Apr 4, 2013

Ch26-06


The Little Hindrance  小さな障害

 

確かに「奇跡は全て同じであることが理解出来ていない人達」にとっては小さい障害が大きく見えています。

そして{分離は実在しておらず、全ての奇跡が同じであるという}そのことを教えることがこのコースの目的なのです。それが学ぶべき全てなのだから。

そしてあなはこれを様々に異なった方法で学ぶのです。

全ての学習は「天国の門への援助」か、でなければ「天国の門に対する障害」のいずれかなのです。 それらの中間は在り得ません。

異なる道を指し示している二人の教師しか存在していないのです。

そしてあなたは「あなたの教師が導く道」を歩んで行くのです。

時間が残っており選択に意味がある限り、あなたが進んで行けるのは二つの方向だけなのです。

何故なら、天国の道以外の道が作られることはないのだから。

だからあなたが選ぶのは、天国の方向か、でなければ天国から離れて虚無の方向に行くしかないのです。{だから天国へ近づく方向か天国から離れる方向の二つしか存在していないのです。}

これ以外に選択出来ることはないのです。

 

時間以外に失われるものは何も無く、最終的に時間は無なのです。

何故なら時間は、永遠に対する少しの障害でしかなく、世界のリアルな(本当の)教師にとってはとても無意味なのです。

しかしあなた達は時間のリアリティをまだ信じているのだから、行き場の無いことに時間を費やすのは賢明ではありません。「学習により到達し得る最高のゴール」の為に時間を使うことが出来るのだから。

天国の門への道が困難だと考えるのは止めなさい。

シッカリとした決意と確実な目標とハッピーな自信を持って、お互いの手を取り、天国の歌のステップに合わせて、あなた達が取り組むことは決して難しくないのです。

それに比べて目的のない虚無への道を孤独で惨めに彷徨うことは確かにハードです。

 

「あなたが作った教師に取って変わる教師」を神が与えているのですが、「神があなたに与えている教師」は「あなたが作った教師」とは対立/闘争はしないのです。

そして「彼(神の教師)が置き換えようとしているもの」は既に置き換わっているのです。

あなたのマインドの中に時間は一瞬留まるだけで、永遠に対して時間は影響を与えません。

こうして全ての時間が飛び去り、「虚無への道が作られる前の姿」に全てが修復されるのです。

 

時間の小さなトリックの中で、まず「一番初めの間違い」が作られたのです。

そしてこの一つの間違いの中に全ての間違いが作られていたのです。

この小さな時間のトリック(間違い)の中に、一つの間違いに対する(そして初めの間違いに続いて現れた全ての間違いに対する)修正が在るのです。

そしてこの僅かな瞬間の中で時間が消えるのです。何故ならそれ(時間のトリック)は僅かな瞬間でしかなかったのだから。

「神が答えを与えたもの」は答えられており{解消されており}、それは消え去っているのです。

 

自分がまだ時間の中に生きていると信じている(そして時が消え去っていることを知っていない)あなたに対して聖霊は「(あなたが未だ時間の中で知覚している)無限に小さく無意味な迷路」の道案内をするのです。(本当は時間は既に消え去っているのだけれど)。

自分が過去の中に住んでいるとあなたは考えて居ます。{自分が住んでいるとあなが考えている所は実は過去なのです。}

あなたが見ている全てのもの{自分が見ているとあなたが考えている全てのもの}は、あなたが遠い過去に(あなたが見ているものの不真実が真理に譲る前に)一瞬だけ見えていたものなのです。

「答えられていない(解除されていない)幻想」はあなたのマインド内に一つも残っていないのです。

とても昔に不確定性(不確かな状態)が確定性(確かな状態)の下に持って来られているので、「それ(不確定性)が自分の前にまだ在るとあなたのハートに教えること」は確かに難しいのです。

「あなたが保持し永遠にしようとしている小さな瞬間」は(それが起こったと理解されるには余りに素早く)天国の中で消えて行ったのです。

 

「神の子のシンプルな叡智/知識に影響を与えるには素早く消えすぎたもの」をあなたが自分の教師として選ぼうとしても、それは殆どそこに存在していないのです。

過去(創造への答えとして世界を作るには短過ぎた古代の過去)の中にだけこの世界が立ち昇っているように見えていたのです。

それはとても昔のことで、僅かの時間だったので、天国の歌は一音さえも損なわれなかったのです。

しかし、それぞれの赦さない思考や赦しのない行為の中で、全ての裁き中で、罪への全信念の中で、この一つの瞬間がまだ呼び出されているのです。 あたかも、それがもう一度時間の中で作り得るかのように。

