Sep 7, 2011

Ch19-3

Sin Versus Error
罪とエラー(間違い)

エラーと「罪」を混同しないこと(エラーを罪と考えないこと)が重要なのです。
この違いが救済を可能にするのです。
何故なら、エラー(間違い)は修正することが出来るのだから。 間違ったことは正すことが出来るのですが、しかし罪は(もし罪が可能だったとしたなら)変えようがないのだから。
罪の信念(罪への信頼)は必然的に(体が攻撃するのではなく)「エゴの卑小なマインドには攻撃することが出来る」という硬い確信に基づいているのです。
{罪の信念は、本来無垢で愛でしかないマインドが(分離して)卑小に成ることにより攻撃的に成れるという確信に基づいているのです。}

そのようにしてマインドが有罪にされており、「それ以外のマインド」が「攻撃したマインド」に赦免を与えない限り、「マインド」は永遠に有罪であり続けるのです。



すべてはひとつのマインドです。そのひとつのマインドの一部が分離してより小さな部分に分かれた積りでいるのです。 この小さな卑小な分離したマインドの一部が攻撃して人を殺したつもりでいたとします(つまり殺人ですね)。分離したマインドの他の部分が(攻撃に関わっていなかったマインドが)「自分は何もしていないし攻撃には関わっていない、だから自分はこれを冷静に公平に正確に判断出来る、彼が他の人を攻撃して殺したのだ、彼が人を殺したのは事実だ! これは永遠に変えようがない」と言うのです。 つまり「攻撃したマインド」に対して有罪宣言がされており、これが永遠に変えようのない絶対的事実だと考えられているのです。上記に対する岡上の解釈

{「それ以外のマインド」=聖霊、「そのマインド」=マインドには攻撃することが出来ると信じているマインド、  これが上記に対するラジの解釈です。}


エラーが修正を必要としているように、罪は罰を呼び求めるのです。
そして罰が修正であるという信念は全く狂気なのです。
罪はエラーではないのです。 何故なら、罪は(エラーのアイディア内には含まれていない)傲慢(おごり高ぶる心)を内包しているから。
罪とはリアリティを侵害しようとして、それに成功することです{それに成功したと考えることです}。
罪とは、攻撃がリアルだという宣言であり、罪悪が正当化されているという宣言なのです。
それは神の子が有罪だと想定し、だから神の子が自身の無垢を失うことに成功しており、神の子が自分自身を「神が創造しなかったもの」として作り上げていると想定しているのです。
このようにして創造が永遠ではないものとして見られており、神の意志に反逆してそれに打ち勝つことが可能だと見られているのです。
罪とはエゴの誇大妄想を強調している「壮大な幻想」なのです。
それにより神自身が変えられ、神が不完全なものとして描かれたのです。

神の子は間違えることが出来ます。彼(神の子)は自分自身を欺くことが出来ます。彼は自分のマインドの力を自分自身に向けて攻撃させることさへ出来るのです。
しかし彼(神の子)は罪は犯せません。 彼に出来ることで「彼のリアリティを本当に変えられること」や「彼を本当に有罪に出来ること」はありません。
それら(彼のリアリティを本当に変えること、彼を本当に有罪にすること)が罪の目的で、罪はそれをしようとしているのです。
しかし罪というアイディア全体の中にある狂気を持ってしても、それは不可能なのです。
何故なら、罪の報酬は死なのですが、不死身な者がどうしたら死ねるのでしょう?

エゴの狂った宗教の主要な教義は「罪はエラー(間違い)ではなく真理だ」ということです。
そして「無垢があざむくのだ」(とエゴは言うのです)。
純潔/純粋が傲慢として見られ、自己を罪深い者として受け入れることが神聖として認識されるのです。
この教義が「父が創造したままの神の子のリアリティ、永遠にかく在れと父が意図した神の子のリアリティ」に取って替わるのです。
これが謙虚でしょうか? それともこれは創造を真理から捻じ曲げて、真理から隔てておく試みでしょうか?

