Sep 23, 2011

Ch19-12

The Lifting of the Veil
ヴェールを持ち上げる

あなた達がここまで「一緒」に来たことを忘れないでください。
そしてあなた達をここまで導いたのは確かにエゴではなかったのです。
平和への障害はエゴの助けによっては克服出来ません。
エゴはその秘密を開けて秘密を見るように、そして秘密を越えて行くようにあなたには言いません。
エゴはその弱点をあなたに見せたり、「エゴにはあなたを真理から遠ざけておく力がない」と教えたりはしません。
あなたをここまで連れて来たガイドはあなたと共に留まるので、あなたが自分の目を上げた時あなたは全く怖れることなく恐怖を見ることが出来るのです。
しかしその前にあなた達の目を上げて(お互いの幻想に対する完全な赦しから生まれた)無垢の中でお互いと向き合い、そして(幻想を全く見ていない)信心の目を通してお互いを見なさい。

アトーンメント(贖罪/和解)を受け入れて幻想がリアルでないと学んだ後で無かったなら、神への怖れを見て震え上がらない人はいません。
一人でこの障害と対峙出来る人はいません。 何故なら彼の兄弟が彼と一緒に歩んだのでなければ彼はそこまで行けなかったのだから。
そして兄弟に対する完璧な赦しを自分のハートの中に持っていなかったなら、誰もそれ(神に対する怖れ)を見ようとはしないのです。
あなたはここにしばらく立っていなさい。そして震えるのは止しなさい。あなたの準備は整うのです。
わたし達はここで、聖なる瞬間の中で、「聖なる瞬間の中で(あなた達に)与えられた目的」があなたを導いたこの場所で、一緒に繋がりましょう。
そしてわたし達は信心の中で繋がって「わたし達を一緒に導いた彼」があなたが必要としている無垢をあなたに捧げ差し出し、(私と彼の愛ゆえに)あなたがそれを受け入れることを信じましょう。

これを見るのに早過ぎることは在り得ません。
ここは全ての人達が(準備が出来た時に)来なければならない場所なのです。
人が自分の兄弟(姉妹)を見つけたなら、その人の準備は出来ているのです。
しかしこの場所に到達するだけでは不十分です。
目的のない旅は無意味で、(目的が解らなかったなら)旅が終った後もその意味が感じ取られません。
目的が達成されたと理解出来ていない限り、どのようにしてそれが終ったことが解るでしょう?
あなたの目の前に旅の終わりが見えているここで、あなたはこの旅の目的を見るのです。
そしてここにおいてあなたは、それを見るか、それともそのまま歩き去って(後でまたここに戻って来て選択し直すか)選ぶのです。

神への怖れを見ることはある程度の準備を必要とします。
(怖れを持つことなく、同情や慈愛と共に)酷い狂気と狂乱を見ることが出来るのは正気の者だけです。
何故ならあなたが狂気と狂乱を分け合って(共有して)いない限り、狂気は怖ろしくは見えないのだから。
そして完璧な信心/愛/優しさと共にお互いを見るまで、あなた達は狂気の体験を共有し続けているのです。
赦しを完了させるまで、あなたはまだ赦さず立っているのです。
あなた達がお互いを怖れているので、あなたは神を怖れているのです。
あなたが赦していない者達をあなたは怖れているのです。
そして怖れが自分の傍にある場合、誰も愛には届かないのです。


あなたの直ぐ傍に立っているこの兄弟はまだ他人に見えています。
あなたは彼を知っておらず、彼に対するあなたの解釈はとても怖ろしいのです。
そしてあなたはまだ『彼を攻撃することによって「あなた自身」として見えているものを安全にしよう』としています。
しかし彼の手の中にあなたの救済があるのです。
あなたは彼の狂気を見てそれ(彼の狂気)を嫌っています。 何故ならあなたはその狂気を共有(シェア)しているのだから。
それを(あなた達が共有している狂気を)癒やすであろう全ての同情や赦しは、怖れに譲ってしまっています。
兄弟よ、あなた達はお互いに対する赦しを必要としているのです。 何故ならあなた達は「天国の中か狂気の中か」どちらかの場所で共有し分け合うのだから。
あなた達は一緒に信心を持って自分達の目を上げるか、さもなくば誰も全く目が上げられないのです(誰も見ることが出来ないのです)。

