あなた達は「記憶が過去のことだけを保っている」と信じることに余りにも慣れ親しんで来たので、「記憶が今を思い出す為に使える技術である」と理解することが難しいのです。
「世界を思い出すことへの限定」は「世界があなたを限定することをあなたが許可していること」程にも広域なのです。
「過去への記憶」のリンク(鎖)は実在していないのです。
しかし、もしあなたがそれ(過去の記憶のリンク)をそこに置こうとしたなら、それ(過去の記憶のリンク)はそこに在るのです。
でも、あなたの願いだけがこのリンクを作っており、「まだ罪悪が残っているように見えている時間の一部」にそれ(過去の記憶のリンク)を繋げているのです。
聖霊が記憶を使う方法は、時間からはかなり離れているのです。
聖霊は、過去を保つ為に記憶を使うのではなく、過去を手放す為に記憶を使うのです。
記憶とは「受け取ったメッセージを保持し、与えられたこと(受け取られているメッセージが指示していること)を行なうもの」なのです。
記憶がメッセージを書く訳ではなく、メッセージが何の為なのか{記憶が}指定する訳でもありません。 (体同様に)記憶はそれ自体では無目的なのです。{記憶の機能それ自体は特定の目的を持ってはいないのです}
もしそれ(記憶)が古代の憎しみを思い返す(繰り返す)為に使われているように見えたなら、もしそれ(記憶)があなた達が保存している不正義と痛みの絵を差し出しているように見えたなら、あなたは「それ(不正義と痛み)がこの記憶のメッセージであること」を求めており、{あなたが分離を求めているが故に}記憶がそうなっているのです。
「体達の過去の全歴史」は記憶の倉庫の中に収められ隠されているのです。
それらの奇妙な関連は過去を保って現在を殺す為に作られており、過去をその中に保存しており、それら(不正義と痛みの絵)があなた達のもとに引き出され、それらに息を吹き込む命令を待っているのです。
そのようにして{「不正義と痛みがその記憶のメッセージであること」をあなた達が求めたことにより}不正義と痛みの効果/結果が時間の中で増やされたように見えており、時間が不正義と痛みの原因を見えなくしているように思えるのです。
しかし時間は「何もしないもの{違いをもたらさないもの}」のもう一つのフェーズ(段階)でしかないのです。
時間は「時間以外の(これを使って自分の真理を隠しておこうとあなたが求めた)全要素」と共に働くのです。
{あなたは時間や空間などの要素を使って自分の真理を隠しておこうとしており、それらは真理を隠す為に共同的に働いているのです。}
時間は何も取り除かず、時間が何かを修復することも無いのです。
しかしあなた達は時間を奇妙に使っており、あたかも過去が現在を起こしているかのように時間を使っているのです。
しかし過去は結果でしかなく、過去の原因は既に過ぎ去っているので、過去を変化させることは不可能なのです。
そして変化が起こるには、存続する原因が必要で、持続性のある原因が無ければ変化が続くことはありません。
もし現在の結果が過去に存在していたなら、現在を変えることは不可能です。
あなたが記憶を使っている時、過去だけが記憶の中に保たれており、だから記憶は{あなた達の過去の使い方は}現在に対して過去を押し付ける方法なのです。
「あなたが自分に教えたこと」は全て忘れてしまいなさい。 何故なら、あなたは良くは教えず、良く教わりもしなかったのだから。
「あなたが自分に教えたこと」は全て忘れてしまいなさい。 何故なら、あなたは良くは教えず、良く教わりもしなかったのだから。
「無意味なレッスンをマインド内に保とうとする人」などが居るでしょうか? より良いレッスンを学び保持することが可能だというのに。
古代の憎しみの記憶が表れたなら、「それら古代の憎しみの原因が既に去っており、その理由/意味があなた達には理解出来ないこと」を思い出しなさい。
憎んだ理由(物事がそのように見えていた理由)を『あなたが「今」それらの記憶に与えようとしている原因』としてしまうのは止めなさい。
「それ(過去の憎しみの理由/原因)が消え去っていること」を喜びなさい。
何故なら、{「古代の憎しみの原因が既に去っており、その理由/意味があなた達には理解出来ないこと」を思い出したなら}あなたがそれ(過去の憎しみ)から免罪されるのだから。
