Apr 30, 2013

Ch29-03

God's Witnesses

神の証人


あなたの救済者が自分自身のことを体だと考えていたとしても、彼{あなたの救済者/あなたの兄弟}を断罪するのは止めなさい。

「彼の夢」の遥か遠くに「彼のリアリティ」が在るのだから。

しかし自分が何か彼が思い出す前に、彼は自分が救済者であることを学ぶ必要があるのです。

そして彼は、救われるべき者を救わなくてはいけないのです。

あなたを救うことに彼の幸福が掛かっているのです。

救済を与える者が救済者なのだから。

だから彼は『それ(救済)は自分が{他者に}与えられることの出来る「自分のもの」である』と学ぶ必要があるのです。

彼が{救済を}与えない限り、彼は自分がそれを持っていることに気付かないのです。

何故なら、「与えること」が「持っていること」の証明なのだから。

このことが真実であると理解出来ないのは「自分達の力によって神を減らすことが出来ると考えている者達」だけなのです。

誰が「自分で持っていないものを与えられる」と言うのでしょうか?

誰が『「与えることによって増えるに違いないもの」を与えたならそれ(与えることによって増えるもの)を失ってしまう』と言うのでしょうか?



「父があなたを作った(創造した)時、父はあなたを失った」とあなたは考えるのですか?

父がその愛を分け与えた{あなた達と共有した}ことで、父はより弱くなったのでしょうか?

あなたの完璧性によって父は不完全にされたのでしょうか?

それともあなたは「父がパーフェクトで十全であることの証」なのでしょうか?

 
『彼が「彼の子のリアリティ」以上に好んでいる夢』の中で、彼の証人を彼に対して否定するのは止めなさい。

「彼が作った夢」から彼が開放される為に、彼自身が『「彼が作った夢」から救出する救出者』成る必要があるのです。

彼は『「(自分達が生きていると知ってはいない)全ての生きているもの」を{お互いから}隔てておく為に世界が作り上げた壁』を外して、誰か他の人を(体としてではなく)「自分と一つの者」として見る必要があるのです。

 

「体と死の夢の中」では、これはまだ「真理の一テーマ(一仮説)」に過ぎず、もしかしたら、これはまだ「小さな輝き、暗闇の中で作られた光りのスペース」でしかないのです。

あなたがあなた自身を揺り起こして目覚めさせることは出来ません。

しかしあなたは「あなた自身が目覚めるさせられること」を許可することが出来るのです。

 

 
あなたは「あなたの兄弟の夢」を無視して見越すことが出来るのです。

あなたは彼の幻想をとてもパーフェクトに赦すことが出来るので、すると彼が「あなた達の色々な夢」の救済者に成るのです。

そして「神が住まう光のスペース内で彼が輝いていること」をあなたが見た時、「彼の体が居る所に神自身が居ること」をあなたは見るのです。

この光りの前で体が消えるのです。 何故なら、重い影は光の前に譲るしかないのだから。

{その時}暗闇が居残ることを選ぶことは出来ません。

光りが来たということは、暗闇が消え去ったことを意味しているのです。

するとあなたはあなたの兄弟の栄光を見て、何が「とても長いことあなた達を分け隔てていたギャップ」を本当に満たすのか理解するのです。

そこで、その場所で、神の証人が「神の子への親切で優しい道」を打ち立てているのです。

「あなたが赦した者」が「あなたの幻想をあなたから赦す(解き放つ)力」を与えられているのです。

あなたが与えた自由のギフトによって、それが「あなた」に与えられているのです。

「あなたが創造しなかった(しかしあなたが拡張し差し伸べることの出来る)愛」の為に道を空けなさい。

 

地球上ではこれが「(あなた達のマインドから暗闇が取り除かれるように)あなたの兄弟を赦す」という意味なのです。

あなたの赦しを通って光りが彼の元に来た時、「彼が自分の救済者を忘れて、彼(救済者)を救われないままにすること」はありません。

何故なら、彼が暗闇を通り抜けて永遠の光りに歩み出ようとする時、彼は「あなたの顔」の中に光りを見て、その光りを自分の元に保とうとするのだから。

 

