Sep 2, 2011

Ch18-9~11

The Purpose of the Body          
体の目的
体に対する認識(身体感覚)だけが愛を限られたものに見せているのです。
何故なら体とは愛に対する限定なのだから。
体のはじまりは「限定された愛」に対する信念/信心で、体は無限を限定する為に作られたものなのです。
これを単なる比喩として受け取るのは止しなさい。何故なら体は「あなた」を限定する為に作られたものなのだから。
「体の中に自分達が居る」と考えているあなた達に「アイディア」としての自分達自身を知ることが可能でしょうか?
あなた達は自分達が見ている全てのものを外的要素(自らの外にある何か)によって認識しているのです。
あなた達には「体(あるいは認識可能な何らかの形)を持っていない神」を考えること(認識すること)さへ出来ないのです。
体には「知ること」が出来ません。
自分達の意識を体の卑小な感覚に限定している限り、あなた達には自分達を取り巻いている壮大さを見ることが来ません。

神は体の中には入って来れず、体の中であなたが神と繋がることもまた不可能です。
愛に対する限定が常に神を締め出しているように見えており、あなたを神から隔てているように見えているのです。
体とは、全く限定されていない輝けるアイディアの小さな一部分を脆弱なフェンスで囲おうとしている試みなのです。
それは天国のとても小さな一部を極小な丸で囲んで、全体から切り分けられたその内側を神が入って来れない「あなた」の天国(領域)として宣言することなのです。 
この王国の中でエゴが非情な統治を行なっているのです。
そしてこの小さな塵を防御する為に、それ(エゴ)はあなたを宇宙と戦わせようとするのです。

このあなたのマインドの欠片は、もしあなたが全体を(そのほんの僅かな一部でも)感じられたなら(認識出来たなら)それが太陽から発せられている一番小さな光線のようであることが瞬時に解るのです。  あるいは、これは大海原の上面の僅かな波のようなものなのです。
この小さな光線は驚くべき傲慢さで「自身こそが太陽である」と決めたのです。
このごく僅かな波が自分のことを大洋として崇めている(認識している)のです。
この小さな思考がどれだけ孤独に怯えているか考えて御覧なさい。
この極小な幻想がそれ自身を宇宙に対して隔てているのです。
太陽が光線を飲み込もうとしている「敵」に成っているのです(エゴの思考に取り付かれているあなた達は自分の源を敵として認識しているのです)。
大洋が小さな波を脅かしておりそれを「飲み込もう」としているのです(そのように認識されているのです)。

しかし太陽も海もこれらの奇妙で無意味な試みがなされていることには気付いていません。 それらは自らがその一部から怖れられ憎まれていることは認識しておらず、ただ存在し続けているのです。
太陽や海にとっては、これらの小さな部分は失われてはいないのです。 何故なら太陽や海の一部が太陽や海から分離して存在することは出来ないのだから。
これら(太陽や海の一部)が自分達のことを何と考えるていたとしても、これら(太陽や海の一部)がその存在自体を完全に太陽や海に依存し続けていることは全く変わらないのだから。
それら全体の存在はそれら自身の中に今でも在り続けているのです。
太陽が無ければ太陽光線も消えてしまいます。 海が無いならその上に存在する波のことを考えるのは無意味です。

「体が住んでいる世界」の中に居る人達は、このような奇妙なポジションに居る様に見えているのです。
それぞれの体の中には分離したマインド(繋がっていない思考)が入っていて、孤独に生きており、それを創造した「思考」とは全く繋がっていないと考えられているのです。
それぞれの小さな欠片が自己充足している(それ自身で成り立っている)ように見えており、何かの為にお互いを必要としているけれども、それら全てを造った創造者に完全に依存してはいないと考えられているのです。
そして「それら自身では何の意味も持っておらず、それら自身のみでは全く生命も持っておらず、だから全体がそれらにその全ての意味を与えることが必要だ」と考えられてはいないのです。

それでも(太陽や海のように)あなたの「自己(Self)」は存在し続けて行きます。
その小さな一部自身があなたに成った積りで振舞っていることは気にせずに、それに気づかずに、あなたの「自己」は続いて行きます。
それ(あなたの小さな一部)は失われていはいないのです。 それが{あなたから}分離していたなら、それは存在出来なかったでしょう。 そしてこのあなたの小さな一部が失われていたなら、全体が全体ではなくなってしまいます(しかしそれは不可能です)。
神の大国は(他から分離しているというアイディアによって統治されている)分離された天国ではないのです。

