Sep 4, 2011

Ch19-1~2

BEYOND THE BODY
体を超えて
わたし達が以前に言った通り(前の箇所にすでに書かれている通り)、状況を真理に対して完全に捧げたなら、平和がもたらされるのは確実なのです。
それ(平和)を得るられたかどうかで、献身の完璧さ(あなたが状況を完全に聖霊に手渡しているかどうか)が正しく判断出来るのです。
そしてわたし達は「信心なくして平和が得られることは決してない」とも言っています。何故なら、「真理だけをその唯一のゴール(目的)として完全に真理へ捧げられているもの」の真理は信心によって引き出されるのだから。
この信心が「(この状況に)関わっている人達全て」を包み込んでおり内蔵しているのです。 何故なら、そうすることによってのみ、その状況が{その時あなたが直面している状況が}意味のあるものとして全体的に知覚/認識されるのだから。
そして全ての人達がそれに関わっている必要があるのです。そうでなければあなたの信心は限られたものであり、あなたの献身は不完全なのです。
(状況が)正しく知覚/認識されたなら、全ての状況が神の子を癒やす機会に成るのです。
そしてあなたが彼に信心を与えたことにより、あなたは彼を聖霊に与え「あなたのエゴが彼に対して行なっている全ての要求」から彼を解放したので、彼は癒やされたのです。
こうしてあなたは自由に解き放たれた彼(神の子)を見るのです。そしてこのヴィジョン(視界)の中で聖霊が「分かち合う」のです。

彼(聖霊)がそれ(神の子のヴィジョン)を「分かち合った」ので、彼(聖霊)はそれを与えたのです。だから彼(聖霊)はあなたを通して癒やしたのです。
このように統一されている目的のもとに彼(聖霊)と繋がることが、この目的をリアルにするのです。 何故なら、その時「あなた」がそれ{統一された目的の繋がり}を「健全/全体/十全」にするのだから。
そしてこれ(彼との繋がりを健全/全体にすること)が癒やしなのです。
体が癒やされるのは、あなたがそれ(体)を持たずに来て(その中に全ての癒しが保たれている)「マインド」に繋がったからなのです。


Healing the Mind
「マインド」の癒やし

体には癒やすことは出来ません。 何故なら、体が体自身に病をもたらすことは出来ないのだから。(何故なら、体が体を病気にしたのではないのだから。)
体は癒やしを必要とはしていません。
体の健康や病気は「マインドが体をどのように知覚認識しているか」そして「マインドが体を使おうとしているその目的」に完全に依存しているのです。

マインドの一部(エゴ)はそれ自身を「宇宙的目的から分離しているもの」として考えているのです。
これが起こっている時、体がその(分離している積りのマインドの)武器になり、分離が起こったという「事実」をデモンストレートする為に、この目的(宇宙的目的)に対抗するものとして体が使われているのです。
このようにして体が幻想の道具に成り、体が幻想の道具として働くのです。
(その場合、体と自己同一して分離した積りでいるマインドは)そこに存在しないものを見て、真理が決して言わなかったことを聞き、狂気の振舞いを行い、狂気によって幽閉されているのです。

わたし達が以前に「不信心は幻想と直結している」と言ったことを軽く考えないでください。
何故なら、不信心とは兄弟を体として知覚認識することであり、体を合一(union)の目的で使用することは不可能なのだから。
だから、あなたがもし彼を体として見ていたなら、その時あなたは彼と自分が「一緒になる」ことを不可能にしてしまう条件を確立しているのです。
彼に対するあなたの不信心が、あなたを彼から分離しており、あなた達両者を癒やしから遠ざけているのです。
このようにして(兄弟を体として知覚認識することにより)あなたの不信心が聖霊の目的に逆らっており、体に基づいた幻想を引き出しており、それを(体に基づいた幻想を)あなた達の間に据えているのです。
そして体が病気に成ったように見えるのです。 何故なら、{体によって自分達が神や兄弟姉妹から分離していると考えている}あなた達は体を癒やしの「敵」にしており、体を真理の「反対」にしているのだから。

