Oct 12, 2011

Ch21-5

The Fear to Look Within

内側を見つめることに対する怖れ

「あなたは罪深い」と聖霊があなたに教えることは決してありません。
聖霊はエラーを修正します。 しかしこれは誰も怖れさせはしません。
あなたは確かに自分の中を見つめることを怖れており、「自分の中にあるとあなたが考えている罪」をそこに見つけることを恐れています。
しかしあなたはこれを怖れずに認めることが出来ます。
恐れは(エゴがとても適切だと考え微笑んで同意した)罪と関連付けられています。
エゴはあなたに恥を感じさせる恐れは持っていません。
エゴは罪に対するあなたの信念と信心を疑っていません。
エゴの寺院はこれ(罪)によっては揺るがされません。
罪がそこにあるというあなたの信心は、そこに罪を見ようとするあなたの願望だけを証言しているのです。
一見これが(罪がそこにあるというあなたの信心が)怖れの源のように見えています。
エゴが一人だけではないことを思い出してください。
エゴのルールは捻じ曲げられ。 エゴは自分の未知の見えない「敵」を怖れるのです。


エゴは内側を見ないように大声であなたに言います。「もし内側を見たなら、あなたの目は罪で焼かれて、神があなたをメクラにしてしまう」と主張するのです。
あなたはこれを信じ、(自分の)内側を見ようとしません。
しかしエゴの密かに怖れているのはこの事ではないのです。
そしてエゴに仕えているあなたの(本当の)怖れもこれ(自分の内側に罪を見ること)ではありません。
エゴは大声で、内側に対する怖れを表明します。 大き過ぎる声で、余りにも頻繁に。
この常に叫び続けられている忙しい主張の下で、エゴ自身もこれが本当なのか自信を持ってはいないのです。
(自分の中に罪を見つけてしまうかもしれないので)自分の内部(自分のマインドの奥深く)を見たくないというあなたの怖れの下には、もう一つの怖れがあり、エゴはこれをとても怖れているのです。
「もしあなたが自分の中を見通して、そこに全く罪を見つけなかったならどうでしょう?」
この怖ろしい質問をエゴは決してしないのです。
そして今この質問を訊ねているあなたは、エゴの防御システム全体を脅かし過ぎており、だからエゴはもうあなたの友達のフリは出来なくなっているのです。

自分達の兄弟達と繋がっている(合流している)者達は、自分達のアイデンティティがエゴの中にあるという信念から自分達自身を取り外しているのです。
聖なる関係は「本来あなたの一部であるもの」とあなたが繋がっている(一緒になっている)関係なのです。
そして罪(分離)に対するあなたの信念はすでに揺るいでおり、あなたはもう「内側を見つめてそこに罪を見ないこと」を完全に拒否してはいません。
しかしあなたの解放はまだ部分的なもので、まだ限定されており不完全で、あなたの中に完全に生まれてはいません。
完全な狂気に捕らわれ切ってはいないので、あなたは自分の殆どの狂気を見てそのキチガイ沙汰を理解する意欲を持っています。
あなたの信心は狂気を超えて内側に動いて来ており、正気へ到達しようとしています。
そしてあなたの正気が今あなたに言っていることをエゴは聞こうとしません。


聖霊の目的は(その存在についてエゴが気付いていない)「あなたのマインドの一部」によって受け取られたのです。
そして今あなたはこの部分と自己同一しており(今あなたはこの部分を自分だと思っていて)、この部分はそれ自身を見つめることを恐れてはいません。
この部分は自身が無罪である(全く罪/分離を持っていない)ことを知っているのです。
そうでなければ、どうしてこれ(あなたのマインドのエゴではない部分)に聖霊の目的を自分のものとして見る意欲が持てたでしょう?
(あなたのマインドの)この部分が、時が始まって以来、あなたの兄弟を見続けており、彼をパーフェクトに理解し続けているのです。
そしてあなたのこの部分は、彼(あなたの兄弟)と繋がり(以前自分達が自由だったように)もう一度自由に成ることだけを願っているのです。
あなたのこの部分は自由の誕生を待ち続けており、あなたが解放を受け入れることを待ちわびて来たのです。
そして今あなたは「エゴ{あなたの分離している部分}が聖霊の目的と繋がったのではなく、だからエゴ以外のものが自分の中に存在しているに違いない」と理解出来るようになっているのです。

これを狂気だと考えるのは止めなさい。何故ならあなたの正気がこれを{あなたの中に罪/分離以外のものがあることを}主張しているのだから。
そしてこの結論はあなたが学んで来たことと完璧に合致しています。
聖霊が教えることの中には矛盾がないのです。
これが(矛盾がないことが、一貫性が)正気の論理なのです。
あなたはエゴの狂気を知覚して、それを怖れませんでした。 それはあなたがその中で(エゴの狂気の中で)共有する(分かち合うこと)ことを選ばなかったからです。
まだそれ(エゴの狂気)は時々あなたを欺いています。
しかしあなたがより正気な時には、エゴの狂気の怒声があなたのハートの中に怖れを打ち込むことはありません。
何故なら、内側を見たいというあなたの「無遠慮で生意気な」願いへの報復としてエゴは「そのギフトをあなたから取り返してしまう」と脅していますが、あなたはそのようなギフト(分離のギフト)は求めていないのだから。
まだ少し残っているガラクタが輝いて見え、あなたの目を惹いてはいます。
しかしあなたはそれらの為に天国を「売ろう」とは求めないのです。

そして今エゴが怖がっています。
しかしエゴが恐怖の中で聞いていることを、(あなたのマインドの)他の部分は美しい音楽として聞くのです。 エゴが初めてあなた達のマインドの中に入って来た時から、この歌が聴きたいと求められていたのです。
エゴの弱点がその(あなたの正気の)力なのです。
もう一つの世界を賞賛している自由の歌が、それ(あなたの正気のマインド)に平和の希望をもたらすのです。
何故なら、それ(あなたの正気=聖霊)は天国を憶えているのだから。
そしてそれ(あなたの正気のマインド)は、今やっと天国が地上(地球)に来ていることを見るのです。 
エゴのルールが長いこと天国を地上から追い払って来たのです。
天国が地上にやって来たのは、地上のあなた達の関係の中に天国が自分の住家を見つけたからです。
そして地上(地球)にはこれ以上「自分のものとして天国を与えられているもの」を押さえ付けることは出来ません。

お互いを優しく見つめ合って、エゴの弱点があなた達両者の視界の中に示されていることを思い出しなさい。
「エゴが離しておこうとした者達」が出会い繋がり、怖れずエゴを見ているのです。
罪を全く持っていない小さな子供達が、確実な道(確信の道)を喜んで歩いています。
「疑いの中に確実性(確実なもの)がある」という怖れの狂気の主張によって押し留められてしまわないでください。
この主張には全く意味がありません。
この主張がどれだけ強く言い立てられても、それがあなた(達)にとって何だというのでしょうか?
無意味なことがわめき声の反復によって意味深くなることはありません。
静かな道が開いているのです。
ハッピーにそれ(静かな道)を辿って、起きるべき事(当然の事)を疑うのは止めなさい。

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