あなた達は自分達の目の前に古代の記憶を保っているのです。

そして記憶の中だけに生きている者は自分が何処に居るか認識していないのです。

 

赦しとは時間からの大いなる解放なのです。

赦しとは過去は過ぎ去って解消されているという学習のキー(要)なのです。

{赦しが起こり、過去が解除されたなら}狂気はもう話しません。

これ以外の教師はおらず、これ以外の道は無いのです。

何故なら、「既に解除されているもの」はもう存在していないのだから。

そして「遠く離れた岬に立って、(とうの昔に消え去った場所と時間である)対岸に自分が居ると夢見られる者」など居るでしょうか?

この夢が「彼が本当に居る所」に対するリアルな障害で在り得るでしょうか?

何故なら、(今まで話して来た)これが事実で、彼の見ているどのような夢もこれ(リアリティ)を変えることは出来ないのだから。

しかし彼は自分が別の所に別の時間に居ると想像することが出来るのです。

最悪の場合、彼はこれ(自分がどこか別の場所や時間に居るということ)が真理であると自分を騙すことが出来、それを単に想像することからそれを信じることへ移行し狂気に至ることが可能です。 「自分が居たいと思う場所に自分は居る」と信じることが可能なのです。

 

「{本当に}彼が立っている場所/状況」に対してこれが障害に成り得るでしょうか?

彼が聞いている過去からのエコーが「彼が今居る所に関して聞くべき事実」を述べているでしょうか?

「時間と場所に関する彼自身の幻想」がどれだけ「彼が本当に居る場所」に影響を与えられるというのでしょうか?

『「永遠に消え去っている過去」から呼び掛けている声』は赦さないのです。

「それ(過去からの呼び掛け)のリアリティを指し示しているもの全て」は『「既に過去に消滅したもの」を再度リアルにしたい、それ(過去に消滅したもの)を今見て聞くことが出来るようにしたいという願い』でしかないのです。

上記のことが「過去が過ぎ去っていて、過去をあなたのもとに返すことは出来無いという真実」に対する障害で在り得るでしょうか?

そしてあなたは(天国が消えているように見えていて、神が怖れられていて、神があなたの憎しみのシンボルに作られている)この怖ろしい瞬間を保ちたいと思いますか?

 

とても昔に修正され解除されている怖れの時は忘れてしまいなさい。

「罪が神の意志に抵抗して耐え抜けること」などが可能でしょうか?

「過去を見てそれを現在に据えること」があなたの使命で在り得るでしょうか?

 

あなたは後ろに戻ることは出来ません。

「過去の方向を指し示している全てのもの」は「リアルでないことを達成しようとする役割」をあなたに与えるだけなのです。

「あなたを愛し続けている父があなたのもとに来ることを確約している正義」とはこのようなもの{この認識}なのです。 

そして父は「あなた自身に対するあなたの不正」からあなたを守っているのです。

あなたが道を失うことは不可能です。何故なら、父の道しか実在していないのだから。

そして{もし父から離れようとするなら}「父への道を辿る以外の方向に行くこと」しかあなたには出来ないのだから。

「既に遠く消え去っている時間の記憶に惑わされて神の子が道に迷うこと」を神が許可するでしょうか?

 

このコースは「今(今で在るもの)」だけをあなたに教えます。

遠い過去の嫌な瞬間は、今パーフェクトに修正されており、それを心配する必要はなく、それ(過去)には価値が無いのです。

「死んで過ぎ去ったもの」は平和に忘れてしまいなさい。

それ(過ぎ去った過去)に置き換わる為に復活が来ています。

すると今あなた(達)はもう死ではなく復活の一部なのです。

どのような過去の幻想もあなた達を死の場所(神の子が一瞬だけ入った檻)に縛り付ける力を持ってはおらず、それは父のパーフェクトな愛へと瞬間的に修復されるのです。

『彼が「遥か昔に彼(神)のマインドから取り外されて永遠に拭い去られている鎖」に繋がれていること』がどうして在り得るのでしょうか?