それ(あなたの小さな一部)を囲んでいるフェンスが、それがその他全てと繋がることを防いだり、それをその創造者から分離しておくことは不可能です。
この小さな要素(一部分)は全体と「同一」であり、全体と継続しており、全体と一つに繋がっているのです。
この小さな要素(分離したように見えているあなた)は分離した人生は送っていないのです。 何故ならこの人生/生命は「ワンネス/一体性」の中に在り、この人生/生命は「ワンネス」の中で創造されているのだから。

この小さく切り分けられている要素(体)をあなた「自身」として受け入れるのは止めなさい。
あなたで在るものをおいて、太陽と海は何者でもないのです。
太陽光線は日の光の中でだけ輝けるものであり、小波は海の上で踊るものです。
しかしあなたの中に住まうパワーは、太陽の中にも海の中にもないのです。
あなたは自分の卑小な王国内に留まって、惨めな王(自分が見ているもの全ての意地悪な統治者)に成り続けたいですか? この王は何も見ておらず、それでもそれらを守るために死を掛けて戦おうとしています。
この卑小な自己はあなたの{本当の}王国ではないのです。
それ(あなたの卑小な自己)よりも遥かに高くそびえ、愛をもってそれを囲んでいるものが輝ける全体で、その全ての幸福と深い満足を全体の全部分に与えているのです。
あなたが自分で取り分けたと考えている小さな部分もその例外ではありません。
愛は体は知りません。 愛はそれ自身と同じに創造されている全てに届くのです。
この限定の完全な欠如が(愛には全く限界が無いということが)愛の意味なのです。
それ(愛)を与えることに関して、それは全く無差別なのです。 それ(愛)は「それが与えようとしているもの」を保持し完全に保つ為だけに包み込むのです。
あなたの小さな王国の中で、あなたはとっても少ししか持っていません。
であれば、あなたは愛を呼び込んで、そこに(あなたの小さな王国の中にも)愛をもたらすべきではないですか?
あなたの小さな王国を作っている、乾いて不毛で干乾びて喜びの無い、この砂漠を見てみなさい。
そして愛がそこにもたらす生命と喜びを理解しなさい。それ(愛)が何処から来ているのか、そしてあなたと共にそれが戻って行く所が何処なのか理解しなさい。

あなたの小さな王国の周りを神の思考が取り巻いており、あなたが作ったバリア/防御壁(が崩れるの)を待ており、あなたの小さな王国の中に入って行って、その不毛な土地の上に光を当てようとしています。
どのようにして生命が全ての場所で生まれ育つか見てみなさい!
この砂漠が深い緑の静かな庭園に成り、自分達の道を失って埃の中を彷徨っている者達に休憩を与えます。
今まで砂漠であった所を(そこを彷徨っていた人々への愛によって整えられた)休憩所にしなさい。
そしてあなた(達)が迎え入れる全ての人達が、あなたの為に天国から愛を持ってくるでしょう。
その人達はこの聖なる場所の中に一人づつ入って来ます。 しかし一人づつ入って来た彼等は、一人で孤独には出て行きません。

彼等が持って来た愛は、彼等と一緒に留まり、と同時にあなた(達)と一緒に留まるのです。
そして彼等が持って来た愛の恩恵により、あなたの小さな庭園が広がり、「生きている水」に渇きそれを求めている(しかしもう一人で探し続けるには疲れ過ぎている)人達全員に差し出されるのです。
出て行って彼等を探しなさい。 何故なら彼等はあなた「自身」を持て来るのだから。
そしてあなたの静かな庭園に彼等を優しく導き入れ、彼等の祝福をそこで受け取りなさい。
そしてそれは大きく育ち、砂漠の端から端まで伸びて、愛から遮断された小さく孤独な王国を取り残さず、その孤独な大国の中にあなたを取り残すこともないのです。  
そしてあなたはあなた自身を認識し、あなたの小さな庭園が(その創造者の全ての愛で輝いて)天国に優しく変容されて行くのを見るのです。

聖なる瞬間はあなたが送る愛への招待なのです。 それは荒涼として喜び薄いあなたの王国の中に入って行ってそれを平和と歓迎の庭園へと変容させるよう(あなたが愛に対して送っている)招待状なのです。
愛の返答は確実です。
それ(愛)はやって来ます。 何故ならあなたは(喜んでやって来ようとしている愛を邪魔するバリアとなる)体を持たずに来ているのだから。 
聖なる瞬間の中で、あなたは愛から「愛が全ての人々に捧げているもの」だけを求めるのです。 それ以上でも以下でもないのです。
あなたは全てを求め、全てを受け取るのです。
そしてあなたの輝ける「自身」は、あなたが天国から隠そうとしていた小さな部分を持ち上げて、それを天国に持っていくのです。
愛の全ての部分が全体を求め全体に対して呼び掛け、愛のどの部分であっても答えを得ないものは無いのです。
自分の父の外に取り残されている神の子は居ないのです。

