Sep 14, 2011

Ch19-6


The Attraction of Guilt
罪悪の魅力(牽引力)       

罪悪の魅力は愛に対する怖れを作り上げます。
愛は罪悪を全く見ようとしません。真理だけを見ることが愛の「性質」なのです。
何故なら愛はそれ自身しか見ておらず、聖なる合一(統合)と完成の中でそれ自身と一緒になるのだから。
愛は怖れを越えて見ており、怖れは愛を見られないのです。
何故なら怖れが罪悪に依存していると同じ位確実に、愛の中には罪悪の終わりが含まれているから。
愛は愛だけに惹き付けられるのです。
愛は罪悪を完全に無視して(見越して)怖れを見ません。
愛は全く攻撃を持たないので、愛には恐れることは出来ないのです。


恐れは「愛が見ていないもの」に魅了されます。
そして(怖れと愛は)それぞれに、他方が見ているものは存在していないと信じるのです。
愛がそれ自身を見ている時と同じぐらい強い献身でもって、恐れは罪悪を見ます。
そして(愛も怖れも)自分達が送り出すメッセンジャーをそれぞれに持っており、それらは(それらが放たれた時の言語で書かれた)メッセージを持って帰って来ます。
愛のメッセンジャーは優しく放たれ、愛と優しさのメッセージと共に戻って来ます。
怖れのメッセンジャーは罪悪を探す為に厳しく命令され、見つけることの出来た悪と罪の全ての破片を大切に扱い、痛みや死によっても何も手放さず、それらを自分達の主でありマスターである者の前に丁寧に並べます。


知覚は(それぞれのメッセンジャーに異なる言語で異なる要求をしている)二人のマスターの命令は聞けません。
「怖れが滋養にして貪っているもの」を愛は無視します。 愛には「怖れが要求しているもの」を見ることさえ出来ません。
怖れに対して罪悪が放っている強い魅力は、愛の優しい知覚からは全く欠落しています。
「愛が見ているもの」は怖れにとっては無意味で、怖れには「愛が見ているもの」は全く見えないのです。
この世界の中の関係は「(あなた達が)どのようにこの世界を見ているか」というその結果なのです。
そしてこれは「どの感情を使ってメッセンジャーを送り、それに世界を見させたか。その結果としてメッセンジャーがどのような世界を持って戻ってきたか。」に掛かっているのです。


怖れのメッセンジャー達はエラー(間違い)によって躾けられており、マスターがこれを呼びつけて自分に仕えさせようとするとこのメッセンジャー達は震えるのです。 何故なら恐れはその友に対してさえへも非情なのだから。
このメッセンジャー達は空腹で罪悪を探し、それを後ろめたく盗むのです。 何故なら彼等は凍えて空腹で、自分達のマスターによって凶暴にさせられているのだから。このメッセンジャー達は自分達がマスターに持って帰って来たものだけを食べることが許されているのです。
だから僅かの罪悪でさえも彼等の空腹な目を逃れることは無いのです。
そしてこのメッセンジャー達が凶暴に罪を探している時、彼等は生きているもの全てに襲い掛かって、叫びながらそれをマスターのもとに持って行き、それを貪り食べます。
これらの獰猛なメッセンジャー達を世界の中に送って世界を食い荒らさせリアリティをその餌食にするのは止めなさい。


何故なら彼等(怖れのメッセンジャー達)は骨と皮と肉の言葉をあなたのもとに持って来るのだから。
彼等は腐敗するものを探すように教えられており、戻って来て爛れ腐ったものを吐き出すだけなのだから。
彼等にとってはそのようなものが美しいのです。 その理由は、そのようなものが空腹の痛みを和らげるように彼等には感じられるからです。 何故なら彼等(怖れのメッセンジャー達)は怖れの苦痛でパニックしており、自分達が大切にしているものを彼(マスター)に捧げることにより、自分達を送り出した彼の罰を避けようとしているからです。


聖霊は「あなたが怖れで躾けた者達」の代わりに送り出すよう、愛のメッセンジャーをあなたに与えています。
(怖れのメッセンジャー同様に)彼等は彼等自身が大切にしているものを持ってあなたのもとに帰ってきます。
あなたが彼等{愛のメッセンジャー達}を送り出せば、彼等は無垢(無罪)と美と優しさと親切心だけを見ます。
彼等は非常に注意深く見ており、どれだけ小さな親切も、どれだけ僅かな赦しでも、どれだけ小さな愛であっても、彼等の注意から漏れるものはありません。
そして彼等は自分達が見つけた全てのハッピーなものを持って来て、それらを愛情深くあなたと分け合うのです。
彼等(愛のメッセンジャー)を恐れるのは止めなさい。 彼等はあなたに救済を捧げ差し出しています。 
彼等は安全のメッセンジャーなのです。何故なら彼等は世界を親切なものとして見ているから。