荒涼と悲劇の夢の真っ只中で神の子があなたの救済者に成れるとは、あなたは何と神聖なのでしょう。

何と熱心に彼はやって来るのでしょうか。 そして「彼を隠していた重い影」から歩み抜け、あなたに向かって感謝と愛を輝き掛けるのです。

彼は彼自身なのですが、彼は孤独(一人きり)ではないのです。

そして彼の父は父自身のどの分部をも「あなたの創造の中」に失ってはいないのです。

だから彼の中の光は未だに明るく輝いているのです。 何故なら、彼を暗闇から助ける為に、あなたがあなたの光りを彼に与えたのだから。

 
そして今あなたの中の光りは、その光りが彼を照らしていると同じだけ明るいに違いないのです。

これが夢の中で輝く閃光(スパーク)なのです。

{このスパークは}あなたが彼の目覚めを助けることが出来るということ、そして彼の目覚めつつある目がまず第一にあなたを見て、彼の喜ばしい救済の中で「あなた達」が救済されるということなのです。

Apr 28, 2013

Ch29-02

The Coming Of The Guest

ゲストの到来
 

何故あなたは、「あなた達が自由であると学ぶこと」を解放として知覚しようとしないのでしょうか?

何故あなたは、それ{自分達が自由であると学ぶこと}を敵として見ようとする替わりに、真理を認めようとしないのでしょうか?

何故「(道に迷うことが不可能な程明確に表示されている)簡単な道」が、あなたにはこれ程険しく難しいように見えているのでしょうか。

 

それはあなたがこれを「どのような犠牲も伴わず神と天国の中にあなた自身を見つける道」と見るのではなく、これを地獄への道と見ているからではないでしょうか?

{聖霊の勧める道を進んでも}自分は何もギブアップしていない(自分は何も失っていない)と気付くまで、損失が在り得ないことを理解するまで、あなたは「あなたが選んだ道」を悔むのです。

そうするまで「あなたの選択{自由の選択}がもたらしている多くの利益」があなたには見ないのです。

 

あなたはそれら(あなたの多くの利益)を見ないけれども、それでもそれらはそこに在るのです。

それらの原因は既に確定(導入)されており、「それらの原因が入って来た所」にはそれらが在るに違いないのです。

あなたが癒やしの原因を受け入れたので、あなたは癒やされるに違いないのです。

そしてあなたは癒やされたので、癒す力も今あなたのものであるに違いないのです。

奇跡は、原因無しで急に起こる結果のような「切り離された事柄」ではないのです。

そして奇跡それ自体が原因でもないのです。

しかし奇跡の原因が在る所に、奇跡も在るに違いないのです。

今奇跡が起こされたのですが、まだ知覚されてはいないのです。

そして奇跡の影響/結果がそこに{あなたの目の前に}在るのですが、それはまだ見られていないのです。

今内側を見つめなさい。するとあなたは後悔の理由は見つけず、平和の願いと喜びの原因を見つけるのです。

 

戦場の中で平和の希望を探す試みは不毛だったのです。

「罪と痛みを保つ役割を果す為に作られているもの」に「罪と痛みからの解放」を要求することは不毛だったのです。

何故なら、憎しみと怖れが一つの幻想であると同様に、攻撃と罪悪が一つの幻想であると同様に、罪と痛みも一つの幻想なのだから。

「それら(幻想)が原因を持っていない場所」ではそれらの効果は消え去っており、それらが存在していない場所へ愛がやって来るに違いないのです。

 

何故あなたは喜んでいないのでしょうか?

あなたは「痛みと病、惨めさと損失、そして憎しみと攻撃の全ての効果」から自由なのです。

もう痛みがあなたの友ではなく、罪悪があなたの神でもなく、あなたは愛の効果(結果)を歓迎するべきなのです。

 

あなたのゲストがやって来たのです。

あなたが彼を求め、彼が来たのです。

あなたは彼が入って来た音を聞きませんでした。

何故なら、あなたは彼を完全に歓迎してはいないから。

しかし彼のギフトが彼と共に来ているのです。

彼はそれらのギフトをあなたの足元に置いたのです。

そしてあなたがそれらのギフトを見て、それらをあなた自身のものとして受け取るように、彼はあなたに求めるのです。

 

それらのギフトを「自分達が分離しており孤独だと信じている者達全員、離れて歩いている者達全員」に与える為に、彼はあなたの助けを必要としています。

あなたがあなたのギフト(あなたに与えられているギフト)を受け入れた時、彼等が癒やされるのです。 何故なら、あなたのゲストは「あなたが立っている(そしてあなたのゲストが彼等の為に持って来たギフトが置かれている)聖地に足を踏み入れている者達全員」を歓迎するのだから。

 