次のことに気付いていなさい。
愛があなたの特別な関係の中に入って来ました。 あなたの弱々しい要請に答えて完全に入って来ています。
しかし愛が来ていることをあなたは認識していません。それはあなた達が「お互いに対して築いているバリア(防御壁)の全て」をまだ放棄していないからです。
しかしあなた達が分離したままでは愛を迎え入れることが出来ません。
あなたの兄弟を抜きにして神があなたを知ることは出来ないように、あなたが一人で神を知ることは出来ないのです。
しかしあなた達が一緒であったなら、愛があなたを知らないことは在り得ず、愛が自分をあなた達の中に認識しないことも在り得ないと同様に、あなた達が愛に気付かずにいることも不可能なのです。

あなた達は古代の旅の終わりに到達していますが、まだそれを理解していません。
あなたはまだ疲れており、砂漠の塵があなたの目を霞ませあなたを盲目にしているように見えています。
しかしあなたが歓迎した彼があなたのもとに来ており、あなたを歓迎しようとしています。これをあなたに与えるために彼は長いこと待っていたのです。
今それを彼から受け取りなさい。 そうすれば彼はあなたに彼を知らせます。
もうあなた達の間には塵の壁が僅かに残っているだけです。
ハッピーに笑いながら軽く息を吹きつければ、それは崩れ去って行きます。
そして愛があなた達両者の為に準備した庭園の中へ歩いて行きなさい。

The Delusional Thought System
妄想的思考システム
あなた達は「暗闇を光の下に持って行きなさい、そして罪悪を神聖の下に持っていきなさい」と指示されています。
そして「間違いはその源で修正されなければならない」とも言われています。
だから聖霊が必要としているのは、分断されて分離しているように見えている「あなた自身の小さな部分」なのです。
(あなたの)それ以外の部分は神の中に安全に保管されており、ガイド/指示を必要とはしていません。
しかしこの野卑で幻惑的な思考は(分離しているように見えているあなたの一部は)助けを必要としています。 何故なら、幻覚の中でそれ(分離したあなたの一部/幻惑思考)が「自分こそ十全で全能な神の子だ。」と考えているのだから。 それは「自分こそ天国の唯一の支配者だ」と主張しており、天国の一部を切り分けそれを狂気によって独裁的に支配しており、その中で絶対服従と奴隷制度を強いているのです。
これが(上記のことをしているのが)自分で天国から盗み出したと考えているあなたの一部なのです。 これを天国に返しなさい。
天国はそれ(あなたが盗んだと思っているあなたの一部分)を失ってはいません。 しかしあなたは天国を見失っているのです。
「あなたが設立した衰えつつある王国(それは暗闇に囲まれ、攻撃によって匿われ、憎しみによって強化されています)」から聖霊にそれ(あなたの一部)を取り出させなさい。
このバリケード(あなたが設立した衰えた天国)の中にはまだ神の子の小さな部分が残っています。 それは完全で神聖で静寂であって、「それが何に囲まれているとあなたが考えているか」それは認識していません。
あなたは分離し続けるのは止めなさい。 何故なら「それ(神の子の小さな部分)を取り囲んでいる者」はあなたに対して合一(Union)を与えており、あなたの小さな暗い捧げ物を永遠の光に戻しているのだから。

これ(合一)はどの様にしてなされているのでしょうか?
これはこの卑小な王国の本当の姿に基づいており、非常にシンプルに行なわれるのです。
不毛な砂や闇や生気の無さは体の目だけから見られているもの(体の目が知覚している状態)なのです。
この視界は歪められており、この視界が(自分の意識を限定する為にこれを作っている)あなたに発しているメッセージは、卑小で限定されており非常に細分化されている故に無意味なのです。
狂気によって作られている体の世界からは、狂気のメッセージが(この体の世界を作った)マインドに返されているように見えています。
そしてこれらのメッセージはこの世界(体の世界)へ証言を与えており、これを真実として宣言しているのです。 何故なら「あなた」がこれらのメッセージを送っており、このメッセージをあなたに返しているのだから。