神が創造した子は、神が子を創造した通りに自由なのです。

彼(神の子)が生きるのではなく死ぬこと{神からの分離}を選択した途端に、彼(神の子)は生き返ったのです。

あなたは彼を今赦さないのですか?{あなたは彼を今赦しなさい。} 

彼(神の子)は「神が憶えていない(そしてもう存在していない)過去」の中でエラー(間違い)を犯していたのだから。

 

今あなた達は過去と現在の間を行ったり来たりしています。

時には過去があたかも現在であるかのようにリアルに見えているのです。

過去からの声が聞き入れられ、それから疑われるのです。

あなたは「まだ幻覚を見ている人」のようですが、「自分が知覚しているもの」に対する確信はもう無いのです。

これが{二つの}世界の間のボーダーランド(中間領域)で、過去と現在を繋げているのです。

ここに過去の影が残っており、しかしそれでもここで現在の「光」が薄ぼんやりと認識されているのです。

しかし一度「光」が見られたなら、それは決して忘れられません。

光があなたを過去から(あなたが本当に存在している)現在に連れ出すのです。

影の声が時間の法則や永遠の法則を変えることはありません。

彼等(影の声)は「過去に消え去ったこと」から来ているのですが、今ここの真の存在を妨げてはいないのです。

 

リアルな世界は「時間と死がリアルである幻覚」の第二部分で、{リアルな世界は}知覚可能な存在を持っているのです。

{時間と死という}この酷い幻想は、全ての時間と状況の中で神が自身の答えを幻想に対して与えた途端に否定されたのです。

するとそれはもうそこに存在しておらず、体験されることもないのです。

毎日の中で、そして毎日の毎分の中で、そして毎分の中の毎秒の中で、あなたは「怖れの時間が愛によって置き換えられた一瞬間」を生き直しているのです。

そして、過去と現在のギャップ(しかし本当はそれは全くギャップではないのです)をあなたが渡るまで、あなたは毎日死にそれから生き返っているのです。

 

それぞれの人生はこのようなものなのです。

誕生から死までの期間が見られ、そからまた誕生が繰り返されるのです。

「遥か昔に飛び去り二度と生きられない一瞬」が繰り返されているのです。

時間の全ては「過ぎ去ったことがまだ今ここに在るという狂気のアイディア」に過ぎないのです。

過去を赦し、それを手放しなさい。 何故なら、それは過ぎ去っているのだから。

あなた達はもう「二つの世界の間に在る地」の上に立っては居ないのです。

あなた達は進み行き、天国の門がある世界に届いているのです。

そこには神の意志に対する障害は無いのです。

「とても昔に既に終っている旅」をあなた達が再び繰り返す必要もないのです。

お互いを優しく眺めて、『「あなた達の憎しみの知覚」が「愛の世界」へと変容されている世界』を見なさい。

 

Apr 3, 2013

Ch26-05

Where Sin Has Left  罪が去ったところ(罪が去った後)

 
赦しとはこの世界の中で「天国の正義」に相当するものです。

赦しは罪の世界をシンプルな世界に変容させます。 そのシンプルな世界の中では(限定が完全に不在である門の向こうから)正義が反映されるのです。

「限りの無い愛の中に在るもの」は赦しを必要とはしていません。

そして「世界の中でチャリティー(施し)であるもの」が「天国へと開いている門へと抜けるシンプルな正義」に道を譲るのです。

罪を信じていない限り(そして自分はまだ多く赦されなくてはならないと信じていない限り)誰も赦そうとする人は居ません。

だから赦しが「何も赦すことを行っていないと人が学ぶ方法」に成るのです。

赦しは常にそれ(赦し)を捧げた者の上に在るのです。彼自身がもうそれを必要としなくなるまで{赦しを与えた者の上に赦しが留まるのです}。

こうして彼は自分のリアルな役割に戻るのです。 彼のリアルな役割とは創造で、彼の赦しが彼にそれ(創造)をもう一度捧げたのです。

 

赦しが罪の世界を「見るも素晴らしい栄光の世界」に戻すのです。

{栄光の世界である神の創造の中では}それぞれの花が光りの中で輝いており、全ての鳥が天国の喜びを歌っています。

そこには悲しみがなく、そこには分かれ(亀裂)がないのです。 何故なら、全ては完全に赦されているのだから。

そして「赦されている者達」が繋がるに違いないのです。それらを切り離しておくものは何もないのだから。

無垢な者達は自分達がひとつであることを知覚するのです。何故なら、「彼等の間に立って引き離すもの」は何もないのだから。 そして罪が残したスペースの中で(自分達の一部で在ったものが切り離されてはいなかったという喜ばしい認識と共に)彼等は一つに繋がるのです。

あなた達が立っている聖なる場所は、罪が消えた後に残されたスペースなのです。

そしてここであなた達はキリストの顔を(今まで罪が見られていた)その場所に見るのです。

 

キリストの顔を見て、彼の父のリアリティを思い出さない人が居るでしょうか?

