Oct 15, 2011

Ch21-8

Perception and Wishes 
知覚と願い

「自分は無力だ」という奇妙な信念からあなた達の惨めさの全てが来ていることが解りませんか?
助けが得られない状態(無力)が罪のコスト(代償)なのです。
そして無力とは罪の状態のことなのです。
罪が信じられるようになるには、助けが得られない状態(無力)であることがその条件として必要とされるのです。
無力な者だけが罪を信じることが出来るのです。 困難さは卑小な者以外に対しては何のアピール(魅力)も持っていないのです。
自分達は卑小な者達なのだと初めに信じなかったなら、困難さ(無能感)に惹かれる人は誰も居ないのです。
神の子に対する裏切りとは、神の子と自己同一(アイデンティファイ)しようとしない者達{神の子と自分達がひとつだと認めようとしない者達}が行なっている自己防御なのです。
そしてあなたは神の子の仲間(神の子とひとつに成っている者)か、そうでなければ神の子の敵(神の子を虐げている者)なのです。あなたは神の子を愛しているか、そうでなければ神の子を攻撃しているのです。 あなたは神の子の合一(神の子が全てとひとつだということ)を守っているか、そうでなければあなたは神の子を攻撃して殺し、神の子がバラバラに打ち砕かれていることを見ているのです。

誰も神の子が無力だとは信じていません。だから自分達が無力で助けを得られないと信じている者達は、自分達は神の子ではないと信じているのです。
(自分達のことを無力と信じている)彼等が神の子の敵以外の何に成れるでしょうか?
「神の子の力を嫉み、自分達の嫉みによって自分達に神の力を怖れさせること」以外の何が彼等に出来るでしょう?
彼等は暗い者達で、静かに怖れており、孤独でコミュニケーションを持っておらず、神の子の力が彼等を打ち据えて殺してしまうことを怖れており、自分達の無力を神の子に対して立ち上げて(言い立てて)いるのです。
彼等は無力な軍隊に参加して、復讐の戦いを沸き立たせ、神の子に対する嫌悪をもって、神の子を彼等自身とひとつにしよう(同じにしよう)とするのです。

(自分達のことを無力と信じている)彼等は、彼等自身が神の子と一つであることを知らないので、自分達が誰だか知らないのです。
彼等は確かに悲しい軍隊で、それぞれ兄弟同士で攻撃しあったり、自分達には共通した目的があると考えていたことを思い出す度に自分自身を攻撃したりするのです。
暗い者達は無我夢中で怒声高く頑強に見えるのです。
しかし彼等は(自分達が彼を憎んでいるということ以外には)自分達の敵を知らないのです。
彼等は憎しみのために集まっています、しかし彼等はお互いとは繋がっていません。
何故なら、もし彼等がそうしたなら(お互いと繋がったなら)憎しみは不可能なのだから。
力の現れの前では、無力な者達の軍隊は解散(降参)するしかないのです。

強い者達は決して非情には成らないのです。 何故なら、彼等には力を夢見て夢を行動に移そう(夢を実現しよう)とする必要は無いのだから。
軍隊は夢の中でどのように振舞うでしょうか?
軍隊は夢の中ではどのようにでも振舞うことでしょう。軍隊が何でも使って誰でも攻撃しているのが見えることでしょう。
夢は軍隊の中には理性を持っていません。{夢の中の軍隊は理性を持っていません。}
花が毒槍に変わり、子供が巨人に成り、鼠がライオンのように叫ぶのです。
愛が簡単に憎しみに変わるのです
そこにあるのは軍隊ではなくキチガイ病棟です。計画された突撃に見えているものは狂乱なのです。
無力な者達の軍隊は確かに脆弱なのです。
そこには武器はなく、敵も居ないのです。

確かにそれ(無力な者達の軍隊/夢)は世界を制覇し敵を求めることが出来ます。しかしそこに無いもの{平和/合一}をそれ(無力な軍隊)が発見することは決して出来ません。
それは敵を発見したと夢見ることが出来ます。 しかしそれは攻撃しながらもシフトし続け、すぐにもう一つの敵を探しに駆け出してしまい、勝利の中で休まることはないのです。
そしてそれ(無力な者達)は走りながら、(常に誰か他の者に変化し続ける事により殺人的攻撃を逃れ続けている)偉大な敵の片鱗を見たと考えて、それ自身を攻撃するのです。
このように変化し続けるこの敵はどれだけ裏切り続けるのでしょう。 (このようにとらえどころ所の無い)彼/敵を認識することさへ不可能です。
しかし憎しみには標的が必要なのです。敵が居なければ罪に対する信心は存在出来ません。

