Jan 22, 2012

Ch27-2

The Picture of the Crucifixion
磔(はりつけ)の絵

あなたが「痛みを受けること/不正に扱われること/貧困に面すること/何らかの不足を体験すること」に同意している時、あなたは「自分の兄弟姉妹が神の子を攻撃した」と誹謗しているのです。
あなたは彼(兄弟姉妹)の目の前に自分の磔の絵を掲げて、彼(兄弟姉妹)の罪があなたの死と血でもって天国の上に書かれていること(そして天国の門が彼に対して閉ざされており、彼が地獄に落ちることを宣告されていること)を彼に見せようとしているのです。
しかしこの絵は(その中であなた達が攻撃を越えており彼の無垢が証明されている)天国の中ではなく、地獄の中で書かれているのです。
彼に見せているあなた自身の絵をあなたは「あなた自身」に見せ、その絵に対してあなた自身の信心の全てを与えているのです。
しかし聖霊は「全く痛みと避難の無いあなた自身の絵」をあなたに与え、あなたがそれ(痛みの無いあなた自身の絵)を彼(兄弟姉妹)に与えられるようにします。
こうして「彼(兄弟姉妹)の罪悪が起こした殉教」が「彼(兄弟姉妹)の無垢のパーフェクトな証人/証言」に変るのです。

証人/証言の力は信念を超えています。 何故なら目撃/証言が起こった時、それが確信をもたらすのだから。
目撃者が信じられるのは、目撃者が自分自身を越えて「彼(目撃者)が象徴しているもの」を指し示すからです。
病んで苦しんでいるあなたは、あなたの兄弟姉妹の罪悪を象徴しているのです。
{あなたが苦しんでいることは}彼があなたに与えた傷を忘れないようにあなたが{あなた自身と兄弟姉妹に対して}送り出している証人なのです。彼はその報いを決して逃れられないとあなたは誓っているのです。
この悲惨な病気の絵が彼を懲罰出来る限りにおいて「あなた」はそれ(悲惨な病気の絵)を受け入れています。
病者は全ての人達に対して容赦なく、伝染を持って殺すことを求めます。{そのような絵が提示されています。}
病者達が「兄弟よ、私を見てみなさい。 あなたの手に掛かって私は死ぬのです。」と言えたなら、死は安い代価に見えます。
何故なら、病者は{その病者を助けられなかった}彼の罪悪の証人で、死が「彼の間違いが罪であるに違いない{彼の間違いは取り消せない}こと」を証明するのです。

病は小さな死なのです。 それはまだ完結していない復讐の形なのです。
病気が何を象徴しているか、それは明確に語られています。
あなたが兄弟姉妹に送った悲惨な絵を「あなた」は悼みながら見ています。
その絵が彼に見せている全ての仔細があなたを信じさせている(あなたを騙している)のです。 何故ならそれ(病)が彼の罪悪を証言しており、あなたはそれ(彼の罪悪に対する証言)を知覚し、それを愛しているのだから。

しかし彼が触れて優しくなった手の中で聖霊は「違う」あなたの絵を提示します。
それは依然として体の絵です。 何故なら「本当のあなたであるもの」は見られることは出来ず、描かれることも出来ないのだから。
しかしこの体の絵{本当のあなたを象徴している体}が攻撃の目的で使われたことはありませんでした。 だから、これが痛みを被ったことは全く無いのです。
これ(違うあなたの絵)は「あなたが痛められることは決して無いという永遠の真理」を証言し、それ自身(体の絵)を越えて「あなた」と「彼」の両方の無垢を指し示すのです。
「これ」をあなたの兄弟(姉妹)に見せなさい。 そうすれば笑いと愛の中で全ての傷が癒やされ、全ての涙が拭かれていることを彼(兄弟姉妹)は見るのです。
彼はそこに自分の赦しを見て、癒やされた目でその「先」を見て、あなたの中に無垢を見つけるのです。
彼が決して罪を犯していないことの証明がここにあります。
「彼が行なったと彼の狂気が言い立てていること」は全く行なわれておらず、それはどの様な効果も持っていないのです。
彼が自分のハートの上に投げ掛けた呵責はどの時点でも正当ではなく、怖れの毒槍で彼に触れることが出来る攻撃は存在していないのです。
彼の罪悪ではなく、彼の無垢を証言しなさい。
「あなた」の癒やしが彼の安楽であり健康なのです。何故なら、あなたの癒やしが「幻想は真理ではなかった」と証明しているのだから。

