神のものは複雑ではありません。神が知っているのは『ひとつ』だけなのだから。
神は『ひとつ』の創造を知っており、『ひとつ』のリアリティを知っており、『ひとつ』の真理を知っており、『ひとつ』の息子(子供)だけしか知らないのです。
ワンネス(ひとつの状態)と対立/闘争するものは何も無いのです。
であれば、神の中に複雑なものが在り得るでしょうか?
そこに「選択するべきもの」などが在るのでしょうか?
何故なら、対立(CONFLICT)が選択を可能にしているのだから。{神の中には「選び別けるべき複雑なもの」は存在していないのです。}
真理はシンプルです。 真理とは「対極(反対物)のないひとつ」なのです。
どうしてそのシンプルなプレゼンス(存在)の中に不和/対立が入り込めるでしょう。
どうしたらワンネスがあるところに複雑性が持ち込めるというのでしょうか?
真理は選択/決断はしません。何故なら、そこには選ぶべきものはないのだから{そこには選ぶべき違いは無いのだから}。
そこに選ぶべき違いがあった時にのみ、選択が「ワンネスへと進む必要不可欠なステップ」に成るのです。
「全てであるもの」はそれ以外のものが存在する余地を残していません。
しかし{全てであるものの}この巨大さ(magnitude)はこのカリキュラム(ACIM)の範疇を越えています。
そして「直ぐに把握出来ないこと」を考え続け心配し続ける必要はありません。
この世界と天国の間に思考のボーダーランド(中間域)が存在しているのです。
それは場所ではなく、あなたが何時そこに到達するかは時間からは離れている{時間とは関係ない}のです。
様々な思考達が一緒に持ってこられて出会う場所がここなのです。
ここで対立する価値が出会い、真理の下に全ての幻想が横たえられ、それらが不真実と判断されるのです。
このボーダーランド(中間域)は天国の門の直ぐ先にあるのです。
ここで全ての思考がピュアに全くシンプルにされるのです。
ここで罪が否定され、存在する全てが受け取られるのです。
これが旅の終わりなのです。私達はこれを「リアルな世界」と呼んで来たのです。
しかしこれには矛盾があるのです。何故なら、世界という言葉は「限定されているリアリティ(部分的真理、真実にされた宇宙の一部)」を暗示しているから。
それは{矛盾がまだあるように見えるのは}叡智(knowledge)が知覚を攻撃しないからです。
それら(様々な知覚/認識)は一緒に持って来られ、「ひとつ」だけがワンネスの居る門を潜り抜けるのです。
救済とはボーダーランドで、そこではまだ場所や時間や選択に意味が与えられているのですが、しかしそれらは一時的なものであり、場所には関係なく、全ての選択が既に行われていることが見てとれるのです。
神の子が信じているものが破壊されることはないのです。
しかし彼が行なう最後の比較(一番最後の価値判断、この世界の上に与えられる最後の審判)の為に{ボーダーランド/中間域の下に}「彼(神の子)にとって真理であるもの」が持って来られなくてはならないのです。
これが幻想の上に与えられる真理の判断(ジャッジメント)なのです。これが知覚の上にもたらされる叡智なのです。
「これには意味が無く、これは存在していない。」
これはあなたの判断/選択ではありません。
これはシンプルな事実を述べているシンプルな声明なのです。
しかしこの世界の中にはシンプルな事実が存在していません。 何故なら、{この世界の中では}「何が同じで何が違うか」が不明瞭なまま残されているから。
この判断/決断が選択するべき唯一重要なことなのです。
{二つの}世界の違いがここに在るのです。
この世界の中では、選択は不可能なのです。
しかしリアルな世界の中では、選択はシンプルなのです。
救済は天国の一歩手前で止まります。 何故ならまだ救済を必要とする知覚が一つ残っているのだから。
天国は失われなかったので、天国を救済することは出来無いのです。
しかし「天国への願い」と「地獄への願い」が違うことを認識していない限り、そのどちらかを選択することは出来ません。
このコースが設定している学習ゴールがこの違いなのです。
{『天国への願いと地獄への願いの違いを認識出来るようになること』がこのコースの目的なのです。}
このコースはこの目的の先には進みません
このコースの唯一の目的は、「何が同じ」で「何が違う」か教えて、選択可能な唯一の選択肢が選べるようにすることなのです。
この複雑過ぎる世界の中には選択の基準が無いのです。
{この世界の中では}誰も「同じであるもの」を理解しておらず、選択が実際には存在していなところで選択が行われているように見えているだけなのです。
選択が本当に行われるエリア(領域)がリアルな世界なのです。
結果がリアルに成るのではなく、今までとは異なった選択が{可能だと}知覚されることが本当の選択なのです。
{上記は様々な解釈が可能な箇所なので原文も記載します。 The real world is the area
of choice made real, NOT in the outcome, but in the perception of alternatives
FOR choice. }
これは『以前は特別性の追求(特別に成ること)が目的だったのに、その目的が合一(一緒になること)へと変えられことによって分離が解除される「あなたの特別な役割」』と似通っていませんか?
{様々な異なる幻想が存在しているのではなく}全ての幻想はひとつでしかありません。
(全ての幻想は皆同じであるという)このことを認識することで「それら(様々な幻想)の間からひとつを選択して、それらを異なるものにしようとする全ての試み」が放棄出来るように成るのです。
{「様々な幻想の間からひとつを選択して、それらを異なるものにしようとすること」と「その試みを全て放棄すること」という}これ程異なった二つの間から選択することはとてもシンプルなのです。
ここには矛盾/対立がありません。
『「このように{全て同じものとして}認識されている幻想」を手放すこと』は犠牲ではあり得ません。
「決して真理には成らなかったもの」から全てのリアリティが引き抜かれている時、それ{幻想}を手放して「真理であるに違いないもの」を選ぶことが難しいでしょうか?
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