Sep 19, 2011

Ch19-8

Pleasure and Pain
快楽と苦痛


あなたの小さな役割は聖霊に犠牲のアイディアを全て手渡すことです。
そしてその代わりに聖霊が手渡す平和を受け取るのです。
平和の拡張(平和が広がること)を抑えようとする(それによって平和に対する「あなた」の意識を限定しようとする)限定を付けずに(「聖霊が手渡そうとしている平和」を「犠牲のアイディア」に代わるものとして)に受け取りなさい。
 
何故なら、もし「あなた」が「聖霊が与えるもの」の無限の力を得たいなら、そしてその力を神の子の解放に使いたいなら、「聖霊が与えるもの」は拡張される(限定されずに広がって行く)必要があるのだから。
あなたは「これ」(平和の拡張)を捨てようとするべきではありません。そしてこれを持っているあなたはこれを限定することは出来ないのです。
もし平和が宿無し(ホームレス)なら、あなたも同じなのです。そして私も同じ宿無しで、「わたし達の住家」である彼(聖霊/神)もわたし達と一緒に宿無しなのです(もし平和にあなたという住家が与えられていなかったなら)。


これ(平和の拡張を手放して宿無しに成ること)があなたの意志ですか?
あなたは平和を探して求めて永遠に歩き続ける彷徨い人になるつもりですか?
あなたは「失敗するに違いないこと」の中に自分の希望と平和と幸福を投じたいのですか?

永遠(永遠に不変なもの)への信心は常に正しいのです、何故なら永遠は永遠に優しく、その辛抱は無限で、完全な愛に溢れているのだから。
それはあなたの全体を受け入れ、あなたに平和を与えるのです。
しかしそれは(それ自身として不滅である)「あなたの中で既に平和であるもの」だけと合一する(一緒になる)ことが出来るのです。
体はあなたに平和も葛藤も(痛みも喜びも)与えることが出来ないのです。
体は方法/手法であって目的ではないのです。
体にはそれ自身の目的はなく、それに「与えられた」目的/役割だけがあるのです。
体は「(あなたが体に割り当てた)ゴールに到達する為の何らかの方法」として見えるのです。
(マインドによって設定されている)目的の達成方法を知ることが出来るのも、この達成方法の使用を正当化出来るのも、マインドだけなのです。
平和と罪悪は両方とも「達成された/達成されるべき」マインドのコンディション(状態)なのです。
そしてこれらのコンディション(マインド状態)が(平和や罪悪を呼び出す)感情の住家で、だから各コンディションはそれと(そのコンディションが呼び出している平和あるいは罪悪と)矛盾なく両立可能で仲が良いのです。
しかし、これら(平和と罪悪)のどちらが「あなた」と両立出来ているとあなたは考えるのでしょうか。
{これら(平和と罪悪)のどちらかが「あなた」と両立出来ているとあなたは考えるのです。}

ここにあなたの選択があり、これはフリー(自由)なのです。 {あなたはどちらでも好きな方を選ぶことが出来るのです}
そして(平和か罪悪かという)この選択の中にある全てのものが、この選択をしたあなたの下にやって来るのです。
そして「あなたが自分のことをどのような者だと考えるか」は、この選択から決して離れることが出来ないのです。 
{あなたが平和を選んだなら、あなたは自分のことを「平和な者/平和の中にある者」と考え、あなたが罪悪を選んだなら、あなたは自分のことを「罪悪の中にある者/罪悪を生きている者」と考えるのです。}


体は信心を裏切る力強い者に見えます。
その中に不信心の種と幻想が棲んでいるのです(という風に見えるのです)。
しかしそのように見えるのは、あなたが「体が与えることは出来ないもの」を体から求めた時だけなのです。
「あなた」の間違えが、あなたの陰鬱と幻想の正しい根拠に成り得るでしょうか?
「あなた」の間違えが「自分が失敗した」とあなたが考えていることに対する報復攻撃の正しい根拠に成り得るでしょうか?
あなたのエラーを「あなたの不信心を正当化するもの」として使うのは止めなさい。
あなたは罪は犯しておらず、あなたは「信心深いもの」に対してただ間違っていただけなのです。
そして「あなた」の間違いに対する修正が、信心の理由をあなたに与えるのです。


体を通して快楽/喜びを求めたなら、痛みを発見しないことは不可能です。
この関係(体の喜びと痛みの関係)を理解することが必須です。 何故ならエゴはこれを「罪が実在している証拠」と考えているから。
これは本当は懲罰ではないのです。 しかしこれは「あなた自身を体と同じものと考えること」(これが痛みを呼び込んでいるのです)の必然的結果なのです。
何故なら「あなた自身を体と同じものと考えること」が「怖れが入ってくること」を呼び込んでおり、「あなた自身を体と同じものと考え、それによって怖れを呼び込むこと」があなたの目的に成っているから。
これが全ての幻想の痛みを分け与えている(共有させている)のです。 そして快楽の幻想も痛みと同じなのです。 {体の快楽の幻想も、体の痛みと同じ構造で成り立っているのです。}