この世界の動機は、命への意志ではなく、死への願いなのです。
その唯一の目的は「罪悪がリアルだと証明すること」なのです。
現世的なこの世の思考や行動やフィーリングは、それ以外の動機は持っていないのです。
それら{この世の中で思考や行動しフィーリングを持っているように見えている夫々の体}は「それらが表現し象徴しているシステム」への確信を確実にする為に呼び出され信じられている証人なのです。
それらはそれぞれに沢山の声を持っており、あなたや兄弟姉妹に異なる声で話しかけるのです。
しかしそれらのメッセージは全て同じです。
体を賞賛することは、罪悪の証人がどれだけ愛らしいか(どれだけ信頼に値するか)示そうとすることなのです。
体に関して思い悩むことは、あなたの生命がどれだけ脆弱で傷付き易いかデモンストレートしているのです。 「あなたが愛しているものは何と容易に壊されてしまうのでしょう。」 陰鬱が死や様々な不安を言い立てるのです。

(罪が妥当だという絵を描いている)無益な努力の一番の証人はあらゆる形の病です。
病者達はそれぞれに自分達の不自然な病気や奇妙な必要の理由を持っています。
短くはかない命を生きていて、去り行く喜びを高く評価しない人がいるでしょうか?
そこに永続するどのような喜びが在り得るのでしょうか?

か弱い者達は盗み出された全ての喜びの欠片が彼等の卑小な生活に対する正当な支払いであると信じる権利を有しては居ないのでしょうか? (彼等が命をエンジョイしたにしろ、しなかったにしろ)死が彼等の喜びを贖うのです。どのようにして人生が過ごされたにしろ、命の終わりは必然なのです。だから急速に去り行くはかないことの中に喜びを見いだしなさい。{という見方/主張が罪の絵の中でなされています。}

しかし罪は実存しておらず、「罪と死がリアルだ、そして無垢と罪は同じようにお墓に収まって終る」という強い信念への証言が在るだけなのです。
もしこれ(「罪がリアル」)が本当なら、去り行く喜びを求めて満足し続け、ささやかな楽しみ大切にすることが妥当でしょう。
この絵の中で体は「ニュートラルなもの(効果/影響を持っていないもの)」として知覚されておらず、体はそれ自身の根源的ゴールを持っているものとして知覚されています。 何故なら体が懲罰のシンボルに成っており、(まだその結果が見えており故に原因が否定出来なくなっている)罪悪のサインに成っているのだから。
あなたの役目は「罪悪には原因は持てない/罪悪に原因はない」と彼(兄弟姉妹)に証明することなのです。
「あなたの役目は決して成就出来ない」という証明の絵の中に自分を見ようとすることは何と無益なことでしょう。

聖霊の絵が体を「体でないもの」に変える訳ではありません。
聖霊は体から全ての叱責と呵責の印を取り除くのです。
体が{エゴの}目的無くして描かれ見られたなら、それは病んでいるとも健康だとも見られません。悪いとも良いとも見られません。
体を評価する基準が全く与えられなくなるのです。
体には命はなく、しかし体が死んでいる訳でもありません。

体は全ての怖れや愛の体験から離れて立っています。
何故なら(体に分離の目的が与えられていない)今、体はまだ何も証言していないから。体の目的はオープンで、マインドが自由に成っており「体が何の為に存在しているか」選び直すことが出来るのです。
すると体は、断罪されたものではなく、(受け取った役割を満たすために)目的が与えられることを待っているものに成ります。
罪のゴールが取り除かれているこの空のスペース内で(ニュートラルな体の中で)天国が自由に思い出されるのです。 ここの中に天国の平和が入って来て、死をパーフェクトな癒しで置き換えることが出来るのです。 体が命の象徴に成ることが出来るのです。贖いの約束に、(死の臭い匂いを嗅ぎ込むことに忌み疲れている者達に与えられる)不滅の息吹に成ることが出来るのです。

体が癒やしをその目的として持つことを許しなさい。
そうすれば体はそれが受け取ったメッセージを発生するようになります。
その健康と愛らしさが、体が象徴している真理と価値を主張するようになります。
(決して攻撃されることのない)永遠の命を表明する力を体に受け取らせなさい。
そして「兄弟よ、私を見なさい。あなたの手によって私は生きています」 "Behold me, brother, at your hand I live." というメッセージを体があなたの兄弟に贈れるようにしなさい。

これを達成するシンプルな方法は:(罪悪を湧き上がらせることがその目的だと解っている時)過去からの目的を全く体に持たせないことです。
何故なら「傷付いたあなたの絵」が過去からの目的の正当性を言い立てているのだから。
これが「異なる視点/別の目的」が入る余裕を奪っているのです。
あなたは異なる視点からの目的を知っていません。あなたは「あなたの役割をあなた自身から隠すためにあなたが作ったもの」に対して幻想の目的を与えたのです。
目的を持ていないこのもの(ニュートラルな体)が、聖霊が与えた役割/機能を隠すことは出来ません。
だから聖霊の目的と「あなた」の役割を今統合して(仲直りさせて)、それを一つのものとして見なさい。

2 comments:

  1. 文章を一つ書き直しました。

    下記が書き直された後の文章です。


    "この絵の中で体は「ニュートラルなもの(効果/影響を持っていないもの)」として知覚されておらず、体はそれ自身の根源的ゴールを持っているものとして知覚されています。"

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  2. 細かい修正を全体に加えました。

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