Sep 27, 2011

Ch20-4

Sin as an Adjustment
調整としての罪    
{ここで言う調整(Adjustment)とは、エゴが知覚などを調整して「罪が実存しており罪が存在していると考えることが正しいと感じられるリアリティ」を作っていることを指しています。}

罪に対する信念は調整なのです。
そして調整とは変化、あるいは知覚がシフトすること、でなければ『前まで「このよう」だったものが違うものに変えられた』という信念なのです
だから全ての調整は歪みで、リアリティに対してこの歪みを保つ為に防御の必要が言い立てられるのです。
叡智(knowledge)は全く調整を必要とせず、何らかのシフトや変化がそれに対して行なわれたなら叡智は失われてしまうのです。
何故ならシフトや変化が叡智を単なる知覚(一つの見方)に変えてしまうからです。
知覚(一つの見識)の中では確実性が失われており、そこには疑いが入っているのです。
この悪化した状態に対して調整{再調整}が必要なのです。 何故ならそれら(歪んだ知覚、そして歪んだ知覚が引き起こしている悪化)は真実ではないのだから。
真実は「彼であるもの」だけに呼びかけるのです。 だから真実を理解する為に真実を調整を必要は本来ないのです。

あらゆる調整はエゴの為のものです。
何故なら、全ての関係は(その関係をエゴの好みに合わせる為の)調整に依存しているというのがエゴの硬い信念だから。
全く何の干渉も挟まれない直接的関係は常に危険なものとして見られるのです。
エゴは全ての関係の仲裁者を自認しており、エゴは必要だと考えた調整を何でもしてしまい、出会おうとする者達の間に調整を差し挟み、彼等を分離して彼等が合一すること(一緒になること)を阻むのです。
この巧妙な干渉が「自分達の聖なる関係をそれそのものとして認識すること」を難しくしているのです。

神聖(な者達)は真理に対して干渉しません。
神聖(な者達)は真理を怖れていません。 何故なら神聖は真理の中で自分達の神聖を認識し、自分達が見たものを喜ぶのだから。
神聖は真理を真っ直ぐに見て、自分達を真理に対して調整しようとはせず、自分達に対して真理を調整しようともしません。
だから神聖は(まずはじめに真理を何処に置こうかと自分達で決めてしまわずに)真理が自分達の中に在ることを見るのです。
神聖が見ようとしたことが質問を発しており、彼等が見た(受け取った)ことが答えたのです。
しかし「あなた」は世界を作り、世界に対して自分を調整し、そして世界を自分に対して調整させているのです。
そして(あなたの知覚認識の中では)あなた自身とそれ(世界)の間には違いがないのです。 何故ならあなたの知覚認識があなた自身と世界を作っているのだから。


シンプルな質問がまだ残っており、あなたはそれに答える必要があります。
あなたは自分が作ったものが好きですか?
殺人と攻撃の世界、常に在る危険の中を臆病に歩き回り、一人で怯えて、死がもう少しだけ待ってくれること以上の希望を持たず、それでも最終的には死が訪れてあなたが消えてしまう(このような世界をあなたは好きですか?)
あなたがこれを作ったのです。
この世界があなたが考えているあなたの絵なのです
あなたはこのようにあなた自身を見ているのです。
殺人者は恐れ戦いており、殺す者達は死を怖れています。
これら全ては「自分達自身の調整によって怖ろしく作られている世界」に対して自分達を調整しようとしているもの達の怖ろしい思考に過ぎないのです。
そして彼等は「悲しみを抱えたもの」の中から悲しみを持って外側を見ており、「そこ(外側)」に悲しみを見ているのです。

世界が本当はどのようなものかあなたは考えたことがありますか?
ハッピーな目を通して見たなら世界はどう見えるでしょう?
あなたが見ている世界はあなた自身への裁きなのです。
本当はあなたが見ている世界は、全くそこには無いのです。
しかし裁きがそれ(あなたが見ている世界)に対して宣告をしており、それを正当化しており、それを「リアル」にしているのです。
これがあなたの見ている世界で、これが(「あなた」が行なった)あなた自身に対する裁きなのです。
あなた自身に対するこの病的な絵がエゴによって注意深く保たれているのです。
これがエゴのイメージで、エゴはこれを愛しており、エゴはこれをあなたの外(世界の中)に置いているのです。
そして(この絵/世界が外側に存在していてあなたの運命がそれに依存しているとあなたが信じている限り)この世界に対してあなたは自分を調整し続けなければならないのです。

(あなたが見ている)この世界は非情です。 もしこの世界があなたの外に実在していたなら、それは確かに怖ろしいものだったかもしれません。
しかしこの世界を非情にしているのはあなたなのです。
だからもしこの世界があなたを非情な目で見ているように見えたなら、それは修正可能なのです。
聖なる関係の中に居る誰が、長く不聖なままで居られるでしょう?
神聖(神聖な者達)が見ている世界は神聖と一体なのです。 丁度エゴが見ている世界がエゴにそっくりであると同じように。
神聖が見ている世界は美しいのです。 何故なら神聖は自分達の無垢を世界の中に見ているのだから。
神聖は「世界がどのようなもの」か世界に告げました、がしかし世界に命令はしませんでした。
神聖は自分達の指令に合わせようとして(世界や自分達を)調整しませんでした。
神聖は優しく世界に訊ねて「あなたは何なのですか?」と囁いたのです。
すると「全ての知覚を見守っている者」がそれに答えるのです。