これらのメッセ-ジがあなたに伝えている全てのことは、とても外的なものなのです。
これらのメッセージは、その下に在るもの(より根源的なもの)に関しては何も話していません。 何故なら体にはそのようなことは話せないから。
体の目はそれ(より根源的なもの)を知覚しておらず、体の感覚はそれに全く無自覚で、体の舌はそのメッセージ(より根源的メッセージ)を伝えることが出来ないのです。
もし聖霊の後について行き(聖霊があなたを見捨てず、あなたをそこに置き去りにしないと信頼して)恐怖の様相を抜けて行こうとあなたが思えるなら、神はあなたをそこ(より根源的状態)に持っていくことが出来ます。
何故なら聖霊の目的はあなたを怖れさせることではなく、あなたの目的だけがあなたを怖れさせているのだから。
あなたは怖れの境界線(怖れが設定されている円弧周辺で)で聖霊を放棄するよう激しく誘惑されているのです。
しかし聖霊はあなたをそこから安全に連れ出し遥か彼方へ導いて行くのです。

体が見ているレベルの少し下に怖れの境界線(円弧)が描かれており、これがこの世界を築いている全基盤(礎)に見えているのです。
ここに全ての幻想、全ての歪んだ思考、全てのキチガイ染みた攻撃/怒り/復讐/裏切りがあるのです。
これら(幻想/歪んだ思考/攻撃/怒り/復讐/裏切り)は罪悪を保つ為に作られており、それ(罪悪)から世界が立ち昇って来て、「それ」を隠して置けるようになっているのです。
その「影」が表面に立ち現れて、その一番外側の現実化(manifestation)を闇の中に保ち、それに絶望と孤独を与え、それを苦しくしているのです。
しかしその(境界線周囲の怖れの)「激しさ」は、厚いカバーで覆われていて、それ(この偽りの世界を築いている基盤)を隠しておくために作られているものから「隔てられている」のです。

体にはこれ(この幻想/このカラクリ)は見えないのです。何故なら体はこれ(幻想)を守るためにこれ(幻想)から立ち昇って来ているもので、これはこれ自身を常に見えないようにしておく必要があるのだから。
体の目は決してこれを見ようとはしません。 体の目はこれ(幻想)が決めたことを見るのです。
体は罪悪のメッセンジャーであり続け、(罪悪がリアルだとあなたが信じ続けている限り、あなたは)それ(罪悪)が決めた通りに行動します。
何故なら罪悪の「リアリティ」は、それ(罪悪)を重く不透明で通り抜けられなく見せている、そしてそれをエゴの思考システムのリアルな基盤に見せている、幻想なのだから。
あなたがその(罪悪の)後ろの光を見るまで、その薄さと透明度は明確には成りません。
罪悪の後ろの光を見たなら、あなたはそれ(罪悪)を光の前に掛けられた脆弱なヴェールとして見るようになるのです。

この重く見えるバリアは、この岩のように見える人工の床は、(太陽を遮っている堅剛な壁のように見える)低く垂れ込めた暗い一連の雲のようなものです。 その見かけの堅剛さは全く幻想なのです。
それは雲の上に聳えている山の頂に簡単に譲っており、太陽を見ようとして山の上に登ろうとしている人を妨げる力は全く無いのです。
それは落ちたボタンを押さえる力も、その上に乗せられた羽を支える力も持ってはいないのです。その上に何かを置くことさえ出来ないのです。 
何故ならこれは基盤(礎)の幻想でしかないから。
これを触ろうとしたならこれは消え去り、これを掴もうとしたあなたの手は空虚を掴むのです。

それでもこの雲の連なり(幻想)の中に世界全体が立ち昇ることを見るのは容易なのです。堅固な山脈が湖が町が全てあなたの想像の中から立ち昇って来ます。
そして雲の中からあなたの知覚のメッセンジャーがあなたのもとに戻って来て、それら全てがそこに在ると言ってあなたを説得するのです。
そこでは人影が立って動き回り、その行動はリアルに見え、形が現れ愛らしさからグロテスクさにシフトします。
あなた達が子供のようにこの「ごっこ」遊びをしている限り、それらの形はグロテスクさと愛らしさの間を行き来し続けるのです。
しかしどれだけ長くそれを続けても、どれだけの想像力をそこに与えても、{もう}あなたはそれを下の世界(より根源的世界)とは見間違えず、それをリアルにしようともしないのです。