愛を怖れながら「罪が去って所に天国の祭壇が立ち世界を超えて伸び上がり宇宙を越えて伸び出し全創造のハートに触れている場所」に立てる人が居るのでしょうか?

天国とは「創造された全て」が「創造の源」に向かって歌っている「感謝と愛と賞賛の歌」ではないでしょうか。

罪があると一度は信じられていた所に最も神聖なる祭壇が設定されているのです。

何故なら、天国の全ての光がここに来て喜びを燈し増やすのだから。

何故なら、彼等が失ったものがここに修復され、彼等の全ての輝きが再び十全に修復されるのだから。

 

赦しは卑小な奇跡を天国の門の前に掲げるものではありません。

ここ(天国の門)に神の子自身が来て「彼(神の子)を彼の家に近づけるそれぞれのギフト」を受け取るのです。

一つのギフトも失われず、一つのギフトが他のギフトより大切にされることもないのです。

それぞれのギフトが「彼の父の愛」を彼に思い出させるのです。

そしてそれぞれのギフトが『「彼が恐れていたもの」を彼が一番愛していること』を彼に教えるのです。

彼のマインドを変えて「愛を怖れることは出来ないと彼に理解出来るようにするもの」が奇跡以外にあるでしょうか?

これ以外のどのような奇跡があると言うのでしょうか?

あなた達の間のスペース(隙間)を消滅させる為に、これ以外の何が必要だというのでしょうか?

今まで罪が知覚されていた所に世界が立ち現れ、それが真理の祭壇に成るのです。

そして「あなた」が天国の光達と繋がり、彼等の感謝と賞賛の歌を共に歌うのです。

 

何故なら、彼等(天国の光達)があなたのもとに来て完璧/十全に成ったように、あなたは彼等と共に行くのだから。

何故なら、天国の歌を聴いて「この歌のパーワーを増してよりスウィートにする声」を持たない人は誰も居ないのだから。

そして『「罪が自分のものとして確保していた小さいスポット」の中に立ち上がった聖壇』で各人が歌に合流します。

すると「小さかったもの」が歌の巨大さへと育つのです。 

この歌の巨大さの中で宇宙が一つの声に繋がっているのです。

あなた達の間に立ちはだかっているこの小さな罪のスポットが、天国の門が楽しく開かれることをブロックしているのです。

あなた達から天国の豊かさを押し留めているこの障害は、なんと小さいのでしょう。

そしてあなた達が神の愛の強大なコーラスと繋がり一緒に成った時、天国の喜びは何と偉大なのでしょう。

 

Apr 1, 2013

Ch26-04

The Borderland  ボーダーランド(中間領域)

 

神のものは複雑ではありません。神が知っているのは『ひとつ』だけなのだから。

神は『ひとつ』の創造を知っており、『ひとつ』のリアリティを知っており、『ひとつ』の真理を知っており、『ひとつ』の息子(子供)だけしか知らないのです。

ワンネス(ひとつの状態)と対立/闘争するものは何も無いのです。

であれば、神の中に複雑なものが在り得るでしょうか?

そこに「選択するべきもの」などが在るのでしょうか?

何故なら、対立(CONFLICT)が選択を可能にしているのだから。{神の中には「選び別けるべき複雑なもの」は存在していないのです。}

 

真理はシンプルです。 真理とは「対極(反対物)のないひとつ」なのです。

どうしてそのシンプルなプレゼンス(存在)の中に不和/対立が入り込めるでしょう。

どうしたらワンネスがあるところに複雑性が持ち込めるというのでしょうか?