信心が不信心の正反対だと気付くことは難しくありません。
しかし信心と不信心の働きの違いは、それらの根本的違いに根ざしているのですが、その(信心と不信心の働きの)違いは解り易くはありません。
不信心は常に「限定し攻撃する」のです。 
信心は全ての限定を取り外し、健全/全体にしようとします。
不信心は破壊し分離しようとします。 信心は一つにまとめて癒やします。
不信心は神の子とその創造者(神)の間に幻想を挿入しようとします。
信心は「神の子と創造者の間に立ち昇っているように見えている全ての障害」を取り除きます。
不信心の全ては幻想だけに捧げられており、信心は完全に真理だけに捧げられています。
部分的献身(信心と不信心の両方に自分を捧げること)は不可能です。 
真理とは幻想の不在で、幻想とは真理の不在なのです。
それらは一緒には存在出来ませんし、それらを一緒の場所で知覚することも不可能です。
真理と幻想の両方にあなた自身を捧げることは、永遠に取得不可能なゴールを設定することです。何故なら片方は(幻想は)体を通して求められており(攻撃を通してリアリティを求める方法として考えられており)、もう片方は(真理は)癒やすのだから。だからこれは(真理/癒やしは)体にではなくマインドに呼び掛けるのです。

マインドではなく体が癒やされる必要があるという信念は、(幻想と真理の両方に対してあなた自身を捧げようとすることから来る)避け難い妥協であり矛盾なのです。
このように細分化されたゴールが体とマインドの両方に同等のリアリティを与えており、マインドが体に限定されている限りこれが可能に見えるのです。 そしてマインドが(全体を構成しているように見える、しかし繋がりのない)小さな複数の部分に切り分けられているように見えるのです。
これが(上記のように考えることが)体を傷付ける訳ではありません。 
しかしこれにより妄想的思考システムが「マインドの中」に保たれるのです。
だからここで(マインドの中で)癒しが必要なのです。
そしてここに(マインドの中に)癒やしが存在しているのです。
何故なら神は、病から遠く離れた所に癒やしを与えてはおらず、病が在り得ない所に救済手段を設定した訳でもないのだから。
病と癒やしは一緒に存在しており、それらが一緒に「見られた」時、「真理と幻想をマインドの中で一緒に保つ全ての試み」が幻想への献身として認識されるのです。  真理も幻想もマインド内に「在る」のです。{真理も幻想もマインド内の状態なのです。}
そして幻想への献身が真理の下に持って来られた時、それは放棄され、それを真理と融合させることは(どの様な意味でも、どの様な方法でも)全く不可能だと理解されるのです。
真理と幻想には繋がりがありません。
あなたが幾らそれら(真理と幻想)を繋げようとしても、これ(真理と幻想が繋がっていないこと)は永遠に真実なのです。
しかし幻想は常に他の幻想と繋がっており、真理もまた他の真理と繋がっているのです。
真理も幻想もそれぞれ一つにまとまった思考システムなのですが、真理と幻想はお互いとは繋がっていないのです。
重なり合いが無い所で、それらの分離は完全であるに違いないのです。
これを知覚することは、何処に分離があるか認識することで、と同時に、何処でそれ{分離}を癒やすべきか認識することなのです。
アイディアの結果は、その源から決して分離して(離れて)いないのです。
分離のアイディアが体を「作って」おり、体と繋がり続けており、体との自己同一によって(分離のアイディアが自分を体と自己同一視することによって)それ(体)を病気にしているのです。

「この繋がり(アイディアとその結果の繋がり)を隠すことにより自分は体を守っている」とあなたは考えています。
何故なら、この隠蔽が真理の「攻撃」からあなたのアイデンティティ(自己認識)を安全に守っているように見えているから。
この奇妙な隠蔽がどれだけあなたのマインドを痛めているか理解したなら、その結果としてどれだけあなた自身のアイデンティティが混乱しているかあなたに理解出来たなら(この隠蔽を続けることは不可能です)。
あなたの不信心によってどれだけ大きな惨事が引き起こされているか、あなたは見ていません。
何故なら、不信心は(その「結果」によって正当化出来るように見えている)攻撃なのだから
何故なら、信心を差し控えることにより、あなたはそれ(あなたの信心)に値しないものだけを見ており、「あなたと繋がっているもの」が作っているバリア(防御壁)を超えて見ることが出来なくなっているのです。

