May 24, 2011

ラジ: 体、シフト、死、世界

質問: ある人が脳死したとして、その二三日後に人工呼吸器などを取り外したとします。 その場合...
人はどの時点で物理的身体から出て、次に行くべき場所に移行するのでしょうか?

先日カボーキアンという医師の葬儀がありました。 この兄弟(カボーキアン氏)は他者の尊厳死を援助して自殺幇助罪に問われたけれど裁判で無罪放免された人です。
しかしあなたは過去に「われわれの死は何らかの意味で全て自殺である」と言っています。
死んだ後人々は何処に行くのでしょうか?
四次元の世界に行くのですか?
死んだと思われている人達と対話したりすることを、子供のころより多く体験しているので、それが可能だと私は本当に信じています。
彼等も本当に存在しているのです。 彼等は時には身体として見え、時にはスピリチュアルな体として感じられるのです。
しかし私はあなたの話を聞いて混乱してしまいました。



ラジ:
人がどのようにして死んだかは違いをもたらしません。それが自殺でも、脳死でも、交通事故死でも、心臓麻痺でも、病気でも、死の経緯そのものは無意味なのです。


もう少し詳しく言えば、全ての死は諦めなのです。
死とは個人が諦めてギブアップした時に起こる事なのです。


しかしこれは父の意志/意図に譲るという形のギブアップ(諦め)ではないのです。

死とは、コントロールすることがとても大切なことだと信じ続けながらも、自分の人生/生命をコントロールすることを放棄することなのです。


(死につつある)人は、自分ではコントロールをもはや保持出来ないところまで到達し、しかしそれでも父(源)に対してコントロールを譲ってはいないのです。

すると死という現象が現れます。 これは死んだ人自身が自分にもたらした死なのです。
死は選択なのです。

そして「死んだ」人達は全員同じ場所に行きます。
これは待合室(Receiving Place)のような場所です。
そこで人々は愛に迎えられます。
待合室で起こる事は、よく話しに出てくる通りです。
人は偉大な愛をそこで体験するのです。
人々はそこで愛によって歓迎され、世話を受け、安らかにされるのです。
そこで答えが与えられます。 より以前に亡くなっている人達が集まって来て、そこにたどり着いた人を歓迎しようとします。
しかし彼等と会うかどうかは個人の意志に任されています。

もし望むなら、待合室にしばらく留まることも可能です。
そして、そこから出たいという内的動機が高まるまで、そこから出る必要はありません。


この状態にある時、人はまだ4次元には移行していません。

何故ならこの場合、死というイベント(出来事)は目覚めのプロセスの一部ではなかったからです。

そこでは、自分達の生活をコントロールする必要が表明し続けられており、それがまだ放棄されては居ないのです。
人々がそれ(自身の生活をコントロールする必要性)を放棄するまで、目覚めのプロセスは起き得ません。


だから(死んだ後も)人々は今まで通りの自分を発見するのです。
そして自分を殺したと思っていたものが実は自分を殺しはしなかったと解るのです。

だから癌に成ったと思っていた人は、癌が自分に影響を及ぼさなかったことを知り、もはやその病や他の信念の犠牲者ではないのです。
その限りにおいては癒しが起こるのです。
それから、もし前回の生で手足や内臓などを失っていた場合、身体が健全に戻っていることを人々は発見します。
そして自分達は未だに食事をする必要があると信じ続けるでしょう。


それから生前アルコールに依存していた人達はそのままアルコールへの依存を続ける可能性も高いです。

待合室に居る間、彼等はアルコール中毒に耽溺することを禁止されてはいません。


どれだけ目覚めた人であって、その人があなたを無理矢理健全にさせることは出来ません。

何故なら、健全(健康)でなくなることは、あなたの信念から来ているあなたの選択だけによってもたらされることだから。
「あなたの問題(病/怪我/老化/貧乏)があなたの自己防御にとって不可欠だ」というあなたの理屈(あなたにとってそれはとっても「もっとも」に思えるでしょう)によって、あなたは不健全に成っているのです。


ある人が「人生のリアリティ」を乗り越えるためにアルコールを使って無感覚に成らなければいけないと感じたなら、それは彼が自分の視点から自分の正気を保つ為に(それは達成不可能なのですが)行った選択なのです。


いずれにしろ一人一人の苦しみは彼等自身によって選択されたものなのです。
何故なら、病や死などは、自分のしていることが自分自身を「何か」から守っていると(自分の理由付け/論理から)信じてしまっている地点に人が到達している結果として起こるのだから。


確かに医師が脳死を宣告した時点で、その人の個人性はすでに(体から)出ています。
そこに横たわっている死体は、あなた達の目の中に残されている残像なのです。

(死んでしまった)その人をその人たらしめて来たもの(その人のアイデンティティ)は、依然としてその人と共にあります。
あなたが、あなたをあなたとして証明するもの(アイデンティティ)を失うことはありません。 これ(あなたのアイデンティティ)により人々はあなたを意識的に体験し、あなたを見て触ることが可能になっているのです。