世界の裁きを「私は何なのか?」という質問への答えとして受け取るのは止しなさい。
世界は{あなたがまだ見ている世界は}罪を信じていますが、しかし「あなたが世界を見ているように世界を作っている信念」はあなたの外には無いのです(その信念はあなたの中にあるのです)。
神の子を彼(神の子)の狂気に合わせて調整しようとするのは止しなさい。
彼(神の子)の中には異邦人が居て、その異邦人は真理の家の中に不注意に入って来て、フラフラと出て行きます。
彼(神の子の中の異邦人)は目的を持っていないのです。
しかし聖霊が捧げていて(あなたが受け取っている)輝ける光の前で異邦人は消え去るのです。
何故なら異邦人には住家がなく、しかし「あなた」は歓迎されているのだから。
この浮浪者の異邦人に「私は誰か?」と尋ねるのは止めなさい。この異邦人こそ、全宇宙の中でこの答えを知っていない唯一の者なのだから。


しかしあなたは彼(神の子の中の異邦人)に尋ねており、あなたは彼の答えに従って調整しているのです。
この一つの無謀な思考が(それは強烈に傲慢で、そしてとても卑小で無意味だったので、それはそのまま真理の宇宙をすり抜けて行って)あなたのガイドに成っているのです。
あなたはこのガイドに向き合っており、このガイドに宇宙の意味を尋ねているのです。
こうしてあなたは「視力を有している宇宙{宇宙が宇宙自身を神の視点から見ています}」の中の唯一盲目な者に「私は神の子をどのように見るべきなのですか?」と訊ねているのです。
判断(裁き/正気)を完全に失っている者に判断(ジャッジメント)を仰ごうとする人が居るでしょうか?
あなたはそのような者の答えを信じて、そしてあたかもそれが真理であるかのように、その答えに従って{自分を、自分の知覚/世界/思考を}調整するのですか?
あなたが見ている世界は、それ{完全に裁きを失っている世界/とても卑小で無意味な一つの無謀な思考/分離のアイディア}があなたに与えた答えなのです。
そしてあなたはそれ{分離のアイディア}に従って世界を調整して、その答えを真実にする力を{分離のアイディアに}与えているのです。

あなたはこの狂気のため息に、あなたの不聖な関係の意味を尋ね、この狂気の答えに応じてあなたの関係を調整したのです。
それはあなたをハッピーにしましたか?
あなたは神の子を祝福するために喜んで出会いましたか? そして彼があなたに差し出した全ての幸福に関して彼に感謝しましたか?
あなた達はお互いを「神からあなた達への永遠のギフト」として見ましたか(認めましたか)。
あなた達は「自分達両者の中で輝いている神聖」が相手を祝福しようとしていることを見ましたか
これがあなた達の聖なる関係の目的なのです。
聖なる関係を達成する方法を「この関係を不聖にしようとし続けている唯一の者」に訊ねるのは止めなさい。
それに「方法や結果を調整して変える力」を与えるのは止めなさい。

長年重い鎖に繋がれて来た囚人達は、空腹で痩せこけ力弱く疲れて、長く暗闇だけを見てきた目は光を覚えておらず、自由に成った瞬間に飛び上がって喜ぶことは出来ません。
彼等が自由の意味を理解するまでには少し時間が掛かります。
あなた達は埃の中を手探ってお互いの手を見つけました。それを手放すべきか、長く忘れられてきた命を掴み取るべきか、決めかねています。
手に力を込めて、あなたの力強いコンパニオンに目を上げなさい。 彼(あなた達のコンパニオン)の中にあなた達の自由の意味があるのです。
彼はあなた達と共に(あなたの横に)磔られた様に見えています。
しかし彼(あなた達のコンパニオン)の神聖は汚されることなくパーフェクトに保たれており、あなたの横に居る彼と共にあなた達はパラダイスに入り、神の平和を知るのです。
{あなた達のコンパニオンは、あなたの横にいる人と共にあるのです。}

これがあなた達両者に対する私の意図であり(これをあなた達がお互いに対して望むことが私の意図であり)、これが彼自身{神の子自身}に対する私の意図なのです。
何故なら天国とは(怖れのヴェールが掛かっていない)パーフェクトで直接な合一(一つになった状態)そのものなのだから。
ここでわたし達はひとつに成っており、お互いを(そしてわたし達自身という一つのものを)完璧な優しさで見ており、ここではわたし達の間にどのような分離思考を挟むことも不可能なのです。
分離(状態)の中の囚人だったあなた達は、今パラダイスの中で自由に成ったのです。
そしてここで私はあなた達と一緒に成ります(合一します)。 私の友達よ、兄弟よ、私自身よ。
あなた達がお互いに与え合ったギフトが、わたし達の合一がもうすぐなされることを私に確信させました。
だからその信心を(その信心が正当であると知っている)私と分け合ってください。

パーフェクトな愛の中に恐れはありません。 何故ならパーフェクトな愛は罪を知らないから。
そしてパーフェクトな愛は自分を見るように他者を見るのです。
慈善/慈愛をもって自分の中を見ている者が、(自分の)外にどのような怖れを見ることが出来るのでしょう?
無垢な者は安全を見て、ピュアな者は神を神の子の中に見て、父のもとに導くよう子を見るのです(自分達を父のもとに導くよう神の子を見てそれに従うのです)。
そして彼等(無垢でピュアな者達)が自分達で行こうと意図した所以外に行き着くことが在り得るでしょうか?
今あなた達一人一人は、(神が自分の子を神聖に創造して、自分の子を神聖なままに保ったと同じ位確実に)自分の相手を父のもとに導いているのです。
あなたの兄弟の中には「あなた達が不滅であるという神の光の永遠の約束が」あるのです。
彼(あなたの兄弟)を無罪/潔白と見た時、あなたの中に恐れは在り得ないのです。

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