「聖霊から与えられたメッセンジャー達」だけをあなたが送り出して、このメッセンジャー達からのメッセージだけを求めたなら、あなたはもう恐れは見ません。 世界はあなたの目の前で変換/変容され、全ての罪悪が洗い流され、美によって丁寧に磨かれるのです。
その時世界は「あなたが世界の上に置かなかった怖れ」を持ってはいないのです。
あなたが愛のメッセンジャーに「世界から取り除いて欲しい」と頼んだなら、愛のメッセンジャーに取り除くことが出来ない怖れは存在してないのです。
聖霊は「自分自身」のメッセンジャー達をあなたに与えました。 あなた達がそれらをお互いに対して送り、「愛が発見したもの」と共にそれらのメッセンジャー達があなた達のもとに戻ってくるように。
あなたが送り出していた空腹な怖れの犬達の替わりに、これら愛のメッセンジャー達があなたに与えられたのです。
そして愛のメッセンジャー達は{世界の中に}出て行って、怖れの終わりを示し知らせるのです。

愛もまたあなたの前にご馳走を広げます。 清潔なシーツに覆われたテーブルが静かな庭園の中にあり、そこには歌と静かな喜びの囁きだけが聞え続けているのです。
これはあなたの聖なる関係を称える祝宴なのです。 そこでは全ての人々が大切なゲストとして迎えられています。
そして聖なる瞬間の中で全員が一緒にグレース(食前の感謝の祈り/恩寵)を言って、コミュニオン(霊的交歓)のテーブルの前で優しく繋がるのです。
そして私が約束している限り、そこで私もあなた達と繋がります。そして私はこれからも約束します。
何故ならあなた達の新しい関係の中で私が歓迎されており、「私が歓迎され迎え入れられている所」に私は居るのだから。


私は恩寵の状態の中で迎え入れられ歓迎されるのです。 恩寵(グレース)とは「あなたがやっと私を赦してくれた」という意味です。
何故なら私はあなたの罪のシンボル(象徴)に成っており、だから私はあなたの「代わり」に死ぬ必要があったのです。
エゴにとって罪は死を意味しており、だから{エゴにとっては}アトーンメント(贖罪/和解)は「殺人によって達成されるのです」。
救済は、神の子が「あなた」の代わりに殺されたこととして見られています。
しかし私があなたに私の「体」を捧げるでしょうか? 愛しているあなたに私が自分の「体」を与えるでしょうか? それ(体)が卑小なものだと知っていながら。
それとも私は「体がわたし達を隔てておくことは出来ない」と教えるでしょうか?
私の体はあなたの体より価値のあるものではなかったのです。
私の体は{あなた達の体同様に}救済のコミュニケーション手法(伝達方法)でしかなかったのです。
しかし体はその{救済の}源ではなかったのです。


他の人の代わりに死ねる人は誰も居ません。そして死は罪をアトーンしません(死は罪を償いません)。
しかしあなたは「生きて」死が「リアル」でないと示すことが出来るのです。
「あなたの望んでいるものを体があなたに与えることが出来る」とあなたが信じている限り、体は罪のシンボル(象徴)に見えます。
「体があなたに快楽(楽しみ)を与えられる」とあなたが信じている限り、「体はあなたに痛みを与えることが出来る」とあなたは信じ続けます。
「あなたがこんなに僅かなもので満足しハッピーになれる」と信じることは、あなた自身を傷付けることなのです。
それはあなたの幸福を限定し、あなたの貧しい貯蔵庫(蓄え)を痛みで満たして、あなたの生活を完成させる為に痛みを呼び込むことなのです。
これがエゴが見る完成なのです。
何故なら幸福が取り除かれた所に罪悪が入り込み、罪悪が幸福に取って代わっているのだから。
{何故なら(体に対する幻想の中で)幸福が取り除かれた所に罪悪が入り込み、罪悪が幸福に取って代わっているのだから。}

1 comment:

  1. 2012年12月17日頃に改訂を加えました

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