つは「自己の中が二つのものとして知覚認識されている分離」を象徴しているように見えているのです。
{上記文節の「彼」は聖霊と兄弟姉妹を同時にあらわしているようです。訳注}

全ての思考が拡張されずには済まされないこと(何故ならマインドはマインドであるが故に拡張されることがその目的なのだから)を考慮した上で、このような自己知覚認識がどのように拡張されてしまうか考えてみなさい。  
「二つとしての自己」のアイディアからは必然的に、二つに分かれた働き(役割)の視点が立ち上がってくるのです。
その場合あなたが修正しようとする(修正出来る)のはエラーの半分だけなのですが、あなたはそれで全てだと考えてしまうのです。
あなたのエラーと兄弟のエラーが一つのものとして見られるまでは、あなたの兄弟の罪が修正のターゲット(目標)に成ってしまうのです。
あなたのエラーは(修正可能な)間違いだけれども、兄弟のエラーは(あなたのエラーとは異なる)罪に見えるのです。
あなたのエラーは(それが公平に扱われたなら)見逃されるべきだけれども、兄弟のエラーは懲罰に値すると考えられてしまうのです。

修正に対するこの解釈では、あなたは自分自身の間違いを見さえしないのです。
この知覚認識が起こっている限り、修正の焦点があなた自身の外(あなたの一部では在り得ない人)に向けられてしまうのです。
「断罪されているもの」はそれを憎んでいる断罪者の元には戻って来れないのです。
これが(あなたの憎しみの焦点に成っている、あなたの一部に成るに値しない、従ってあなた自身の外に在る)あなたの兄弟姉妹(否定されている部分)なのです。
彼(あなたに憎まれている兄弟姉妹)の存在を抜いて残ったものだけが「あなたの全て」として知覚認識されているのです。
聖霊はこの部分(現在のあなたの自己認識)に対して、残りの部分を示さなくてはならないのです。 あなたがそれを自分の一部として認識出来るようになるまで。
聖霊は(異なった働きではなく)ひとつの働き/役割をあなた達両方(あなたとあなたの兄弟姉妹)に与えることによってこれを行なうのです。

修正は、あなた達両方に与えられている働きなので、あなたか兄弟姉妹のどちらか片方にだけ与えられているのではありません。
これ(あなた達の役目)が共有されたものとして果たされた時、それ(聖霊)はあなた達両方の中で間違えを修正するに違いないのです。
片方の間違えを癒やさず残し、もう片方を開放することは出来ないのです。そのようなものは分離されている目的で、分け合うことが出来ず、だから自分のものとして聖霊が認識する役割では在り得ないのです。
聖霊は「自分に理解出来ない役割、そして自分のものとして認識出来ない働き」はしないのです。
何故なら、そうでなければ(自分達の働き/役割に対するあなた達の分裂した視点にも係わらず)聖霊があなた達の働き{あなた達本来の働き}を保持することは出来ないから。
もし分裂している働きを聖霊が尊重したならば、あなた達は本当に失われてしまったことでしょう。
自らのゴールを「あなた達の為の個別で分裂したもの」として見ることの出来ない聖霊の性質が、「それ(聖霊)自身の役割以外のものを認識させられること」からあなた(達)自身を守るのです。

こうして癒しがあなた達両方(あなたとあなたの兄弟姉妹)に与えられるのです。
修正は「修正と赦しが同じであることを知っている者」に任せるべきなのです。
{現状のあなた達のように}半分のマインド(部分的マインド)しかもっていない場合、これを理解することは不可能です。
だから修正は「一つのものとして働いている統合されたマインド」に任せなさい。何故ならその目的は分裂しておらず、一つの役割だけをその唯一の役割と認識しているのだから。
ここにおいて働きがそれ(統合されているマインド)に与えられており、「与える者」が保持していても、それ(与えられたもの)は共有されているので、分離してはいない「それ自身のもの」として理解されるのです。
この働きを彼(聖霊)が受け入れることが、あなたのマインドが統一される方法なのです。
彼(聖霊)の一つの目的が(分裂しているとあなた達が知覚認識している)「あなた達の各部分」を統合するのです。
そしてあなた達それぞれがお互いを赦し、自分のもう半分を自己の一部として受け入れられるように成るのです。

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