罪をエラーとして解釈し直す試みは、エゴにとっては全く許せないのです。
{しかし聖霊は罪は在り得ないと知っており、「罪として認識されていること」をエラーとして正しく解釈し直し、正しい知覚を与えるのです。 訳注}
エゴの思考システムの中では、罪のアイディアはこの上なく神聖で、尊敬と畏怖なくしてはそれに近づくことさへ出来ないのです。
それ(罪のアイディア)はエゴのシステムの中の一番「神聖な」概念で、(エゴの中では)愛に溢れてパワフルで全く正しく、だからエゴが持っている全ての防御によって(罪のアイディアは)必然的に守られているのです。
何故ならここに{罪のアイディアはこの上なく神聖で、尊敬と畏怖なくしてはそれに近づくことさへ出来ない、という考えの中に}その最上の防御が存在しており、その他全て(の防御)はこれの為に働いているのだから。
ここにその甲冑があり、防具があり、エゴの解釈が特別な関係に与えている根源的目的がここにあるのです。

まさしくエゴはその世界を罪の上に作り上げたと言うことが出来るのです。
このような世界の中だけで全てが逆さまになることが可能なのです。
これが罪悪の雲を重く硬く見せている奇妙な幻想なのです。
この世界の基盤の見かけの頑丈さはこれ(罪の幻想)の上に築かれているのです。
何故なら、罪が創造を「神のアイディア」から「エゴが求めているアイディア(理想)、マインドを持たない体達によって作り上げられている世界、エゴが統治している世界、完全に堕落し腐敗することが可能な体の世界」に作り変えているのだから。

もしこれ(このエゴの世界)が間違いであるなら、これは真理によって簡単に解除出来るのです。
もし真理にその裁き(判断)を任せなたら、どのような間違いでも修正出来るのです。
しかし、もし間違いに対して真理のステータス(地位)が与えられている場合、この間違いを何の下に持って行けば良いのでしょうか? 
罪の「神聖」はこの奇妙な装置(間違いに対して真理のステータスが与えられていること)によって保たれているのです。
真理というステータス(立場)が与えられている(真理として認識されている)罪は不可侵で、全てがその下に持って来られて裁かれるのです。
しかし間違いとして認識された罪は真理の下に持って行かれます。 
罪に対して信心を持つことは不可能です。何故なら罪こそが不信心なのだから。
しかし「間違えが修正出来る」ということに対して信心を持つことは可能なのです。

エゴの戦いの砦の中で「罪がリアルであるというアイディア」以上に強く守られている石はありません。
「罪がリアルであるというアイディア」が「神の子が{神に逆らって}自分として作り上げた存在」のナチュラルな表現であり、彼が(神の子が自分としてでっち上げた存在が)そのアイディアなのです。
エゴにとっては、これは間違いではありません。
何故なら(エゴにとっては)これがリアリティで、これが(そこから決して逃れることは出来ない)真理なのだから。
これが彼の過去であり、現在であり、未来なのです。何故なら、彼は何とかして自分の父を堕落させ、父の「マインド」を完全に変えさせたのだから。
ならば、罪が殺した神の死を嘆きなさい!

これがエゴの願いなのです。 この狂気の中でエゴはこれを達成したと考えているのです。
あなたはこれが唯の間違いであった方が良いとは思いませんか?
これが完全に修正可能で、簡単にそこから逃れられることが出来、この修正が霧を通り抜けてお日様の前に進み出るぐらい簡単なら良いとあなたは思いませんか?
そしてその通りのことが実際に可能なのです。
もしかしたらあなたはエゴと合意するよう誘惑されるかもしれません。 「罪深くしている方が、間違っているよりもまだマシだ」とあなたは思っているかもしれません。
しかし自分にこの選択をさせる前に注意深く考慮してください。
この選択を軽々しく行なわないで下さい。 何故なら、これは天国と地獄の選択なのだから。

No comments:

Post a Comment