「あなたが受け取った全てのもの故に、今あなたが与えることの出来るものがどれだけあるか」あなたは見ていない(知らない)のです。

しかし{あなたの関係の中に}入って来た彼は『「あなたが彼を招待した場所」にあなた達がやって来ること』を待っているのです。

彼(あなたのゲスト)が自分のホスト(あなた)を見つけることの出来る場所は、そして彼のホストが彼と出会える場所は、ここ以外に無いのです。

彼の平和と喜びのギフトと彼の出現がもたらす全ての幸福が得られる場所は他にはないのです。

何故なら、それらのもの(平和/喜び/幸福)は「それらをあなたに与える為に持って来た彼(あなたのゲスト)」が居る場所に在るのだから。

あなたは自分のゲストを見ることは出来ません。 しかし彼(あなたのゲスト)が持って来たギフトをあなたは見ることが出来るのです。

そしてあなたがそれらを「見た」時、彼の存在(出現)がそこに在るに違いないとあなたは信じるのです。

何故なら、今あなた達に出来ること(今あなた達がしていること)は「彼の存在(出現)が保っている恩寵と愛が無ければ」することが出来ないのだから。

 

生きている神の約束はこのようなものなのです。

神の子が生命を持っており、生きている全てのものが彼(神の子)の一部で、神の子以外に生命を持っているものは何も無いのです。

 

「{自分は神から分離した独立存在であると考えている}あなたが生命を与えたもの」は生きていません。 

それは{神から離れてあなたが行なっている創造は}「生命から離れて居たい、死(分離)を生命と知覚して死の中で生きたい、そして生命を死として知覚したい」というあなた達の願いを象徴しているだけなのです。

ここでは混乱が更なる混乱を引き起こしているのです。

何故なら、この世界は混乱の上に作られており、この世界は混乱以外のものには依存していないのだから。

この世界は常に変化しているように見えていますが、この世界の基盤は変わっていません。

しかし(この世界の基盤の安定は)その混乱状態を示しているだけなのです。

混乱している者達にとって安定は無意味なのです。

そしてシフトと変化が「生命/人生を予測する為の彼等の法{彼等を統治している法則}」に成っているのです。


体は変化しません。

それ(体)は「変化が可能だというより大きな夢」を象徴しているのです。

変わるということは「あなた自身が今まで居た状況とは違う状況」を得ることです。

不滅(永遠)の中には変化が無く、天国はそれ(変化)を知りません。

 

しかしこの地球上では、体には二重の目的があるのです。

何故なら、体を使って正反対の二つのことを教えることが可能だから。

そしてそれら(目的)は「それら(目的)を教えている教師達」を反映しているのです。

体は時間と共に(病/健康や体の上に訪れる出来事によって)変化しているように見えます。

しかしこれは『「何が体の目的なのか決めている信念」に関してマインドが変わっていなかったこと』を意味しているだけなのです。

 

病気とは『体を「体本来の在り方とは違うもの」にしようとする要求』なのです。

体が無(空)であることが、体が病気に成れないことを確約しています。

でも「体がこれ(無)以上に成ること」をあなたが要求していることに、病のアイディアが在るのです。

何故なら、それは神を神の全リアリティ以下にしようと求めることなのだから。

であれば、「あなた」はどう成るのでしょうか? {あなたのこの願いの中では}あなたが犠牲に成ることが求められているのだから。

 

「彼(神)の一部がもう彼(神)のものではない」と彼(神)に告げられているので、

彼(神)はあなた自身を犠牲にしなくてはならず、彼の犠牲(神があなたを失うこと)によって「あなた」がより多くなるのです。 そしてあなたを失うことで彼(神)がより少なくなるのです。

そして「彼(神)から消え去ったもの」があなたの神に成り、{この新しいあなたの神が}あなたを守り「あなたが彼(神)の一部に成ること」を阻止するのです。


「神{源}に成ることを求められている体」は攻撃されるのです。 

何故ならその場合、体の無な状態(空っぽな状態)が認識されていないのだから。

だから体が「それ自体の中に力をもっている物」に見えるのです。

「物として体が感じ行動している、あなたが体の中に保たれており、その囚人として体に閉じ込められている」と知覚し考えることが可能なのです。

 

そして体は「あなたが体に要求しているもの」に成ることに失敗することがあるのです。

あなたはその卑小さ故に体を憎むのです。

しかしこの失敗は{体が卑小であることは}「体がその本来の姿より偉大ではないこと」がその原因なのではなく、これは『「体が無(空)である」と知覚出来ていないあなたの失敗』でしかないのです。