それと同様に、罪悪の暗い雲もまた実体の無い簡単に突き破れるものなので(それをリアルにしようとすることも止めるべきなのです)。
そこを通り抜けようとする時、あなたがそれらに(罪悪の暗い雲に)ぶつかり怪我することはないのです。
あなたのガイドに従ってそれらの脇を通り抜けながら、それらの実体の無さをあなたのガイドから教わりなさい。
何故ならそれらの遥か「下」に光の世界があり、そこではそれら(罪悪の暗い雲)が影を落すことはないのです。
それらの影は(より光から離れている)「それらから遠く離れた世界」の上に掛かっています。
しかしそれら(罪悪)の影が光の上に落ちることは不可能です。
この光の世界(この輝きの円)がリアルな世界で、そこでは罪悪が赦しで迎えられているのです。
ここで「外」の世界が(罪悪の影なしで)新しく見られるのです。
ここであなたは赦されるのです。 何故ならあなたはここで全ての人々を赦したのだから。
ここに新しい知覚があり、そこではあなたが過去に懐いた全ての邪悪な考えは赦しの水で洗い流されており 、そこにある全てがその純真さで眩しく輝いています。
ここには神の子に対する攻撃は存在しておらず、「あなた」が歓迎されています。
ここにあなたの無垢があり、それはあなたに服を着せあなたを守り、内的旅の最後のステップの為にあなたの準備を整えるのです。
ここで罪悪の暗く重い衣服が脱ぎ去られ、純潔と喜びで優しく取り替えられるのです。

しかし赦しさえも終わり(最終的目的地)ではないのです。
赦しは愛をもたらしますが、それは創造は行いません。
赦しは癒やしの源です。しかしそれは愛のメッセンジャーであって、愛の源ではありません。
あなたはここに導かれたのです。 神自身が(邪魔されることなく)最後のステップを取れるように。
何故なら、ここでは「愛がそれ自身に成ること」を邪魔をするものは何もないから。
赦しのこの神聖なる場所から一歩先に進むのです。
より内側に一歩進み(これはあなたには不可能です)、「まったく異なった何か」にあなたをトランスポート(転送)します。
{あなたがトランスポートされた先である}ここに光の源があります。(ここでは)何も知覚されず、何も赦されず、何も変容されないのです。
そうではなく{ここでは}ただ「知られる」のみなのです。

The Passing of the Dream
夢の消滅
このコースは叡智(knowledge)へと導きます。 しかし叡智そのものはわたし達のカリキュラム(学習内容)外です。
そして「永遠に言葉の外に在るもの」に関して話そうとする必要もわたし達にはありません。
わたし達が覚えているべきは下記のことだけです。
(学習では届き得ない)リアルな世界を得る人は誰でもその先に行くのですが、しかし{今までとは}異なった方法でこれを行なうのです。
学習が終わった所から神が始まります。 何故なら、「始まる所で完全」であり「終わりの無い所」である彼(神)の前で学習は終るのだから。
わたし達は獲得出来ないものに関して思い悩むのは止めるべきです。 学ぶべきことが沢山あるのだから。
しかし叡智(knowledge)に対する準備は獲得しなければいけません。
愛は学ばれるものではありません。その意味はそれ自身の中にあります。
「愛でないもの全て{あなたの定義/判断/断罪}」をあなたが認識した時、全ての学習が終るのです。
それ(愛でないもの全て)が妨害なのです。 それを解除する必要があるのです。
愛は学ばれるものではありません。 何故なら、あなたがそれ(愛)を知らなかった時は決して存在していなかったのだから。

あなたの創造者の前では学習は無意味です。
創造者のあなたへの認識は、そしてあなたの彼(創造者)への認識は、全ての学習を遥かに超越しており(その前では)あなたが学んだ全ては無意味で、それらは愛の叡智とその「ひとつ」の意味によって永遠に置き換えられるのです。
あなたの{特別な}関係は影の世界から抜き取られ、その不聖な目的は罪悪のバリアの中を安全に届けられ、それは赦しで洗われ、光の世界の中に確実に設置されており輝いているのです。
そこ(光の世界)からそれ(あなたの聖なる関係)はあなたに呼び掛け、それが歩いたコースの後を付いて来るように言うのです。 それは暗闇から高く持ち上げられ、優しく天国の門の前に置かれたのです。
あなた達が一つに成った聖なる瞬間は(赦しの果てから送られており、その果てにある全てをあなたに思い出させる)愛のメッセンジャーなのです。
しかしこれは赦しを通して思い出されるのです。

そして神の記憶があなたのもとに来た時、赦しの聖なる場所の中であなたはそれ(神の記憶)以外は何も思い出さないのです。
すると記憶は学習と同じように不要になります。 何故なら、あなたの唯一の目的は創造になるのだから。
しかし全ての知覚が洗われ浄化され、そして最終的に永遠に取り除かれるまで、あなたがこれを知ることは出来ません。
赦しは「真実でないもの{あなたの思考や断罪}」だけを取り除きます。
(赦しは)世界から影を取り上げ、それを優しく確実安全に動かし、真新しく新鮮に輝く知覚の世界に持って行きます。
そこに今あなたの目的があるのです。 そこで平和があなたを待っているのです。

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