そして{古代の憎しみの絵の}代わりに「今受け入れられている原因の新しい結果」がここに見られるように成るのだから。
それらが{聖なる瞬間の中で今受け入れられている原因の結果が}その愛らしさであなたを驚かせるでしょう。
それらが{聖なる瞬間の中で今受け入れられている原因の結果が}その愛らしさであなたを驚かせるでしょう。
『それら(新しい原因)が持って来る「古代の新しいアイディア{古代の記憶に対する新しいアイディア}」』が『「あなた達の知覚が見ている記憶のスパンを遥かに超えている原初の原因」のハッピーな結果』に成るのです。
あなたが{本当の}原因を忘れようとしている時に、あなたの為に聖霊が覚えている「原因」がこれ(原初の原因)なのです。
それ(原初の原因)は過去ではないのです。 何故なら、聖霊が「それ(原因)を思い出されないままにすること」は無いのだから。
それ(リアリティ=原因)は決して変えられたことがないのです。何故なら「聖霊がそれ(リアリティ)をあなたのマインド内で安全に保たなかった時」は全く存在していないのだから。
その結果は確かに新しく見えるのです。 何故なら、「自分達はそれらの原因を覚えていない」とあなた達は考えたのだから。
しかし「それ{原初の原因である父}があなた達のマインドから取り外されたこと」は全く無いのです。何故なら、「父の子が父を忘れること」が父の意志で在ったことなど決してないのだから。
「あなた達が覚えていること」は存在したことが全く無いのです。
(あなた達が覚えている)それは、あなた達が原因と取り違えている無原因(causelessness、原因が存在していない状態)から来ているのです。
『自分達は「原因の存在していない(従って効果を与えることが不可能な)結果(因果律)」を憶えていただけなのだ』と解った時、あなた達は笑ってしまうでしょう。
奇跡はあなた達に『(時間や障害(邪魔)などによって全く触れられていない、永遠に存在し続けており、それ自身で在り続けることから全く変化していない)原因』を思い出させるのです。
そしてあなた達はその結果で{永遠に不変な原因の結果で}、原因そのものと同じように不変でパーフェクトなのです。
その記憶は過去に依存してはおらず、それが未来を待つこともないのです。
それ(根源的原因)が奇跡の中で暴き示されることもありません。
奇跡は「それ(根源的原因=父)が消え去っていないこと」をあなた達に思い出させるだけなのです。
あなた達の罪に対してそれを赦した時、それ(根源的原因)はもう決して否定されなく成るのです。
「自分達独自の創造に対してジャッジメント(裁き/判断)を下そうとしたあなた達」には「神の子に対してジャッジメントを下したのは彼(神)ではないと理解すること」が出来ないのです。
あなた達は彼の効果を彼に対して否定しようとしています。
{あなた達は神の効果を神の子から取り上げようとしています。}
しかしそれら(神の効果)が否定されたことは全く無かったのです。
『「無原因なこと(原因が存在していない状態)」のせいで(そして神の意志に逆らって)神の子が断罪された時』は存在していないのです。
「あなた達が証言しょうとして覚えていること」は神への怖れに過ぎないのです。
「あなたが怖れていること」を彼(神)はしていません。
そしてあなたも{「あなたが怖れていること」を}していなかったのです。
だからあなたの無垢は失われていないのです。
{訳注: 「あなたが怖れていること」=分離、あなたが神を殺害しようと試みたこと。}
あなたが癒される為にあなたが癒やされる(ヒーリングされる)必要はないのです。
『原因が原因それ自身の効果を持つことをあなたが許可し、その原因の効果の邪魔をあなたが全く何もしないようにするレッスン』を静かな奇跡の中で見なさい。
奇跡は「一瞬立ち止まりそして静かに成るマインド」の中にやって来るのです。
奇跡はこの静かな時間の中から伸び出し、「奇跡が静かに癒やしたマインド」から「他のマインド」に対して静けさがシェアされる(分け与えられる)のです。
それらのマインドは何もしないことの中で繋がるのです。