罪を(罪の存在を)信じている者に、自分には敵がいないと信じることが出来るでしょうか?
自分を無力にした者など何処にも居なかったと認めることが彼に出来るでしょうか?
理性は確かに、そこに存在していないものを探し続けるのは止めるよう彼に言います。
しかし彼はまずはじめに、罪が存在していない(敵のいない)世界を知覚認識しようとする意欲を持たなくてはならないのです。
どうしたら「罪/敵が存在していない世界」が見えるようになるか、彼が理解する必要はありません。 彼はそのような試みをするべきではないのです。
彼は急ぐべきでもないのです。
何故なら、彼が「彼には理解出来ないこと」を理解しようと集中したなら、彼は自分の無力をより強く意識するようになり、彼自身が敵に違いないと罪が彼に言うようになってしまうから。

彼自身に次の質問をさせなさい。 そしてこれが彼に与えられることを彼自身に選ばせなさい:
 “私は「私が統治されている世界」ではなく「私が統治している世界」を望んでいるか?
私は「私が無力で助けを得られない状態である世界」ではなく「私がパワフルである世界」を求めているか?
私は「私に敵がなく私が罪を犯せない世界」を求めているか?
そして私は「私が否定したもの」を見たいと望んでいるか?   何故ならそれ(私が否定したもの)は真理なのだから。{私は真実を否定しており、私はそれを見ることを望んでいるか?}最後/第四の質問 

"Do I DESIRE a world I rule, instead of one where I AM ruled?
Do I DESIRE a world where I am powerful, instead of helpless?
Do I DESIRE a world in which I have no enemies, and cannot sin?
And do I want to see what I denied, BECAUSE it is the truth?"

あなたはすでに初めの三つの質問に答えていますが、まだ最後の質問には答えていません。
何故ならこの最後の質問は、他の質問と違って、あなたにとってはまだ怖ろしく見えているから。
しかしあなたの理性はこれらの質問が全て同じであることを保証しています。
わたし達は「今年は似かよった物事の同一性を指摘していくことに成るでしょう」と言いました。(これはイエスがヘレンに直接話しかけている部分です。訳注)
最後の質問は、本当にあなたが決める必要のある最後のもので、他の質問からはもう失われている脅しをまだあなたに対して示しています。
この想像上の違いが、『真理が「あなたがこれから見つけてしまう敵」なのかもしれない』とあなたが信じていることを示しています。
だからここに、罪を見つけて力を受け取らない最後の望みがあるように見えているのです。


「真理か罪か」(力か無力か)の選択は「攻撃か癒やしか」の選択であることを憶えていていください。
何故なら、癒やしは力(パワー)から来るもので、攻撃はヘルプレス(無力)から来るものなのだから。
あはたは「自分が攻撃している者」を癒やそうと求めることは出来ません。
あなたが癒やそうとする者は、「攻撃から守られているとあなたが選択した者」に違いないのです。
そしてこの選択は、体の目を通して彼{あなたの目の前の人}を見るか、ビジョンを通して彼が示されること{神の子として彼があなたに示されること}を選ぶか、どちらか決めることなのです。
どのようにしてこの選択がその効果/結果をもたらすかは、あなたが思い悩むべき問題ではないのです。
しかし「自分で何を見たいと求めるか」、それがあなたのするべき選択なのです。
{あなたは「ビジョン/良きこと/神の意志」を自分で求めようと決めれば良いのです。}
これは原因のコースで、結果のコースではないのです。

この最後の質問(第四の質問)に対する答えを注意深く考慮しなさい。
そしてあなたの理性が「この質問に答えるべきで、他の三つの質問への答えがこの質問に対してすでに答えている」とあなたに知らせることを許可しなさい。
そうしたなら次のことが明確になるでしょう。
(例えそれがどのような形であっても)あなたが罪の効果/結果を見ている時あなたがするべきことは「これはわたしが見たいと望んでいるものだろうか? 私はこれを欲しいだろうか?」とあなた自身に訊ねることだけなのです。
これがあなたのひとつの(唯一の)選択/決断なのです。
これ(あなたが見たいと求めたもの、見たくないと決めたもの、あなたが欲したこと、欲しなかったこと)が「何が起こるか」を決めるのです
これ(何を見たいか何が欲しいかあなたが決めたこと)は「どのようにしてそれが起こるか」決めませんが、「何故それが起こるか」決めるのです。
あなたは「何故それが起こるか/あなたが何を望んだか」コントロールすることが出来るのです。
だから、もしあなたが敵のいない世界(その中であなたが無力ではない世界)を見たいと選択したなら、それを見る方法があなたに与えられるのです。

