Oct 13, 2011

Ch21-6

Reason and Perception 
理性と知覚
知覚は選択を行なった上であなたの見る世界を作るのです。
知覚はマインドの指示に従って「何を知覚し何を知覚しないか」実際に選ぶのです。
大きさや形や明るさの法則は、「その他のもの」(知覚が使う他の選択基準)が同等であったなら、保たれるでしょう。
しかし「その他のもの」は同等ではないのです。
何故ならあなたは、あなたが見つけようとしているものを(その色や形や大きさに関わらず)あなたが無視しようとしているものよりも、より高い確率で見つけるのだから。
神の小さな優しい声は、それ(神の声)を聞きたいと願っている者にとっては、エゴのやかましい叫び声や無意味な怒声に埋もれてしまわないのです。
知覚は選択であって、事実ではないのです。
{知覚とは(これが見たいこれが体験したいと)自分が選択したものを感じ取ることであって、リアリティそのままをあなたに知らせている方法ではないのです。}

そして{神の声を聞きたいという}この選択の上に「あなたが現在理解しているよりも多くのこと」が依存しているのです。
あなたが聞くことを選んでいる声とあなたが見ることを選んでいる視界の上に「あなたが何か」という信念の全てが依存しているのです。
知覚とはこれ(あなたが選んだ声と視界があなたに教えていること)だけを目撃/証言しているもので、{必ずしも}リアリティを証言しているものではないのです。
そして知覚は「リアリティを意識することが可能な状況」をあなたに示すことも、あるいは「リアリティが決して意識出来ない状況」をあなたに示すことも出来るのです。
リアリティはそれ自身で在り続ける為にあなたの協力を必要としてはいません。
しかしあなたがリアリティを意識/認識出来るようになるためには、あなたはリアリティに協力する必要なのです。何故なら、それ(リアリティを認識すること)はあなたの選択に依存しているのだから。

エゴが言っていることを聞いて、エゴがあなたに見るように指示していることを見たなら、あなたは確実に自分のことを「怖れを抱いている壊れ易く卑小な者」と見るのです。あなたは陰鬱を体験し、価値の無さを感じ、やるせなさ(刹那感)やリアルでない感じを得るのです。あなたは自分のことを「自分の手の届かない力/自分よりも遥かに強い力に翻弄され続ける哀れな被害者」だと信じるのです。
こうしてあなたは、あなたが作った世界があなたの運命を決めていると考えるのです。何故なら、これがあなたの信心なのだから{これがあなたの信じている世界の在り方なのだから}
しかしこのようなことを信じるのは断じて止めなさい。 何故なら、あなたのその信心がこれ{このような考え}をリアリティにしているのだから。
そしてこれとは別のヴィジョン(視界)があり、別の声があるのです。
その中にあなたの自由が存在しており、それがあなたに選ばれることを待っているのです。
そしてあなたが彼等(別のヴィジョンと別の声)にあなたの信心を与えたなら、あなたはあなたの中に別の「自己」(エゴを含まない自己)を知覚するようになるのです。

このもう一つの自己が奇跡を自然なこととして見ているのです。
体にとって呼吸が自然であるように、もう一つの自己にとって奇跡はとても自然なものなのです。
助けを求める声(それがもう一つの自己が上げる唯一の声です)に対する自明な反応が奇跡なのです。
エゴにとって奇跡は不自然に見えます。 何故ならエゴは、分離しているマインド達がどのようにしてお互いに影響し合っているか理解しておらず、マインド達がお互いに影響を与え合っていることさへ知らないのだから。
しかしマインドが分離することは不可能なのです。
このもう一つの自己は、このことをとても良く理解しています。
だからこのもう一つの自己は、奇跡が他者のマインドに影響を与えず、自分のマインドだけに影響することを知っているのです。
奇跡は必ず「あなた」のマインドを変えるのです。 そしてあなた以外のマインドは存在していないのです。
分離のアイディアがどれだけ理性を邪魔し妨害しているかあなたは理解していないのです。
理性は、あなたがあなたの意識から切り離したもう一つの自己の中にあるのです。
そして「あなたの意識の中に留めることをあなたが許可したもの」で理性を正しく使えるものは何も無いのです。

どうしたら「理性を欠いているマインドの部分(現在のあなたのマインド)」が理性(理論、根拠)を理解出来るのでしょうか? あるいはどうしたら理性が与える情報をそれが(理性を欠いている現在のあなたのマインド)が把握出来るのでしょう?
その(現在のあなたの意識の)中にあらゆる質問が立ち昇って来ますが、しかし理性(正しい論理、根源的根拠)の中に根源的質問が存在していた場合、それ(現在のあなたの意識)はその質問をしようとしないのです。
理性から導き出される結論同様に、根源的質問は明白でシンプルで、そしてそれは訊ねられないまま残されているのです。
しかし「理性がそれ(根源的質問)に答えることは出来ない」と考えるのは止しなさい。

