Jan 25, 2012

Ch27-05

The Quiet Answer
静かな答え

静けさの中で全てに対する答えが与えられており、全ての問題が静かに解決されているのです。
対立/闘争の中には答えも解決もありません。
何故なら、対立/闘争の目的は「解決を不可能にして明確な答えが表れないようにすること」だから。
対立/闘争の中に設立されている問題には答えが無いのです。 何故なら、それは異なる複数の視点から見られているから。 そして{対立の中では}一つの視点から答えに見えているものが他の視点からは答えに見えないのです。

あなた達は対立/闘争の中に居ます。 
それ故にあなた達には何も答えることが出来ないのです。何故なら、対立/闘争の効果には限りがないから。
しかし神が答えを与えたのであれば、あなた達の問題が解決出来る方法があるに違いないのです。 何故なら、神の意志はすでに行なわれているのだから。
だから「時間は関係ない(時間は関与していない)」に違いなく、全ての問題にいま答えること(全ての問題がいま解決されること)が可能なのです。
しかしあなた達の現在のマインド状態では解決は不可能であることも確かなのです。
だから神は「(その中に既に答えが存在している)別のマインド状態」に届く為の方法をあなたに与えているに違いないのです。
あなたはここ(その中に既に答えが存在しているマインド状態)に全ての問題を持ち込んで留め置く必要があるのです。
あなたの問題はここに留め置かれるべきなのです。 何故なら、問題に対する答えがここにあるのだから。
そして答えが存在している所では、問題はシンプルで簡単に解決出来るに違いないのです。
「答えが在り得ない場所」で問題を解決しようとすることは無意味です。
しかし答えの存在している場所に問題が持って来られたなら、それは確実に解決されるに違いないのです。

聖なる瞬間の確実性の中だけで全ての問題を解決しようと試みなさい。
何故なら、聖なる瞬間の中で問題への答えが与えられ、問題が解決されるのだから。
外側{聖なる瞬間の外側}には解決はありません。 何故なら、外側には見つけられる答えが存在していないから。

外側では一つのシンプルな質問が決して発せられていないのです。
(数多くの答えを持った、しかしそのどれも根源的解決をもたらさない)二重の質問を問うことしか世界には出来ないのです。
世界は答えを得るために質問しているのではなく、それ自身の視点を主張する為に質問を発しているのです。
この世界の中で尋ねることが可能な全ての質問は、一つの見方(視点)にしか過ぎず、それは本当の意味での質問ではないのです。
憎しみの中で発せられた質問はそれ自体が一つの答え(主張)なので、それに答えることは不可能なのです。
二重の質問は、質問すると同時に答えを与えており、その質問と答えは同じことを違う形で主張しているのです。 

世界は一つの質問だけを尋ねているのです。
それは「これら数々の幻想の中でどれが本当なのだろう? どの幻想が平和を設立し喜びを与えられるのだろう? どの幻想を信じれば、この世界を構成している全ての痛みから逃れることが出来るのだろう?」です。
この質問がどのような形で発せられたにしろ、その目的は全て同じです。
この質問は「罪がリアルであると設立しよう」と求めているだけで、「どちらをより好むか」という形で(この求めに)答えているのです。

「どの罪をあなたは(他の罪よりも)好みますか? あなたが好む罪を選びなさい。他のことは真実ではないのです。体に提供出来るもので、あなたが一番求めているのは何でしょうか?体はあなたの召使でありあなたの友達です。だからあなたが何を求めているか体に告げなさい。そうすれば体は愛を持って忠実にあなたの命令を遂行するでしょう。」{とこの質問は言っているのです。}

そしてこれは質問ではないのです。 何故なら、これは「自分が何を求めているか、そして何処でこれが得られるか」述べていることなのだから。
そこには、この信念に疑念を挟む余地は残されておらず、質問の形で宣言がなされているだけなのです。

このような擬似的質問(質問もどき)に対する答えは存在していません。
これは質問しながら{それ自身の}答えを宣言しているのです。
このようにして世界の中の全ての質問がそれ自身の為のプロパガンダ(主張)に成っているのです。
ちょうど体の証言がその内からの感覚に過ぎないように、世界の質問に対する答えも質問の中にすでに内包されているものなのです。
答えが質問を代表/表明している場合、その質問は何も新しいものはもたらさず、新しいことは何も学ばれません。
正直な質問こそが「自分で知っていない何か」について尋ねる為の学習ツールなのです。
それは特定の反応を引き出す(正当化する)為の条件は設定せず、どのような反応が必要とされているか尋ねるだけなのです。
そして闘争/対立/矛盾した状態に在る人は、この質問をすることが出来ないのです。
何故なら、そのような人は(闘争/矛盾/対立に終わりをもたらす)正直な答えは求めていないのだから。

聖なる瞬間の中でだけ正直な質問を真摯に発することが可能なのです。
そして質問の意味(意図)から「答えの意味深さ」がやって来るのです。
ここ(聖なる瞬間の中)において「答え」から「あなたの願い」を取り除き、答えをあなたに与えると同時に{あなたから答えを}受け取ることが可能なのです。
答えは全ての所に与えられています。 しかしここ(聖なる瞬間の中)でだけ答えを聞くことが可能なのです。
正直な答えは犠牲を求めません。何故なら、それは本当に真摯に尋ねられた質問に対する答えなのだから。
世界の質問は「誰からの犠牲が求められているか?」とだけ尋ねており、「犠牲に意味があるのか?」とは尋ねていないのです。
だから答えが「誰から{の犠牲がもとめられているか}」が示さない限り、その答えは認識されず聞かれず、そのようにして質問が保持され続けてしまうのです。 何故なら、この質問(「誰からの犠牲が求められているのか」という世界の質問)はそれ自身に対して(自分が前もって用意している)答えを与えているだけなのだから。

聖なる瞬間とは「質問の中に埋め込まれていない答え」を聞けるだけマインドが静かに成っている期間のことなのです。 それは質問とは異なった新しい何かを与えるのです。
質問がそれ自身の主張を繰り返すだけならば、それは答えでは在り得ないのです。
だから「答えが立ち入り禁止になっている世界」の中で問題を解決しようとするのは止めなさい。
そうではなく、愛と共にあなた達の為に答えを捧げ持っている唯一の場所に問題を持って行きなさい。
ここにあなた達の問題を解決する答えがあるのです。何故なら、この答え(静寂)は問題(対立/喧騒)からは離れて立っており、「何に答えることが可能か、そして何が質問なのか」解っているのだから。
世界の中では、答えは質問には答えず、単に別の質問を引き出すだけなのです。
聖なる瞬間の中で、あなたは質問を答えの下に持って行き、あなたの為に作られている答えを受け取ることが出来るのです。

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