私が「見える様子/触れる様子(可視性/可触性)」と言っている時、それは物質を意味していません。

科学者達は(少なくとも量子力学を勉強/実験していない人達よりは)現在のあなた達の身体が全く物理的(物質的)なものでないことを良く理解しています。
何故なら原子顕微鏡で物質と呼ばれているものを観察した場合、物質の塊は見つからず、そこにはエネルギーのパターンしか無いのです。 そこに物体/物質として現れているものはなにもないのです。

そこに現われているパターンは、神の自己表現を形作っている「神のマインド」の中のアイディアなのです。 将来的には科学者によってこれが発見されることでしょう。

つまり現時点ですでにあなた達は物理的身体を持ってはいないのです。
そしてこの事実に気付く人が増え、このニュースが一般市民や科学者達によっても共有され始めたなら、人々が自分達の体を新しい見方で見るようになり、癒しが(より容易に)起こるでしょう。 {神の}パーフェクション(完璧性)がより瞬間的/自動的に見られるようになるでしょう。
何故なら{この事実が理解され始めたなら}物質などは実在していないので、癒やしの為に物理的なプロセス(物質に対する働きかけ)など必要でないことになるのだから。
{物質として考えられているものは}エネルギーのパターンで、シフトを阻止する密度はそこに存在していません。


あなたは特に質問しませんでしたが、次のことも付け加えましょう。
人が自分を自身の体によって定義してしまっており、「自分が体験していること全てが「私」という無限の意識であること」を認識出来ていない場合、「全てが神であり、だから全てがあなたであること」を認識体験出来ていない場合、(体だけを自己として定義してそれだけに意識を集中してしまい)全てを内包している自己意識が失われている場合、そこに現れている分離感覚の中には「卑小さ」と「傷付き易さ」そして「防御の必要性」が見られるのです。
すると生命/人生そのものが自己防御的になってしまいます。
怖れが自己防御的行動を促進しているのです。


そして自分自身に対する卑小な定義をより確実にしようとする試みが、より堅剛な防御と不可侵性を確立しようとする試みが、{意識の?}縮(凝縮)を発生させているのです。 すると(実際のリアリティである)パターンが凝縮され、より硬く動き辛くなるのです。
そして本当は柔軟性に富み流動的なエネルギーの流れをあなたがそれそのものとして体験することが出来なくなり、あなたは怪我を体験したりするようになるのです。
しかしあなたが自己防御の為にとても硬く自分の体を握り締めているにも関わらず、あなたの体が実際に物体に成ってしまっているわけではないのです。
それは今でもエネルギーのパターンでしかないのです。

それは父によりそのオリジナル(原初)な聖なる意図の中に保たれているパターンなのです。 各瞬間に父があなたに成ろうとしており、父があなたに成っているのです。 その父の意図を示している「このパターン」を、そしてあなたの体でもある「このパターン」を、父が確立し続けているのです。

だから、あなたを特定の存在として示しているもの(あなたの体)は、永遠にあなたを特定の存在として示し続けるもの(あなたの体で)で在り続けるのです。


あなたが目覚めようとしている時、(自分で選んだものだけを見続けようとするのではなく)ここに存在している全てのものを思い出す時、あなたは(父と同様に)自分が宇宙とひとつであると同時に特定の存在でもあることを発見するのです。


しかし目覚めの課程で、あなたが特定の存在(体)を自分として(限定的に)認識することは減っていき、あなたは自分の無限性(限りの無さ)と宇宙性(普遍性)をより意図的に受け入れ体現するようになるのです。


特定の存在(つまりあなたが体と呼んでいるもの)は消滅しません。 しかし、それがあなたの注意/意識を独り占めし続けることはなくなるのです。

あなたは体の視点から何かを眺める事はしなくなるのです。

現在あなたが自分の体と呼んでいるものも、あなたの体で在り続けます。と同時にバラの花びらも、壁も、樹木も、そして(現時点ではまだあなたに認識されては居ない)天国のより多くのものも、あなたという無限の存在の一部としてあなたに認識されるように成るのです。


私はACIMを学んでいる人達に次のことを明確に知ってほしいのです。
ア・コース・イン・ミラクルズでは、完璧に調和している「ハッピー・ドリーム」と「リアルなワールド」に関して述べています。
「そしてリアルな世界さえも消滅する。」"then even the real world will disappear."と書かれています。
確かにそう書いてあります。

この文が言おうとしているのは「あなたはあなたの体を、物質ではなく、(神が自身を示していると同時にあなたを示している)神のアイディアであるエネルギーパターンの現れとして体験する」ということなのです。

あなたの体は、自己防御の確証として現れる(示される)のではなく、密度として現れるのではなく、つまり病/死/悪化を示すものではなく、完全にパーフェクトな美しさを示すように成るのです。