それらのマインドは『全てのマインドを存在させている「マインド」へと拡張が輝き戻されることを全く妨げていない状態』の中で繋がるのです。
分け与えることから生まれ出た奇跡は、遅れることなく(時間を止めることなく)「全ての静かでないマインド達」を促して、それらのマインド達を一瞬静かにさせ、その静かな瞬間の中でマインド達のもとに神の記憶が戻って来れるようにするのです。
「{分離していた}マインド達の独自の記憶」は今静かにされており、その時起こった事がその後完全に忘れ去られることは無いのです。
{奇跡の中では}彼(聖霊)に時間が与えられており、「彼(聖霊)に与えられたそれぞれの静かな瞬間」に対して彼(聖霊)は感謝を捧げるのです。
何故なら、その瞬間に神の子に対して「聖霊の記憶の全ての宝(それらは神の子の為に取って置かれたのです)」を捧げることが許可されたのだから。
聖霊は喜んで記憶の宝を「{聖霊に静かな時間を与えた}彼」に対して与えるのです。 彼に与える為に、この宝が精霊に与えられているのだから。
そして「彼(神の子)の創造者」が自分の感謝を分ち合うのです。何故なら、彼(神の子)から彼(神)の効果が取り去られることは在り得ないのだから。
「神の子が受け入れた一瞬の静けさ」が永遠と神を歓迎して、彼等(神と永遠)が留まる場所に彼等(神と永遠)を導くのです。
何故なら、神の子はその瞬間には「自分を怖れさせること」を何もしていないのだから。
『怖れ(怖れは神の記憶を遠ざけてしまいます)を自分の中に沸き起こさせていないマインド』の中には急激に神の記憶が戻ってくるのです。
それ自身の{卑小なマインド自身の}記憶は消え去ったのです。
「現在の平和へと嬉しく目覚める道」の邪魔をする「怖れのイメージを保っている過去」はそこには存在していないのです。
静けさの中を永遠のトランペットの音が響き亘るのですが、永遠を告げるトランペットの音が永遠の静けさを邪魔することはないのです。
『今思い出されていること』は怖れではなく「怖れが忘れ去られ解除される原因」なのです。
{「聖なる瞬間の中で思い出されること」が怖れの記憶を消し去り解除するのです。}
静けさが『(現在と過去の間に彼自身の記憶が挿入されそれらをはじき出す前まで)神の子が思い出していた「優しい愛の音」』を喋るのです。
今、神の子はやっと「現在の原因とその善良な効果」に気付いたのです。
今『「彼(神の子)が作ったもの」が無原因であって、全く効果を持っていないこと』を彼(神の子)は理解しているのです。
彼(神の子)は何もしなかったのです。
そして「これを」見ることにより、「自分が何かをする必要は全く無かった、自分は何もしなかった」と彼は理解するのです。
「彼の原因」が「その効果」なのです。{神の子の原因(神)が効果(リアリティ)を生んでいるのです。}
異なる過去や未来を生成させることが出来る「これ以外の原因(神以外の原因)」は存在していなかったのです。
その効果は永遠に不変で、罪の世界の過去や怖れを完全に超えているのです。
「無原因を見ないこと(原因が存在していない状態を見ないこと)」により何が失われるというのでしょうか?
(損失に置き換わる為に)神の記憶が来ている時、犠牲が何処に在るというのでしょうか?
幻想とリアリティの間にある小さなギャップ(隙間)を埋める為に「神の記憶が(このギャップ間を)流れ渡り、一瞬の内に飛び越えることが出来る橋を作ること」を許可するよりも良い方法があるでしょうか? 何故なら、神がそのギャップを彼自身(神自身)によって埋めたのだから。
「彼(神)の記憶が消え去って、子を一人取り残して、自分には絶対到達出来ないもう一つの岸を対岸から眺めさせること」など起こっていないのです。
「彼を優しく持ち上げ{ギャップ間を}渡らせること」が彼の父の意志なのです。
神が橋を作り上げており、「神の子にそれ(ギャップ間)を渡らせること」が神の意志なのです
『「神の意図していること」が「神の意志の中」で失敗してしまうかもしれない』と心配するのは止めなさい。
そして(あなたの為である)この意志から、あなたが除外されていることも在り得ないのです。
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