そして「体が無(カラ)であること」があなたの救済なのですが、あなたはこの救済から逃げようとしているのです。

物としての体は「神の敵」であることを求められており、「神であるもの」を卑小さと限定と絶望で置き換えているのです。

「自分が愛しているもの、あるいは自分が憎んでいるもの」としてあなたが体を見ている時、あなたは神の損失(神があなたを失ってしまうこと)を祝っているのです。

何故なら、もし神が全体の総合(全体を合わせたもの)であったなら、神の中に無いものは存在しておらず、「その無{神の中に無いものの不実在性}」が「神の完成」なのだから。

 

あなたの救済者は死んでいません。

あなたの救済者は「死の寺院として建てられているもの{体に対するあなた達の概念}」の中には居ません。

彼(あなたの救済者)は神の中に住んでいます。

そしてこのことが(彼が神の中にだけ住んでいるということが)彼をあなたの救済者にしているのです。

彼の体の虚無があなた達を病と死から解放するのです。

何故なら、「あなたのもの」が「彼のもの」よりも多かったり少なかったりすることは在り得ないから。

 

 

Apr 27, 2013

Ch29-01

The Closing Of The Gap

ギャップを閉じる



神が不在な時間も場所も状況も存在してはいないのです。

怖れる必要があるものは全く存在していないのです。

「神のものである全体」の中にギャップが生み出される(考え付かれる)訳が無いのです。

『「この取るに足らない小さなギャップ」が「神の永遠の愛」の中に示唆しようとしている妥協』は全く不可能なのです。

何故なら、それは{ギャップが存在するということは}「神の愛が少しの憎しみを含み得る、神の優しさが時には攻撃に変化し得る、神の永遠の包容力が時には切れてしまう」という意味になってしまうから。

 

あなた自身とあなたの兄弟の間にギャップを知覚している時、あなたはこれら全てを信じているのです。

であれば、どうして神を信頼することがあなたに出来るのでしょうか?

何故ならその場合、神は神の愛の中で欺瞞に満ちているに違いないのだから。

もしそうであるのなら気を付けなさい。彼があなたの近くに来ることは許さず、あなたと彼の愛の間にギャップを保ち、逃げる必要がある場合にはそこから(彼の近くから)脱出しなさい。{ということになる訳です。}


ここにおいて神への怖れが一番鮮明に見られているのです。

何故なら、怖れと憎しみは決して切り離せないので、だから「怖れている者達」にとって愛は不実で裏切りに満ちているのだから。

憎んでいる人で愛を怖れていない人は誰も居ないのです。従って{憎んでいる}彼は神を怖れずには居られないのです。

確実なのは「{神を怖れている}彼は愛が何を意味しているか知っていない」ということです。

だから彼は愛を怖れ、憎しむことを愛するのです。そして彼は「愛が怖ろしい(憎しみが愛だ)」と考えるのです。

「小さなギャップを大切にして、それが自分達に救済と希望をもたらすと考えている者達」に対して小さなギャップがもたらす結果がこれ(愛が怖ろしく見えること)なのです。

「(平和がその上を流れ渡るべき最大の障害である)神への怖れ」がまだ消え去っていないのです。

他の障害は消え去ったのですが、この障害はまだ残っていて、この障害があなたの行く先をブロックしており、光への道を暗く怖ろしく危険で絶望的に見せているのです。

 

「自分の兄弟は自分の敵である」とあなたは決めたのです。

もしかしたらあなた達は時には友達で、「あなた達の分離した興味」が少しの間友情を可能にしたかもしれません。

しかし「彼(兄弟)が敵に変わってしまった時の為にあなた達の間に在るギャップ」が無くなってはいないのです。

彼があなたの近くに来たなら、あなたは飛びすさり、あなたが彼にアプローチしたなら彼は瞬時に飛び退くのです。

限られた範囲の友情は、注意深く区切られた分量の友愛は、あなたが彼と共に作った裏切りに成るのです。

あなた達は「条件付きの条約」を分け合い共有しており、あなた達は「その条約内の分離の条項」を保つことに合意しているのです。

そして「この条項を破る事は許されざる条約違反である」と考えられているのです。

 

あなた達の間のギャップは「二つの分離した体の間のスペース」ではないのです。

これ(ギャップ)が「あなた達の分離したマインド」を切り離しているように見えているだけなのです。

これは(あなた達が好む時に出会う為の、そしてあなた達両者がもう一度出会うことを選択するまで別れている)約束のシンボルなのです。

すると{あなた達がお互いともう一度出会うことを選んだなら}あなた達の体は接触している(出会っている)ように見え、繋がる出会いの場所を示しているように見えるのです。