あなたの傍らにはアトーンメント(和解/贖罪)の杯をあなた達に捧げている者(あなたの兄弟)がいます。 そして聖霊が彼(あなたの兄弟)の中にいるのです。
あなたは彼の罪を彼に押し付けその責任を彼に取らせようとしますか? それとも彼から「あなた」へのギフトを受け入れますか?
この救済を与えようとしている者はあなたの友達でしょうか?それとも敵でしょうか?
あなたはあなたの選択に従って彼を受け取る(彼を知覚する)のです。これを思い出しながら「彼が(敵か味方の)どちらか」選びなさい。
{「彼があなたの敵か友達か」あなたはそれを選び、あなたの選択通りの者としてあなたは彼を体験するのです。}
彼は彼の中にあなたの罪を赦す力を持っているのです。 そしてあなたはあなたの中に彼の罪を赦す力を持っているのです。
あなたも彼も、自分自身で赦しを自分に与えることは出来ません
しかしあなたの救世主はあなたの隣に立っているのです。
彼が「彼であるもの/真の彼」に成ることを許可しなさい。 愛から敵を作ろうとするのは止めなさい。

あなたの友達を見なさい、あなたの隣に立っているキリストを見なさい。
彼は何と神聖で美しいのでしょう!
あなたは彼が罪を犯したと思ったのです。 しかしそれはあなたが彼の上に罪のヴェールを覆い掛けて彼の愛らしさを隠したからなのです。
しかし彼はまだ自分の神聖をあなたと分け合おう(共有しよう)としており、赦しをあなたに差し出し続けています。 
この「敵」が、この「他人」が、自分の友達としてあなたに救済を捧げ差し出しているのです。
キリストの「敵」は、罪の信奉者は、自分達が誰を攻撃しているか知りません。
これこそが罪によって十字架に掛けられたあなたの兄弟で、彼は苦しみからの解放を待っています。
あなたは彼に赦しを捧げ(与え)ようとは思いませんか? あなたに赦しを捧げられるのは彼しかいないのです。

あなたから「あがない/贖罪」を受けた彼(あなたの兄弟)が、あなたにあなたの「あながない」を与えます。
これは神が全ての生きとし生けるものを創造し、その全てを愛しているのと同じ位確実です。
そして彼(兄弟)は本当に贖いを与えます。 何故なら、贖い(アトーンメント)とは与えられると共に(同時に)受け取られるものなのだから。
あなた達がお互いに対して天国の恩寵を捧げ(与え)たなら、最も神聖なる「友達」からあなたはその恩寵を(それがどのようなものであろうと)必ず受け取るのです。
恩寵を与えようとしている彼を留まらせようとするのは止めなさい。何故なら恩寵を受け取ることによってあなたは恩寵を「彼」に捧げるのだから。
そして彼は「あなたが彼から受け取ったもの」をあなたから受け取ります。
贖い(救済)は、お互いに対して与える為にあなた達に与えられており、お互いに与え合うことによって(あなた達に)受け取られるのです。
あなたが赦した人は自由なのです。 そしてあなたが与えたものを、あなたはシェアー(共有)します。
「このような罪を自分は犯した」とあなたの兄弟が考えている罪と、そして彼の中にあなたが見ている罪悪の全てを赦しなさい。

ここに復活の聖なる場所があり、わたし達はここにまたやって来ました。
贖いが達成され受け取られるまで、わたし達はここに戻り続けます
あなたの兄弟を断罪/有罪にする前に、その兄弟が誰か(何者か)考えなさい。
そして「彼(兄弟)が神聖であり、彼があなたの為に神聖なるギフトを授かっていること」を神に感謝しなさい。
喜んで彼と一緒になり、「苦しめられている彼の不安なマインド」から罪悪の跡を全て拭き取りなさい。
彼を助けて、彼にあなたが背負わせた(そして彼が自分のものとして受け入れた)罪の重荷を持ち上げなさい。 それを軽く取り外して楽しく笑いながら彼のもとから罪を投げ捨てなさい。
釘のように罪悪を彼の額に押し付けるのは止しなさい。(救われていない者、希望の持てない者として)彼を罪悪に釘で打ち付けようとするのも止めなさい。

お互いに信心を与え合いなさい。 何故なら信心と希望と慈悲があなた達が与えるべきもので、それらはあなた達のものなのだから。 ギフトを与えた者の手の中に、ギフトが贈られるのです。
あなたの兄弟を見て、彼の中にあなたが受け取る神のギフトを見つけなさい。
もうすぐイースター、復活の時です。
死の中で分離するのではなく、「ひとつ」として復活出来るように、わたし達はお互いに対して贖い(救い)を与えて、その中で分かち合いましょう。 
あなた達両者の為に私が聖霊に与えた自由のギフトを見なさい。
そしてあなた達は(この同じギフトを聖霊に捧げて、そしてこのギフトを与えることによりあなたが与えたもののお返しとしてこのギフトを彼から受け取って)一緒に自由に成りなさい。