何故この最後の質問が重要なのでしょうか? それは何故か理性があなたに教えます。
それ(最後の質問)は他の三つの質問と同じなのですが、時間の中では違いがあるのです。
他の三つの質問(への答え)は、選択し、取り消し、選択し直すことが出来るものなのです。
しかし真実は不変で、そこでは変動が不可能な状態が必然的に伴われているのです。

あなたは(世界によって統治されていない)あなたが統治している世界を望み、その後自分のマインド(選択)を変えることが出来ます。 {第一の質問への応答}
あなたは自分の無力を力と取り替えることを望み、(その後)小さな罪があなたを魅了した時にその望みを失うことが出来ます。 {第二の質問への応答}
あなたは無罪な世界を見たいと望み、(その後)「敵」によって体の目を使うよう誘惑されてしまい自分の望みを変えることが出来ます。 {第三の質問への応答}

内容的にはこれら全ての質問は同じです。
何故ならそれぞれの質問は『罪の世界を「聖霊が見ているもの」で取り替えたいか』あなたに尋ねているのだから。
そして罪の世界はこれ(聖霊が見ているもの)を否定しているのです。
だから罪を見ている人達は、リアルな世界の否定を見ているのです。
しかし最後の(第四の)質問は、リアルな世界を見たいというあなたの望みの上に「不変」を加えて、この望みがあなたの持つ唯一の望みになることを迫っています。
最後の(第四の)質問に「ハイ」と答えることによりあなたは「他の全ての質問に対してあなたがすでに決めている選択」の上に「真剣さ」を付け加えるのです。
あなたはそうすることによって初めて、自分のマインドをもう一度変えてしまう選択肢(可能性)を否定するのです。
あなたがこれ(自分のマインドを以前どおりに戻してしまうこと)を望まなくなった時、他の質問も「本当に」答えられたことになるのです。

何故あなたは「他の三つの質問への答えがすで選ばれていること」に関して不確かに感じているのでしょうか?
もしあなたがこれらの質問に本当に答えていたなら(その答えをあなた自身が受け入れていたなら)、これらの質問を何度も繰り返す必要があったでしょうか?
最後の決断がされるまで(最後の質問に対する答えをあなたが受け入れるまで)、質問に対する答えはハイとイイエの両方なのです。
何故ならあなたは「ハイと言うことがイイエではないことを意味していると気付かずに」ハイと答えていたのだから。
自分の幸福に反する判断をする人は誰も居ません。
しかし自分がそうしている(自分の幸福を否定している)と知らなかったなら、そうしてしまうかもしれません。
そして自分の幸福が変化し続けている(今これで、今あれで、今何にも繋がっていない捉えどころのない影だ)と考えたなら、人は自分の幸福を否定する選択をするのです。
実現出来ない幸福は、時間や場所により移ろい行く形の中の幸福は、意味の無い幻想なのです。

幸福は不確定なものを求めることを放棄することにより得られるものなので、幸福は不断なものに違いないのです。
不断/不変なビジョンを通してでなければ、喜びを知覚することは出来ません。
そして不断なビジョンは不断(定常)を求めている者だけに与えられるのです。
神の子の願いの力は、自分自身をヘルプレス(無力で助けが得られない)と見ている人は間違っているという証拠であり続けているのです。
自分が欲しているものをあなたが求めたなら、あなたはそれ(自分の意志の表明)を見て、それがリアルだと考えるのです。
全ての思考は解放する力と殺す力を持っているのです。
そして思考者のマインドから離れられる思考も、思考者に影響を与えない思考もありません。

1 comment:

  1. 最期の質問/第四の質問を書き直しました。

    "And do I want to see what I denied, BECAUSE it is the truth?"

    そして私は「私が否定したもの」を見たいと望んでいるか?  何故ならそれ(私が否定したもの)は真理なのだから。{私は真実を否定しており、私はそれを見ることを望んでいるか?}

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