Oct 9, 2011

Ch21-2

The Imagined World
想像上の世界

失明している者達が「見ている」世界は想像されたものに違いないことを忘れないでください。 そして世界の本当の様子は彼等(失明している者達)にはわからないのです。
彼等は常に、間接的な証拠から見えているだろうものを推察し、自分達が認識していなかったもの故につまずき転びながら、自分達の推察を修正し続けるのです。
あるいは自分達では閉まっていると思っていた(しかし実際には開かれている)通路を無事に抜けて行けたりするのです。
あなた達もこれと同様で、(リアリティが)見えていないのです。
あなたの推察のヒントは間違っており、見えていなかった岩(障害)につまずいて倒れてしまうのです。
そして閉まっていると思われているドアを通り抜けて行けることにあなたは気付いていません。 しかしこのドアは見ていない目{あなたがまだ使っていない視界}に対しては開かれており、あなたを歓迎しようと待っているのです。

見ることが可能なものを、見る代わりに裁こうとすることはとても馬鹿げています。
そして世界がどのように見えるか想像しようとすることも不必要なのです。
でも世界がどのようなものかあなたに認識出来るように成る前に、あなたはそれを見る必要があるのです。
{聖霊は}どのドアが開いているかあなたに示すことが出来、どこに安全があるかあなたは見ることが出来るのです。
そしてどの道が闇につながっており、どの道が光りに繋がっているか{聖霊があなたに示し、あなたはそれを見ることが出来るのです}
裁きは、常に間違った方向(指示)をあなたに与えてしまいます。
しかしヴィジョンが、何処に行くべきかあなたに示します。
であれば推察する必要などあなたにあるでしょうか?
痛みを通して学ぶ必要はないのです。
易しいレッスンが楽しく習得可能で、それは嬉しく思い出せるのです。
「あなたに幸福を与えるもの」をあなたは学びたいと欲し、忘れたいとは思いません。

あなたはこれを否定しようとはしません。
あなたの疑問は、このコースの学ばれる方法が「このコースが約束している喜び」をあなたにもたらすかどうかです。
もしあなたがそれを信じたなら、これを学ぶことは容易です。
あなたはまだハッピーな学習者ではありません。何故ならあなたは、ヴィジョンの方が裁きよりも多くのものをもたらすとはまだ確信が持てておらず、(それなのに)ヴィジョンと裁きの両方を持つことは出来ないと教えられているのだから。
目の見えていない人達{目覚めていない人達}は、それ(目が見えていない状態)に対して自分達を調整することで自分達の世界に馴れて行きます。
彼等は世界の中でどう歩きどう振舞ったらよいか自分達は知っていると思っています。
彼等は喜びに満ちたレッスンを通してそれを学ぶのではなく、(克服出来ないと自分達で信じている)限界/限定からの必要に駆られて自分達のレッスンを学ぶのです。
そしてこれ(限界)を信じ続け、自分達のレッスンを尊びそれにしがみ付いているのです。何故なら彼等は見ることが出来ないのだから。

彼等は自分達のレッスンが自分達を盲目にしていることに気付いていません。彼等はこれ(彼等が学んでいるレッスンそのものが彼等を盲目にしていること)を信じようとしません。
だから彼等は、自分達が「見る」ように学んだ世界を自分達の想像の中に保ち、自分達には「これ(盲目の状態で想像すること)を行うか、あるいは何もないか」という選択肢(チョイス)しかないと信じているのです。
彼等は痛みを通して学んだ世界を憎んでいます。
そして彼等が世界の中にあると考えている全てのものが「彼等が不完全で全く貧しいこと」を思い起こさせ続けているのです。
このように彼等は自分達の生活/生命そして自分達が生きている場所を定義しており、自分達の考えに従って自分達をそれ(限定された命/場所)に調整し、自分達が持っている僅かなものが失われることを怖れているのです。
体を自分達の全て(そして自分達の兄弟全員の全て)として見ている者達は、皆このように存在しているのです。
彼等は{体を通して}お互いと繋がろうとして、失敗し、失敗し続けるのです。
そして彼等は孤独に対して調整(対応)し、体を{体の概念を}保つことにより自分達の持っている乏しい僅かなものを救う(保持する)ことが出来ると信じているのです。

今から私たちが話すことを、もしあなたが覚えているのなら、耳を澄ませて考えてごらんなさい。
聴いてごらんなさい。もしかしたら完全に忘れ去られてはいない悠久の状態をあなたは少し思い出せるかもしれません。もしかしたらぼんやりと、でも全く気付かない訳ではないでしょう。 遠い昔にその題名を忘れてしまい、あなたがどのような状況でそれを聴いていたかすっかり忘れてしまった歌のように。

この歌を全部覚えてはいないかもしれませんが、人や場所など特定のこととは関連していない、このメロディーの断片が思い出されませんか。

あなたはこのほんのわずかの部分から、この歌がどれだけ愛しいものか思い出せるでしょう。この歌を聴いていた時、あなたがどれだけ素晴らしい状態にいたか、共にこの歌を聴いていた人達をあなたがどれだけ愛していたか思い出せるでしょう。

この音符そのものは取るに足らないものです。それでもあなたはそれを手元に置き続けました。「それがどれだけ、あなたにとって大切だったか」思い出したなら泣いてしまうだろうことをそっと覚えておくために。

あなたは思い出すことが出来るのです。しかし、その歌を思い出したら、それ以降に覚えた世界が失われてしまうと信じているから、あなたは恐れてしまうのです。

しかし、この世で学んだ全ては、この歌が示していることの半分も大切ではないとあなたは知っています。

耳を澄ませてごらんなさい。そして、遠い昔にあなたが知っていた歌を思い出せないか試してごらんなさい。

それは他のメロディーよりも、最近になって大切にするようにあなたが自分に教えた歌よりも、親密な悠久の歌です。 


体を越えて、太陽も星も越えて、あなたの見ている全てのものを越えて、それでいてやはり慣れ親しんでいるもの。それは偉大な輝く円をあなたが覗き込むにしたがって引き伸ばされより大きくなっていく黄金の光のアーチです。

そして円の全てはあなたの目の前で光に満たされます。
円のふちが消滅し、もうその中に何も閉じ込めることはできません。
光が広がり、全てを覆い、永遠に光り続けて永久へと伸び広がります。 そこには限界や境界線はありません。
その中では全てがパーフェクトに繋がっています。

その外に何かが存在していると考えることさえ不可能です。何故なら、この光が届かないところは存在していないのだから。

そして今、盲人達の目が開きます。何故なら、彼等が自分たちの創造者を称えて歌った同じ歌が、彼等に対する賞賛をも与えているから。

彼等が作った盲目はこの歌には耐えられません。そして彼等は神の子のヴィジョンを見て自分達が誰のために歌っているのか思い出すのです。

これを思い出すことが奇跡でなくて、何が奇跡なのでしょう?
そしてこの記憶を持っていない人などいるでしょうか?

ひとりの中の光が、全ての人の中の光を目覚めさせます。
そしてあなた達がお互いの中にこれを見たとき、あなたは全ての人のために思い出しているのです。


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