信心を持つことが癒やすことです。
それはあなたがアトーンメント(神との和解/贖罪)を自分自身の為に受け入れた証拠であり、それ故にあなたはそれを分け合おうとするのです。
信心によって、あなたは(あなた自身がすでに受け取った)過去からの解放のギフトを捧げ与えるのです。
(信心を持っている時)あなたは、過去にあなたの兄弟が行なったことを(それがどの様なことであろうとも)使って今彼を非難(断罪)しようとはしないのです。
あなたは自在に彼の間違いを無視して、あなた自身と彼の間の全バリアーを見越して、彼等を{あなたと彼を}「ひとつのもの」として見るのです。
(あなたと兄弟が一つに成った)この「ひとつのもの」の中であなたの信心が完全に正当であることをあなたは見るのです。 そこには不信心正当に見せている理由は全く存在しておらず、信心が常に正当なのです。
信心は怖れの反対です。 怖れが攻撃の一部であるように、信心は愛の一部なのです。
信心は合一(UNION、一つに繋がった状態)を認識することなのです。
それ(信心)は、あなたの愛情深い父の子供として全ての人達を優雅に認めることなのです。 父があなたを愛しているように父は彼等も愛しており、だから彼等があなた自身としてあなたに愛されていることを認識することが信心なのです。
彼(神)の愛があなた達を繋げるのです。 そして彼(神)の愛故に、あなたはあなたの愛から誰も(どのような人も)隔てようとはしないのです。
全ての人は、聖なる瞬間の中で彼(あるいは彼女)が知覚された通りに(罪悪から解放されようとするあなたの目的の中で繋がって)見えるのです。
あなたは彼の中のキリストを見て、彼は癒やされたのです。
何故ならあなたは「全ての人の中で信心を永遠に正当にしているもの」を見たのだから。

信心は、彼を通して神があなたに与えている神のギフトです。
不信心は神の子を見て、彼を赦しに値しない者として裁きます。
しかし信心の目を通して見たなら、神の子はすでに赦されており、彼自身の上に彼が自分で置いた全ての罪悪から彼(神の子)は自由なのです。
信心は彼を「今」の中だけから見ています。 何故なら、信心は彼を裁くために過去を顧みず、信心はそれが「あなた」の中に見るものだけを彼の中に見るのだから。
それ(信心)は体の目を通しては見ず、体を見て正当化を探そうともしません。
それ(信心)は新しい知覚のメッセンジャーなのです。
このメッセンジャーは、それ(新しい知覚)が来ていることを目撃する証言者を集める為に送られており、証言者達のメッセージをあなたに送り返すのです。

信心は、それがリアルな世界に変換されると同じぐらい簡単に、叡智(knowledge)に変換されるのです。
何故なら、信心は聖霊の知覚から立ち昇って来ており、信心はあなたが聖霊と一緒に知覚を分け合っているという証(サイン)なのです。
信心はあなたが彼(聖霊)を通して神の子に捧げるギフトです。そして信心は(聖霊が信心を完全に受け入れると同様に)彼の父によって完全に受け入れられるのです。
だからそれは(この信心は)あなたに捧げられているのです。
この新しい目的を与えられたあなたの聖なる関係は「(その新しい目的と共に)あなた達がお互いへ与えるべき信心」をあなた達に与えます。
あなた達の不信心があなた達を隔てており、だからあなた達はお互いの中に救済を認識しなかったのです。
しかし信心があなた達を(体の目を通してではなく、あなた達と繋がった彼=聖霊の視界を通して)あなた達が見ている神聖の中でひとつにしています。 そして彼の中で「あなた」がひとつに成っているのです。