あなたの為の神の救済プランが、あなたの意志との合意無くして、確立されることは不可能でした。
それ(神の救済プラン)は神の子により受け入れられているに違いないのです。「神の子の為に神が意図したこと」を神の子が受け取るに違いないのだから。
それは神の意志が神の子の意志から隔たっていない(分離していない)からです。
そして神の意志がその達成の為に時間を待つことも在り得ないのです。
だから(永遠である)神の意志と繋がったものが今あなたの中に在るに違いないのです。
あなたは聖霊が住める場所を{あなた自身の中に}確保しているに違いなく、そこに聖霊が居るのです。
「聖霊が必要とされること」が発生してそれが瞬時に満たされて(分離が発生してそれが瞬時に修復されて)以降、聖霊はそこに居続けていたに違いないのです。
だからあなたの一部は神の意志を知っており神と意志を分け合っているに違いないのです。

あなたの理性に聞き入ったのなら、上記のことをあなたの理性があなたに教えるのです。
そしてこれがエゴの論理(エゴの理屈の使い方)でないことも明白です。
エゴにとっては(あなたの理性の)その不思議な性質が、あなたがそこ(理性の中)では答えを見つけられない証拠なのです。
しかし、もし理性の中で答えが見つけられるものなら、それ(神の救済プラン)は存在しているに違いないのです。
もしそれ(神の救済プラン)があなたの為に存在しているなら、そしてあなたの自由がその目的であったなら、あなたにはそれ(神の救済プラン)を探し当てる自由があるに違いないのです。
神のプランはシンプルで、決して自滅的ではなく、決して循環論法的ではないのです
{循環論法=証明するべきことを論証の根拠として論理を展開すること/論点先取の虚偽 訳注}
神は自己拡張(self-EXTENDING)以外の思考は持っておらず、あなたの意志もその中に含まれているに違いないのです。
だからあなたの一部は神の意志を知っていて、意志を神と分け合っているに違いないのです。

「どうして真実であるべきことが真実なのか?」と訊ねることは無意味です。
しかし「何故あなたが真実に気付いていないか?」訊ねることには意味があります。
あなたの為の神の救済プランが完了するためには、この質問に答えが存在している必要があります。
そしてこの答えは全体的(包括的)なものである必要があります。何故なら、この答えの源は不完全なことは知らないのだから。
答えは源にしか在り得ません。
そして「あなた」はそこ(源)にしか存在していないのです。 答えが存在している所にあなたも存在しており、その場所は源なのです。
あなたのアイデンティティ(自己認識)は、この答えと同様に、この源の真の結果なのです。だからあなたのアイデンティティと(何故あなたが真実に気付いていないかに対する)答えは一緒であり同一のものであるに違いないのです。

ええ、あなたはこれを知っています。 そしてあなたはこれ以上も知っています。
しかし(叡智全体が分離を脅かすものであると同様に)叡智(knowledge)はそのどの部分であっても分離を脅かすものなのです。
そして叡智の一部には叡智の全てが含まれているのです。
これ(叡智の全てを含んでいる叡智の一部)があなたが受け入れられる部分なのです。
理性が示すものをあなたは見ることが出来るのです。何故なら理性の証言は明確なものだから。
完全な狂人だけが理性(理論、根源的根拠)を無視出来るのです。 そしてあなたはそのような状態はすでに通り越しています。
理性はそれ自体で聖霊の目的に仕えている媒介(方法)なのです。
理性は他のように{信心や信念や知覚のように}罪のゴールによって解釈し直されたり方向転換されてはいないのです。
何故なら理性はエゴの方法の範囲{知覚}を超えているものだから。

信心と知覚と信念を真実に与えることも出来ますが、信心と知覚と信念を間違った所に与え偉大な詐欺師の必要に仕えさせることも出来るのです。
しかし理性を狂気の中に置くことは不可能で、理性を調整して狂気の必要を満たすことも不可能です。
狂気の中でも信心と信念は大変強く、それらはマインドが尊んでいる(欲している)ものへと知覚を導くのです。
しかし理性はこれにはまったく参加しません。
何故なら理性が応用されたなら、知覚は{知覚の歪みは}瞬時に抜け落ちるから。

狂気の中には理性が在りません。何故なら狂気は理性の不在に完全に依存しているのだから。
エゴは理性を使いません。 何故ならエゴは理性が存在していることを知らないから。
しかし部分的狂気に陥っている者は理性にアクセスすることが出来るのです。
そして彼等だけが理性を必要としているのです。
叡智は理性には依存していません。 そして狂気は理性を排除しようとします。
理性が存在しているマインドの部分は、父とあなたの意志によって、狂気の解除に捧げられているのです。
ここに聖霊の目的が受け入れられていて、と同時に達成されているのです。
狂気にとって理性は異邦人(エイリアン)で、理性を使っている人達は「罪の為に使うことは出来ない方法」を得ているのです。
叡智はどのような達成/到達をも超えているものです。
しかし理性を使って「あなたが叡智に対して閉じたドア」を開けることが出来るのです。

あなたはこれ(叡智のドア)に非常に近づいて来ています。
(あなたの)信心と信念がシフトされており、あなたはエゴが決して発しない質問を訊ねています。
あなたの理性が今あなたに、この質問は『「あなたの知っていない何か、しかしあなたに属しているに違いない何か」から来ているに違いない』と言っていませんか?
理性によって支えられている信心と信念は、新しい知覚(知覚の変化)をもたらすに違いないのです。
この変化の中でヴィジョンの為のスペースが作られます。
ヴィジョンはそれ自身を越えて拡張して(広がって)行きます。
そして「ヴィジョンが仕えている目的」と「ヴィジョンの目的が達成される方法」も、それら自身を超えて拡張して(広がって)行きます。

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