Jul 10, 2012

Ch24-6


The Resolution Of The Dream
夢の解決/解除


あなたの中のキリストはとても静かです。

彼(あなたの中のキリスト)は彼が愛しているものを見ており、それ(彼が見ているもの)を彼自身と知っています。

だから彼は「彼が見ているもの」を喜ぶのです。何故なら、彼はそれが彼と一つであることを知っており、それが彼の父と一つであることを知っているのだから。


特別性も、それが見ているものを喜ぶのですが、それ(特別性)が見ているものは真実ではないのです。

あなたが求めているのは、あなたが考えている「喜びの源」なのです。{これが自分の喜びの源だとあなたが考えているものをあなたは求めるのです。}
あなたが求めているものは、あなたにとって真実なのです。

「あなたが何かを望んでいた場合、それがあなたの望みどおりであることに対する信心が不足していること」も不可能です。 {あなたが何かを望んだなら、その望みどおりのことが起こっているとあなたは確信するのです。}

意志が創造すると同じだけ確実に、望むことがリアルにするのです。{願うことが「願われていること」をリアルに見せているのです。}

愛がそれ自身を拡張している(差し伸べている)と同じ位強く、「望み/願い」の力が幻想を成り立たせているのです。

違いは「望み{願望}は幻惑し、愛は癒やす」ことです。


それがどれだけ隠されていても、どのような形で偽装されていても、どれだけ愛のように見えても、どれだけデリケートに平和への望みと痛みからの解放(あなたの断罪をあなたが被っていないこと)をそれが捧げていたとしても、特別性の夢は実在していません。
夢の中で結果と原因は反対に取り替えられているのです。何故ならここにおいて、『「夢を作っている者」の上にその夢が起こっている 』と「夢を作っている者」が信じることが出来るのだから。

彼は自分が「あそこから糸をここから切れ端をとかき集めて、虚無の絵を紡ぎ出していること」には気付いていないのです。

{あなた達がかき集めた}それらの部分はお互いに調和しておらず(合致しておらず)、だから{あなた達の紡いだ絵}全体はその各部分に意味を全く与えていないのです。


赦し以外の何処からあなたの平和がやって来れる言うのでしょうか?
あなたの中のキリストは真理だけを見ています。 そして赦しを必要とするような断罪は全く見ていません。

彼(あなたの中のキリスト)は平和なのです。何故なら彼は罪を見ていないから。

あなたが彼とアイデンティファイしたなら(あなたがキリストと自分を一つのものと認識したなら)、彼が持っていてあなたが持っていないものが在り得るでしょうか? 彼があなたの目で、あなたの耳で、あなたの手で、あなたの足なのです。

彼の見ている光景は、彼が聞いている音は、なんと優しいことでしょう。
兄弟の手を取っている彼の手は何と美しいのでしょう。

そして兄弟の隣を歩いて何が見え聞こえるか兄弟に教えている彼は、そして「どの場所が何も見えず何も聞えていない所なのか」教えている彼は、何と愛らしいのでしょう。


あなたが自分の特別性に道案内をさせてしまったなら、あなたはその後をついて行ってしまいます。 そしてあなた達両者は(罪のトンボの一瞬の虚ろで小さな輝きに照らし出された目の見えない暗い森の中で)危険の中を歩いており、名前の無い絶壁に相手を導きその下に投げ落とそうとするのです。
殺すこと以外に特別性の楽しみがあるでしょうか?

殺害の光景以外に特別性が求めているものがあるでしょうか?

特別性が破壊以外のところに{あなたを}導くことがあるでしょうか?

「特別性があなたの兄弟を初めに見たり、特別性があなたを憎む前に兄弟を憎む」と考えるのは止めなさい。

(特別性は)罪を見ることを好み、その目はあなたの中に見た罪を彼の中に見て、それを喜んで眺め続けるのです。

{特別性にとって}腐敗と狂気を眺めることは喜びで、(肉が骨から既に剥がれ目の無い眼孔が見えている)この崩れゆくものを信じているのです。これはあなた自身と同じでしょうか?