恩寵は体ではなくマインドに与えられるのです。
そしてそれ(恩寵)を受け取ったマインドは、直ぐ体を超えて見て、それ(マインド)が癒やされている聖なる場所を見るのです。
そこには恩寵が与えられた聖壇があり、それがその中に{恩寵が祭壇の中に}立っているのです。
であれば、あなた達はお互いに対して恩寵と祝福を与えようとは思いませんか。あなた達は同じ祭壇の前に立っており、恩寵はあなた達両者の為に与えらているのだから。
そしてあなた達が恩寵によって一緒に癒やされますように。そして「あなた」が信心を通して癒やせますように。

聖なる瞬間の中であなた達は「神が自身とそしてあなた達両者に捧げた祭壇」の前に立っています
不信心を脇に置いて、一緒にその前に進みなさい。
そこであなた達は自分達の関係の奇跡(信心によって関係が作り直されること)を見るでしょう。
そこであなた達は「信心に赦せないものは何もない」と理解するのです。
そこには、信心の静かな視界を邪魔する間違いはなく、癒やしの奇跡が彼等全て(あなた達の全ての関係)に対して易々ともたらされるのです。
何故なら「愛のメッセンジャーがするべきこと」を愛のメッセンジャー達はするのだから。
そして、癒しの奇跡が行なわれたことの嬉しい波(影響/知らせ)を、祭壇(そこからメッセンジャー達が送られて居のです)の前に立っているあなた達に返しているのです、あなた達と一緒に。

不信心があなたの小さな王国を分離させ不毛にしているように、(最も神聖なる庭園の地を出来る限り整えようとしている)聖霊を信心が助けるのです。
何故なら信心が平和をもたらし、その平和が「すでに愛らしさの為に準備されている者」に入ってくるよう呼びかけ、それを愛らしくするのだから。
真理は信心と平和の後にやって来て、「真理と信心が始めたこと」を愛らしくするプロセスを完成させます。
何故なら、信心は学びのゴールに過ぎず、レッスンが学ばれたなら、信心はもう必要とはされないのだから。
しかし真理は永遠に留まるのです。

だから、あなたの献身は永劫(eternal)に対して与えなさい。
そして、その(永劫の)邪魔をしてそれを時間の奴隷にしてしまわないように学びなさい、
何故なら、自分が永劫に対して行なっているとあなたが考えていることを、あなたは「あなた」に対して行なうのだから。
「神が自身の子として創造した者」は何者の奴隷でもなく、創造者と共に立っている全ての主なのです。
あなたは体を奴隷化することが出来ます。 しかし「アイディア」は自由で、それを牢獄に押し込めたり、何らかの方法で限定することは出来ません。
唯一の例外は「それ(アイディア)を考え出したマインドだけが、それ(アイディア)を限定することが出来る」ということだけです。
何故なら、それ(各アイディア)はその源と繋がり続けており、それ(マインド内のアイディア)がそれ自身の目的としてそれ自身の為に行なった選択によって、それ(マインド)は体を監獄に閉じ込める者にも体の解放者にも成れるのだから。

2 comments:

  1. 細かい修正を加えました。

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  2. 下記の部分を訂正しました。


    そして、その(永劫の)邪魔をしてそれを時間の奴隷にしてしまわないように学びなさい。

    何故なら、自分が永劫に対して行なっているとあなたが考えていることを、あなたは「あなた」に対して行なうのだから。
    「神が自身の子として創造した者」は何者の奴隷でもなく、創造者と共に立っている全ての主なのです。
    あなたは体を奴隷化することが出来ます。 しかし「アイディア」は自由で、それを牢獄に押し込めたり、何らかの方法で限定することは出来ません。
    唯一の例外は「それ(アイディア)を考え出したマインドだけが、それ(アイディア)を限定することが出来る」ということです。
    何故なら、それ(各アイディア)はその源と繋がり続けており、それ(マインド内のアイディア)がそれ自身の目的としてそれ自身の為に行なった選択によって、それ(マインド)はアイディアを監獄に閉じ込める者にも体の解放者にも成れるのだから。

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