真理は選択/決断はしません。何故なら、そこには選ぶべきものはないのだから{そこには選ぶべき違いは無いのだから}。

そこに選ぶべき違いがあった時にのみ、選択が「ワンネスへと進む必要不可欠なステップ」に成るのです。

「全てであるもの」はそれ以外のものが存在する余地を残していません。

 

しかし{全てであるものの}この巨大さ(magnitude)はこのカリキュラム(ACIM)の範疇を越えています。

そして「直ぐに把握出来ないこと」を考え続け心配し続ける必要はありません。

 

この世界と天国の間に思考のボーダーランド(中間域)が存在しているのです。

それは場所ではなく、あなたが何時そこに到達するかは時間からは離れている{時間とは関係ない}のです。

様々な思考達が一緒に持ってこられて出会う場所がここなのです。

ここで対立する価値が出会い、真理の下に全ての幻想が横たえられ、それらが不真実と判断されるのです。

このボーダーランド(中間域)は天国の門の直ぐ先にあるのです。

ここで全ての思考がピュアに全くシンプルにされるのです。

ここで罪が否定され、存在する全てが受け取られるのです。

 

これが旅の終わりなのです。私達はこれを「リアルな世界」と呼んで来たのです。

しかしこれには矛盾があるのです。何故なら、世界という言葉は「限定されているリアリティ(部分的真理、真実にされた宇宙の一部)」を暗示しているから。

それは{矛盾がまだあるように見えるのは}叡智(knowledge)が知覚を攻撃しないからです。

それら(様々な知覚/認識)は一緒に持って来られ、「ひとつ」だけがワンネスの居る門を潜り抜けるのです。

救済とはボーダーランドで、そこではまだ場所や時間や選択に意味が与えられているのですが、しかしそれらは一時的なものであり、場所には関係なく、全ての選択が既に行われていることが見てとれるのです。

 

神の子が信じているものが破壊されることはないのです。

しかし彼が行なう最後の比較(一番最後の価値判断、この世界の上に与えられる最後の審判)の為に{ボーダーランド/中間域の下に}「彼(神の子)にとって真理であるもの」が持って来られなくてはならないのです。 

これが幻想の上に与えられる真理の判断(ジャッジメント)なのです。これが知覚の上にもたらされる叡智なのです。

 

「これには意味が無く、これは存在していない。」

 

これはあなたの判断/選択ではありません。

これはシンプルな事実を述べているシンプルな声明なのです。

しかしこの世界の中にはシンプルな事実が存在していません。 何故なら、{この世界の中では}「何が同じで何が違うか」が不明瞭なまま残されているから。

この判断/決断が選択するべき唯一重要なことなのです。

{二つの}世界の違いがここに在るのです。

この世界の中では、選択は不可能なのです。

しかしリアルな世界の中では、選択はシンプルなのです。

 

救済は天国の一歩手前で止まります。 何故ならまだ救済を必要とする知覚が一つ残っているのだから。

天国は失われなかったので、天国を救済することは出来無いのです。

 

しかし「天国への願い」と「地獄への願い」が違うことを認識していない限り、そのどちらかを選択することは出来ません。

このコースが設定している学習ゴールがこの違いなのです。

{『天国への願いと地獄への願いの違いを認識出来るようになること』がこのコースの目的なのです。}

 

このコースはこの目的の先には進みません

このコースの唯一の目的は、「何が同じ」で「何が違う」か教えて、選択可能な唯一の選択肢が選べるようにすることなのです。

この複雑過ぎる世界の中には選択の基準が無いのです。

{この世界の中では}誰も「同じであるもの」を理解しておらず、選択が実際には存在していなところで選択が行われているように見えているだけなのです。

 

選択が本当に行われるエリア(領域)がリアルな世界なのです。

結果がリアルに成るのではなく、今までとは異なった選択が{可能だと}知覚されることが本当の選択なのです。

 

{上記は様々な解釈が可能な箇所なので原文も記載します。 The real world is the area of choice made real, NOT in the outcome, but in the perception of alternatives FOR choice.

 

これは『以前は特別性の追求(特別に成ること)が目的だったのに、その目的が合一(一緒になること)へと変えられことによって分離が解除される「あなたの特別な役割」』と似通っていませんか?

{様々な異なる幻想が存在しているのではなく}全ての幻想はひとつでしかありません。

(全ての幻想は皆同じであるという)このことを認識することで「それら(様々な幻想)の間からひとつを選択して、それらを異なるものにしようとする全ての試み」が放棄出来るように成るのです。

{「様々な幻想の間からひとつを選択して、それらを異なるものにしようとすること」と「その試みを全て放棄すること」という}これ程異なった二つの間から選択することはとてもシンプルなのです。

 

ここには矛盾/対立がありません。

『「このように{全て同じものとして}認識されている幻想」を手放すこと』は犠牲ではあり得ません。

「決して真理には成らなかったもの」から全てのリアリティが引き抜かれている時、それ{幻想}を手放して「真理であるに違いないもの」を選ぶことが難しいでしょうか?