喜びなさい、あなたは{このような世界を}見る目は持っておらず、聞く耳も、掴む手も、歩き導く足も持ってはいないのです。
あなたがそれらを必要としている限り、キリストだけがその目耳手足(真に見る/聞く/歩く/掴む能力)をあなたに貸せることを知って喜びなさい。

それら(キリストがあなたに貸す目耳手足)もあなたのものと同様に幻想なのです。

しかしそれら(キリストの目耳手足)は{あなたの目耳手足とは}異なる目的を持っているので、「それらが持っている目的の力{キリストの目的の力}」がそれらには与えられているのです。

{キリストの導きによって}あなたが導かれたように「あなた」が導けるよう、「それら(キリストの目耳手足)が見て聞いて持って歩いているもの」には光が与えられているのです。


あなたの中のキリストは非常に静かです。

彼はあなたがどこに行くべきか知っており、彼は優しくあなたを導き、その道程で常に祝
福を与え続けるのです。

「あなたが自分自身の中に見たと考えていた全ての怖れ」が「キリストの『神への愛』」で置き換えられるのです。

キリストの神聖があなたに対して「あなたが手を握っている彼(兄弟)」の中に彼(キリスト)自身を示し、あなたは彼(兄弟)を彼(キリスト)の前に導くのです。

するとその時あなたが見るものはあなた自身と似ている(同じ)なのです。

何故なら、その時そこに在る「見て聞いて愛するべきもの、その後に従って故郷への道を行くべきもの」はキリストだけなのだから。


彼(キリスト)は先ず第一にあなたを見て、あなたがまだ完成していないことを認識しました。
だから彼は「彼が見ており愛している全ての生きているものそれぞれ」の中であなたが完成することを捜し求めたのです。

そして{彼が見て愛している}それぞれが神の愛を「あなた」に捧げられるよう、彼はまだ捜し求め続けているのです。


それでもキリストは静かなのです。何故なら彼は「愛が今あなたの中に居り、あなたが兄弟の手を握っているその同じ手によって愛が安全に抱えられていること」を知っているから。
キリストの手は彼自身の中で彼の全ての兄弟達を抱きかかえています。

キリストは、兄弟達の見えない目の為にヴィジョンを与え、天国に関して兄弟達の為に歌い、兄弟達の耳が戦いや死の音をもう聞かないようにします。

彼は、自分の手を広げて兄弟達を抱擁し、兄弟達を通して手を伸ばし(愛を拡張し)、全ての人達が生きている全てのものを祝福してそれらの神聖を見られるようにするのです。

これらの光景が「あなたのもの」であることを彼(キリスト)は喜び。あなたはこの光景を彼と共に見て、彼の喜びをあなたは共有するのです。


「自分のパーフェクトな特別性の欠如」を彼(キリスト)はあなたに差し出しています。あなたが「生きているもの全て」を死から救い、「あなたが救ったそれぞれのもの」からあなたが「生命のギフト」を受け取れるよう。 あなたの赦しがあなた自身に対して捧げた「生命のギフト」をあなたが受け取れるよう{キリストが自身の無垢をあなたに差し出しています}。
キリストの視界だけが見るべき全てなのです。

キリストの歌だけが聞くべき全てなのです。

キリストの手だけが握るべき全てなのです。
彼(キリスト)と一緒に歩く旅だけが存在しているのです。


(特別性で満足しており愛に対する戦いの中に救済を探している)あなた達は次のことを考慮しなさい:
あなた自身の完成をあなたに与える為に天の聖なる主自身があなたのもとに下って来ています。

「神のもの」は「あなたのもの」です。何故なら「あなたの完成」が「神自身のもの」なのだから。

自分の子を失うことを意図しなかった神は、あなたが兄弟無しに成ることを決して意図(意志)しません。

兄弟があなたと同じようにパーフェクトでないのなら{兄弟があなたと同じようにパーフェクトに成ることが出来なかったなら}、そして(あなた同様に)兄弟が神聖の中で神と似ていなかったなら、神があなたに兄弟を与えたでしょうか?


闘争/対立より「前に」疑いが在ったに違いないのです。
そして全ての疑いはあなた自身に関するものであるに違い無いのです。

キリストは疑いを何も持っていません。そして彼の確信から彼の静けさが来ているのです。

もし『彼(キリスト)が「あなたと共に居る人」であること』にあなたが同意したなら、そしてこのワンネス(一体性)が限りなく無時間で「あなたの手が彼(キリスト)のものである故にこのワンネスにあなたの手が届くこと」にあなたが同意したなら、キリストは「あなたの疑いの全て」を「キリストの確信」で置き換えます。
彼(キリスト)はあなたの中に居て、彼はあなたの横を歩き前を歩き、「彼自身が完成することを探す為に彼が行くべき道」の道案内をしてあなたを導きます。

彼(キリスト)の静寂が「あなた」の確信に成るのです。

確信が来ている時(確信が与えられている時)、どこに疑いがあるというのでしょうか?

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