わたし達がこの聖なる場所で出会って同じ選択を出来るよう、彼(あなたの兄弟)はあなたと私を一緒に導きます。
私はあなたを解き放つので、あなたはあなたの兄弟をここで解き放ちなさい。
彼(兄弟)に{私があなたに与えたギフトと}全く同じギフトを与え、いかなる非難(有罪宣告)をもって彼を見ることも止めなさい。
私があなた達を見ているように、あなたも彼を無罪と見なさい。 そして彼が自身の中に見ていると彼が考えている罪を見越しなさい(無視しなさい)。

苦悩と死の庭園に見えているここで、自由と「罪からの完全な解放」をお互いに捧げ合いなさい。
このようにしてわたし達は一緒に神の子の復活の道を準備するのです。
そして父の嬉しい記憶に対して彼(神の子)を再度立ち上がらせなさい。{神の子に父の記憶を取り戻させなさい。}
彼(神の子)の父は罪も死も知らず、永遠の命だけを知っています。

わたし達は一緒にヴェールの向こうの存在(Presence)の中に消えて行きます。失われるためではなく、見付けられるために。 見られるためではなく、知られるために。
そして救済のために設立されている神のプランの中で行なわれないものは何もないと(わたし達は)知っているのです。
これがこの旅の目的で、これを知らなくてはこの旅は無意味なのです。
ここに神の平和があり、神がそれをあなたに永遠に与えています。
ここにあなたが求めている安息と静寂があり、この旅の理由があります。 
一番初めからこれがこの旅の理由だったのです。


天国とはあなた達がお互いに対して与えるべきギフトなのです。これはあなた達が神の子に対して負っている感謝の負債なのです。
父が神の子を創造したことに対する感謝を、彼(神の子)そのものに対する感謝を、あなた達はお互いへ与え合うべきなのです。
「このギフトを与えようとしている人」をあなたがどのように見ているか注意深く考えなさい。
何故なら、あなたが彼を見ている気持ちが{あなたの彼への見方が}、ギフトがどのようなものとして現れるか決めるのだから。
彼が罪悪を与える人として見られるか、それとも救済を与える人として見られるか、それによってどのように彼の捧げ物(ギフト)が見られるかが決まり、捧げ物がどのように受け取られるかが決まるのです。
{あなたが彼のことを罪悪を与える人として見たなら、彼が与えるギフトは罪悪としてあなたに見られ、罪悪としてあなたに受け取られるのです。 あなたが彼のことを救済を与える人として見ていたなら、彼が与えるギフトは救済として見られ、救済として受け取られるのです。}
迫害されている者(十字架に掛けられている者)は苦しみを与えるのです。 何故なら迫害されている者は苦しみの中にいるのだから。
しかし贖われた者(救われた者)は苦痛から癒やされているので喜びを与えるのです。
全ての人達は自分が受け取っているものを他者にも与えるのです。そして人は自分が受け取るものを選ぶ必要があるのです。
人は自分が(他者に)与えそして自分が(他者から)受け取ったものによって、自分の選択を認識するのです。(自分が与え受け取ったものによって、苦痛と罪悪、喜びと救済、のどちらを自分が選択したか知るのです。)
そして人の選択を邪魔する為に、地獄や天国の中で何かが与えられることは無いのです。


この旅はあなたの選んだものなので、あなたはここまで来たのです。
自分で無意味だと信じていることをする人は誰もいません。
「あなたが信心を与えているもの」はいまだ信心深く、優しく強い信心の中であなたを見守っています。 この信心があなたを持ち上げてヴェールの遥か向こうまで運び、神の子を父の確実な擁護の中にしっかりと置くのです。
これが「この世界」と「この世界の中の長い旅」に意味を与えている唯一の目的なのです。
これ(ヴェール/この世界)を越えたなら、それらは(あなた達が今までこの世界の中に見ていた意味は)無意味に成るのです。
しかしまだあなた達は、それらに(旅に/世界に)目的/意図があるという確信なくして、一緒に立っているのです。
しかしあなたの聖なる友達の中にこの目的を見るように、そしてこの目的をあなた自身のものとして認識するように、この目的はあなた達に与えられているのです。

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