これは明白ではないですか?
怖れの命令により体は罪悪を求め、そのマスターに従い、体が罪悪に感じている魅力がマスター(怖れ)の存在の全幻想を保っているのです。
だからこれは苦痛の魅力(苦痛へ惹き付ける力)なのです。 このような知覚(そして認識)によって統治されている体は苦痛の召使に成っており、苦痛を忠実に求め、苦痛が喜びだというアイディアに従うのです。
{体は苦痛をもたらすもので、苦痛に忠実で、苦痛が喜びだという}このアイディアが体に対するエゴの重い全投資の根底にあるのです。
この狂気の関係がこれを(苦痛が喜びであるというアイディアを)隠していて、そしてこのアイディアからエネルギーを得ているのです。 これは{このアイディアは}「あなた」に「体の喜びが幸福なのだ」と教え、しかしそれ自身に対しては「これは死だ」と囁いているのです。


あなたにとって体にどのような価値があるのでしょうか?
体が特別価値の在るものから出来ている訳ではありません。
体自体には感情(フィーリング)もありません。
体は「あなたに」あなたが求めているフィーリングを発信しているのです。
他の通信媒体(伝達メディア)と同じように、体はそれ(体)に与えられているメッセージを受け取りそして発信しているのです。
体はメッセージに関するフィーリングは持ていません。
体に投資されている(与えられている)全てのフィーリングは、送り手と受け手によって体に与えられているものなのです。
エゴと聖霊の両方がこれを認識しています。
そしてエゴと聖霊の両方が「送り手と受け手が同じである」と理解しています。
聖霊は喜びと共にこれをあなたに「知らせ」ます。 
エゴはこれを「隠し」ます。 何故ならエゴはあなたにはこれに気付いて欲しくないのだから。


自分自身にそれ(憎しみと攻撃のメッセージ)を送っていることを理解したなら、誰が憎しみと攻撃のメッセージを送るでしょうか?
誰が自分自身を断罪し有罪にしようとするでしょうか?
「あなたの攻撃と罪悪のメッセージがあなた以外の人を苦しめる」という信念のもとに、エゴのメッセージは常にあなたから外側に送られているのです。
そして万一「あなた」が苦しんだとしても、他の誰かはあなたよりももっと苦しむという信念が持たれているのです。
偉大な詐欺師(エゴ)はこれが間違っていることを理解しています。 しかし平和の「敵」としてそれ(詐欺師/エゴ)は『あなたの憎しみのメッセージを全て外に送って「あなた自身」を自由(無罪)にしなさい』とあなたを即すのです。
そしてこれが可能だということをあなたに信じさせる為に、それ(詐欺師/エゴ)は体に命令して他者を攻撃させ苦痛を探させ、それ(苦痛)を快楽/楽しみと名付けて、それ(他者を攻撃すること)を攻撃からの避難としてあなたに捧げるのです。


この狂気を聞き入れるのは止めなさい。そしてこの不可能なことを真実だと信じるのは止めなさい。
エゴが体を「罪のゴール」に捧げていることを忘れないでください。 そして「それ(罪のゴール)が達成可能だ」という信心の全てをそこ(体)に与えているのです。
その惨めな信者達は体への賛歌を歌い続け、エゴの統治を厳粛に祝っているのです。
その惨めな信者達は罪悪の魅力(牽引力)に負けることが苦痛からの逃避だと信じる必要があるのです。
その惨めな信者達は体を自分自身として考え、それがなくては自分は死んでしまうと考え、しかし体の中で自分の死が確実であると考える必要があるのです。


エゴの信者達には「彼等が自分達自身を死に捧げていること」を理解することは許されていないのです。
これは彼等に捧げられたのですが(この情報は彼等に与えられているのですが)、彼等はこれを受け取っていません。
捧げられたものが本当に与えられる為には、それが受け取られる必要があるのです。
何故なら聖霊もまた通信媒体(伝達メディア)で、父から受け取って、父のメッセージを子に捧げて(与えて)いるのだから。
エゴと同様に、聖霊もまた送り手であり受け手なのです。
彼(聖霊)を通して送られたものが彼(聖霊)に返されるのです。 (聖霊は、メッセージとして送られている)途中でそれ自身を探して、探しているもの(それ自身/つまり愛)を発見するのです。
それと 同様にエゴも自分が探している死を見つけて「あなた」に死を返すのです。

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