しかしあなた達が異なる道に分かれて進むことが常に可能なのです。

分離する権利の上に、あなた達は時々出会っており、(あなた達を愛の「犠牲」から守る)分離の期間を保っているのです。

体があなた達を救っているのです{そのように見えているのです}。 何故なら、体が「完全な犠牲」から抜け出ており、「あなた達の分離した自己」を作り直す時間をあなた達に与えているから。

『あなた達が出会う度に「あなた達の分離した自己」が減少している』とあなた達は信じているのです。


あなたが体を「分離の原因(そしてあなた達の間に見られている距離の原因)」にしたいと求めない限り、体があなた達のマインドを分離することは出来ません。

こうして{体を分離の原因にしたいと求めることにより}あなた達は「体自体の中には存在していない力」を体に「与えて」いるのです。

ここに「(あなた達を屈服させている)体の力」が在るのです。

何故なら{あなた達が体を分離の原因にしたいと求めて、そのような力を体に与えた}今あなた達は『自分達が何時出会うか体が決め、お互いのマインドとコミュニコン(霊的交歓)する「あなた」の能力を体が限定し閉じ込めている』と考えているから。

そして今「あなたが何処に行くべきか、どのように行くべきか、あなたに何が出来るか、そしてあなたに何が出来ないか」体が{相互合意されている体の概念が}あなたに告げるのです。

「体の健康が容認出来ることは何か」を体が決め、「何が体を疲れさせ病にするか」を体が{相互合意されている体の概念が}決めるのです。

そして体の内在的弱さが、『あなたがしようとすること』に対して限定/限界を課し、あなたの目的を限定し弱くするのです。

 

もしあなたがこれ{上記の状態}を求めるのなら、体はその通りに行うのです。

しかしそれは『「憎しみの期間」を{愛への耽溺の期間の}間に挟んで、限定的に「愛」への耽溺を許すこと』でしかないのです。

そしてそれ(体の概念)は「何時愛し、何時安心を求めて怖れの中に縮こまるか」決めるのです。

あなた達は「愛するということの意味」を知っていないので、それ(体)が病気に成るのです。

だからあなた達は、出会った全員と全状況を悪用(誤用)せざる得ず、「彼等自身(兄弟姉妹自身)のものではない目的」を彼等(兄弟姉妹)の中に見ざる得ないのです。

 

犠牲を求める愛は存在していません。

しかし恐れが愛の犠牲を要求するのです。何故なら、愛の出現の中に恐れが居残ることは不可能だから。

恐れが保たれる為には愛が恐れられる必要があり、だから{愛が}時に現れて、時に消え去るのです。

このようにして愛が裏切りに見えているのです。 何故なら、それは不確実に現れたり消えたりして、あなたに安定を与えないのだから。

 

「あなたの忠誠心がどれだけ弱く限定的か」あなたは見ていないのです。

そして『あなたがどれだけ頻繫に「愛が通り去りあなたを静かに一人”平和”にするように」要求しているか』あなたは見ていないのです。

 

「(どのようなゴールからも無垢である)体」が「あなたが持っている(そして体が保ことをあなたが強いている)変化し続けるゴール群」の言い訳なのです。

あなたはその{体の}弱さを恐れてはおらず、しかしその{あなたのゴールの}力不足を恐れているのです。

 

あなたは「あなた達の間には何も立っていないこと」を認識しようとは思いませんか?

「(あなたがその後ろに隠れられる)ギャップは存在していない」と知ろうとあなたは思いませんか?


「自分達の救い主」がもう「自分達の敵」ではないと学んだ時、人々はショッックを受けるのです。

体がリアルでは無いと学ばれた時、ある種の倦怠感が沸き起こるのです。

そして「神が愛であるというハッピーなメッセージ」の周りには「恐れのように見える響き」があるのです。

しかしギャップが消え去った時に起こるのは、永遠の平和だけなのです。

それ以上でもそれ以下でもないのです。

 

神への恐れが無いのなら、何があなたに彼(神)を放棄させるというのでしょうか?

(神の愛から一瞬でもあなたを押し留める)どのような玩具やガラクタがギャップの中に在るというのでしょうか?

「神を発見する途中で自己を放棄すること」をあなたが天国の中で恐れていない時、あなたは「体が天国の呼び声に対してNoと言うこと」を許可しようとするでしょうか?

{あなたが}見つかることで、あなたの自己が失われること』などあり得るでしょうか?