Jan 27, 2012

Ch27-7

The Purpose of Pain
痛みの目的

痛みは「体がリアルであるに違いない」とデモンストレーションしているのです。
それは覆い尽くす大声で、聖霊が言っていることをかき消してしまう(聖霊の言葉をあなたの意識から外してしまう)叫び声なのです。
痛みは注意を引き付け、注意を彼(聖霊)から引き離し、それ自身に焦点を与えようとするのです。
痛みの目的は快楽の目的と同じです。 何故なら、それらは両方とも「体をリアルにしようとする」方法なのだから。
そして「共通の目的を有しているもの」は同じなのです。
これ(共通の目的を有しているものは同じ)が「目的の法則」なのです。
この法則が「目的の中で自分達を分け合っている者全員」を連帯させるのです。

快楽と痛みは同様にリアルではないのです。何故なら、それらの目的は達成不可能なのだから。
だから快楽と痛みは意味の無いゴールを持っている虚無への方法なのです。
そして快楽と痛みは、その目的同様に、意味の欠如を共有しているのです。

罪は痛みから快楽へとシフトして、その後また痛みへと戻って行きます。
何故なら罪と痛み両方の証人は同一のもので、それは「あなたはこの体の中のここに居る。そしてあなたは痛みを感じることが可能だ。あなたは快楽を得ることも出来るが、痛みの代償を払った場合にのみそれが可能だ。」という一つのメッセージだけを運んでいるのだから。
これらの証人には多くの仲間が居ます。これらの証人はそれぞれ別の「名前」をもっており、だから異なる「音」に答えているように見え、それ故に異なっているように見えています。
しかしそれ以外には{異なる名前に答えているように見えていること以外には}、罪の証人は全て同じなのです。
快楽を痛みと呼んだなら、それは痛みをもたらします。
痛みを快楽と呼んだなら、快楽の後ろにある痛みはもう感じられなくなります。
罪の証人は名前から名前にシフトして一歩進んでは後退しているだけなのです。
しかし何が一番前に現れていても、それは違いをもたらしません。
罪の証人は死の呼び声だけを聞いているのです。

(本来それ自身の中には目的を持っていない)この体があなたの全ての記憶と希望を保持しています。
あなたはその目を使って見て、その耳を使って聞き、体が感じていることをあなたが感じていることとして受け入れています。
しかし「それ(体)は知っていないのです。」{体はそれ自身では何も知覚しておらず何も解らないのです。}
「あなた」がリアリティへの証人として体を呼び出している時、体は「体が使うようにあなたが与えたそれぞれの名前」をあなたに言うだけなのです。
それら(それぞれの名前)の中からどれがリアルかあなたは選べないのです。 何故なら、あなたの選ぶものはどれでも(あなたが選ばなかった)他と一緒なのだから。
この名前かあの名前か、しかしあなたが選んでいるのは名前以上のものではないのです。
あなたが証人を真実の名前(正し名前)で呼ぶことによって、その証人(証言)が真になる訳ではありません。
その証人が真理を現していた場合にのみ、その証人から真理が得られるのです。
そうでなければ(その証人が真理を現していないなら)、あなたがその証人を神自身の聖なる名前で呼んだとしても、その証人はウソをついているのです。

神の証人は「体に懲罰を与えようとする(体を有罪にしようとする)証人/証言」を全く見ません。
神の証人が(そのリアリティを「他の」方法で話す)他の名前の証人を聞くこともありません。
彼(神の証人)はそれ(体に対する有罪の証言)がリアルでないと知っています。
何故なら「体がその中に持っているとあなたが信じているもの」を内蔵出来るものは存在していないから。
そして体が神自身の一部に対して「体が何を感じるべきか、体の機能がどうあるべきか」告げる(命令する)ことも不可能です。
しかし彼(聖霊)は「あなた」が大切にしているもの/ことを愛するのです。
そして体の死に対するそれぞれの証人に対して彼(聖霊)は「死を知らない者の中に居るあなたの生命の証人/証言」を送るのです。
彼(聖霊)が持って来るそれぞれの奇跡は、体がリアルではないという証言なのです。
体の痛みと快楽を彼(聖霊)は同じように癒やして行きます。 何故なら彼(聖霊)は罪の全ての証人/証言を置き換える(取り除く)のだから。

奇跡は「罪の証人が呼び出される名前」に区別をつけません。
奇跡はただ単に「彼等(罪の証人達)が表明(証言)していることには効果/影響がない」と証明するだけなのです。
奇跡は、{奇跡の}その効果/影響が体の地位(ポジション)に取って代わることによってこれを証明するのです。 {罪の証人達が証言していることには効果がないことを証明するのです。}
あなたの苦しみをあなたがどのような名前で呼んでいても、それはどうでもよいのです。
あなたの苦しみはもうそこには存在していないのです。
「奇跡をもたらす者」は全ての苦しみを「ひとつのもの」として知覚し、それを「怖れ」という名前で呼ぶのです。
怖れが死を証言するものであるように、奇跡は命を証言するものなのです。
奇跡の証言を否定出来る者は誰も居ません。 何故なら奇跡の証言は生命の効果/結果なのだから。
そして死の床にあった者が息を吹き返し、死者が生き返り、痛みが消え去ったのです。
しかし奇跡はそれ自身の為に話すのではなく、「奇跡が象徴しているもの」の為に話すのです。
愛も罪の世界の中でシンボルを持っています。
奇跡が赦すのは、奇跡が「奇跡を越えているもの」を象徴しており、そして奇跡が真であるからです。

『「奇跡によって解除される為だけにやって来ている法則」によって奇跡が縛られている』と考えるのは愚かな狂気です。
罪の法則は異なる力を持った異なる証人達を持っています。
そしてこれら罪の証人達は異なる苦しみを証言するのです。
「世界を祝福するよう奇跡を送り出している者」にとって小さな痛み攻撃や世界の卑俗な快楽や死そのものの玉座は一つの音にしか過ぎません: それらは癒やしを求める呼び声であり、惨めな世界中から助けを求める被告人のうめき声なのです。

それらが全て同じである様子を奇跡は証言するのです。
それらが同じであることを奇跡は証明するのです。
それら{快楽/痛み/罪悪}を「異なるもの」と呼んでいる法則が解除され、その無力が示されるのです。
奇跡の目的はこれを達成することなのです。
そして神自身が(奇跡が証言する)奇跡の力を保障しているのです。

(罪の法の証人ではなく)奇跡に対する証人に成りなさい。
もうこれ以上苦しみ続ける必要はありません。
しかしあなたは癒やされる必要があるのです。 何故なら世界の苦しみによって、救済と救出が世界に聞えなくなってしまっているから。
世界の復活/再生が「あなた」の癒やしと幸福を待っています。あなたが世界の癒やしをデモンストレート出来るように成ることを世界が待っています。
あなたが聖なる瞬間の効果を自分と一緒に運んでいったなら、聖なる瞬間が全ての罪を置き換え(取り除き)ます。
そうなれば、もう誰も苦しむことを選ばなくなるのです。
これ以上の役割をあなたが果たすことが出来るでしょうか?
あなたが癒やせるようになる為にあなたが癒やされなさい。そして「あなた」に{罪を}適用しようとして罪の法則を自ら被る(受け入れる)のは止めなさい。
そうすれば「(愛のシンボルが罪に取って替わることを選択している)あなた」に真理が示されます。

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