Jan 24, 2012

Ch27-4

The Symbol of the Impossible
不可能のシンボル

パワー(力)とは相反(対立)不可能なものなのです。 何故なら、相反するものは力を弱めてしまい、「弱められた力」はアイディアの矛盾でしかないから。
弱い力は無意味です。 そして弱める為に使われている力は、限定の為に使用されているのです。
だからそのような力(相反/対立している力)は限定されており弱いに違いないのです。何故なら、「弱めること」が「相反/対立している力」の目的なのだから。
しかしパワーがそれそのものである為には、それが対立を受けていない(相反していない)必要があるのです。
パワーを「パワーで無いもの」に変えてしまうことなく「弱さ」がパワーの中に進入することは不可能です。
「弱めること」とは、特定の概念を限定することによって攻撃して、その概念への反証を押し入れることなのです。

そしてこの反証によって「それでは無い何か」のアイディアと「それ(弱めるという攻撃を行なっているもの)」が「繋がって」、それ{攻撃されているもの、と同時に攻撃しているもの}を解らなくしてしまうのです。
「弱いパワー」や「憎しみの愛」などという矛盾した考えが理解出来る人はいません。
あなたは自分の兄弟(姉妹)が「憎しみに満ちた愛のシンボル/弱められたパワー/生きている死」だと決めたのです。
だから彼(兄弟姉妹)はあなたにとっては意味を持っていないのです。何故なら彼は無意味を象徴しているのだから。
(あなたにとって)彼は(半分がもう半分をキャンセル/否定している)矛盾した考えを象徴しているのです。
しかしこれさえも、これがキャンセルしようとしているもう半分によって急速に否定されて、それらは両方とも消え去るのです。
そうすると彼はもう何も表さなく成ってしまい、不可能なアイディアを表しているシンボル(空のスペースや虚無を象徴しているもの)に成ってしまうのです。
しかし空のスペースや虚無には妨害は出来なのです。
リアリティに対する気付きを妨害出来るのは「そこに{実際には空虚であるそこに}何かがある」という信念なのです。

あなたが見ている「兄弟(姉妹)の絵」にはどの様な意味も無いのです。
そこには「攻撃するべきもの」も「否定するべきもの」も無く。「愛するべきもの」も「憎むべきもの」も、「力を持っているもの」も「弱いものとして見るべきもの」もそこには無いのです。
この絵は完全にキャンセルされているのです。 何故なら、この絵は『「この絵が象徴している思考」をキャンセルしている矛盾』を象徴しているシンボルなのだから。
だからこの絵には全く原因が無いのです。
原因無くして効果/結果を知覚出来る人が居るでしょうか?
原因の無いものは虚無でしか在り得ません。
あなたが見ている兄弟の絵は、全く空虚で、それは全く存在していなかったのです。
だからそれ(兄弟の絵)が占めている空のスペースを真空として認識し、それを見るために使われて来た時間は無駄だった(空虚な時間だった)ことを理解してください。

この満たされていない空のスペースが、使われていない時間が、真理を呼び込む静かな招待に成なり、真理がそこ(今まで空だったスペース/兄弟の絵)に住み付くのです。
この招待の本当の魅力をより強める為に出来る準備はありません。
何故なら、あなたが真空として残したものの中を神が満たすのだから。 そして神が居る所に真理が在るに違いないのだから。
相反(競合)するものを何も持っていないパワーが、弱められていない力が、創造なのです。
何故なら、そこにはシンボルが全く存在していないから。
「真理を越えて指差すことが出来るもの」は存在していません。 そして「全てよりも多くのものを現せるもの」もありません。
しかし真の解除は親切であるに違いないのです。
だから、「まず第一にあなたの絵(兄弟に対してあなたが抱いている絵)に取って代わるもの」もまた(今までとは違う種類の)絵なのです。

虚無が描けないように、全体を象徴するシンボルも存在していません。
最終的にリアリティは形無しで知られるのです。それ(リアリティ)は描かれず見られないのです。
赦しは「限定から完全に解放されているパワー」としてはまだ知られていません。
しかしそれ(赦し)は「あなたが与えようと選んだ限定」を使いません。
赦しとは、一時的に真理が象徴されている(表現されている)方法なのです。
赦しは、補助が必要で無くなり学習が終るまで、「絵の交換」を聖霊が出来るようにするのです。
学習のゴールを超えて拡張可能な(使用可能な)学習装置は存在していません。
学習装置の目的が全て達せられたなら 、その役目は終ったのです。
しかし学習期間中は学習装置に(今まだあなたが怖れている、しかし直ぐあなたが愛するようになる)働きがあるのです。
いま空になったスペースを満たす為にあなたに与えられている「あなたの兄弟の絵」はどのような防御も必要とはしないのです。

何故なら、あなたは(今までの兄弟の絵よりも)そちら(新しい兄弟の絵)をより好ましく思うのだから。
そして「これ(兄弟の新しい絵)が自分の求めているものだ」と決断することを少しでも躊躇するのは止めなさい。 これ(兄弟の新しい絵)は矛盾する概念を表しては(象徴しては)いません。
これは絵の半分で未完成ではありますが、その中でこれは{矛盾しておらず}同じなのです。
これ(兄弟の新しい絵)が表しているもう半分はまだ知られていませんが、これがキャンセル(相殺)されることはありません。
このようにして神自身が最後のステップを踏めるように成るのです。あなたはこの為には(神が踏み出す最後のステップの為には)絵も学習機材も必要とはしていないのです。
そして最終的に「全ての学習機材に取って替わるもの」がシンプルに現れるのです。

赦しは消え去り、シンボルは色褪せて行きます。そして目が全く見たことの無いものが、耳が全く聞いたことがないものが、残って知覚されるのです。
全く限定されていない(縛られていない)パワーが来たのです。破壊する為ではなく、それ自身を受け取る為に。
役割(働き)の選択はどこにもありません。 あなたが失うことを怖れていたチョイス(選択肢)は初めから全く存在していなかったのです。
しかしこれ(失うことを怖れているあなたの選択)だけが「限り無いパワーと(完全でハッピーで反対を持っていない)統一された思考」の邪魔をしているように見えているのです。
あなたは『「何にも反対/対抗/相反していない力」の平和』を知っていません。しかし、それ以外の力は存在し得ないのです。
赦しを越えた(そしてシンボルと限界の世界を超えた)パワーを歓迎してください。
彼(聖霊)はただ在るのです。だから彼はただ存在しているのです。

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