これが起こったなら、あなたは自分の無限性(限りの無さ/切り離されていない様子)に気付き、あなたの注意は「体とのアイデンティティ(自己同一)/あなたの特定性」からシフトしてあなたの普遍性(宇宙的存在)を抱擁するのです。

このシフトが起こって、あなたが自分の普遍性(偏在性)の視点から全てを体験するように成った時点でも、あなたの体が消滅することは在りませんが、あなたの体は今ほど重要なものではなくなるのです。

しかし、現在あなたが自分の体に負わせている役割が消えてしまうので、あなたの体が消滅すると言うことも可能です。
リアルな世界が消え去るというフレーズは「対象物としての世界はあなたの注意を引かなくなる」という意味において正しいのです。
創造として認識することが出来るパターンをアイディアとして持っている神のマインド/意志として、あなたの無限性の一要素として、世界が体験されるようになるのです。

今まであなたが世界を使っていたやり方は消滅します。何故なら、あなたはもはや世界を使って自分自身を定義したり、自己防御の為のデータをそこから得ようとしたりしなくなるからです。
あなたは朗らかに帰還の旅に赴き、その経過の全てを無限の視点から楽しむのです。
「リアルな世界さえもが消え去る」とコースが言っている時、上記がその意味なのです。


これはあなたが朝起きて、引き出しの前に行き、所有している全ての綺麗なパンティーの中から一つ選ぶようなものなのです。

特定の個人は、自分が万が一事故に会った時恥ずかしくないパンティーをその時に選ぼうとするものです。


何故私がこの話をしているかというと、人々はどの様な下着を着るべきか心配すると同じような感じで、自分達の体について心配しているからです。
しかし一旦下着を選んで着用したなら、それからは二度と自分の下着のことは考えずに一日を過ごされることでしょう。
自分が下着を着ていることさえ特に意識はしないはずです。
それは(あなたの意識の上から)消えてしまうわけです。
しかしそれでも下着はそこにあるのです。 それに関してあなたは心配していないだけなのです。
確かに下着に価値はあるのです。でなければあなた達はそれを着ないでしょう。
しかし普段あなた達は下着に意識の焦点を当ててはいないのです。

これと同じような感じで、世界はあなたの意識の焦点には成らなくなるのです。
神を常に賞賛出来るように(創造の中のリアルな全てものを認識する意図を持って)創造を観察し意識的に抱擁出来るマインド状態に成るのです。
創造の中のリアルなものとは神で、それは形ではありません。
そして神を常に賞賛することがあなたの存在の役割であり、愛なのです。
だから形は、この役割の前では、二次的なもの(それ程重要ではないもの)になるのです。

さて、死んだ(ように見える)人達は何処に行ったのか? とあなたは訊ねました。

彼等はあなた達が現在いる場所にまだ居ます。
つまり彼等も(あなた達と同様に)自分達が誰か解っていない無知な状態にまだ居るのです。


彼等の居場所は宇宙の中に位置を持ってはいません。
しかしあなたの居る場所も、宇宙の中で位置を持っては居ないのです。

これについて詳しく説明する事は私はしません。

私に言えるのは「あなたは何かの中に居るのではなく、全てがあなたの中に在るのです。」ということです。
ありとあらゆる意識体験は全て意識の中で起こっているのです。だからそれらは次元を持っておらず無限なのです。

神が成っている意識をどれだけあなたは理解していますか?
聖なる意識に成っている神をどれだけあなたは意識していますか?
現時点では、あなたは聖なる意識に成っている神の全てに気付いてはいません。
しかし自分の空想から意識をシフトすれば、自分の下着ばかり気にする事から意識を逸らせば、この様な意識/注意のシフト(転換)を行なえば、あなたはここにあるものをより多く見れるように成るのです。

そして次のことを私は繰り返し言っているのです。
あなたが見るべきリアリティの全ては、あなたに見えるようここにすでに存在しています。

そしてこの会合からなにか一つだけ覚えて帰るのなら次の事を忘れないで持ち帰って下さい。

あなたの目の前には、あなたが見るべき神のより多くのリアリティがあるのです。 あなたには想像出来ない程より多くの見るべきものがあるのです。 だから日々の中で少しは好奇心を発揮してみることを忘れないでいて下さい。

全てに対するあなた達の堅固な定義群に穴を穿ち、何か新しいことがあなたに届くことを可能にするのは好奇心なのです。
目覚めるために必要なことは、もう少し好奇心を持ってみることだけなのです。

私はかなり喋ってしまいました。 これであなたの質問に対する答えに成っていますか?


質問者: はい、どうもありがとう。
ラジ: どういたしまして。

1996年 Yucaipa 抜粋

2 comments:

  1. これを翻訳してくれてありがとう。

    ほんとうにたすかりました♪
    読んでよかったです☆

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  2. まるさん、

    どういたしまして。

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